共有

第404話

作者: 豆々銀錠
しばらくの沈黙の後、啓司が口を開いた。「そこは少し古びているから、君は妊娠中だし、行くのは不便だと思う」

「大丈夫、私は遠くから見るだけでいいから」紗枝は答えた。

啓司はこれ以上断れず、仕方なく頷いた。

「分かった」

そう言うと、彼は自室へ行き、服を着替え始めた。

部屋に入るなり、彼はすぐに牧野に電話をかけた。

「今晩、チャリティー会社を準備して、社長と社員をちゃんと手配しておくこと」

牧野はちょうど婚約者のために料理をしている最中で、電話を取るとその顔は一瞬で曇った。

「社長、いっそ奥様に本当のことを話したらどうですか?女性って、みんなお金が好きなんですから」

「お前は指示を実行すればいい」

啓司はそれ以上余計なことを言わず、電話を切った。

もし紗枝が彼にまだ多くの財産があることを知ったら、次の瞬間には離婚を要求するに違いない。

彼は紗枝の性格をよく知っていた。彼女の一番の弱点は「心の優しさ」だということも。

牧野は仕方なく、婚約者との時間を諦めて、準備に取り掛かった。

心が優しいのは紗枝だけではなかった。

出雲おばさんもまた、啓司の境遇を知って以来、彼に同情の気持ちを持っていた。

彼女は特に、啓司が家の介護士や料理人を手配してくれ、何が食べたいかを頼めばすぐに用意してくれることに感心していた。さらに、近所の人々も彼のことを褒め始めていた。

彼が道路の修理を手伝い、水道がない家には電話一つで解決してくれたという。

「出雲さん、本当にいい婿を迎えましたね。見た目も素晴らしいし、何より頼れる人ですよ」

「そうですよ。目が見えないのを除けば、あんなに立派な男性は滅多にいないです。いつも清潔にして、きちんとした身なりで、とても素敵です」

出雲おばさんは最近、体調も良くなったように感じ、こうした近所の声を聞くたびに、啓司への評価を高めていった。

「彼が変わらず、紗枝に優しくしてくれるなら、それで十分です」

紗枝も家で曲を書きながら、時々出雲おばさんが近所の人々と啓司の話をしているのを耳にした。

それでも、彼女は完全に安心することはなかった。

翌朝、景之が学校に行った後、紗枝は啓司と一緒に彼の職場へ向かった。

車内で、紗枝は何気なく尋ねた。「こうして車で送り迎えされるのって、月にいくらかかるの?」

啓司は少し考えて答えた。「
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
ロックされたチャプター

最新チャプター

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第780話

    紗枝は少し戸惑っていた。まさか、自分の家に来て世話をすると言いながら、今度は起きる時間にまで口を出してくるなんて。「はい、どうかした?」表情は変えず、平静を装って答えた。「おばさんが来てるの。あなたを呼んでって言われたから......怒らないでね」鈴の声は思いのほか大きく、階下にいる綾子の耳にも届いていた。綾子は露骨に不機嫌になった。寝坊しておいて、逆に怒ってるなんて、どういうつもりかしら。とはいえ、逸之の前で紗枝に怒鳴るわけにもいかない。腹立たしさを飲み込みながら、彼女が階下に降りてくるのを待ち構え、「これからは早く起きなさい。そんなに長く寝ていると、胎児によくないわよ」と、釘を刺すように言った。その一言で、紗枝はすぐに悟った。きっと鈴が何か言ったのだ。無駄な弁解はするだけ損だと判断し、彼女は素直に「はい」と答えた。どうせ綾子がここに来るのは月に数回。帰ってしまえば、好きな時間に起きればいいだけのこと。起きる時間で揉める価値なんて、ない。案の定、紗枝が従順に返事をすると、綾子はそれ以上は何も言わなかった。だが、そこでまた鈴が口を挟む。「おばさん、心配いりませんよ。私がちゃんと、お義姉さんを監督してあげますから」その言葉に、紗枝は思わず彼女を外に放り出したくなる衝動に駆られた。しかし鈴は無邪気を装った顔で振り返り、「お義姉さん、私が起こしに行けば、きっと起きられると思いますよ」と、悪びれもせずに笑った。「それはどうもありがとう」「どういたしまして」二人の間に漂うぴりついた空気に気づくこともなく、綾子は逸之に声をかけた。「逸ちゃん、今日おばあちゃんと遊びに行こうか?」最近、紗枝が忙しいのをよくわかっている逸之は、家にいても邪魔になると思ったのか、小さく頷いた。「うん」すると、鈴もさっそく話に加わってくる。「おばさん、私もご一緒していいですか?必要なものがあれば、荷物を持ったり、お買い物のお手伝いもできますし」「そうね」綾子は軽く頷いた。「じゃあ、今すぐ出かけましょう。外で朝食を取りましょう」「桃洲に、とっても素敵な朝食屋さんがあるんです。ご案内しますね」鈴は綾子に媚びるような笑顔を見せた。綾子も、こうして積極的に手伝ってくれる存在がいることに満足げだった。三

