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第3話

Author: ひとくち餃子
その問いかけに、怜司が再び夏帆を見た。値踏みするような、冷たく鋭い目だった。

夏帆は顔が熱くなったが、恥ずかしがっている場合ではない。病院では母が薬を待っている。今は何より、お金が必要だった。

楓は怜司の様子をうかがったが、口を開く気配がないので、事務的に説明を続けた。

「報酬の一部は、入籍後すぐにお支払いします。残りは3年後、契約を終えて円満に離婚が成立した時点でお渡しします」

そう言って、楓は人さし指を立てた。報酬は1億円という意味だった。

だが、そんな大金に縁のない夏帆は、ぱっと目を輝かせて声を上げた。

「1,000万円ですか?」

楓は指を立てたまま固まり、怜司もカップを持ち上げかけて手を止めた。2人とも何も言わないので、夏帆は不安になった。高く言いすぎたのだろうか。

「1,000万円が大金なのはわかっています。でも、3年間も奥さんのふりをするんですよね。いつ呼ばれても駆けつけて、人前では話を合わせて、身の回りのお世話もする。そのうえ、私には離婚歴が残るんです。

離婚したあと、周りから何を言われるかわかりません。その気苦労や3年分の働きを考えたら、1,000万円でも高くないと思います」

楓は口元をひきつらせ、笑いをこらえながら怜司の方を見た。怜司はゆっくりとカップを置き、抑揚のない声で尋ねた。

「3年で、たった1,000万でいいのか」

夏帆はきょとんとした。もしかして、少なく言いすぎたのだろうか。唾をのみ、恐る恐る聞き返した。

「まさか……1億円、ですか?」

言ったそばから、夏帆は心の中で首を振った。あり得ない。偽装結婚の相手に1億円も払うなど、頭がおかしいか、お金が余って使い道に困っているとしか思えない。

けれど、1億円じゃないなら、まさか100万円?3年で100万円なら、普通にアルバイトを掛け持ちした方がまだ稼げる。

夏帆は相手が気を変える前にと、きっぱり言った。

「1,000万円です。これ以上は下げられません。黒瀬さん、私、本当に今すぐお金が必要なんです。今日入籍して、すぐに振り込んでいただけるなら、条件はすべて受け入れます」

