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#『小茴香』

last update 公開日: 2026-09-13 05:43:58

「おやすみー。じゃあユズ君、後は頼んだぞ」

「おう。お疲れさん」

 ローズマリーが、「ユズリハが寝るまで起きている」と駄々を捏ねるクミンを引き摺って、異ビングのハッチを廊下へと出ていく。

 ソファにはフェンネルが腰掛け、黒い布を広げて縫い合わせた糸を切っている。その足元には、床に直接リンデンが転がって寝息を立てていた。

「コイツは『邪魔になる』って事を学ばないもんかね」

 キッチンから氷を持ってきたユズリハが、床に転がるリンデンを見て苦笑を零した。

 フェンネルは視線を手元に落としたまま、こちらに寝返りを打ってきたリンデンを脚で蹴って押し返す。

「そりゃ学べんでしょ。『言い出しっぺ』が真っ先に寝こけてる様じゃあ」

 呆れるフェンネルに、ユズリハは吹き出して笑った。

 孤児院から戻ってきた時、リンデンはとても機嫌良さげに「今日は飲みたい!」と言い出した。いつもなら皆で宴を楽しむが、疲れているであろうクミンの体調を考え、ローズマリーとクミンは先に部屋で休む事になったのだが。

 二人が部屋に戻る前に、腹一杯に夕飯を食べてからソファで寛いでいるとそのまま眠ってしまったらしい。

 寝返りでソファから落ちても起きない彼は、幸せそうな顔でむにゃむにゃと何かを言っている。

「楽しみにしてたのになぁ。どうする、起こすか?」

「やめときましょう。余計にウザくなる」

「はっはっはっ! さすが気遣いの出来る男は違うな」

「……こんな奴に気遣いなんざ必要無いでしょ」

 疲れているだろうから、そのまま寝させてやろう。

 そんな真意を汲み取ったユズリハは、不機嫌そうに眉根を寄せる彼の前に、琥珀色の酒を注いだグラスを差し出す。フェンネルがグラスを一瞥すると、グラスの中では大きな氷が一つ、澄んだ音を立てて動いた。

「……良い色だな」

「だろ? リンデンが『今日に』と選んだ酒だ」

「銘は何です?」

「あの時の地酒だ」

 フェンネルは、糸を切る手を止める。

 ローズマリーぼ知り合いが独自で作ったこの地酒は、二年に一度、春に送られて来るものだ。アルコール度数も分からない、手作り感満載のきつい酒だった。

 あの日の『祝賀会』でも、この地酒をユズリハやリンデンと共に飲んだ。

「……まったく……」

「本当に、気遣いが下手な奴等だよ。二人共な」

 あの日は、『家族』を『呪い』から救った。

 今日は、本当の意味で『呪い』から解放されたのかも知れない。

 フェンネルはグラスを手に取り、酒を眺める。その芳醇な香りに目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶのは、かつて自分を愛してくれた大切な『家族』の笑顔だった。

 それは、十五年前に遡る。

「セリちゃん、おかえり」

「ただいま、フェノンちゃ〜ん……今日もしこたま飲んだわぁ」

 フェノン、と呼ばれたその愛らしい子供は、肩を越す長い黒髪を靡かせ、仕事から帰宅した美しい女性を我が家のリビングへ招き入れると「お疲れ様」と微笑んだ。

 『フランボワーズ』。華やかで煌びやかな世界に輝く、赤く熟れた木苺色の頬を持ち、その初恋の様で深く妖艶な香りは、誰もが夢の中へと誘われていく……そんな彼女達は、畏怖と愛を込めてそう呼ばれていた。

 一方では、彼女達を『夜鷹』という名で蔑み、疎んじていた人間もいる。華やかな世界の裏で、借金返済や薬物目的、罪を犯して逃げ隠れている者も多数存在したからだ。

 愛と身体を売り買いし、己の欲を満たし色香に溺れる世界。それが、彼女達が暮らす『フランボワーズ・ファーム』と呼ばれる花街だった。

 そんな暮らしの中で、フェノンと同居するセリという女性は、酒に酔うと決まってフェノンの親についての話を語った。

「忘れないでよぉ? フェノンはさぁ、『イリスアゲート』の落とし種なんだから」

 また始まった、とフェノンは苦笑する。

 イリスアゲート家。この国を代表する貴族の一つであり、現当主は二将という軍の大幹部だ。

「フェノンのオカーサンはぁ、アンタを捨てて逃げたのよ。男に捨てられて、子供まで捨てて……今の状況、恨むなら母親を恨みなよ? 立派に育って、死ぬのが惜しいと思えるほど幸せになって、『ざまーみろ』って見返してやりな。それが復讐になるからねぇ」

「はいはい」

「ほんっと、あのクソ男……あの野郎さえマトモだったら……いや、アレにハマった方もおかしかったか……『アレ』だけに……」

「くだらない事言ってないで、早く水飲んで」

 フェノンは、テーブルの席に座って突っ伏す女性に水の入ったコップを渡す。まるで酒を呷るかのように水を飲み干した彼女は、酒臭い大きなゲップを一発かますと肘を付いてフェノンに笑いかけた。

「ふふ……ねぇフェノン? アンタは、最高に良い相手を捕まえなさいよ。アンタの母親や、あのクズを、ぶっ潰すぐらいに……アイツ等なんか、忘れちゃうぐらい、最高にハッピーな……」

「わかった、わかった。セリちゃん、寝るならベッドに……」

 しかし、フェノンが全てを言い終えるまでに、彼女はテーブルに突っ伏してイビキを立て始めている。フェノンは溜め息を一つ吐くと、背中が大きく空いたドレスの上に、自分が来ていた小さなカーディガンを掛けた。

 そして、もう一度溜め息。自分の力では、大人の女性である彼女をベッドまで運ぶ力は無い。

「どうしよっかな……」

 フェノンが困っていると、ふと、机の上から呻きと笑い声が聞こえる。

「うぅぅん……フェノン〜……」

「何、セリちゃん? 寝てるの? 起きてるの?」

「ふふふ……大好きよぉ。アンタはぁ、私なんか居なくたって……幸せに、なれるんだからねぇ……」

「……セリちゃん」

「こんな所、さっさと出てってさぁ……みんなの分も、幸せに……」

 いよいよ寝息をかき始めているセリに、フェノンは少し俯く。幸せそうに微笑みながら、むにゃむにゃと口を動かす彼女を見て、フェノンは胸がぎゅっとなる感覚に唇を噛んだ。

 いつ言われても、その言葉は慣れない。彼女や皆がいるから、自分は今『幸せだ』と思えるのに。

 己は彼女達にとって必要無いんだど言われているようで、やるせなく、切なかった。

「……セリちゃん。私は、自分だけの幸せなんか興味無いよ。復讐なんて考えてない。……正直、『イリスアゲート』も父親も母親も、心底どうでもいいと思ってるのに」

 しかし、彼女は一度酒を飲めば「『ファーム』を出ろ」しか言わなくなる。彼女の友人達が言うには、死んだ己の母は、彼女と共に働いていた『フランボワーズ』だったらしい。同じ屋根の下で暮らし、同じ釜の飯を食べた、謂わば親友と呼べる存在だった、と。

 愛した男に捨てられ、人生を悲観し、我が子を残して姿を消した大切な人。その遺児である己に、親友と同じ道を辿らせたくない……もしくは、『ファーム』を離れる事で、今も何処かで生きている実の母親に逢わせたいのかも知れない。

 しかし、己は。

「……セリちゃんが、私のお母さんだったら良かったのにな」

 コブ付きでは客が取れなくなる、と笑い飛ばされた自分なりの本心を、溜め息と共に吐き出す。

 綺羅びやかなドレス、愛らしい化粧、甘く芳しい香り、細かな細工の飾りが似合う髪。

 母でなくても、彼女のようになりたい。少しでも、彼女に近付きたい。それが、フェノンの心に眠る願いだった。

「フェノンちゃん、明日の……あれ、セリ帰ってきてんじゃん」

「カヤちゃん」

 同じ同居人である女性が自室から顔を覗かせ、百はその女性に手を合わせて頼む。

「ごめん、カヤちゃん。セリちゃんがここで寝ちゃって……運ぶの手伝ってもらっていい?」

「全然オッケー。もー、子供にまで迷惑かけんなっての」

 この家は彼女達が勤める店の下宿先になっており、五人一部屋でルームシェアをして家賃を折半している。先に帰ってきていた彼女の友人と共に、優しい笑みを浮かべて眠る彼女を寝室へと運び込んだ。

 『フランボワーズ』達が働くのは、軍が整備する特例地区指定域の中にある地下アーケードの通りで、『ファーム』と呼ばれる花街が店を連ねている。セリ達が働く娼館を始め、オペラやストリップショー等の演劇館、クラブ、芸姑屋敷、バーや居酒屋、連れ合い茶屋など、区分ごとに様々な店が並んでいる。

 店は全て、事業主が新しい店を開店するに当たって申請する店の種類によって細かに分けられているため、歌唱、演奏が主な芸姑や、酒と会話を提供するクラブ嬢が身体で色を売る、などという職種の混合は厳格に禁止されている。

 もし、腕の乏しい芸者が色で金を稼ごうと思えば、芸姑屋敷から娼館へ転職する、という形になる。

「ねぇ聞いた? 一昨日の話」

 夕方、出勤前に五人のオリヴェール族の女性がテーブルを囲んで鏡を並べ化粧を施す中、赤毛のハスが口を開いた。

 隣で聞いていた銀髪のキリがハスを見る。

「一昨日って、ベリーハウス(芸姑屋敷)でクビになった子が出たってやつ?」

「そうそう。あの子、店のお金盗んでクビになったらしいよ。向こうの自警に捕まって、娼館(こっち)に売られたって」

「それホント? 向こうのセキュリティどうなってんの」

 驚きながらも呆れていたのは、長い黒髪を巻きながら櫛で梳かすセリだ。

「盗られたのも今月2回目でしょ? ガバガバにも程があるわ」

「ベリーハウスは借金に追われる子が多いからねぇ。期限内に準備できなかったか、ブラックに取り立てられたか」

 栗色の髪を結うヤシが寂しげに言う。

「返済のために身を落としたはいいけど、そんな簡単に芸が身につく訳でも、客が取れる訳でもないからねぇ」

「世知辛い世の中には違いないわね」

 金髪のカヤの言葉に、誰もが頷いた。本人の望まぬ職業に移されるのは、実に悲しい現実である。しかし、良しも悪しもごった返したこの界隈では、実はごくごく当たり前の日常だった。

 一方で、仕事という戦いに出向く準備を着々と進めている女性達のために、フェノンは朝食ならぬ夕食を準備していた。パンを焼き、小さく切ったベーコンを卵と炒め、青々としたレタスを千切り、その上に櫛切りにしたトマトとキュウリと茹でたコーンの粒を乗せる。

 自分を含めた六人分の食事を並べ終わると、グラスに大麦がベースの水出しハーブティーを注いでいく。手慣れた作業を一通り終え、フェノンは女性達に向けて号令を掛けた。

「ご飯できたよー」

 その声を聞けば、全員がダイニングへと足を運び出す。豪華で彩りの良いテーブルに、皆が毎日感嘆の声を漏らした。

「すごーい! フェノンちゃんのご飯大好き!」

「相変わらずスゴい豪華じゃん。ガチ天才」

「起き抜けからご馳走なんて、贅沢ねぇ」

 いつもの様に褒められても、フェノンは毎度自慢気に「どんなもんだい」とふんぞり返って見せる。そんなフェノンに、いつもトセリは誇らしげに微笑んだ。

「フェノンがいてくれて、みんな大助かりだわ。本当にアンタは自慢の仲間だよ」

「……えへへ」

 セリがくれるこの一言が、フェノンは大好きだった。

 彼女の言葉を受けて心から嬉しそうに笑うフェノンの頭を、セリは細く優しい掌でグリグリと撫でる。まるで彼女に続くかのように、優しい姉達は四人ともフェノンの頭を優しく撫でていった。

 皆で食事を摂りながら、時折世間話を交えて今日のスケジュールを話し合う。その間、フェノンはママレードの塗ったパンをかじりながら皆の話を聞いていた。

「……で、そのクズが今日も来るらしいのよ。あいつ、マジで最悪だから」

「金持ってんのにクズとかクソじゃん」

「フェノンちゃんも、恋人選びは慎重にしなさいよ? いくら金持ちでも、あんなクソ男みたいなの掴まされたら堪んないわ」

「わかるぅー! アタシ等だって人間だっての! 抜きたいだけなら人形でいいじゃん!」

「何期待してんだか。ここに来る男は皆クズでしょうがよ」

「クソクソクズクズ言わないでよ。フェノンが口悪くなったらアンタらの所為だからね」

「自分も口悪いくせにー」

「フェノンちゃんは美人になるから、相手にも口の悪さにも気をつけなきゃねぇ。そういえば、フェノンちゃんは大きくなったらなりたいモノとかあるぅ?」

「あー、気になるー」

 突然話をふられたフェノンは目を点にして驚く。五人の視線が一斉にこちらに集中する中、顔を赤く染めながらも、はっきりとした口調で答えた。

「私ね、『フランボワーズ』になりたい。みんなと同じお店で働いて、みんなに楽させてあげたいの」

 フェノンの可愛らしい笑顔に、友人達は一瞬顔を引き攣らせて互いを見合わせる。しかし、すぐに皆が気を取り直して「フゥ~」と声を上げ盛り上げた。

 自分達が、どんな仕事をしているのかをこの子は知っている筈。なのに憧れを抱くのは、きっと自分達が極力、この子の前で暗い顔も悲しい話もしなかったからだ。

 心配させまいと皆で誓い合った事が、この様な形で現れるとは誰も予想していない事だった。

 皆が笑顔で言葉を懸命に選ぶ中、ヤシが考える様な仕草でフェノンに説明する。

「……んー、でもぉ。私達のお店は、オリヴェール専属だからねぇ。フェノンちゃんはマティアスだから、私達のお店はキビシーかなぁ?」

「そ、そんな事ないもん! じゃあ、違うお店で働いて、ここに一緒に住む!」

「そもそも、『フランボワーズ』が無理でしょうよ。年齢も身長もチビチビのくせに」

 食い下がるフェノンの頭を撫でながら、カヤが言った。

「アンタは私等と身体の作りが違うから、無茶な注文付けると店のクルーも困っちゃうよ?」

「そ、そうだけど……」

「同じ店で働きたきゃ、いっぱい勉強して経理か弁護士の資格取りな。もしくは鍛えまくって喧嘩に強くなりな。『フランボワーズ』は無理でも、用心棒で雇ってもらえるかも知れないわよ」

「本当!?」

 セリの言葉に、フェノンは落ち込みかけた顔を途端に輝かせて隣に座る彼女を見上げる。

「アンタの頭なら不可能じゃないね。でも、そのためには外の世界に触れて、強く賢くなるしかない。身に付けた知識は、必ずフェノンの役に立つからね。頑張りな」

「わかった! 頑張る!」

 元気いっぱいの返事を聞いて、セリも微笑みながら、小さな頭を撫でる。その光景に、誰もが優しさに目を細めて見つめていた。

 数日後。

 臨時閉店日による久々の連休が入り、翌日も休みとあって、フェノンと五人の女性達は盛大なパーティーを繰り広げていた。

 いつもより沢山食べて沢山遊んだフェノンは、いつの間にか寝落ちてしまっていたようで、真夜中、尿意に負けて目を覚ましたフェノンだったが、気が付くと自室で丁寧に布団まで被って眠っていた。

 誰かが、自分を部屋まで運んでくれたらしい。感謝を感じつつトイレへと向かうためベッドを降りて部屋を出ると、リビングに近付くにつれ、皆が未だ酒盛りで楽しんでいる声が部屋の中から聞こえてきた。

 まだ起きてるのか。いくら休みとは言え、と少しだけ呆れた気持ちも感じたが、本当に久々に過ごす彼女達だけの夜である事を知っているフェノンは、そっとその場を離れてトイレに向かった。

 その帰り、風邪を引かぬようにと声でも掛けていこうかと考えていた時、フェノンは皆が自分の父親の話をしているのを耳にする。

「あの時、イリスアゲートのバカを殺さなかっただけ賢いと思うよ。セリは」

 不穏な内容に、フェノンは咄嗟にドアの影に身を隠し、そこから動けなくなってしまう。いけないとは分かっていても、つい皆の会話に耳を澄ます。

「ふん。あのクソ男のせいで豚箱行きなんて、こっちから願い下げだからね」

「でもさぁ、本当に黙ってるつもりなの?」

「何が」

「アンタがフェノンちゃんの生みの親だって」

 ……え?