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第779話

    綾子が屋敷に入ると、付き従っていた秘書に手渡された贈り物をすべてその場に置かせ、その足でまっすぐ逸之のもとへと向かった。逸之はまだ身支度の途中だった。綾子がキッチンに姿を現すと、ちょうど鈴が朝食をとっている最中で、彼女も綾子に気づき、気まずそうに目を逸らした。「おばさん、どうして......いらしたんですか?」鈴は慌てて手にしていた箸を置き、姿勢を正した。綾子はそんな鈴の態度を見やり、あからさまに嫌悪の色を目に浮かべた。「実の息子の家に来て、なにか悪い?それより、どうしてこそこそ台所で食べてるの?」綾子にとって、こうした振る舞いは礼儀に反していた。鈴もそのことは理解しており、申し訳なさそうに声を落とした。「ごめんなさい、おばさん。昨日ずっと、おばさんが来るのを待っていたので、何も食べられなくて......朝になったら、どうしても我慢できなくなってしまって」「今後は気をつけなさい」綾子が鈴の暮らしぶりについて何か言おうとした、そのとき。「おばあちゃん」背後から、小さな声が響いた。綾子の表情がぱっとほころび、振り返るなりしゃがみ込んで手を広げた。「あらあら、かわいい逸ちゃん。こっちおいで」綾子がこれほどまでに逸之を可愛がっている様子を目の当たりにして、鈴はようやく気づいた。昨日逸之が話していたことは、嘘ではなかったのだと。幸い、この子の機嫌を損ねずに済んでいるらしい。「逸ちゃん、もう起きたの?朝ごはん、もうすぐできるからね」鈴も微笑みながら歩み寄り、優しく声をかけた。それからふと、階上へと視線をやった。「お義姉さんは、まだ起きていないの?もう八時半だよ」鈴は、綾子が以前のように紗枝を叱ってくれるものと思っていた。だが綾子は、意外な言葉を返してきた。「妊娠中なのよ。もっと睡眠をとらなきゃ」長年顔を合わせていなかった鈴にとって、綾子がこんなふうに変わっているとは思ってもいなかった。まさか紗枝を庇うとは。「でも、私、留学中に看護の知識を学んだんですけど、妊婦さんは一日八時間の睡眠で十分で、寝すぎると胎児の脳の発育に悪影響があるって聞きました」綾子はその言葉に少し驚き、鈴を見つめ直した。「本当?」「ええ、本当です。海外は医学も技術も進んでいますから、私たちももっと学ばなきゃいけな

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第778話

    紗枝の問いかけに対し、鈴はあえて無知を装ってみせた。「妊婦さんって、お腹すかせちゃダメなの?」と、まるで知らなかったかのように首をかしげ、しれっと謝った。「ごめんなさい、知らなかったわ」紗枝は、彼女がとぼけているのを見抜いていた。それでも、何も言わず、黙って箸を進め続けた。綾子が来るかどうかなんて、彼女の気分次第。この前、医者に胎児の状態を診てもらったとき、「不安定だ」とはっきり言われた。医師からは、規則正しく食事を摂るようにと言われており、空腹が続けば胎児の発育に悪影響が出る可能性があると警告されていた。紗枝自身、胃が弱く、無理はできない。その様子を察したのか、逸之が鈴の芝居がかった態度に口を開いた。「ママ、鈴さんを責めないであげて。子供産んだことないんだから、わからなくて当然だよ」そう言って、鈴に向き直り、まっすぐな目で尋ねた。「鈴さんってさ、もしかして結婚相手、まだ見つからないの?」鈴の表情が一瞬、固まった。「......何ですって?」「だって、見た目、三十代にしか見えないよね?ママより老けて見えるし。誰にも好かれないから、結婚もできなくて、もちろん妊娠もしてないんじゃない?」鈴の手が、無意識のうちに脇で握りしめられていた。怒りを堪え、唇をかみながら返した。「逸ちゃん、お姉さん、まだ二十四よ?紗枝さんより若いの」「えっ?」逸之は驚いたように目を丸くした。「でもママよりずっと老けて見えるよ?スキンケアしてないんじゃない?ママに教えてもらえば?テレビで言ってたよ、『ブスな女なんていない、いるのは怠け者だけ』ってさ。もっと努力しないと、ますます結婚できなくなっちゃうよ?」周囲の使用人たちは、必死に笑いをこらえていた。鈴は、これまでこんな恥辱を受けたことがなかった。なんて憎たらしいガキだろう。自分にプロポーズしようとする男なんて、海外まで行列ができるほどなのに。結婚できないなんて、ありえない。「逸ちゃん......お姉さんはね、結婚したくないだけなの。ここで坊ちゃんと紗枝さんのお世話をしていたいのよ」鈴は頭の回転が早いほうではないが、どんなお嬢様にも負けない忍耐強さがあった。紗枝も、そんな彼女に密かに感心していた。あんなふうに子供にからかわれても、平然としていられるなんて、自分には到底できない。