楓はとうとう我慢できず、小声で口を挟んだ。

「橘様、こちらが考えていた金額は――」

「楓」

怜司が短く制し、淡々と告げた。

「いいだろう。1,000万だ」

夏帆はほっと息をついた。相手の気が変わらないうちにと、すぐさまペンを手に取り、契約書に名前を書いた。

怜司はその手元を見つめていた。整った綺麗な文字だが、紙が破れそうなほど筆圧が強い。自ら退路を断ち、必死に前へ進もうとしているかのようだった。

怜司は契約書を取り上げた。

「行くぞ」

身長190センチの怜司が立ち上がると、テーブルに大きな影が落ちた。夏帆は慌てて帆布のバッグをつかみ、小走りであとを追った。

……

区役所へ駆け込んだのは、窓口が閉まるわずか10分前だった。

「ちょうど間に合いましたね。今日の受付は、お2人で最後です」

職員に笑顔で迎えられ、婚姻届に署名をする。手続きが終わっても、夏帆はまだ夢を見ているようで、結婚したという実感が湧かなかった。

昨日、5年間信じてきた恋人に裏切られ、別れを告げたばかりなのに、今日は、よく知りもしない男と結婚している。たとえ、形だけの結婚だとしても。

隣に立つ怜司が、夏帆を見下ろした。

「後悔したか」

冷たい声に、夏帆ははっと我に返った。

「いいえ、していません」

後悔している余裕などない。今の自分には、泣く時間さえないのだから。

そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。銀行からの入金通知だった。

【お振込:5,000,000円】

画面に並ぶ数字を見つめるうちに、夏帆の目頭が熱くなった。これで、母を助けられる。こみ上げる涙をぐっとこらえ、2人に向かって深々と頭を下げた。

「黒瀬さん、佐伯さん、急ぎの用事があるので、先に失礼します。何かあったら、いつでも呼んでください。すぐに駆けつけますから!」

言い終えるなり駆け出し、近くのシェアサイクルを借りて、勢いよくペダルをこぎ出した。

……

車の広い後部座席で、怜司は夏帆の顔を思い浮かべていた。ぎこちない笑顔と、あの澄んだ目が印象に残っている。

信号待ちで車が止まったとき、黙っていた楓が口を開いた。

「会長、当初の報酬との差額、9,000万円もお支払いしますか?」

「必要ない。1,000万と言ったのはあいつだ」

怜司の声は冷たく、どこか意地の悪さがにじんでいた。楓は口をつぐむ。本人がそれでいいと言うなら、口を出すことではない。

車が再び走り出し、楓はバックミラー越しに後部座席をうかがった。

「会長、先ほどまた鷹宮家からお電話がありました。いつお戻りになるのか、とのことです」

「戻らない」

怜司はまぶたすら上げずに答えた。楓は空気を読んで話題を切り替える。

「では、このままマンションへお送りいたします」

「ああ」

楓は一瞬ためらったが、意を決して続けた。

「主治医の林奏一(はやし そういち)先生からの伝言です。このところ目の症状が頻繁に出ているので、お1人での外出は控えるようにと」

「余計な世話だ」

怜司の顔が険しくなり、楓は慌てて口をつぐんだ。だが、まだ確認しておかなければならないことがある。少し間を置いて、おそるおそる話を続けた。

「明日、橘様が引っ越してこられたら、お世話をするうえで気をつけていただきたいことも説明します。ただ、会長の目のことは……」

「知らせなくていい」

怜司は冷ややかな表情のまま、シートに深く身を預けた。

「あいつは、契約通りに動けばそれでいい」

……

夏帆が必要な薬の手配を済ませ、母の病院へ駆け戻ったときには、すでに真夜中だった。薬が投与されると、母の苦しげな表情が和らぎ、呼吸も少しずつ落ち着いていった。

それを見届けて、夏帆はようやく胸をなで下ろした。全身から力が抜け、ベッドの脇にへたり込むように座ると、ポケットからスマートフォンを取り出す。画面を見た途端、息をのんだ。

いつの間にかマナーモードになっていたらしく、大量の不在着信とメッセージがたまっている。楓からは、マンションの地図と住所が送られてきていた。

【橘様、こちらが会長のマンションの住所です。明日の午前9時までに、お荷物を持ってお越しください】

2時間前に届いたメッセージだった。夏帆は慌てて返信を打つ。

【佐伯さん、申し訳ありません。今メッセージに気づきました。明日は必ず時間通りに伺います】

送信を終えると、別のトークルームに目が留まった。表示されている名前は、アキラ。夏帆はその文字を見つめ、苦笑いを漏らしてトーク画面を開いた。

【俺が鷹宮家の人間だって黙ってたからって、別れるのか?】

【昨夜のことは誤解だ。美咲とは、お前が疑ってるような仲じゃない】

【どこにいるんだ?電話に出ろ!】

【俺への当てつけか?】

【自分の立場はわかってるよな。別れるなんて言って俺を脅したって、困るのはお前だぞ】

【夏帆、いい加減にしろ!】

メッセージを1通ずつ読むうちに、吐き気がこみ上げてきた。

いい加減にしろ?それはこっちのセリフだ。

あんなに優しく、自分だけを見てくれていたアキラが、鷹宮家に戻った途端、こんなことを平気で言うようになった。どうしてこうも変わってしまったのか、夏帆にはわからなかった。

もう、理由を考える気にもなれなかった。こんな男に5年も尽くしていたなんて、見る目がなさすぎる。言い返すのも嫌になり、夏帆は用件だけを打ち込んだ。

【この5年間、あなたの治療も世話もして、生活費も私が出してきました。起業資金として渡したお金も含めて、できるだけ早く全部返してください】

口座番号を送ると、すぐにアキラから電話がかかってきた。夏帆は無表情のまま数秒ほど画面を見つめ、電話には出ずに切ると、その番号を着信拒否に設定した。

すぐに、LINEに新しいメッセージが届いた。

【夏帆、そうやって意地を張るなら、もうお前に合わせてやる必要もないな。あとで後悔するなよ!】

夏帆は迷うことなく、LINEのアカウントもブロックした。

……

翌朝、まだ夜が明ける前にアパートへ戻った夏帆は、部屋でスーツケースを引っ張り出した。数着しかない古い服と治療用の鍼、そして祖父が遺した医学書を詰め込む。

玄関まで来たところで、夏帆は最後にもう一度、壁に貼られた色褪せた写真を見た。写真の中のアキラは、優しい表情で夏帆の頬にキスをしている。まるで、心から愛してくれていたかのようだった。

夏帆は壁に歩み寄り、写真を勢いよく剥がすと、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ放り込んだ。そのままスーツケースを引き、一度も振り返らずに部屋を出た。

アキラとは、今日で終わりだ。もう二度と、嘘つきを信じて尽くしたり、必死に働いて稼いだお金を渡したりはしない。

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