 フェノンは思わず息を呑む。聞こえてきたのは、セリの少し暗い声だった。

「……言うわけ無いじゃん」

「なんで? 今じゃなくても、いつかは言った方がいい気がするんだけど」

「……私は言うつもり無い。フェノンの母親は、『イリスアゲート』に嫁いだ『メノウ家』の立派な淑女なのよ」

 メノウ家。フェノンは、その家が今は存在しない没落した貴族であると知っていた。

 客や、他の従業員が声を小さくして話していた。メノウはイリスアゲートに騙され、地位も財産も人材も、全て吸い付くされて喰われたのだ、と。

「あんなに可愛い天使を産んだのは、こんな売女じゃないわ。私じゃダメなの」

「セリ……」

「不倫の末に捨てられて、子供の性別が分かった瞬間に取り上げられそうになってさ……本当、ここに逃げてきて大正解。あんなクズに夢中になってた自分が恥ずかしいわ」

「でもさ、ちょっとザマァじゃない? 男尊女卑に絶対血筋主義の家で、後妻が産んだの女三人とか」

「マジでソレ。その上、前妻の子も女の子ばっかりとかガチでオモロすぎる。結局、唯一の男を産んだのが気紛れで娶って捨てたオリヴェールの女とか」

「セリの怨念よねぇ。でも、それってさぁ、これ以上無い素敵な復讐じゃなぁい?」

 五人の女性達が、楽しそうに笑い声を上げた。

「これで、フェノンちゃんが男を好きになってくれれば最高にザマァなんだけどねぇ。ま、そればっかりはフェノンちゃん次第だけどさ」

「目指せ、お家滅亡! ってね。イリスアゲートは養子を嫌がるだろうし、一回女当主挟んでも中々なザマァだけど」

「でも、昨日フェノンちゃんが『フランボワーズ』になりたいって聞いた時はビビったなー。そりゃあの子なら、とんでもない売れっ子になると思うけどさぁ」

「そんなの絶対ダメよぉ。フェノンちゃんは私達の天使なんだからぁ。好きな人と一緒になって、幸せになって欲しいわぁ」

「……もし、フェノンが大人んなった時にさ。フェノンには、外の世界で色んな物を見て感じて、沢山考えて学んで欲しいんだよね。その上で、フェノンが自分の意志でイリスアゲートに入りたいってんなら、私は止めないよ」

「おおー、カッコいー」

「でも、今捕まったら間違いなく利用されるだろうね。あの子を操り人形にしようだなんて、私が絶対に許さない。フェノンが自分の力で戦えるようになるまで、私達で守るのよ」

「さすが、フェノンちゃんのお母さん! あの子、中身は丸ごとセリに似たんだね」

「顔も私ソックリでしょーが」

「ねぇセリ、フェノンちゃんは私達にとっても愛しい我が子なの。弟で妹で、可愛い仲間なのよ。いつだって手を貸すわ」

「うん」

「フェノンちゃんを産んでくれてありがとね、セリ」

「本当よぉ」

「……こちらこそ、だよ」

「よし! 私達の天使にカンパーイ!」

「イエーイ!」

 笑い合う仲の良い五人に、フェノンは止まらない涙を賢明に拭いながらリビングを離れた。

「……セリ、ちゃんが……!」

 セリが、己を産んだ本当の『母親』。

 自分はこんなに祝福され、望まれて生まれてきたのか。何より、自分が夢にまで見た現実が、美しく強い憧れの女性であるセリの実子である事が、心の底から嬉しかった。

 自室に戻ったフェノンは、布団に潜って涙に枕を濡らす。嬉しさに心を震わせながらも、フェノンは強い使命感が己の心を動かすのを感じた。

「……強く、なりたい」

 強くならねば、彼女達を守れない。危険と犯罪が蠢く街で、彼女達を守るには、自分には何が出来るのか。

 いつまでも彼女達に守られているようでは、自分は強くなれない。自分の身は自分で守る。それが当たり前になれば、彼女達も守る事が出来る筈だ。

 真面目で努力家、知識欲も行動力も高いフェノンが導き出した答えは一つだった。

「……ねぇ、セリちゃん」

「ゔー、頭いて……どした?」

 翌日、リビングで全員が床に散らばる中、朝食のため皆を起こしに来たフェノンが、セリに水の入ったグラスを差し出した。

 弱冠九歳の幼い子供が、決意に満ちた目を大切な『家族』に向ける。

「私、自警団に入りたい」

「……は、え!? はっ!?」

 二日酔いに苦しむ事も忘れて、セリは目を丸くして驚いていた。

 『ファーム』の自警団は、住民や従業員による街の防衛を目的とした、軍に所属していない独立警備隊だ。

 『フランボワーズ』達や娼館の従業員、その他他店其々のスタッフも護身術の習得を義務付けられていて、年齢制限は無く、ここで生まれ育った未成年は勿論、『ファーム』外から来た出稼ぎ労働者など、幅広い住民達が四年半にわたって小銃や格闘技術を学ぶ事になる。

 修了証を貰うまでは基本訓練生として実務には参加しないのだが、特例で、月毎に選出される優秀者に三度選ばれた者は、現場に出て自警団としての任務に就く事が出来た。

 フェノンは「目立ってはいけない、名前が有名になってはいけない」という家族達の勧めで、友人の名を借りた偽名で申請し、己の体力も考慮して狙撃専攻で訓練を受けた。しかし、フェノンはなんと入団してたった三ヶ月で実践勤務に入る事になった。

「えっ、もう!?」

 月一の優秀者選考に、三回連続で選ばれてしまう程の才能。セリに報告したフェノンは自信満々でふんぞり返っていたが、何故か神妙な顔で「おめでとう」と祝福の言葉を放つセリに、フェノンは「いけない事だったのだろうか」と少し不安そうに眉を下げる。

「……何か、ダメだった……?」

 しかし、セリはフェノンを抱き締めると優しく話した。

「……ううん。フェノンが凄すぎてびっくりしちゃったよ。さすが、私達の自慢の仲間だわ」

 褒められて、フェノンは恥ずかしそうにしながらも素直に喜ぶ。しかし、セリの表情は曇ったまま変わらなかった。

 というより、何処か心配そうに眉根を寄せている。

「……フェノンがスゴいのは皆知ってる。でも、少しでも危険だと思ったら、絶対に無茶な事はしちゃ駄目だからね。フェノンは頑張らなくても一等賞を取れる。だからこそ、目立たないよう、浮き出ないよう、常に三番手四番手を心掛けな。いい?」

「……うん、わかった」

「本気を出すのは、自分や大切な人を守る時だけ。絶対に、軍に名前を知られるんじゃないよ」

「偽名だから、大丈夫だと思うけど……」

 身を隠す事に納得がいかないのか、食い下がってくるフェノンに、セリは膝をついて視線を合わせた。

「この『ファーム』で、マティアスの子供はアンタだけなの。偽名だろうが、性別を偽ろうが、『あの家』にバレたらタダじゃ済まない。この事は話したわよね?」

「でも、自警団から軍にすっぱ抜かれるのは男だけなんでしょ?」

「前例なんか役に立たないよ。フェノンが最初の子になるかも知れない……私は怖いの。『あの家』が、じゃない。フェノンが望まない人生を送らされる事になるのが……フェノンが苦しくて辛い思いをするのが、私は一番怖いのよ」

 セリは目の前のフェノンを抱き締める。彼女の肌の温かさに、フェノンも彼女の服を掴んだ。

「お願い、フェノン。もう少しだけ、アンタの保護者で居させて」

「……私は、ずっとセリちゃんの子供だよ」

「……私だけじゃないよ。カヤもハスもヤシちゃんもキリも、皆アンタの母で姉で仲間、大切な家族なんだから。私達の希望を、アンタが奪わないでね」

「……わかった。後方支援なら良い?」

「んんー……オッケー、それなら認めるわ。大好きよ、フェノン」

「私も大好き」

 しかし、その事件が起きたのは、フェノンが自警団に入って一年が過ぎた頃だった。

《フェノン、排除対象がそっち行ったよー》

「了解。窒息させて捕まえる」

 とある店に対して強盗と暴行を行い、自警団に追い掛けられていた男が、裏道を抜けて逃走していた。自警団の黒いタクティカルスーツに身を包むフェノンは小銃の装填弾をゴム弾に変え、街中至る所にある鏡を駆使して遙か先を行く対象者を狙う。男が角を曲がって路地を抜けた瞬間、射線に入ったのをフェノンは見逃さなかった。

 背中から鳩尾を狙撃された男は息を詰まらせ、その場に倒れ込む。直後、彼を追ってきていた複数人の自警団に囲まれ、男は座敷牢のある事務館に連行されていった。

 フェノンは長い髪をヘアゴムで簡単に結い、一仕事終えた安心感に息を吐き出す。

「はー、終わった終わった。帰ろっと」

《最近、フェノンって声低くなったよね。もしかして声変わり?》

 イヤホンマイクの向こう側から半笑いの声を聞いて、フェノンはムッと眉根を寄せる。

「一緒にすんなブス。そっちは終わったの?」

《完璧ですぅ。僕等は泣く子も黙るラズベリー隊だぞ?》

 ラズベリー隊とは、若い男娼達で組まれた自警団の精鋭部隊だ。十歳から二十五歳までの若年層で組まれた彼等は身軽で持久力も高く、自警団の中でも特に重宝されていた。

《僕達も後は見回りだけだもんね。はぁー、早く終わんないかなぁ……バーベイン様にヨシヨシされたぁい》

「耳元で盛んないでくれる? キモいんだけど」

《ちょっとヒドくない? 同僚に辛辣だと、『ファーム』じゃ生きていけないんだからねっ』

「アンタも軍に上がるなら、餞別でお金落としてく位はしていって欲しいもんだよ。セリちゃん達のお店なら、初回は半額だし」

《はぁ!? やめてよ、僕はバーベイン様の物なの! 浮気なんかしないもん!》

「あはっ、キモいねぇ」

《うるさいブス》

 直後には、フェノンはイヤホンマイクの電源を切って耳から外す。その後、昼前には張り込みの交代で自宅に帰ってくると、銃をラックに立て掛けて手を洗った。

 その時、ふと、目の前の鏡に映った自分の姿を見て同僚に言われたことを思い出した。

「……やだな……」

 声変わり。自分では分からないが、低くなったというのは本当なのだろうか。

 最近の喉の掠れから、少しずつ身体が変わってきているのが分かる。背も伸び、腕力も体力も強くなってきた。

 自分は、綺麗で美しいトメ達とは違う。

「…………………………」

 男は醜く、欲に正直で汚い生き物だ。それは、フェノンが今まで生きてきた中で学んできた男性に対しての印象だった。

 己が男であるが故に、イリスアゲート家は己を狙う。そして、だからこそトメは自分をイリスアゲート家から隠し、守ろうとしてくれている。

 結局は、自分が男であるせいでセリ達に余計な苦労をさせてしまっている事実には違いなかった。

 自分の性別を知っているのは、自警団に共に入ったたった一人の同期だけ。信頼出来る仲間ではあるが、万が一上層部に男だとバレたら、間違い無く自分はラズベリー隊に移されるだろう。

 そうなれば、頻繁に視察に来ている軍の者に顔を覚えられる危険がぐっと高くなる。その前に女性としての自警団の任期が終わり、セリ達と同じ予備隊に変わったとしても、皆と店で働くためには資格を取るしかない。

 しかしその資格や免許も、『ファーム』から数年は出ていかなければ取得は不可能だ。

 自分が居れば、皆に迷惑を掛け続ける。しかし、自分が居なければ誰が彼女達を守れる?

 自分が女だったら、ずっと側に居られたのだろうか。そうでなくとも、この劣等感は感じずに済んだかも知れない。

「……女が、良かったな」

 セリ達のお陰で、自分はこの世に存在している。生まれた事を悔いてはいないが、せめて、彼女達と同じ美しい生き物であれたらと叶わぬ憧れを静かに呑み込んだ。

「ただいまぁ」

「……おかえり。早かったんだね」

 リビングにやってきたセリは、先に昼食を摂っているフェノンに「おいしそー」と笑みを見せる。

「まったく、非番なのに経営方針の会議とかやってられないわ。フェノンは? いつ帰ってきたの?」

「ちょっと前。ここんとこ連勤だったから、今日はもう終わりだって」

「本当、お疲れ様。幾ら安全な昼間だからって、若い子を働かせ過ぎなのよ」

「まぁね。でも今の治安じゃ、そうも言ってられないから」

「……反乱過激派が燻ってるって噂、本当なのかしら」

「さぁ……みんなはデマだって言ってるけど」

 しかし、その噂はものの二秒で現実となってしまう。突然、家に備え付けてある有線放送のスピーカーから低い警告音が鳴り響き、直後に緊迫した音声が大音量で響き渡る。

《敵襲、敵襲!! 自警団もとい雇用兵は、持ち場に集合せよ!! 直ちに持ち場に集合せよ!!》

 しかし、セリとフェノンはすぐに緊張を解いて互いの顔を見合わせる。実はこの音声は緊急時にすぐ放送できるようあらかじめ録音してあったもので、近頃は頻繁に聴くようになっていた。

 そのため、セリの反応も「ビックリしたぁ」という、少し苛立った一言だけだった。

「またか……」

 そう呟いたのは、呆れた様子で席を立ったフェノンだった。

 警報がなってしまえば、臨戦態勢を求められる自警団は決められた持ち場へ向かわなければならない。

「フェノン、どうする? 今回も空振りかもよ」

「……ううん、行ってくる。一応仕事だし……セリちゃんも行くんでしょ?」

「まぁね。アンタも真面目なのは良いけど、充分気を付けるんだよ」

「勿論。セリちゃんも気を付けて」

 朝に持ち出していた装備をそのまま装着して、小銃を手に取ったフェノンは入ってきた入口を引き返すようにドアを開ける。

 しかし、その時自分に降り掛かった影と声に、フェノンは唖然と口を開けて上を見上げた。

「自警団か。夜鷹のゴミ共め」

 その瞬間、完全に油断していたのだ。

 それは一瞬の出来事だった。フェノンは左から右へと弾き飛ばされ、視界の色が何度も反転する。顎が割れ、脳が揺れ、痛みを感じる間も無く地面に叩き付けられる。気付けば這い蹲る自分の身に何が起きたのか、フェノンは全く理解出来なかった。

「フェノンっ!!」

 セリはキッチンに置かれた麺棒を握り、フェノンを殴った男の目前に一瞬で詰め寄ると、その厳つい顎を下から思い切り叩き上げた。相手は少し怯んだが、すぐに態勢を立て直してセリの腹に足を蹴り出す。くの字に身体を曲げて後ろに飛ばされたセリに、男が拳銃を向けた時だった。

 フライパンの金属音と共に、一発のゴム弾を左目に受けた男。仰け反った勢いのまま天井に向けて発砲した男は、醜い叫びを上げながら後ろに数歩よろめいた。

 受け身を取って舞うように体勢を立て直したセリは、直ぐ様相手の足を払い倒すと男の眉間を麺棒の先で突いて失神させる。その男をそのままに、セリは蹲るフェノンの元へと急いで駆け寄った。

