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第1060話

Author: 豆々銀錠
電話が切れた瞬間、紗枝はふと、啓司を案じる気持ちを手放した。

もう、彼を心配するのはやめよう――そう心の奥で決めた。

一方その頃、牧野は集中治療室の外に立ち、ガラス越しに目を閉じたままの啓司を見つめていた。

生命維持装置のモニターは安定した数値を示している。にもかかわらず、彼は一向に目を覚ます気配を見せない。その静けさに、牧野の胸は焦燥で満たされていた。

そこへ和彦がやって来て、モニターに目を走らせながら訝しげに呟いた。

「数値には異常がない……なのに、どうしてまだ目を覚まさないんだ?」

牧野は沈痛な面持ちで言葉を返した。

「澤村さん……まさか社長は、このまま……」

その瞳には、長年仕えてきた主を失うかもしれないという恐れが、はっきりと浮かんでいた。

「馬鹿なことを言うな」

和彦は牧野の肩を軽く叩き、落ち着かせようとした。

その時だった。

集中治療室の外から、騒がしい怒声が響いた。

「おい、誰だお前たち!ここはプライベート病院だ、関係者以外立ち入り禁止だ!」

「な、なんで殴るんだ!」

次いで、物が割れる音と悲鳴が混じり合い、廊下が一瞬にして騒然となった。

和彦は眉をひそめ、低く呟いた。

「誰だ……こんな真似、命知らずにもほどがある」

牧野も信じられないという表情で廊下の方を見やる。

やがて現れたのは、ウールのロングコートを着た拓司だった。大股で歩む彼の後ろには、凶悪な顔つきのボディガードたちがぞろぞろと続いている。

「拓司……!」

和彦は息を呑んだ。次の瞬間、昨日の言葉を思い出す。――「啓司に気をつけろ」

それは警告ではなく、罠だったのだと気づいた瞬間、怒りが込み上げた。

畜生……まさかあいつに嵌められるとは。

拓司は和彦の存在など眼中にない様子で、まっすぐ集中治療室の前まで歩き、ガラス越しに中を覗き込んだ。

そして、静かに言った。

「兄さんを迎えに来た」

「冗談じゃない!俺がいる限り、啓司さんを連れて行かせるものか!」

和彦は即座に立ちはだかった。

牧野も険しい目で拓司を見つめ、懇願するような声を絞り出した。

「拓司様、中に横たわっているのは、あなたと腹を同じくする実の兄弟です。今の容態では、移動は危険です。どうか……連れて行かないでください」

「牧野さん、あなたも言ったじゃないか。あの人は僕の兄だよ。
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