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#4『記憶喪失の少女』

last update Fecha de publicación: 2026-09-30 21:39:48

※

「気分の悪さや、身体に痛みなどはありませんか?」

 ユズリハの質問に、少女は首を横に振る。

「それは何より」

 微笑んだ彼が「では」とベッドから腰を上げた瞬間、少女の腹から大きな低い音が三秒ほど室内に響いた。

 その音にユズリハは目を丸くし、少女は瞬く間に褐色の頬を真っ赤に染める。ゆっくりと、その幼くも美しい顔を膝に埋めていった。

 紺色の髪から湯気が上がるのが視えるようだ。年相応の可愛らしさを感じ、ユズリハは優しく目を細めた。

「……空腹は身体が健康である証拠です。恥ずかしがる事はありません」

「……すまない……」

「何か食べる物を用意しましょう。それまで……そうですね、菓子で良ければ」

 ユズリハは、ウエストポーチから銀色の小さな包みを三つほど取り出す。

「チョコレート、という菓子です。これなら栄養価も高く、腹の足しにもなりますので」

 少女の小さな手を取り、その柔らかい掌に直接三つの包みを乗せた。

「……これは、食えるものなのか?」

「ええ。包みを開いて中身を食べて下さいね」

「この、薄い『紙』のような物は食べられないのか……」

「そうです。食べられるのは中の茶色い球体だけですので」

 まじまじと掌の上の包みを眺めている少女に苦笑を零したユズリハは、片付けた点滴や濡れたタオルなどを乗せたトレーを持ち、ドアの前に立った。

「それでは、少々時間を頂きます。先の尖っている物、金属製の物、動く物には触らないよう、お願いしますね」

「わ、わかった」

 「すぐ戻ります」と最後に一言声を掛け、ユズリハは静かに部屋を出る。

 医務室のドアを閉め、彼はその場からすぐには動かず、暫く耳を澄ませて中の様子を伺う。

 すると十秒も経たない内に、部屋の中から銀の包みを開ける音が微かに聞こえてきた。

「……ん〜〜〜……!! う、うまぁ……!!」

 少女の感動に震える声が聞こえ、ベッドでゴロゴロと悶えているらしい音が響く。

 純粋かつ可愛らしい反応を感じ取り、ユズリハは思わず吹き出してしまった。

 取り敢えずは、一安心か。そのままメインホールへと戻った彼は、リビング奥のシンク台にトレーを置き、壁に設置された電話の受話器を取って外線のボタンを押した。

 五桁の通信チャンネルを続けて押し、最後に緑色のボタンを押す。受話器の中から呼び出し音が三回程続いた後、ブツ、という無音の直後に「ユズ君か?」という聞き馴染んだ少女の声が聞こえてきた。

《キッチンからとは珍しいな。リストベルは?》

「充電中でな」

 リストベル、とは、軍から支給されている腕時計型の通信端末の事だ。

「それよりも、女の子が起きたぞ」

《ほ、本当かっ?》

 心から喜ぶ船長の声に、ユズリハも口元を綻ばせた。

 少女を救助してから、丸五日。帰還してからすぐに、『知り合いの医者』には一度診てもらっている。

 だが調べても特に異常は見つからず、医者には「自然に起きるのを待つしか無い」と言われていた。

《ああ、良かった……! 女の子の様子はどうだ? 名前は? 何故あんな所に居たのか聞けたか?》

「名は『胡蝶の君』だ」

 その報告を聞いて、彼女は少し残念そうに「そうか」と応えた。

《リンの時と同じ、か……》

 以前、彼女と同じ状況で発見され、同じ様に身元不明で船長に引き取られた少年がいた。

 彼も一時は『御剣(みつるぎ)の君』と男性の仮名で呼ばれていた。だが現在は彼だけの名を与えられ、ユズリハ達と同じ船の乗組員として立派に成長し働いている。

 未だに彼の記憶は戻っていないが、本人も特に気にした様子はなく、新たな人生を謳歌している最中だ。

《女の子は、不安そうだったか? 怯えたりはしていなかったか?》

「多少警戒心はあったようだが、それも最初の内だけだったな。昨日リンデンが作ってたレモネードを飲ませてみたら、多少緊張が解れたらしい。腹鳴らして照れてくれる程には、心を開いてくれてる」

《あはは、可愛いなぁ。それなら良かった》

「まぁな」

 微笑ましく笑い合う二人だったが、言葉を続けたユズリハの声は少しだけ影を落とす。

「ただ……確かにリンデンの時と似てるが、少し違うようにもに思う」

《と、言うと?》

「話し方が古風というか……警戒の仕方なんかも、あの年齢にしてはよく知ってる方だと思う。記憶が無い事に関しても、『自分は役立たずだ』と落ち込む様子を見せた」

《……何?》

「何か『されていた』のか、何か『させられていた』のか……記憶喪失の原因も、虐待の可能性を視野に入れておいた方が良いかも知れない」

《そうか……》

 ローズマリーは数秒ほど口を閉ざす。

 しかし、すぐに明るい声音で「今は仕方無いな」と空気を切り替える。

《今、ここで私達が悩んでも出来る事は無い。この先『胡蝶の君』が記憶を取り戻した時のために、今から心を護ってやるのが私達がすべき事だ》

「そうだな。だが、まずは先に腹拵えだ」

 少女が腹を空かせている旨を話せば、船長は「それはすまなかった」と笑った。

《それなら長電話は良くないな。ユズ君は強面だし見た目も厳ついんだから、私達が帰るまで、くれぐれも女の子を怖がらせないように気をつ付けるんだぞ》

「分かってる。一応言われた事は守ってるだろ?」

《緊張があんまりにも顔に滲み出てるから、君は小さい子に泣かれるんだ。先週の『手伝い』だって、中へ入った瞬間に泣き声の大合唱だったじゃないか》

 身に覚えがあるユズリハは、船長の言葉に眉根を寄せる。

《小さい子には目線を合わせて、特にユズ君は笑顔と敬語を徹底する事! これは船長命令だからな》

「あー、分かった分かった。早く会議行ってこい」

《おっと、そうだな。じゃあ頼んだぞー》

 通信を切り、ユズリハは苦笑と溜め息を吐きつつ軽食を作る。

 出来上がった食事を新しいトレーに乗せて医務室へと戻ったユズリハが見たのは、香ばしいパンと玉子の匂いに目を輝かせた少女の笑顔だった。

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