「大丈夫!?」

「ふ……いぁ……!」

 フェノンは両手で口を抑え、口の中を切ったのか溢れる血を手で受けようとする。打撃を受けた箇所と骨格の歪みから、顎を砕かれたのだとセリは推測した。

「酷い事を……無理に喋らなくていいわ。歩ける?」

 フェノンが大きく頷く。セリはフェノンの小銃をスリングで肩に担ぎ、ふらふらと立ち上がったフェノンに肩を貸す。失神した男を放置し、二人は裏口に向けて静かに進み出した。

 歩く度に振動が響くのか、フェノンが苦しげに呻いている。

「フェノン、血は飲まずに吐き出すのよ。事務館に行けば緊急の救護所になってる筈だから、そこで手当を受けよう」

「うぅ……!」

「ちょっと歩くけど、頑張りな」

 事務館への移動中、二人は四方八方から鳴り響く爆発音を聞いた。至る所で悲鳴が起き、火の手が上がり、道端には動かぬ人間が力無く転がっている。

 街中のスピーカーは乗っ取られたのか声明のようなラジオ音声を流し、「軍に加担する国賊共」と『ファーム』の住民達を罵っている。

「過激派の連中共め……大人しくしてると思ってたのに」

 家の裏手の通りを東に歩いて数分、二人が事務館の門を潜ると、見覚えのある姿がフェノンとセリに駆け寄ってきた。

「セリ! フェノンちゃん!」

「カヤ、手伝って」

 カヤも若干のパニックを起こしているのか、その頬は人目も憚らず涙に濡れている。

「あぁ、フェノンちゃん……!」

「教えて、カヤ。この一時間足らずで何が起きたの?」

 カヤは鼻を啜り、数回深呼吸して気持ちを落ち着かせ、セリに説明した。

「っクラブ館横の、軍領事館が爆破されたの。その後すぐ、湧く様に奴等が現れて、街を襲い始めて……!」

「そっか……ありがとう。奴等の『頭』は?」

「噂じゃ、演劇館を拠点にしてるかもって……!」

「了解。私は持ち場に戻ってみるから、カヤはここに居て皆に情報を送って。フェノンをお願いね」

 セリは友人に手負いのフェノンを頼み、携えていた小銃に銃剣を取り付けると同時にゴム弾を薬室から全て排出する。フェノンが装備していたベルトポーチから実包の束を一つ取り出すと、小銃のボルトを引いて、弾薬を薬室へと一気に押し入れた。

 カヤはフェノンの腰に巻かれたベルトポーチをそっと外し、涙ながらにセリに手渡す。それを受け取ったセリはベルトを自分に装着し、最後にカヤから受け取った拳銃を後ろ腰に差した。

「持ち場に顔出した後で、他の皆を迎えに行ってくる。無線は二番で出して」

「……セリ、何だか嫌な予感がするの。皆『ハウス(娼館)』の本館から帰ってきてない」

「……そうかもね」

「もしかしたら、本館の地下が奴等の侵入経路なんじゃ……だとしたら、本館は今頃……!」

「なら、尚更急がないと。奴等は人質を取ったりしないからね」

「……もう、もう手遅れかも知れないよ……!」

「もう! アンタが不安になってどうすんのよ」

 セリは苦笑しながら、嗚咽を漏らすカヤの背中を強めに叩いた。

「アンタ、歴戦のオペレーターでしょ? 夜勤明けで疲れてるのは分かるけど、状況が落ち着くまではしっかりしてよ。フェノンが不安がるでしょ」

「っわ、わかってるわよ!……わかってるけど……!」

「……よく聞きな、カヤ。アンタは今、独りじゃない。フェノンも一緒にいるのよ。顎の治療が終わったら、その子に変わりの銃と装備を渡して。電音信号は習ってる筈だから、会話は出来るわ」

 それじゃ、と、セリが背を向けた瞬間、彼女は袖を引かれる感覚に後ろを振り返った。

 血だらけの小さな手が自分の腕を掴み、痛い筈の顔を懸命に横に振るフェノンは、ボロボロと大粒の涙を流しながら潤む瞳をセリに向けて口を動かした。

「うぁ、お……おあぁ、は……っ!」

「……え……?」

「お……か、あ……!」

 二人の女性は、言葉を失った。

「……あぁ……は……!」

「……フェノンちゃん、アンタ……」

「…………フェノン……」

 拙い発音で何度も繰り返し、言わんとしよう事を悟ったセリは、それでも、フェノンの手をそっと包んで自分の腕から離した。

 いやいやと首を横に振り続けるフェノンの肩を掴み、セリは真っ直ぐに『我が子』を見つめる。その表情は悲痛を訴えながらも、強く優しい眼差しで笑っていた。

「……フェノン。フェンネル。よく聞きな。これだけの惨事だから、もうすぐ軍の救援部隊がここに来る。そしたら、必ず『メノウ』の姓を名乗るんだよ。もし逸れたとしても、私達の誰かがアンタを見つけてやれる」

「ううぅ……!」

「必ず迎えに来るから、それまでは強く居て頂戴。フェンネル、優しくて賢くて強い、私達の自慢の仲間。私達の天使……私だけの、可愛い子」

 セリは、最後に愛しい息子を抱き締めた。

「アンタは、フェンネル・メノウ。いいわね」

 顎の痛みなど忘れて、彼も母を抱き締め返す。離してしまえば泣き崩れそうな我が子に、セリは一筋の涙を流して微笑んだ。

「じゃあ頼んだわよ、カヤ」

 友人も涙を流して嗚咽混じりに頷く。自分を放して再び背を向けたセリにフェノンは手を伸ばすも、その手は空を掻くだけで彼女には届かなかった。

 彼女の背を追って走り出しそうなフェノンを、咄嗟にカヤが抱えて引き留める。

「あ、おあぁは……っ!」

 お母さん。何度も何度も叫んだが、砕けた顎は思うように動かない。切れた口の中の出血も止まらず、口を動かすたびに唇からは血が溢れて顎を伝う。

 フェノンは膝を付き、動けなくなる。そんな彼にカヤがそっと寄り添い、その華奢な肩を抱いた。

「フェノンちゃん……お願い、怪我の手当をさせて。血が止まったら装備を渡すから、一緒にセリを手伝いに行きましょ。ね?」

 友人に説得され、フェノンは泣きながらも促されるまま事務館の中に向かう。

 しかし、その瞬間だった。

「――――」

 視界が白一色に染まる程の閃光を浴び、直後に強大な破裂音が響く。岩を砕き、物を吹き飛ばす爆風は、フェノンと友人を正面から襲った。

「……おかあ、さん……?」

「起きたか、フェノン」

 自分の声で目が覚め、母と同じ緑色の瞳をした知らない女の子に名前を呼ばれて驚く。飛び起きると同時に頬に痛みを感じ、勢い余って咳き込むと全身の至る所に激痛が走った。

 思わず呻くと、その女の子は心配そうに背中を擦ってくれた。

「落ち着け、まだ傷が塞がってないんだ。無理をすると血が出るぞ」

「だ、誰……?」

「私はローズマリー。君の味方だ」

「ろーず……?」

 ローズマリー、と名乗った、自分と同じ年頃の少女。彼女は別の隊員を呼び止め、医師をこちらに回すよう頼んでいる。

 辺りをキョロキョロと見回すフェノンに、ローズマリーは頬笑みながら「ここは安全だ」とフェノンに説明した。

「しかし大変だったな。顎の傷は、誰かに殴られたようだが……その服装、フェノンはもしかして『ファーム』の自警団なのか?」

 自警団。ローズマリーの言葉を聞いてフェノンは己が爆風に飲まれた事を思い出す。

 自分はあの時、一人ではなかった筈だ。

「そ、そうだ! ローズ、私と一緒にいた人を知らないっ?」

「ん?」

「カヤ・ラピス、っていう、オリヴェール族の女の人。私と一緒にいたと思うんだけど……」

 しかし、ローズマリーは瞬く間にその表情を曇らせた。

「……すまないフェノン。残念だが……事務館周辺で生きていたのは、お前だけなんだ」

「……え」

「フェノンを守っていた女性からは、少しだが形見を貰っている。このネックレスに覚えは無いか?」

 彼女はジャケットの胸ポケットから何かを取り出し、手に乗せてフェノンに差し出す。そこには、よく知る友人が「母からもらった」と言っていた、青い石のネックレスが光っていた。

 フェノンは、言葉を失う。

「……嘘だ……」

 ローズマリーからネックレスを受け取り、静かに抱き締める幼い姿に、彼女も掛ける言葉が見つからず俯いてしまう。

 しかし、疲れた顔をしたまま表情を動かさないフェノンは、静かに言葉を絞り出した。

「……『ハウス』の……娼館の人達は、どうなったの?」

 少し驚いた様子を見せたローズマリーだったが、すぐに目を伏せて首を横に振る。

 それを意味するのは、絶望だった。

「………………」

 フェノンはネックレスを大切に握り締めたまま、ローズマリーに向けて顔を上げた。

「……皆に『会える』?」

 この時のフェノンは、まさに行き場の無い地獄を彷徨う者の眼をしていたと言える。

 子供がこの様な顔をするなど……ローズマリーは、悔しさに歯を噛み締めた。

「……ああ。案内しよう」

 自分と身長もさして変わらない少女に案内され、フェノンは彼女の後を黙ってついて行く。その道すがら、フェノンは辺りの様子を伺いながら歩いていたが、何処を見ても一般人の姿が見当たらなかった。

 たまに治療を受けている者を見掛けても、その服装は自分とは別の班の自警団員ばかりだ。

 ぽつり、とフェノンは呟いた。

「……みんな、何処に行ったの?」

「……『ファーム』の皆の事か?」

 聞かれていたとは思っていなかったのか、フェノンは目を丸くして驚くいている。ローズマリーの問いに返事は無く、フェノンはただ小さく頷いた。

 ローズマリーは、出来る限り分かりやすく状況を説明した。

「……助かった人達は、みんな『ファーム』の外へ避難してるぞ。フェノンの怪我は比較的軽かったから、混雑している病院には連れて行かれなかったんだ」

「……そっか」

「ここに残っている者は、比較的怪我の浅い者か動ける者だけだ。後は皆、色んな病院に搬送されていった」

「……助かった人も、いるんだね」

「ああ。……『二割』程、だけどな」

「そう……」

 その『二割』が自警団の人口なのか『ファーム』全体の人口なのかは、ローズマリーは話してくれなかった。

 彼女に連れられ、フェノンが来たのは救護所からそれほど離れていない合同霊安場となった『ハウス』前の公園だった。ここが公園だったという事実も噴水が辛うじて現存した状態だった為に分かっただけであり、距離と方向から、自分が目覚めた場所……臨時救護所が、元々芸姑屋敷の寮があった場所だったのだと悟る。

 名前が分からない者は亡くなった区域ごとに並べられ、身元判明の情報提供を待っている状態らしい。ローズマリーは、フェノンが問えば、友人達が発見された当初の状況を詳しく教えてくれた。

「……………………」

 自分と一緒にいた友は自分を庇ったような状態で発見され、降り掛かった爆撃をすべてその身に受けたために身体の右半分が爛れて炭化していた。

 原型を留めていない『ハウス』で発見されたらしい友人達にも『面会』できたが、彼女達は三人とも、瓦礫の下から見つかったのだとローズマリーは説明してくれた。

 ある程度綺麗な姿を保っていたはいたが、頭だったり胴だったり、絶対に生きてはいられない程の変形を身体に受けた事が、彼女達の致命傷となったようだった。

 フェノンは友人達の名前と年齢、住所をローズマリーに伝え、彼女は届け出用と本人確認用で数枚に分けてメモを取り、その内一枚は本人達の胸元にタグとして置いていく。

 フェノンは皆の頭元に、そっとしゃがみ込んだ。

「……ねぇ、ローズ」

「どうした?」

「皆からも……何か、貰っていい?」

「ああ、勿論」

 フェノンは皆から其々ブレスレット、ピアス、ブローチをもらい、己の小さな手の上で見つめる。枯れたと思った涙を拭った時、ふと、斜め左前に見覚えのあるドレスの裾を見かけた。

 ふらふらと独りでに歩き出したフェノンにローズマリーは驚くが、彼が立ち止まった場所に横たわる女性を見た彼女は思わず、はっと息を呑んだ。

 彼女は銃撃を受けて腹部数カ所の肉を抉られていたが、その顔は生前と変わらず美しい寝顔を浮かべている。無表情で女性を見下ろすフェノンに、ローズマリーが彼を知った経緯を語る。

「……フェノンの事は、彼女が教えてくれたんだ」

「……………………」

「『フェノンという子供が顎を怪我してるから、治してやってくれ』と言っていた。事務館で君を見つけた時、そんな怪我をしていたのは一人だけだったからすぐ分かった」

 ローズマリーが出逢った、セリ・メノウという女性。発見時にはまだ息があり、少しだが会話をする事が出来た。

 フェノンの事を一番に心配し、何処に息子を置いてきたのか、どの様な状態で、その怪我の部位も全て、捲し立てるようにローズマリーに伝えてきた。

 強い女性だ、とローズマリーは感じた。人体にも詳しいらしく、自分が受けた銃弾が致命傷になっている事にも気付いていたようだった。

 彼女はローズマリーの正体に気付くと、後生だと強く願ってきた。自分の代わりに、フェノンに世界を見せてやって欲しい。息子の生きる道標になってやって欲しい、と。

「この人は……フェノンの、お母さんなのか?」

「……うん」

 母の指には、あの日身に付けていたリングが手と共に焼けて煤ぼけていた。その手を取ってフェノンがリングに触れれば、その細い指はするりと滑るように指輪から抜け、力無く百の手に凭れか掛かった。

 そっと、その脈の無い手を母の腹の上に乗せる。フェノンの心は、一つの衝動に駆られていた。

「……ねぇ、ローズ。軍に入るにはどうしたらいい?」

「軍に? 何故?」

「ローズは軍の偉い人っぽいから。オリヴェール族なら、見た目が若くてもずっと年上の人もいるんでしょ?」

「確かに、それはそうだが……」

「セリちゃんは、私が軍に入るのを嫌がってた。『父親の家』に見つかると駄目だから、って」

 それを聞いたローズマリーは、一瞬訝しげに眉を顰める。

 力無く、輝きの無い眼差しで母を見下ろすフェノンは、少し笑っているように感じた。

「……でも、軍はこれから数日の間に過激派の掃討に向かう筈。私も一緒に連れてって欲しいの」

「……フェノン……」

「どうして、こんな事になったのか知りたい。一番は、皆の仇を討てたら良いけど……お願い、ローズ。私ならきっと役に立てる。何なら、こちらに一切の被害も出さずに、敵方の集団を皆殺しにする事もできるよ」

 だから、どうか。

 そう柔らかな口調で頼んでくる少年の口角は微笑むように上がっていたが、その瞳は闇に呑まれ、強烈な殺意を孕んで母達の形見を握り締めている。その小さな手は震え、暴れ出しそうな感情を必死に抑えている様子だった。

 今の状態で兵士となれば、この幼い子供は簡単に壊れてしまうだろう。ローズマリーは少し俯き、その決意を無碍にしないよう言葉と予定を瞬時に組み上げてフェノンに応えた。

「……分かった。私が口添えしてやろう」

「!……ほんと?」

「だが、軍に入るなら、私は君を一般の難民ではなく『部下』として扱うぞ」

 そう見据えてくるローズの視線に、フェノンは思わず固唾を呑んだ。

「フェノンの言った通り、私は『軍の偉い人』だ。言う事は聞いてもらうし、命令は絶対。これが守れるなら連れて行ってやる」

 フェノンは頷く。無表情の中にある強い意志を感じて、ローズマリーも胸が締め付けられる感覚を覚えた。

 ふ、と息を吐き、緊張を解いてローズマリーは微笑む。

「なら、最初の命令だ。今日は傷を癒す目的もあるから、お母さんや友達を『世界樹』の枝へ行けるように祈ってやれ。一人の息子として、母を見送ってあげるんだ」

 その『命令』に、フェノンは不満げに眉根を寄せた。

「……時間が惜しいけど、それは『命令』なんだよね?」

「テロ組織への掃討作戦は二日後に予定しているが、それまでは私にも待機命令が出てるから当日まで動けない。そもそも怪我人に出来る事など何も無い事ぐらい、分かっているだろう?」

「………………」

「焦るな、フェノン。感情で動けば、その銃口は自分に向く……自警団の鉄則を忘れた訳じゃないだろ」

「……『己の都合で殺意を向けるべからず』。一応分かってるつもり」

「ならいい」

 皆の身元確認の書類を出してくる、とローズマリーはその場を離れる。フェノンはローズマリーの命令通りに母の頭元にしゃがみ込むと、その肩に額を軽く乗せた。

 しかし死んだと思っていた心は、母に触れた瞬間、堰を切った様に溢れて止まらなくなる。

「……お母さん……」

 あの時、呼べなかった言葉。もう届かない呼び名を何度も呟き繰り返しながら、フェノンは母に縋り、静かに泣いた。

「ローズマリー、ちょっと良いか?」

「シダー叔父さん」

 あれから数時間後。簡易的な事務所でもあるテントの中で、簡易ベンチで横になって眠るフェノンの側に寄り添っていたローズマリーに、シダーと呼ばれた男性が少し訝し気な顔で声を掛けた。

 ローズマリーと同じ緑色の瞳を持ち、明るい茶色の長い髪を項で結う中年の男性。彼はローズマリーの父方の叔父であり、同じ『チャーチグリム号』に乗る船員だ。

「その子の名前だが、『フェンネル・メノウ』で間違い無いか?」

「ああ。この子の母親にも、本人にも確認は取れてる。家族からは、あだ名というか幼名で呼ばれていたようだが」

「それが……自警団名簿のデータベースに入ってなくてな」

「え? そんな筈は……」

 彼は、一つのファイルをローズマリーの前に差し出した。

「他部署のヤツが見つけた。それも違う名前で」

「……どういう事だ?」

「偽名だよ。同居人の苗字と自分の名前から取った偽名で、性別も偽って登録されてた。フェニ・ラピス。聞いた事あるだろ」

 その名を聞いて、ローズマリーは更に目を丸くした。

「フェニ・ラピスって……まさか、あの《風(マティアス)の申し子》か!?」

 ファイルを受け取ったアシㇼパは、数枚の書類に急いで目を通す。貼り付けられた小さな顔写真を見て、書面の少女が目の前で眠る子供で間違い無いと理解した。

 何より信じられなかったのは、彼が持つその手柄の数だ。

「……検挙数が、百二十三人……だと……!」

「それも、入隊して半年間でその数だ。実質言えば自警団は研修期間が三ヶ月ほどあるらしいから、実戦に出てからを考えると……」

 ローズマリーは思わず言葉を失った。

 『ファーム』は確かに、他の地域と比べて治安が良くない傾向ではある。だが、それでもこの人数を検挙するには、あまりにも数が多いし何より短期間過ぎる。

 フェノンは常にイヤーモニター、トランシーバー、ラジオ型無線で全チャンネルを把握し、一番高い場所から逃げる犯人を尽く狙撃していた。直接狙撃は勿論、車で逃走しようが建物の影に隠れようが、人質を取ろうともフェノンには大した問題では無い。犯人の姿が見えれば、彼にはそれだけで充分だった。

 小銃使いは、自警団どころか軍ですら圧倒的に少ない。そんな中で現れた類稀なる才能に、フェノンは自警団から重宝されていたのだった。

 今回のテロを企てていた輩達も、フェノンは知らず知らずの内に仕留めている。彼のお陰で、今日まで襲撃が遅れていったと考えても過言ではなかった。

「自警団の討伐数は嘘が無い事で有名だ。その歳でこれだけの手柄があるなら、既に軍にすっぱ抜かれていてもおかしくないんだが……女で登録されてたから、見逃されたのかもな」

「……ジャスパー副司令官に、何としてでも欲しい人材が自警団にいると言われていたが……」

 彼女が口に出したジャスパー副司令官は、ローズマリーの直属の上司かつ雇い主である。

「……まさか、副司令は見抜いてたってのか?」

「いや、『フランボワーズ』と同じ給金を手配してもいいから、私の船に乗せてやってくれと言われていたんだ。純粋に軍に引き入れたかったのかも……女性は兵舎学校に入れないからな」

「なら果たして……性別を偽って、しかも偽名で登録していた理由は何だ? この子が自ら望んだのか、もしくは親が強要したか……」

 ローズマリーは、「軍に入りたい」と言っていた少年の言葉を思い出した。

「……この子の母親は、我が子の才能を見抜いてたのかも知れない。だから気付かれないように隠していたとか」

「……隠す? 何から?」

「父親だと思う」

 それを聞いたシダーは、訝しげな顔でローズマリーを見る。

「フェノンは、『父親の家に見つかると駄目だ』と話していた。母親は、きっとこの子の父親から隠したかったんだろう」

「父親ったって……それに、父親の『家』だと? そんな言い回し、普通は貴族に対して使うモンだぞ」

「!」

 情報量の多さも相まって、二人の間に若干の不穏な空気が流れる。その時、眠るフェノンが小さく呻いて寝返りを打ったため、二人は少年が起きたのかと驚いて咄嗟にフェノンを凝視する。しかし、彼は目を開ける事無く、再び落ち着いた寝息を立て始めた。

 初めて出逢った時よりも、ずっと安らかな顔をしていると感じる。なのに、その顔色は未だ悪く、目元の隈も酷い。

 ローズマリーは悔しそうに唇を噛んだ。

「……理由が何だろうと構わない」

「何?」

「フェノンの母親がしたように、私がこの子を隠し通せばいいだけだ。私がこの子を守ろう」

「おいおい、まさか『また』引き取るのか?」

 シダーは呆れた様に片眉を上げる。彼がそう思うのも無理は無く、ローズマリーは孤児院を既に二箇所も所有しており、すでに施設はどちらも三十五人の定員を満たしてしまっている。

 肩を竦めるシダーに、ローズマリーは「失礼な」と頬を膨らませた。

「ちょっと叔父さん、私を節操無しみたいに言わないでくれ」

「そこまでは言わないがよ……お前の児童施設は軍の支援金で賄われているだろ? 個人情報も全て共有しているのに、軍から隠し通すなんて不可能だぞ」

「だから、私が直接引き取るんだ。この子を船に乗せる」

 堂々と胸を張ったローズマリーに、シダーは訝し気にジトッと目を細める。

「……嘘だぁ」

「いやいや、こう見えてちゃんと考えてるんだぞ? 十五までは船で共に暮らして、成人した後は新たな人生のを踏み出していけば良い。それまで私が保護者でいれば、未成年の内は引き抜きにも合わないだろうし」

「……それでも、もし『隠してた相手』に見つかったら?」

「絶対見つからないさ!」

「いやいや、お前な」

 シダーは楽観的なローズマリーに思わず溜め息を吐いた。

 しかし、ローズマリーの決意は固い。

「実際、有事の際でもフェノンの力なら自分で戦えるだろう。でも、もしこの子に害を成す存在が現れるなら、私は如何なる権力を駆使してでも排除してやる。それが、どんな相手だろうとな」

「……ほぉ、言うじゃないか」

 感心して笑んだ彼に、ローズマリーも誇らしげに胸を張った。

「保護者として当然の事だ。という訳で、早速叔父さんに手続きを頼みたいんだが」

「手続き?」

「完全な養子では、フェノンの苗字が『アイオライト』に変わってしまう。だから里子か後見人登録にして、それから……」

「待て待て、まず戸籍調べないと何もできんだろ。偽名で通してんなら、出生届けが出てるかも分かんねぇのに」

「フェノンは明後日の掃討作戦に同行させる」

「はぁ? 怪我人なのにか?」

「私と同行させるから危険は無いさ。だがフェニ・ラピスの名前だけは、私とは違う部署所属にして『戦死』させたい」

「……何?」

「今回を『彼女』の『最期の戦い』にすれば、執拗な捜索や訪問で、自警団に迷惑を掛ける事もないだろう。一応、今の内から死亡届とタグを作って貰えれば……」

「待て待て待て。ドバッと言うな、訳分からんくなってきた」

 捲し立てるように希望を述べていくローズマリーに、シダーは遂に頭を抱えてしまう。

「もう少し細かく分けて、詳しく、かつ段階的に指示してくれ。一遍に頼まれたら担当を泣かせる事になるぞ」

「頑張れ!」

「俺に応援するな!」

 鬼畜か!

 そう怒ったシダーに、ローズマリーは何処か楽しそうに笑い返していた。

 実は、寝返りを打った時点でフェノンは起きていた。知り合ってばかりの大人達ではあるが、二人の明るい声を背中に受け、フェノンは母や家族達を思い浮かべて頬を濡らしていた。

 二日後。掃討作戦において、軍配給の防塵シャツとローズマリーのカーゴパンツを借りて装備を整えたフェノンは、常に彼女の後に付いて捕虜の監視や負傷兵の救護、自軍への物資配達などを受け持った。

 フェノンは自分も戦闘に加わるものだと考えていたため少し肩透かしを食らった気分だったが、そんな事さえもすぐに忘れるほど、彼女の補佐任務は多忙を極めるものだった。

 この日は臨時の救護所での任務で、手術や処置を終えた患者にローズマリーの作った薬を渡し、彼女に教わった通りに患者の包帯を替えて回り、意識確認のために声をかけながら一人一人のバイタルと状態を記録簿に取っていく。異変を見つけたら直ぐに看護師を呼び、時に心臓マッサージを手伝う事もあれば、頼まれた物を頼まれた場所へ運び、一息つけたと思っても、次の瞬間には新たな患者が大勢運び込まれてくる。

 まさに、野戦病院。フェノンは目が回りそうだった。

 夜明け前から働いて、やっと休憩を取れたのは午後三時を過ぎた頃。本日初めての食事である鮭握りを手頃な瓦礫に腰掛けたフェノンが頬張っていると、同じく区切りが付いたらしいローズマリーが彼の隣に座る。

 彼女は装備を下ろす間も無かったのか、肩に掛けたままだったクロスボウと矢筒を背後の大きな瓦礫に立て掛ける。

「はーっ、疲れた疲れた」

「……………………」

「どうだフェノン、ここは大変だろう」

 握り飯を飲み込んでも、フェノンは何も言わずに頷くだけだった。

「……どうした? 気分が悪いのか?」

 今度は首を横に振ったフェノンだったが、「考えてた」と小さく呟いた声をアシㇼパは聞いた。

「何か、思う節があったか?」

「……向こうも、同じなのかな……って、思って」

 フェノンの視線をローズマリーが辿れば、そこには地面に敷いたシートの上に、大勢の怪我人達が呻きながら並べられている。優先度で分けられた患者達の隅では、別のシートの上に、白い布を被せられて姿を隠している患者達が横たわっていた。

 敵のアジトとなっていた廃村はほぼ壊滅し、見渡せば至る所から煙が上がるばかりで、戦闘の音も殆ど聞こえてはこない。

「……あっけない、か?」

 苦笑するローズマリーに、フェノンは再び頷いた。

「ちょっと……虚しな、って」

「……そうか。そうだな」

 ローズマリーもまた、フェノンと同じ眼差しを辺りに向ける。

「戦争や殺し合いは虚しい。何故なら、最後に残るものが『虚無』ただ一つだからだ」

「『虚無』……?」

「そう。祖国も、隣人も、命も、夢も……正義のためだ、復讐のためだと志高く決起しても、終わってしまえば何も残らない。争いなんて、本当に虚しいだけの行為なんだ」

「……うん」

「それに気付いたフェノンは、とても賢いぞ」

「……どうも」

 茶を配り歩いていた看護師の一人が、二人にもプラスチックカップを手渡す。茶を貰った二人は小さく乾杯すると、束の間の休息を味わっていた。

 その時、女性の叫び声が救護所の敷地に響く。怪我をした一人の捕虜が看護師を人質に取ったらしく、騒ぎ立てる怒号と数人の悲鳴が同時に聞こえてきた。

「……何?」

 少し驚いた様子のフェノンが、しかし冷静に騒ぎの方へと目を向ける。すると、ローズマリーは心底呆れたような溜め息を吐きながらクロスボウを掴んだ。

 その捕虜は、看護師の喉に医療用メスを突き付けたまま元気よく叫んでいる。

「よく聞け、軍の犬共!! 我々は腐敗し尽くした軍を覆す、新たな力である! 今の不平な世の中を作り出し、怠惰と色欲にまみれたこの世界を一掃するのが我々の使命なのだ! 貴様等の脅しにも、甘い言葉にも、不平等な提案にも我々は屈しない! たとえ首だけになろうと、正しい世の中に作り変え……っ?」

 そこまで言って、男は僅かに呻いてメスを落とした。その腕には矢羽の着いた竹の棒が刺さっており、矢を抜いた二秒後にはバッタリと倒れて動かなくなる。

 フェノンの隣では、二本目の矢をセットして構えていたローズマリーが静かにクロスボウを降ろした。

「病人怪我人の中で騒ぐなんて、はた迷惑な奴がいたもんだ」

 ふん、と息巻いた彼女はクロスボウからセットした矢を外し、再びフェノンの隣に腰を下ろす。向こうでは人質となっていた看護師が保護され、捕虜の確保と処置が同時かつ急速に行われている。

 捕虜が暴れた際のマニュアルもしっかりと決められているのか、たった数分で救護所は先程と同じ落ち着いた空気を取り戻した。

「……殺したの?」

 フェノンの質問に、ローズマリーは「まさか」と微笑む。

「即効性のある超強力な鎮静剤だ。三分もすれば目が覚めるだろう」

「何か叫んでたみたいだけど……まさか本当にあんな理由で、あいつ等は『ファーム』を攻撃したの?」

「……あれはまだマシな部類だ」

 ローズマリーは神妙な面持ちで目を細め、騒ぎが起きていた方向を見た。

「戦争を起こす理由なんて、多種多様で思惑だらけだからな……人間は、学ばない生き物だから」

「……じゃあ、誰が悪いの?」

「さぁな……誰も悪くないだろうし、誰もが罪を背負っている。逆を言えば、全員が『自分は正しい』と思い切ってしまっているから、人は他人とぶつかり合い、諍いになる。それが戦争だ」

「……難しいね」

 フェノンは、溜め息を一つ吐いて茶を啜った。

「和平の道は、革命を起こすよりずっと遠回りで時間も掛かる。でも、誰も傷付かずに解決していくには、話し合い、理解し合わねばならない。そのためには、もどかしくても時間を掛けるしかないんだ」

「……ローズはすごいね」

「ふふん! 私はフェノンより、ずっとお姉さんだからな!」

 突然ふんぞり返るローズマリーに、フェノンは小さくも、やっと吹き出して笑う。初めて見る幼い笑顔に、ローズマリーも嬉しそうに二カッと笑って彼に返した。

 『ファーム』襲撃テロ事件から、四年と三ヶ月の歳月が流れた。

「ほらほら、フェノンちゃーん、あと十回だよー。ラスト頑張れー」

「ぐううぅぅ……!」

 額から顎へ汗を滴らせ、上半身裸で背にコンクリートブロックを乗せる彼は、震える腕で背中の重みを賢明に押し上げる。

 兵舎学校の入学テストで行う体力審査のため、十五歳なったフェンネルはローズマリーや仲間達と共に鍛錬に励んでいた。

 ローズマリーに「軍に入りたい」と言っていた彼だが、その目的は当初よりももっと未来を見据えたものに変わっていた。

 いつか、母や養母の様に強くて賢い人になり、大切な仲間や、罪の無い子供達を守れる人間になりたい。その決意を聞いたローズマリーも涙ながらに賛同し、彼の軍入隊を許可した。

 ローズマリーの船に乗せてもらってから数年の間、彼は船の仕事も覚えながら基礎勉学や雑用、軍部規則や家事に至るまで、船員や仲間達にみっちりと教え込まれた。銃器の扱い、ナイフ等の戦闘技術は誰よりも早く習得したが、如何せん持久力だけは、一般の兵士並みには届かなかった。

 試験まで、残り一ヶ月。知識は可能な限り詰め込んだ。後は、体力向上に力を入れるのみだ。

 生まれ付き細身で筋肉も付き辛い体質だったフェンネルだが、皆の力添えもあり、今は何とか腕立て伏せも連続で百五十回を超える程には力が付いてきた頃だ。

「おーい休憩するぞー。アニス、フェノン、手を洗ってこい」

 アシㇼパが声をかければ、アニスと呼ばれた褐色肌の愛らしい顔をした少年が「はーい」と返事をする。

 ヴァルテッリ族特有の金髪をハーフアップに結い、シャツの腹元で汗を拭う。彼もまた『ファーム』テロ事件を生き抜いた一人であり、現在はジャスパー副司令官の後見で専属に学び働きながら、フェンネルと共に兵舎学校の試験を目指していた。

 課せられたノルマを終了させたフェンネルも、身体を横に倒してブロックを背から落とした。

 古い友人が貸してくれた訓練場の隅で、お茶やお菓子の準備をしていたローズマリーだったが、ふと、背後から名を呼ばれて後ろを振り返る。

「よぉ、ローズマリー」

「シダー叔父さん。お疲れ様」

「おう、お疲れ。『新人』は今日も居ないのか?」

 辺りをわざとらしく見渡すシダーに、ローズマリーは首を傾げながら「ユズ君の事か?」と問い返す。

「船に乗ってもう四年経つし、そろそろ新人じゃないんだが……ユズ君は今日、船舶操縦資格の定期講習で『中心街』に出てるぞ」

「そうかそうか。また会えなかったなぁ」

「まーたそんな事言ってぇ。実は、叔父さんがわざと予定を重ねて来てるんじゃないのかぁ?」

「ははは、まさか」

 シダーは笑いながらも、手提げバッグの中から一枚の紙を取り出した。

「それより、ちょっと重大な知らせがあるんだ」

「知らせ?」

「ああ。これを見てくれ」

 ローズマリーは彼に手渡されたその紙にざっと目を通す。しかし、そこに記された内容に思わずシダーを見返して驚愕に目を見開いた。

「叔父さん、これは……!」

「決めるのはフェンネルだ。本人に確認してみればいい」

「……だが、これだと『仮説』が……」

「ああ……まず『間違い無い』だろうな」

 二人は、黒髪の少年に目を向ける。金髪の少年が何かしでかたのか、結構に本気の鬼ごっこをしている彼等を見て、ローズマリーは小さく息を吐いた。すぐにフェンネルがアニスの腰にタックルを決めて捕まえ、三角絞めを決めた所で、ローズマリーは思い切ってフェンネルに声をかけた。

「……フェノン、ちょっといいか」

「何?」

「ちょっと待て。アニスは、また何をしたんだ?」

「顔面にくしゃみしやがった」

「おぉ……それは汚いな」

 アニスを絞め落として立ち上がったフェンネルは、後ろ腰に入れ込んでいたタオルで顔を拭う。

「で?」

 問い返した少年に、彼女は神妙な面持ちで話し始めた。

「……イリスアゲート閣下から内密の連絡があった」

「!」

「お前を……養子として、引き取りたいんだそうだ」

 フェンネルの顔色が変わる。ローズマリーは唇を噛み締めた。

「……閣下は認めたらしい。自分こそが、フェノンの実父だと」

「……あの野郎」

「これで確定してしまった。閣下は『ファーム』テロに関わっている」

 シダーとローズマリーは、顔の広さと権力を駆使して様々な方面からテロの関係者を捜索し続けていた。組織の首領で一番の首謀者は四年前の掃討作戦で逮捕、処刑されたが、その金の出処だけは未だ掴めないでいた。

 組織の規模や武器買収のルートなど、軍が徹底管理をするこの国で個人が自力で武力を付けるなど不可能である。となれば、それを手助けする軍幹部か貴族が携わっていると見るのが自然だろう。

 イリスアゲート閣下の名はすぐに上がり、証拠も四年間の間にある程度集める事が出来たが、決定打となるものが分からないままだった。つまり、テロに資金を提供した『根拠』、リスクしか無い『革命まがい』に手を貸し、彼が得をする『理由』が見つからなかったのだ。

 しかし、それが今、判明してしまった。

「……閣下は、そこまでしてフェノンを……」

「……僕は、奴の種で唯一の男だ。たとえ『混ざり物』だったとしても、なりふり構っていられなくなったんだろうな」

「だが何故『養子』なんだ? 普通、実父だと認知したならば『我が子として』と言う筈だろうに」

「ソイツのどこが『普通』なんだよ」

 タオルを首に掛けたフェンネルが言った。

「どうせ『混ざり物』をイリスアゲート家に入れるのに抵抗あるだけだろ」

「……確かに『普通』ではないな」

「僕を探し出すために組織に金出して裏に手を回したってのに、組織は関係無く攻撃を繰り出してた。僕があの時『ファーム』で死んでいれば、もしかしたら一泡吹かせられたのかな?」

「んもー、またそういう事言う」

 嘲笑うように謝罪を返すフェンネルに、ローズマリーは呆れた溜め息を吐きながら再度書類に視線を落とす。

 イリスアゲート閣下。次期長老候補とも言われるその男は、大貴族でありながら軍の二将でもある超大物だ。

 作戦での采配は見事な腕といえど、一人の男としてどうかと問われれば良い印象はあまり無い。フェンネルの母が彼を『イリスアゲート』から隠すために女性として育てていたのだとしたら、正直、その理由も納得ができる人物と言えよう。

 男尊女卑を貫く家の血筋に囚われ、女性に対し、子供を生む生き物としか考えていない時代遅れの化石。純血一族である事を重んじていた筈だが、フェンネルを狙った理由としては、恐らく純血の女児よりも混血の男児を選んだという事か。

 徹底しているようで、常に見下す相手を探しているような……今回の事実で、ローズマリーはフェンネルの生物学上の父親が心底嫌いになった。

「……で、フェノンはどうする?」

「何が」

「養子の話だ。行くか?」

「……邪魔なら、出ていくけど」

「イリスアゲートの家に入り込むなら今だぞ」

「………………」

 しかし、フェンネルは無表情のままだった。

「……興味無い」

「と、言うと?」

「以上でも以下でもないって事だよ。本気で興味無い。寧ろ、これ以上関わりたくない」

 その言葉を聞いて、ローズマリーは胸を撫で下ろしたようにその目を細める。

「……そうか。それを聞いて安心した」

「何が?」

「寝首を掻いてでも、恨みを晴らす……少し前までは、そんな事を言い出しそうだったからな」

 得意気に微笑むローズマリーに、フェンネルは呆気に取られた。

「……もし僕が『養子に行く』って言ってたら、どうするつもりだったの」

「勿論、全力で止める予定だったぞ。泣き縋ってでも説得するつもりだった」

「えぇ……?」

 彼は眉を顰めて訝しんでいる。既に、随分と身長を抜かれたローズマリーは嬉しそうに笑顔を見せた。

「だって、フェノンは私の家族だぞ。お前がいないと、ただでさえ長い人生がつまらなくなるからな」

「……何それ」

「さぁ、おやつだ! お茶が冷める前に、皆で食べよう!」

 照れる息子の腕を無理やり引いて、ローズマリーは先に茶を飲んでいたシダーに書類を返した。

「お、決まったのか?」

「却下!」

「了解。良かったなぁ、ローズマリー」

「うん!」

「フェンネルも、復讐より『今』を取ったんだな。前を向いて歩けてる証拠だ」

「……本当に興味無いだけだし」

「興味が失せるのは、他に大事なものが増えたからだろ?」

 ニヤニヤと論破してくるシダーに、フェンネルは露骨に嫌な顔を見せるが。

「ローズマリー、フェンネルが反抗期だぞ」

「何っ? 今夜は赤飯か!?」

「……もう、勝手にしてよ……」

 それでも、フェンネルは二人から距離を置いたりせず、呆れながらも微笑みを浮かべて席に付いた。

 自分の笑った顔が見たいと言ってくれた『家族達』を守る事。それこそが、フェンネルが復讐を捨てた理由だった。

「おい、アニスは?」

「忘れてた。落としたままだ」

「おいおい、ジャスパー副司令官に無理言って借りてきてんだぞ」

「どうせ放っといたら起きるだろ。おやつが優先だ」

 しかし、ガバっと身を起こしたアニスがプリプリ怒ったのは言うまでも無い。

「いやいや、起こしてよ!」

「嫌だ」

「お前が悪い」

「勝手に来い」

「ひどぉい!」

 その一ヶ月後、フェンネルはメノウの名で兵舎学校に入学した。イリスアゲートの根回しか、『ファーム』の生き残りが他にもいるのか……相当な紆余曲折もあったが、それでも、フェンネルは耐え抜き、乗り越えてきた。

 一番つらい時に寄り添ってくれた『弟』、頼れる『兄』、優しい『母』……時には反発し、時には涙し縋る事もあったが、それでも彼等が自分を愛し温かく見守ってくれていると確信できていたからこそ、己は本当に恵まれていると心から思う事が出来た。

 復讐などに身を焼かずとも、亡き母や姉達のため、今の『家族』のため、己の存在を祝福してくれる者達の為に幸せである事が、敵に対しての一番の復讐であると、今の暮らしの中でフェンネルは知っていった。

 しかしその数年後に、彼の憎んだ『イリスアゲート家』は思わぬ形で終息を迎える事となる。

 それは『弟』が兵舎学校を卒業し、自身が十九になった年だった。

「フェンネル、イリスアゲート二将が危篤らしい」

 雨の日の夜。

 編み物の手を留めたフェンネルの横で、ローズマリーの言葉にいち早く反応したのはリンデンだった。

「誰?」

 フェンネルは編み棒を毛糸玉の入った籠に戻し、眼鏡を外した。

「……生物学上の父親だ」

「チチオヤ」

「別に今は知らなくても良い。で? それを俺に伝えて何になるんだ」

 不愉快そうにローズマリーを睨み返すフェンネルに、彼女は一通の手紙をフェンネルに差し出す。

「……次期当主が、お前に逢いたいと言ってきてるぞ」

「目的は?」

「遺産相続の放棄を頼みたいそうだ」

 手紙を受け取り、内容に目を通した。一緒に手元を覗き込むリンデンは、内容を見て「何?」と首を傾げている。

「……だったら書類だけ寄越せっつーんだよ。なんで俺がわざわざ『あの家』に顔出さなきゃなんねぇんだ、面倒臭ぇ」

「……すごい回りくどい書き方してるよな。はっきり言えばいいのに」

「あ? どういう事だ」

 手紙を見つめていたリンデンの言葉に、フェンネルは訝しげに片眉を上げる。

 ローズマリーが不思議そうにリンデンに問う。

「リン、何か判るか?」

「この人、フェンネルに『逢いたい』ってさ」

「くだらねぇ。読んだままじゃねぇか」

「でも本当にそれだけだ。何か企んでるとか、騙そうとか、そういう悪い事は一切考えてない。本当に、ただフェンネルに『逢いたい』だけだね」

「……はぁ?」

 リンデンはフェンネルの持つ手紙を嗅ぐ。

「この感じ……何処だっけ、あの、アレと同じかも」

「何だよ」

「ほら、フェンネルも知ってるよ。前の任務で指図書と一緒に、マリーさんが見せてくれた資料」

 ローズマリーとフェンネルが顔を見合わせる。

 あの指図書には、『モルス』の襲撃で犠牲となった隊士が書き遺した、家族への手紙も資料として添付されていた。

「……遺書、か」

「………………」

「最後に一回だけ逢えたら、ってやつかも知れない。俺、そういうの苦手なんだよな……寂しくなっちゃう」

 リンデンは未だに手紙を嗅ぎ、悲しげに眉を下げ見つめている。しかし、じっとフェンネルを見てくるローズマリーの表情から、嫌な予感がした彼は眉間にきつい皺を寄せながら首を横に振った。

「……俺は行かんぞ」

「ほーぉ? そんな事言っちゃうのかぁ?」

「え? 何?」

「確か次期当主は十五歳と聞く。そんなに若い『少女』がこの手紙をどんな思いで書いたのか分かった今、私達が動かないで誰が彼女を助けるんだ」

 つまり、フェンネルとは血縁上の『異母妹』となる相手だ。しかし、尚もフェンネルの反応は渋い。

「知るか、俺は関係無ぇ」

「まぁ関係無いだろうな。お前は私の『息子』で、向こうは殆ど名前を知ってるだけの赤の他人だし」

「………………」

「だから、私はお前を『工作員』としてこの場に『潜入』させる。フェノンは、諜報活動が得意だもんなぁ?」

「なっ……!」

 フェンネルは目を見開いて驚く。その横で、リンデンは顔を上げて「もしかして『お仕事』?」と楽しそうに笑顔を見せる。

「マリーさん、それって俺も参加できるヤツ?」

「勿論だ。リンにも手伝ってもらうからな」

「分かった!」

「おい……!」

「てな訳だから、この招待は受けるぞ。覚悟を決めろよフェノン」

「ちょっ……諜報活動はユズさんの専売特許だろうが!」

「ユズ君は背が高くて目立つから潜入には向かないんだなぁーこれが。自分の仕事を他人(ひと)に押し付けちゃ駄目だぞー」

 露骨に嫌な顔を見せる我が子の事など一切気にせず、寧ろ少しニヤつきながらローズマリーは「準備よろしく」と言い残して鼻歌交じりに手紙を持っていってしまった。

「……クソババアが……!」

 つい心の声が漏れるが、直後に「フェンネル」と名を呼びながらリンデンが袖を引いてくる。

「俺も一緒に行くから、そんなに怖がらなくていいよ?」

「誰が怖がるか阿呆」

「でも、すごく不安なんでしょ」

 分かるよ。

 そう言われて、フェンネルはぐっと言葉を詰まらせる。

「初めて会うから? 場所が怖いとか?」

「……そういうんじゃねぇよ。俺にとって相手は仇敵、俺達に害があるようなら殺さなきゃならん」

「……殺さないといけなくなるのが、嫌?」

「………………」

 図星。フェンネルはリンデンから視線を逸らした。

 相手に逢わなければ、相手を知らなければ、放置と無視で『関係無い』とやり過ごせる。もし、己に会いたいと言う次代が、父親に……『親の仇』に洗脳されていたらと考えると、やり切れない気持ちで一杯になった。

 洗脳され、アレの意思を継いでこちらに牙を剥いても……結局は己と同じ『被害者』でしかない。

 黙り込むフェンネルに、リンデンも口を閉ざす。それ以上は追及せず、ただ、大好きな『兄』にそっと寄り添っていた。

 そして、三日後。

 約束の日に、フェンネルはローズマリーに連れられてイリスアゲート邸を訪れていた。彼は直前までゴネていたがローズマリーは耳を貸さず、結局、フェンネルも仕事と割り切って此処へ来る他無かった。

 今まさに、中庭のテラスで初めて顔を合わせた異母妹と二人だけ。慣れぬ正装に身を包み、相手が纏う美しい風の様なドレスを見れば、その育ちの良さが見て取れる。己の場違いさに、フェンネルは視線を上げられなかった。

 席に着けど、最初に何を言えば良いのか、何から聞けば良いのか、中々口を開けない。しかし、永遠にも感じた数分の沈黙を破ったのは、意外にも彼女の方だった。

「……お兄様」

 視線も合わせず、フェンネルはただ眉間に皺を寄せた。

「……初めまして、お兄様」

「……『お兄様』は止してください。その様な間柄でもないでしょう」

 フェンネルの拒絶に、分かっていたのか少女も「そうですね」と肯定した。

「……私は、バジル・ゴールディ・イリスアゲートと申します」

 明らかな男性名。フェンネルは僅かに目を細める。

「存じ上げております。……随分と勇ましいお名前をお持ちのようで」

「……私の誕生を以て『打ち止め』と決めていたらしい父が、自身の願いも込めて名付けたそうです」

「願い?」

「どうか男であれ、と……結局、期待を裏切る形に生まれてしまいましたが」

 自嘲のような微笑を浮かべる少女の瞳に、輝きは無い。彼女と同じ目をしたフェンネルは、同じく嘲笑に口を歪めた。

「……お言葉ですが、父君の『我儘』に一々応えていたら気が狂いますよ。貴女が馬鹿を見るだけだ」

「……そうかも知れませんね」

「そもそも、貴女が後継となったのも父君の計画でしょう? お姉様方は皆、政略結婚で他所へ嫁がされたのに」

「……父は、お兄様にイリスアゲートを継いで欲しかったみたいですが」

 その返答をフェンネルは鼻で嘲う。

「……自分は『イリスアゲート』ではないので」

「ええ、故にお兄様は全てを放棄なさった。その後、周囲の推薦もあって私が後継となる事が決まりました」

「……成程」

「元々、父は私の出生をお決めになった際に『次に生まれる子に全てを譲る』と公言していた事もありますので、一族には反対者もおりませんでした。五つの時から、私は『次期当主』の運命を背負っています」

「……流石というべきか、最初から男が出来る前提で公言されているのが、何とも父君らしい」

「……そうですね」

「ですが、自分は貴女が女性に生まれてきて良かったと思いますよ。その時の父君の顔を見てみたかったものです」

 瞬間、少女の瞳が揺らいだ。フェンネルはそれを見逃さなかったが、互いの嫌味の言い合いに、負けじと彼女が一石を投じる。

「……私が男に生まれていれば、『ファーム』襲撃などという悲劇は起きなかったでしょうね」

「!」

 知っている、と言いたいのか。

 彼女の一言で、フェンネルは何も言えなくなる。それを言わせてしまったのは間違いなく自分ではあるのだが、まさか、目の前の幼気な少女が軍部の……自身の親が起こしたとも言える事件を口に出してくるとは思わなかった。

 彼女は何処まで知っているのか。自身の父親が虐殺に手を貸した事か、更にその『目的』や、援助の金額、金銭の出処、関わった人間、そのルート、口封じを行ったのか否か……。

 果たして、どこまで。

「……………………」

 しかし、追求すれば、裏金とテロ援助の証拠を絞り出せば、彼女はどうなるのだろうかとフェンネルは迷う。己と同じ『イリスアゲート』の被害者である、この娘の未来は、一体。

 突然黙ってしまった異母兄に、少女は打って変わって柔らかい眼差しでこちらを見つめ、苦笑交じりに謝罪した。

「……ごめんなさい。意地悪なお兄様に、意地悪を仕返してしまいました」

 その笑顔は、年相応の少女そのものだった。

「……ははっ」

 フェンネルは、思わず乾いた笑みを溢す。

「これは、してやられましたね。貴女が家督を継げば、イリスアゲートは未来永劫に安泰だ」

 本心だった。彼女が変えてくれるなら……そんな想いもあったかも知れない。

 しかし、彼女が語り出したのは、フェンネルが聞き出そうとしていた事だった。

「……私が知っているのは、父があの事件に手を貸した事実とその目的、他に誰が関わっているか、そして、その人達がどうなったのか……残念ながら、その程度です」

「!」

「金銭に関わる事は、全て地下の金庫に封印されていますので……アレを開けて下さるなら、場所を案内致します。このイリスアゲートを糾弾する手助けになれば良いのですが」

 フェンネルは静かに驚く。初めて彼女の顔に視線を向ければ、そこには美しく飾り立てられた、自分と本当によく似た顔をした少女が凛と腰掛けていた。

 しかしそれでも、目を伏せる彼女と目が合う事はない。

「……ご自身が、何を仰っておられるのかお分かりか? 貴女は暗に、己の家が潰れる事を願っておられる」

 フェンネルが率直に問えば、少女は目を伏せたまま微笑み、小さく頷いた。

「私は、この血筋を絶やす気でいるので」

「……何故?」

「先代から受け継ぐ業を、濯ぎたいからです」

 大きく息を吸い、顔を上げる。初めて見た彼女の眼差しは、強い決意に満ちていた。

「実は、私はもうすぐ心も身体も『バジル』になります。父の遺言に従って男に生まれ変わり、父の嫡男として、イリスアゲートを生きていきます」

「………………」

「……本当は、一族の反対を受けなかったというのは嘘です。父も、私が女である事をずっと気にしておられた。……嫌悪していた、と言っても良いかもしれません」

「……でしょうね」

「私が十歳の時、一族の者が父に提案しました。私が十五になったら男となるか、お兄様との間に男児を設けるか……そのどちらかで、私の家督継承を認める、と」

「………………」

 この家は、どこまでもイカれてやがる。フェンネルは心の中で強く悪態づいた。

 兵舎学校へ入る前に、この家から受けた養子の話。ローズマリーが訝しんでいた事実を、意外な場面で知る事になってしまうとは思いもしなかった。

 今、この会話を隠しマイク越しに聞いている『母』はどう思っているだろうか。怒って飛び出してこなければいいが、と、何処か場違いな考えが過ぎった。

 そう思うのは、自分の悩みが如何に小さく些細だという事。改めて、フェンネルは今の自分が恵まれているのだと感じた。

「……私だって、元々は父と母が冷凍保存していた受精卵から生まれた命です。母の死後、父の決定で名も知らぬ代理母が出産しました」

「………………」

「望まれた性別でもなければ、マティアス族特有の風を読む能力が強い訳でもない……普通の人間ですらない歪な存在の私が、何の因果か名高い名家の全てを引き継ぐ事になったんです。男に性を変え、男として家を継げば……少しは、父も認めてくださる事でしょう」

「……まさか、本気でそうお考えになっていると? これから死に腐るだけの相手に、あまりにも無駄な承認欲求ではありませんか」

「分かっています。分かっていても、それが私の最後の子供心ですから」

「……そうですか」

 彼女の声音に、迷いは無いように感じる。

 もう、引き止める事は叶わないのか……そう感じると、少しずつ、フェンネルの心も冷め始める。

「……親に認められたい子供心だと言うその口で、貴女は尚も我々に家を潰せと仰るのか。愛憎入り混じる感情を抱えているのは大変でしょうに」

「……私はずっと従順に生きてきました。たった一人の親である父に認められたいというのが子供心なれば、イリスアゲートの血筋の断絶は最初で最後の我儘なんです。親のためにこの身体を捨てるのだから……一度くらい、親に反抗してみても許されると思いませんか?」

「……それを、自分に語る意味は何処にあるのでしょう?」

「お兄様はイリスアゲートの血族で唯一、私達を大変憎み恨んでいらっしゃる。私の計画がお兄様の心を少しでも満足させられるか、是非お気持ちをお伺いしたいのです」

「……計画?」

 フェンネルが問えば、その少女は何処か楽しげに話し始めた。

「これは私の復讐であり、お兄様を始め、この家の犠牲になった方達への懺悔と鎮魂を祈る儀式となるでしょう」

 少女が語った『儀式』。それは、果ての見えない苦しみの中で、苛烈な時間をひたすらに費やすだけのものだった。

 己が男となり家督を継いでしまえば、待っているのは自身の独り天下だ。父が死した後は自身が絶対権力を持つため、それを利用するのだと少女は笑った。

 父の死後すぐ、凍結された母や兄弟達の精子卵子を全て廃棄し、出来るならローズマリーとフェンネルの力を借りて、父が手を出した『ファーム』テロへの資金援助の告発、その被害を訴えてもらい、財産の殆どを没収させ破産させる腹積もりらしい。

 もし『チャーチグリム』がそれを拒否しても、自身が少しずつ財産を削りながら、汚名の中で何年も何年も家長の椅子に座り続け、独り身のまま独りきりで死んでいく。

 姉達は皆嫁いで家を離れ、戻ってこようにも一族は認めないだろう。養子も問題外、頼みの綱であろう異母兄はこの家を大層憎み、潰さんと画策してくるやも知れない。

 数十年は掛かるだろうが、それらが実行できれば、さも自然な流れで汚名に塗れた悪しきイリスアゲートは勝手に廃れ潰れていく。誰も不幸にならない素晴らしい計画だろう、と少女は嬉しそうに微笑んでみせた。

「あの傲慢な満足顔を、地獄の底で絶望と落胆に強く歪ませてやりたい。それが私の最終目標です」

「……は、はははっ」

 なんと、筆舌に尽くし難き強かさ。フェンネルは目眩を覚えて額を押さえるも、堪えきれない笑い声を漏らした。

「これは見上げた行動力だ。なんと素晴らしい」

「如何でしょうか、お兄様? これでイリスアゲートの血筋は完全に途絶えます。お兄様の憂いも悲しみも、少しは報われると良いのですが」

「奴も地獄に落ちた後で、さぞ悔しがるでしょうね。その顔を今すぐに見られないのが本当に残念です」

「私が死した暁には、父の顔に指を差して笑ってやろうと思っています。ご期待下さい」

「ええ、ええ。楽しみにしております」

 異母兄の言葉に、少女は満足そうに笑む。フェンネルは顔を上げ、笑いを堪えて痛む片腹を軽く撫でた。

「はー、楽しませて頂きました。貴女はとても面白い方だ」

「何よりのお言葉です。お兄様はお優しい方ですね……勇気を出して、申し上げた甲斐がありました」

「では、楽しませて頂いたお礼と言っては何ですが……この兄から、餞別として計画への助言をさせて頂いても宜しいですか?」

「助言、ですか?」

「ええ。計画は確実に成功させるため、常に完璧を求めなければいけません。是非とも、ご参考までに」

「は……はい! どうか仰って下さい、お兄様!」

 初めて、誰かに手を貸してもらえる。そんな反応で目を輝かせる異母妹に、フェンネルは目を細めて微笑んだ。

「……バジル殿。性転換の手術など受けずに、世界樹の河を超えて遥か遠くへお逃げなさい。こんな腐れ貴族の家督など継がず、今の名を捨て、新たな地で自由に貴女の人生を生きて下さい」

「……え」

「もし出奔の際の衣食住や金銭を心配されるなら、我々が全面的に協力しましょう。幸い、自分の里親はこの屋敷の敷地より顔が広いので、身分証明の偽造や就職等の紹介等も提供できます」

「あ……ま、待ってください」

 少女は目を丸くして、少し戸惑っているようだ。フェンネルはイヤーモニターを三度、間隔を開けてもう一度爪で叩く。すると、すぐに耳のスピーカーは返事を返してきた。

「先程は『助言』だと仰ってたのに……」

 トトト、トト。船長の『了解』と『許可』を手に入れた彼は、真っ直ぐに少女の目を見据えた。

「……やはり、嘘は良くありませんな。正直に言いましょう」

「う、嘘?」

「これは『誑かし』です、バジル殿。今、貴女に囁いているのは、異母兄の面を利用した悪魔です」

「え、な……何故、どうしてこんな事を……」

 その時、戸惑う少女が見たのは、悪魔の微笑みなどではない。

 それは間違い無く、救世主の眼差しだった。

「ご存知だとは思いますが、自分は心から貴女の家を憎んでいます。それも、貴女が思う何倍も強く、です。今だって、奴が死ぬ前に自らの手であの頭を撃ち抜き、腐り切った中身を地面にぶちまかしてやりたいと思っています。あの男に群がる臭い蛆共にも、奴が如何に汚く醜いのかを見せつけてやりたい」

「……あ…………」

「俺は、貴女のように優しくありません。一刻も早く、イリスアゲートの家が消え失せる事を願う悪人なんです。貴女の計画も悪くは無い……ですが、貴女が我々を利用しようとした様に、自分も貴女を利用しようと考えるのが自然でしょう?」

 ここに好機が転がっているのに、それを見逃すなど馬鹿がする事です。

 そう微笑む異母兄に、少女は愕然と目を見開き、手で口を覆った。

 フェンネルの提示した案は、今まさにこの時しか成功し得ないものだった。当代が危篤の今、大切な後継が姿を消したとあれば、彼女の家を取り巻く『一族』は組織の均衡を保てなくなり、間違い無く内部分解をし始める。そうなれば、当代が死去した後、当主を失った一族は次代当主の再選出、もしくは遺言を全て破棄し、自分達分家を守る為にイリスアゲート家の解体を余儀なくされるだろう。

 持ち主の消えた財産は国を治める軍に三分の二を返納し、残りも少しずつ切り分けられる。一年も経たずに貴族としての体裁は無くなり、イリスアゲートを名乗る血筋は完全に途絶える事になる。

「後釜に入る人間も現れるかも知れませんが、それはもう奴が望んだ形を完全に逸脱していますからね。そうなれば、その後がどうなろうと知ったこっちゃない」

 もし、先の未来で子が生まれようと、それは望まれた『イリスアゲート』ではない。それを以て復讐は完遂するのだ、と異母兄は言い切った。

 少女は、狼狽えるしかない。思っていた答えを貰わなかった彼女は、ただ疑問に思うばかりだった。

「……な、何故?」

「はい?」

「何故、その様な……今まで、誰もそんな事……」

「でしょうね」

「お、お姉様達も……手伝いの者も、皆、私を応援すると言ってくれたんですよ。私が何をしようとも、家長になれば後は自由だからと……ただ一言、『頑張って』と」

 何故、と続けた異母妹に、フェンネルはただ、呆れて溜め息を吐いた。

 その目は、強い嫌悪に歪む。

「……まったく、誰も彼も薄情な人間共だ。結局は我が身可愛さで『我関せず』を通してるだけじゃねぇか」

「……う……」

「何が『姉』だ、何が『一族』だ。『頑張れ』だと? 無責任になすり付けやがって……結局は都合の良い『贄』が無くなるのが面倒臭ぇだけだろうが」

 初めて聞く、異母兄の舌打ち。不機嫌そうな兄は誰かと話をしているのか、耳に手を添え小さく「分かってる」と呟いている。数秒後には彼は一度大きく息を吸い、吐き出しては不服そうに苦笑を見せた。

「……失礼しました。お見苦しい所をお見せしまして」

「わ、私が居なくなれば……皆が、困ります」

「勝手に困らせときゃ良いんです、そんな連中は」

「でも、誰かがまた、私と同じ目に……」

「貴女は奴の『最後の意地』だ。奴が死ねば『意地』も無力、他の人間が興味の無い事を、貴女がわざわざ守ってやる筋合いは無いんですよ」

「でも、私は……」

「……誰も不幸にならない方法を、と貴女は仰ったが、正直言ってそんなものは存在しません。お互いが許し、妥協と譲り合いを経て、納得出来てこその『大団円』となるんです。貴女一人に皺寄せが行く手段など、それこそ貴女が馬鹿を見るだけだ」

「で……でも、私は、私も、お兄様の憎むイリスアゲートの人間です。当主となる私が、業を背負うのは当然ではありませんか?」

 食い下がる異母妹に、フェンネルは呆れたように鼻を鳴らしてみせる。

「勘違いなさるな、俺は悪人だと言ったでしょう。今まさに貴女を唆し、歴史ある貴族を潰そうとしている」

「でも、それは……」

「それに、貴女を逃がせば『今までの贅沢な貴族の暮らしを奪う』という、世にも恐ろしい復讐が出来るんですよ。俺は悪魔ですから、『死して償え』など絶対に言いません。命ある限り、貴女には苦しんで頂きます」

「……でも……」

「しかし復讐は課せど、貴女も一応は同じ目的を持つ同志だ。貴女ほど利用価値のある人物に、悪魔が微笑み手を差し伸べるのは当然の事。今夜にでも全てを捨て、あのクズが生きてるうちに一泡吹かせておやりなさい。今ここで貴女が助けを求めるならば、我々『チャーチグリム号』は何だってお手伝い致しますよ」

 少女は、口を両手で覆ったまま動けないでいた。実の肉親には『性別を変えろ』とまで言われたのに、初めて逢った目の前の異母兄は、自分の罪も業も無視して『逃げろ』と訴えてくる。

「私は逃げても……良いんですか?」

 少女が、揺れる瞳に目一杯の涙を溜めて言葉を絞り出した瞬間、その白く華奢な頬から細い指に、一筋の雫が伝う。

 強く頷いた彼に、彼女は堰を切った様に涙が溢れて止まらなくなる。フェンネルは胸ポケットに入れていた小さな盗聴器を取り出して少女に渡し、震える手で受け取った彼女に、それが運命を変える鍵だと告げた。

「その通信機の向こうに、貴女の全てを変える『力』がある。たった一言、その『力』に助けを乞うて下さい。貴女がどうしたいのか、我々にどうして欲しいのか。今、悪魔の手綱を握っているのは貴女だ」

「………………っ!」

「さぁ、バジル殿」

「……助けて……っ!!」

 少女が絞り出した心からの訴えに、フェンネルの耳元で「よくやった」と鼻を啜るローズマリーの声が聞こえた。

 それから彼等は、臨時ではあるが現当主であるバジルの許可の元で屋敷に泊まり込み、皆で綿密に計画を練った。彼女が信頼しているという従者の女性も呼び、何度も何度も会議を重ねた。

 当然、彼女の従者も、ローズマリーから任務を受けたユズリハがその日の内に調べ上げていた。

「マロウ・ブラッドストーンは、バジル・G・イリスアゲートの長姉の夫の末妹だった。直接的な血の繋がりは無いが、彼女の実家は『ファーム』テロでイリスアゲートに名貸ししていたらしい」

 ユズリハから貰った書類を見て、ローズマリーは神妙な面持ちで溜め息を吐いた。

 マロウの祖父は戦犯の汚名を被り自決。家族も離散し、財産は没収。イリスアゲートに吸収される形で、貴族としての名を取り潰された。

 彼女は復讐のため、従兄の伝で偽名を使いイリスアゲートに従者として潜り込んだが、その暴走をバジルが説得し、留め続けていたのだった。

 己が全ての業を受けるから、どうか死に急がないで欲しい、と。

 ローズマリーは従者も共に助けるため、敢えて作戦会議に参加させた。イリスアゲートの犯した罪を公にし、ブラッドストーンの汚名を濯ぐとローズマリーが約束すれば、マロウは泣き崩れながら謝罪と感謝を述べた。

「お祖父様の名誉を取り戻す為なら、己の身などどうなってもいいと考えていました。その約束が果たされる時、家族達も報われると思います」

 バジルの口添えもあり、マロウは信用に足る人物と判断された。

「……一つ聞いてもいいかい、ブラッドストーン氏」

「ローズマリー様、私の事は『マロウ』と。私も『家』を捨てた身ですので」

「じゃあ、マロウちゃん。ブラッドストーンに嫁いだバジルちゃんの姉だが、父親の事や弟妹の事は、何か言ってはいなかったか?」

「……お義姉様は、本当に素晴らしい方でした。歳の離れた私を、妹や娘の様に可愛がってくださった」

 彼女の祖父が自決した際、両親も後を追うようにハイマートの大河へ身を投げた。翌年、財産の没収と家の取り潰しが決まると、兄は自宅にて拳銃で頭を撃ち抜いていた。

 兄の成れの果てを見つけた義姉は心を壊し、介護を要する状態まで堕ちた、とマロウは語った。

「イリスアゲートは二人に子が生まれたら、養子として渡すように約束させられていたと聞きます。でも、遂ぞ兄夫婦は子供に恵まれなかった。だから、お祖父様は名を貸す事で養子の約束を取り消してもらったと父が話していました」

 彼女の兄が亡くなり、心を壊した義姉はイリスアゲートに引き取られていったらしい。最後に見た義姉はまるで、されるがままの赤子の様だった、と彼女は話してくれた。

 その後は逢う事も叶わず、どこにいるのか、生きているのかすらも分からないままだ。それはユズリハが調べ上げた調査報告と同じだった。

 その事実を義姉の弟妹であるバジルとフェンネルに話してみても、二人共同じ反応をローズマリーに返した。

 望みは無い。諦めた方が良い、と。

「役に立たねぇ人間の『掃除』は何処よりも手際が良い家なんだ。見つけた所で『一部の臓器だけ』なんて事もあり得るぞ」

「そうか……」

「……私もマロウのために、探させてはみたんですが……ごめんなさい……」

「いいんだ。お前達は悪くない」

「当たり前だ」

「………………」

 ハッキングや情報収集のプロであるユズリハですら所在を掴めなかったという事は、それはかなり高い確率での真実なのだろう。一緒に助け出せればと考えていたローズマリーはとても残念に思い落ち込んだが、バジルやマロウの事を守る為、前を向き避難先の確保を急いだ。

 そして、僅か二日後。二人はローズマリーの知り合いの伝で確保した避難先へと夜逃げする事が決まる。

 守秘義務を徹底する為、その受け入れ先は船員達にも知らされない。途中までユズリハが送り届け、そこからはローズマリーの知り合いを挟んで避難先へと移動する事になる。

 当日の夕方、最後の食事を皆で楽しんだ後でバジルは異母兄を呼び出し、改めて感謝の意を示した。

「お兄様……私達はもう二度と、逢う事は叶わないんでしょうか」

「そうですね。貴女は今から出奔する身、貴族間のネットワークは軍関係者との癒着もあるので、ウチの船と連絡を取り合えば一瞬で足が付きます。我々が貴女の避難先を知らされていないのも、それを防ぐ目的があるのはご存知でしょう」

「……ええ。理解しています」

 儚く微笑む彼女の瞳は、涙に濡れ揺れていた。

「……貴方が『兄』で良かった。いいえ、『異母兄』ではない方が良かったかも知れません。そうなら、お兄様に気兼ね無く恋をする事が出来ますのに」

「……あはっ、ご冗談を」

 フェンネルは引き攣った笑い声を上げ、肩に下がる三つ編みの先を弄る。

「申し訳無いが、それは勘弁願いたいですね。なんせ育ちが娼館街なもので、惚れた腫れたの関係にはウンザリしてるんです。折角貴女が家を潰す切っ掛けを下さったのに、これ以上何かに執着する様な人生はもう懲り懲りだ」

「……それもそうですね。冗談です」

「これから先、永遠でなくとも時間は多大にあります。新しい家庭を築こうが、独り身を楽しまれようが、全て貴女の自由です。幸い、貴女は『孤独』ではない」

「……私の身の回りは、家族も、親類も、皆が何かに執着心を持つ歪んだ関係でした。今は、身軽になってさっぱりした人生を、楽しく謳歌しようと思います」

「これからの貴女の人生を、心から応援しています。どうか幸せになってください」

「はい。お兄様も、どうかお元気で」

 固く握手を交わす。その数時間後には、少女達は新天地へ向けて旅立っていった。

 二人の少女を見送った後、船員達も船へ向けてバジルがチャーターしてくれた馬車で移動する。馬車の中で窓の外を見つめていたフェンネルは、「なぁフェンネル」と声をかけてきたリンデンに目を向けた。

「どうした」

「……あの子、バジルさんだっけ。元気で生きていけるよね」

「努力次第だな。自分を知ってる仲間も居るんだし、大丈夫だろ」

「……その内に好きな人ができたり、子供が出来たりすんのかな……」

「それも本人次第だろ。お前が気にする事じゃねぇよ」

「うーん……」

「さっきから何だ、気色悪ぃな」

「……だってさ……」

 基本的に誰に対しても友好的なリンデンだったが、別れ際、あまりバジルに声を掛けてやれなかった事を少し悔いていた。最初は自己犠牲を貫こうとする姿勢に苦手意識を感じていたが、共にご飯を食べたり、暇潰しに、一緒にフェンネルに編み物を教えてもらったりと、共に過ごして仲良くなったのだが。

 リンデンは人間が好きな分、相手の感情を読む事にも長けている。だが、今回、彼女の心を感じた彼は、何処か気後れしてしまったのだ。

 あの少女の気持ちは分かる。否、その気持ちが分かるからこそ、彼女を思えば余計に声を掛けられなかった。

 それは、『兄』も同じ感情を持っているようで。

「……フェンネルも、バジルさんの事……好き?」

 リンデンの質問に、フェンネルは目を丸くする。

「何だそりゃ」

「バジルさんは、結構フェンネルの事本気だったよ」

「……ふーん?」

「フェンネルだって、最初は「興味無い」とか「面倒臭い」とか言ってたけどさ……あんなお淑やかで優しくて綺麗な色白の子とずっと一緒にいたら、フェンネルも、もしかしたら考えが変わったりする?」

「……さぁな」

「バジルさん、俺とは見た目も性格も真反対の子だしさぁ……結構、その、可愛かったし」

 深い溜め息を腹から吐き出す。そんな落ち込む様子の『弟』を見て、フェンネルは遂に吹き出して笑う。

 それを見たリンデンは頬を膨らませ、顔を真っ赤にして憤慨した。

「あーっ! 笑わないでよ、真面目に話してんのに!」

「はっはっは! あー無理だ、腹痛ぇ」

「人の気も知らないで! マリーさんに言い付けるぞ、馬鹿フェンネルめ!」

「ふっふっ……いや、意外な所でお前の『好み』が分かって良かった」

「逸らすなし!」

「そうかそうか。お前にとって、バジル殿は『可愛い』のか」

「へぁっ!?」

 突然の指摘に、今度はリンデンが目を丸くする。しかし、フェンネルは「成る程、成る程」とわざとらしく頷きながらニヤニヤと口角を上げる。

「お前も一応は男の端くれ、女には鼻の下が伸びるって訳か。まったく、常日頃から俺やローズにベッタリなクセに、これは良い事を聞いたぜ」

「あう……」

「お前もちゃんと男だったんだなぁ、リンデン。そうかそうか、バジル殿みたいな娘が好みか」

 楽しげに笑う『兄』だが、彼から伝わる感情は何処か憂いを感じる。

 諦め、切なさ、自身への戒め。そんな否定的な感情を受けて、リンデンは思わず叫んだ。

「……ちっ……違うもん!」

「ほぉ、違うのか?」

「いや違わないっ……訳じゃないけど! バジルさんも確かに可愛いよ!? だってフェンネルにソックリじゃん! 眉毛とか睫毛とか口元とか雰囲気とかフェンネルに似てる所がいっぱいあって可愛いって思うんであって」

「……あ?」

「でもバジルさんって性格は穏やかで柔らかいし大人しいし薄いっていうか何か儚くて消えそうで苦手っていうか近寄れないっていうか俺が一番好きなフェンネルと全然違っ」

 そこまで捲し立てて、リンデンは顎を下から思い切り叩き上げられる。金属の高い音が馬車から響き、馬を操るローズマリーと御者だけでなく馬も驚く。

 フェンネルの手には、ブリキのマグカップが握られていた。

「……全っ然、似てねぇだろうが……!」

「痛ったぁぁあ! 殴る事なくない!? マリーさぁん!! フェンネルがマグでぶったーっ!」

「こらフェノン! また過激な照れ隠ししたんだろ! 手を出すのは良くないって言ってるのに!」

「ふざけんな、こいつが先にちょっかい出してきたんだよ!」

「違ぁうもぉん!! フェンネルが先に叩いたんでしょー!!」

 真夜中に三人が騒ぐため、皆を無事に船まで送り届けるようバジルに頼まれていた若い従者は怯え慌てる。

「あの……ど、どうかお静かに……」

「本当にすまない、まだまだ子供なもんで……こら二人共! 従者君が困ってるだろ、静かにしろっ!」

「よ……夜中ですし、どうか……」

「俺、間違った事言ってねぇもん!!」

「テメェはどれも同じに見えてんだろうが!!」

「喧嘩するなと言ってるんだ、分からん坊共め!」

 結局ローズマリーは半泣きの従者に手綱を任せ、二人に鉄拳制裁を食らわせる事で事態は収束した。

「約束の場所までは送り届けてきた。そこから先は……ローズマリーの人脈を信じるしかない」

「……後は本人達の運と生きる意志も、ですかね」

 後で合流してきたユズリハに少女達の様子を聞きながら、フェンネルはユズリハと二人で月を見ながら晩酌に杯を傾ける。

 ローズマリーは書類製作のため先に自室へ戻り、ユズリハが戻ってくるまで起きていると粘っていたリンデンはリビングのソファで寝落ちている。

「その顔はどうした」

 月明かりでも分かる程に腫れたフェンネルの頬を指して、ユズリハが笑った。

「……ローズに殴られました」

「ふふっ、やっぱりなぁ」

「気付いてたんなら訊かんで下さい」

 不貞腐れるフェンネルだが、ユズリハが酒のボトルを向ければ素直にグラスを差し出してくる。

 ユズリハは微笑みながら、氷の入ったそのグラスに酒を注いでやる。

「どうせ、またリンデンと喧嘩したんだろ」

「……アイツが悪いんですよ。俺とバジル殿が似てるとか抜かすから……」

「似てちゃ嫌なのか?」

「逆ですよ。誰が見たって俺はあの屑に似てる。そんなのと一緒にされちゃバジル殿が不憫だ」

「誰が見ても瓜二つだと思うがなぁ」

「はぁ? アンタまでそんな事言うんですか」

「あの男もまた、憐れな姉弟の間に生まれたイリスアゲートの生贄だ。そんな特濃の血筋に生まれりゃ、嫌でも似るもんだろ」

「……まさか奴を同情するとでも?」

「自分が何に金を出してんのか分からないような馬鹿に、同情もクソも無いだろ。自分が犯した罪は絶対に消えないんだからな」

「………………」

 グラスを呷り、肴の握り飯を齧ったユズリハの顔が苦いものになる。思う所があるのか神妙な顔付きで酒を舐める同僚に、ユズリハは握り飯の乗った皿を差し出す。

「……絶対太りますよ」

「十年以上変わらんが?」

「俺は太るんですよ。一緒にしないで下さい」

「お前はもっと太れ。だから体力付かないんだぞ」

 実は気にしている事を突かれて、フェンネルは促されるまま渋々握り飯を手に取る。

「……イリスアゲートの家系は、遠慮する人間ばかりなのか?」

 ふと呟いたユズリハに、フェンネルは露骨に嫌悪感を見せる。

「……遂に頭ん中筋肉になっちまったんすね、ご愁傷様です」

「言いたい事は分かるが、俺が知ってるイリスアゲートの人間は皆謙虚で控えめな奴ばかりだ。お前含めてな」

「繕ってるだけでしょ」

「そう見えたか?」

 彼が言うのは異母妹の事だ。フェンネルは何も答えず、ユズリハは言葉を続ける。

「元々、イリスアゲートの家の人間自体が『そう』なんだろうなぁ。俺が調べた限り、子供達でイリスアゲート二将に似てる性格の人間なんざ誰一人いなかった」

「……隣見えてます? 激似でしょうが」

「性格が違けりゃ、人相も変わってくるだろ。嫁いでいったお前の異母姉達は皆、操り人形のように感じた。ただ生きているだけ……そんな状況で誰一人子宝にも恵まれないとは、二将は尽く繁栄に失敗したらしい」

「ははっ、そりゃ目出度い」

 酒の杯を呷り、飲み干したフェンネルは溜め息の後に少し暗い眼差しでユズリハを見る。

「……ローズは、本当に奴を軍法会議に突き出すつもりなんで?」

「奴だけじゃない。ウチの船長は『全員』を晒し上げるつもりらしい」

「……『全員』?」

「敵はイリスアゲートのみにあらず。ちょっとしたミステリーを話してやろう」

 彼が語り出した『真実』に、フェンネルは愕然と目を見開いた。

 ユズリハが出した名前だけでも、名だたる貴族や軍幹部、上流から中流階級の家柄が多数関わっていた。その関わりはなんと二百年以上にも及び、再三、旧皇家から男尊女卑の撤廃と近親での婚姻を止めるよう注意を受けても、彼等は闇深い所で独自の縁を繋ぎ続けていたのだ。

 しかし革命後、大半の貴族が財産を没収、地位を失っていく中で、自らの名と財力を利用し、革命軍幹部に癒着して地位を守った貴族が現れた。

「……イリスアゲート家……!」

「そうだ。あの男は革命軍に多額を援助する事で当時の革命軍総督に認められ、二将という階級を手に入れた。だが、その方法は奴本人が考えたものじゃない」

 当時のイリスアゲート青年に教えたのは、当時革命軍として参加していたブラッドストーン将軍。

 マロウの曽祖父にあたる男だった。

「………………!」

「マロウの曽祖父が老衰で死んだ瞬間、二将は力を付け過ぎたブラッドストーンを失墜させるべく動いた。二将という地位を利用して実業家、投資家としても成功していたイリスアゲートは、マロウの祖父を唆して自分の娘を政略結婚で差し出した」

「まさか……」

「……ああ。その『まさか』だ」

 異母姉は、卵巣肥大の治療と嘯かれて卵管を切る避妊手術を受けさせられていたらしい。当然二人に子供が生まれる訳はなく、全てはブラッドストーン家を潰すための策略だったのだ。

 望むべくは己が種の男児のみ。女児達はその男にとって、使い捨ての道具に過ぎなかったという事だ。

「結局バジルもマロウも、クズな大人達に巻き込まれただけの被害者だったんだな。そいつらが居なければ、彼女達も何も知らないまま幸せに生きられたかも知れないのに……当然、お前も」

 フェンネルは何も言わず、グラスの酒を舐めた。

 現在の貴族、そして軍幹部の大半が二百年に渡って汚職に関わった末、革命の戦いを超え、今まさに『清算』を強いられようとしている。

 また一つ、時代が変わる。だがフェンネルにとって、それは単に『それだけの事』だった。

「……あの頃は、確かに幸せでした」

「おう」

「でも、今だってちゃんと幸せなんですよ。俺はね」

「……うん?」

「奴等がクズなのは今に始まった事じゃねぇ。そんでもって『あの家』が潰れれば、これ以上被害が広がる事も無い。それで終いだ」

「……その先に興味無し、か。お前は強いな」

「そういうんじゃねぇです」

 母親の『遺言』に、強くあれ、とあった。そして彼女は、常日頃から「幸せになれ」言ってくれた。

 自分は、それを守っているだけなのだ。彼女達が歩けなかった未来を、己が代わりに歩み続けるために。

 フェンネルは、やっと小さく微笑んだ。

「……ローズは、今日は徹夜ですかね」

「今も部屋で全員分の告訴書を書いてる筈だ。明日、早朝始発の便でジャスパー司令に提出するらしい」

「さすが船長、仕事が早い」

「俺も、バジルだけでなくイリスアゲート全体の近辺は全部調べ尽くして証拠として仕上げてる。そこら辺は任せてくれていい」

「さすがはユズさんですね。本当に敵に回したくない」

「はっはっ。どの口がそれを言うんだよ」

 二人はまた互いの杯に酒を酌み交わし、杯に口付けようとしたフェンネルをユズリハが呼び止める。

「……もうすぐ、本格的にイリスアゲートの天下が終わる。どうだ、実家の壊滅を一緒に祝わないか?」

「……アンタのそういう所、本当いい性格してますよね」

「お、止めとくか?」

「まさか。盛大に祝いましょう」

 二人は酒の入った杯を月に掲げる。

「世界の終わりと始まりに」

「世界樹が巡り合わせた、新たな出逢いに」

 定番の音頭を取った二人は杯の中を一緒に飲み干し、喉が焼ける様な熱い感覚に揃って息を吐く。

「っくあーっ! 思ってたが、この酒キッツいな」

「ローズが叔父貴に貰った酒ですからね。地酒だから度数も分かんねぇっつってましたよ」

「だからローズマリーも飲まないんだな。リンデンは? アイツも意外と飲めた筈だが」

「甘党が飲めば、あんなモンですよ」

 フェンネルは親指で背後のソファを指す。

 狭いソファに大の字で眠るリンデンは、寝言でフェンネルの名を呼びながら、だらしなく腹を掻いている。その汚い寝姿に、二人は顔を見合わせて小さく笑った。

 しかし、名残惜しい穏やかな時間に区切りを付けるべく、二人は其々に時計に視線を向ける。

 休暇と言えど、明日の朝も早い。

「……これで、フェンネルの悪夢が終わるな」

「母や姉等へ、最高の手向けになりますよ」

 武装を解いても、絶対にベルトから外さない五センチ四方の小さなサイドポーチ。フェンネルはそっと『家族』に触れ、空になった杯に映る月の輝きを見つめた。

 ヤシちゃん、タケちゃん、ハスちゃん。こんな自分を庇い、盾になってくれたカヤちゃん。

 そして、セリちゃん。

 自分の誕生を祝福し、優しく見守ってくれた『お母さん』。

 この復讐劇が『気晴らし』である事は、とうに気が付いていた。それでも、機会が訪れる事を今か今かと待ち望んでいた自分がいたのもまた事実だ。

 全く予想だにしていなかった結果ではあったが、これで根本的に、諸悪を根源から切刻む事が出来る。

 血を分けた末の異母妹を、助ける事が出来た。家庭内での虐待の被害が認められた他の異母姉や異母妹達も、今後救出の目処が立っているらしい。

「……『俺達』の勝利だぜ」

 ……セリちゃん。

 貴女の息子は、フェノンは、新たな『家族』に囲まれて、あの頃と変わらない幸せの中で生きているよ。

「……フェンネル、ローズマリーからの伝言だ」

「何すか?」

「今、幸せか?」

 その質問にキョトンと目を丸くしたフェンネルだったが、すぐに彼らしい、煽るような笑みをユズリハに見せて頷いた。

「当然でしょ。最っ高の気分だ」

「なら良かった」

 翌日、ローズマリーがジャスパー司令官を挟んで議会に提出した文章で、多数の貴族が地位の剥奪を受け、信用を失墜させた。

 イリスアゲートの資産は切り分けられる事無く全てが軍の持つ国庫に入る事になり、名前が挙がらなかった貴族共から苦情を述べた者達もいたが、漏れなくイリスアゲートの悪事への手助けを疑われた為に、皆諦める他なかった。

 後ろ盾を失くし、姉妹達の嫁ぎ先も次々に破産を余儀なくされる。どさくさに紛れて離婚させ、長姉以外は皆助け出す事が出来た。ここまででなんと、一週間と経っていないから驚きである。

 そして、バジルが家から出奔して八日後。

 イリスアゲート二将が息を引き取った事で、悪しき家系、悪しき風習は完全に途絶えたのである。

 時は戻り、『ファーム』テロ事件から十四年後。

 結局リンデンは起こさないまま、ユズリハと二杯ほど飲み合ったフェンネルは部屋に戻ってきた。

 ユズリハはベッドの上段にリンデンを転がし、「おやすみ」と言って部屋を出ていく。残されたフェンネルは整備台の椅子に腰掛けると、引き出しの中から小さなクッキー缶を取り出す。

 徐に蓋を開ける。するとビロードが張られた缶の中には、現在の流行りよりは少し古いデザインのアクセサリーが幾つか並んで入っていた。

 女性向けの、美しい装飾が入った宝石達。ブローチにピアス、ネックレス、そしてブレスレット。

 プラチナの指輪の内側には、自分と母の名が刻み込まれている。

 フェンネルは缶を開けたまま整備台の上に置き、その横に陶器の長皿を置くと、引き出しの中から一本の線香を取り出して長皿の上で火を点けた。

 線香は、煙を燻らせながら短くなっていく。オリヴェール族の女が嗜むという、母に教えてもらった香りだった。

「……もう、大丈夫だ」

 母さん。みんな。

 辛い過去を引き出しに、美しい過去をテーブルに。決して囚われたりせぬよう、全てを抱き締めて生きていく。

 彼女達の教えを胸に抱いて、フェンネルは前を向き視線を上げた。

 翌日、彼に「おはよう」と声を掛けられたクミン戸惑いと嬉しさで激しく動揺していたのは言うまでも無い。

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  • 僕達のマザーランド   #『小茴香』

    「おやすみー。じゃあユズ君、後は頼んだぞ」「おう。お疲れさん」 ローズマリーが、「ユズリハが寝るまで起きている」と駄々を捏ねるクミンを引き摺って、異ビングのハッチを廊下へと出ていく。 ソファにはフェンネルが腰掛け、黒い布を広げて縫い合わせた糸を切っている。その足元には、床に直接リンデンが転がって寝息を立てていた。「コイツは『邪魔になる』って事を学ばないもんかね」 キッチンから氷を持ってきたユズリハが、床に転がるリンデンを見て苦笑を零した。 フェンネルは視線を手元に落としたまま、こちらに寝返りを打ってきたリンデンを脚で蹴って押し返す。「そりゃ学べんでしょ。『言い出しっぺ』が真っ先に寝こけてる様じゃあ」 呆れるフェンネルに、ユズリハは吹き出して笑った。 孤児院から戻ってきた時、リンデンはとても機嫌良さげに「今日は飲みたい!」と言い出した。いつもなら皆で宴を楽しむが、疲れているであろうクミンの体調を考え、ローズマリーとクミンは先に部屋で休む事になったのだが。 二人が部屋に戻る前に、腹一杯に夕飯を食べてからソファで寛いでいるとそのまま眠ってしまったらしい。 寝返りでソファから落ちても起きない彼は、幸せそうな顔でむにゃむにゃと何かを言っている。「楽しみにしてたのになぁ。どうする、起こすか?」「やめときましょう。余計にウザくなる」「はっはっはっ! さすが気遣いの出来る男は違うな」「……こんな奴に気遣いなんざ必要無いでしょ」 疲れているだろうから、そのまま寝させてやろう。 そんな真意を汲み取ったユズリハは、不機嫌そうに眉根を寄せる彼の前に、琥珀色の酒を注いだグラスを差し出す。フェンネルがグラスを一瞥すると、グラスの中では大きな氷が一つ、澄んだ音を立てて動いた。「……良い色だな」「だろ? リンデンが『今日に』と選んだ酒だ」「銘は何です?」「あの時の地酒だ」 フェンネルは、糸を切る手を止める。 ローズマリーぼ知り合いが独自で作ったこの地酒は、二年に一度、春に送られて来るものだ。アルコール度数も分からない、手作り感満載のきつい酒だった。 あの日の『祝賀会』でも、この地酒をユズリハやリンデンと共に飲んだ。「……まったく……」「本当に、気遣いが下手な奴等だよ。二人共な」 あの日は、『家族』を『呪い』から救った。 今日は、本当の意味で

  • 僕達のマザーランド   #2『墓守犬』

    「ねぇマリーさん、今日ってどうするの?」 クミンが保護されてから二日後の、午前七時。  ユズリハが朝食の洗い物をしている隣で、食器を拭いていたリンデンが問い掛けた。  リビングのソファの上で、クミンとタオルを畳んでいるローズマリーは当然のように「行くぞ」と答える。「もちろん、今日も十時に予約が入ってる。準備が出来次第、すぐに出発するからな」 「どこかへ行くのか?」 続いてクミンが問えば、ローズマリーは頷き笑顔を見せた。「ああ。毎週末、私達は子供達のお世話を手伝いに孤児院へ出向いているんだ」 「コジイン?」 「そう。身寄りの無かった子供達が、生きていくために必要な全てを学べる場所だ」 ローズマリーの説明を聞いても、クミンは不思議そうに首を傾げる。苦笑するローズマリーは「一緒に行こうな」とクミンに微笑み、食器を洗うユズリハに振り返る。「ユズ君、今日は何処だっけ?」 「『マーガレット学習院』だ」 「ん? でも今日って遠足じゃなかったっけ。確かカレンダーに入ってたけど」 リストベルのスケジュールを確認したリンデンの言葉に、何故かユズリハの顔が若干暗くなる。「……小学部と中学部だけな。それも、『ガーベラ』と『カマリア』も合同で行くそうだ」 「すげぇ、大人数だ。何処行くの?」 「旧皇家の博物館と樹立公園らしい」 「ほえー、みんな賢いねー……ん?」 ふと、リンデンは気付く。「待って待って、じゃあ『ガーベラ』と『カマリア』の幼学部は誰が看るの?」 「……合同で『マーガレット』に集まるんだと……」 「マジで!?」 ユズリハの言葉を聞いたリンデンは、両手を上げて喜んだ。「やったー! 赤ちゃんがいっぱいだー!」 「……また『大合唱』か……」 高身長と強面の顔のせいで毎度乳幼児に泣かれてしまうユズリハは、天井を見上げてどんよりと肩を落とす。  そんな彼に、ローズマリーも楽しそうに笑いながら彼に慰めの言葉をかけた。「ははは、いつも最初だけじゃないか。すぐ仲良くなってるのに」 「向こうが妥協してくれてんだよ……」 「そんなに器用な幼児は居ないぞ。大丈夫だ」 ふとローズマリーがクミンを見れば、彼女は落ち込むユズリハを心配そうな眼差しで見つめている。そんなクミンに、ローズマリーは「今の内だけだから」と説明

  • 僕達のマザーランド   #1『始まり』

    『#俺たちのマザーランド』 「みんな、そろそろ着くぞー」 沢山ある液晶画面の内、手前の小さなモニターに映し出された目的地の座標を指でなぞり、確認した彼女は耳に装着したイヤホンマイクを押さえて他の船員達に告げる。腕時計型の通信端末を通して全員の耳元へ届いた少女の声に、彼女の耳にも低い声が疎らに返ってきた。  今回の目的地には『瘴気』と呼ばれる有毒ガスが濃い区域のため、全員がガスマスクの着用を余儀なくされている。そんな物々しい雰囲気の中、鼻歌を唄いながら操縦感を握るのは見目にして十二、三の少女だった。  彼女が皆に声を掛けた数秒後、そのイヤホンマイクから「前方注意」の言葉が聞こえる。それは見張り台にいた船員の声で、少女の「見つけたか?」という問いに、彼は呆れたように鼻で笑った。《おいおい、またガセネタ掴まされてんじゃねぇか》 「またぁ? 今度は何だった?」 《四足大型が二頭》 ガスマスク越しにスナイパーマントを深く被り、双眼鏡を覗く彼は辺りを注意深く見回しながら、感じ取れる気配までの距離をおおよそで測る。「正面一五〇〇メートル、あとは10時方向一二〇〇メートル先の森ん中だ。どっちもまだ目視は出来ない」 《面倒臭ぁ……まぁ、別に偽情報でも良いけどもー?》 「良い訳あるか、このアホ船長。風向きが北西から西へ移動、風速も上がってる」 《了解、風下へ避けるぞ》 見張り台の青年の報告に応え、少女は操縦桿を小さく回してペダルを踏む。船の速度を落とし、ゆっくりと旋回する。  少女が座る操縦席の右後ろにあるコントロールパネルの前では、回転椅子に座る体格の良い男性が「こっちにも反応が出た」と少女に声を掛けた。彼は袖から覗く夜明け前の空のような青い肌の腕を伸ばし、モニターの角度を変えてカメラの切り替えスイッチを入れる。「レーダーに入ったか。映像を回してくれ」 「了解。左のは結構なデカさだ」 座標とは別のモニターに映ったレーダー映像に、少女はいよいよ溜め息を吐く。「……んもー……」 「ローズマリー、指図書には何と?」 「二足小型が三頭」 「まったく、『上』は俺達を余程殺したいらしい」 見張り台の青年とまったく同じ嘲笑を零した彼に、少女は「帰ったら文句言ってやる」と可愛らしく遺憾の意思を見せた。「しかし、どうしようか……装

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