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第777話

    「ありがとう、お義姉さん」鈴はぱっと華やかな笑顔を浮かべ、紗枝の後に続いて中へ入ると、警備員に借りていたコートを返し、丁寧に礼を述べた。こうした気取らない物腰は、上流階級の人々にとっても、庶民にとっても好印象だった。鈴はその笑顔と振る舞いで、少しずつ紗枝の周囲の人々の心を溶かしていこうと考えていた。牡丹別荘に着くと、鈴は自分のバッグを持って洗面所へと向かう。「お義姉さん、ちょっと着替えてきますね」「うん」紗枝は軽くうなずいた。その様子を見ていた逸之と家政婦は、それぞれに驚きの表情を浮かべた。家政婦が驚いたのは、鈴が本当に啓司の親戚だったという事実だった。まさかあの時、門前払いにしてしまった相手が、こんな立場の人だったなんて。そのことで叱責されたり、報復されたりしないかと、不安が頭をよぎった。一方で、逸之の驚きは別のところにあった。ママが、あんな女を家に入れた?パパを巡るライバルを?しばらくして、着替えを終えた鈴が再び現れ、逸之に軽く挨拶をしてからキッチンへと向かった。「あの......お手伝いさせていただけませんか?以前、星付きのシェフに料理を習っていたことがあるんです」そう言って、鈴はキッチンにいるシェフに微笑みかけた。シェフの傍らには二人の若い見習いが控えていたが、彼らは鈴に目を奪われ、ぽかんと見とれていた。鈴はそんな視線すら楽しんでいるようだった。シェフが言葉を返す間もなく、鈴はさっと見習いの一人が洗っていた野菜に手を伸ばし、手伝い始めた。その様子を見ていた逸之が、紗枝の手をそっと引いた。「ママ、なんであの人を家に入れたの?」まだ幼い逸之に、すべてを説明しても理解できないだろう。そう判断した紗枝は、本当の理由を語ることなく、優しく答えた。「鈴さん、今住むところがないの。だからしばらく、ここにいてもらうことにしたのよ」逸之は心の中で大きくため息をついた。ママって、本当に鈍感だな。この女が、パパを奪いに来てるって気づいてないの?もちろん紗枝も、鈴の思惑に気づいていなかったわけではない。ただ、正面から向き合うのが面倒だったのだ。彼女はやるべきことが山ほどあって、鈴のような偽善者に構っている暇はなかった。やがて食事の準備が整うと、鈴は満面の笑みを浮かべながら、使用人たちと一緒に料理

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第776話

    鈴はさらにいくつか質問を重ねた。その間、警備員はわざわざ自分の上着を彼女に貸してくれた。鈴の瞳がキラキラと輝き、「お兄ちゃん、本当に優しい人ですね」と、にこやかに言った。警備員は途端に顔を赤くし、照れ隠しのように頭をかいた。鈴はさらに続けた。「心配しないでください、嘘なんかついてませんから。これからここに住むことになってるんです。だから、何かあったらよろしくお願いしますね」「本当ですか?それは素晴らしいことですね、鈴さん。何か必要なことがあったら、遠慮なく言ってください。何でも手伝いますよ」こうして、半日も経たないうちに、鈴は自らの美貌と巧みな話術で、別荘の警備員の心をたやすく掴んでしまった。その日の夜。紗枝とエイリーが仕事の打ち合わせを終えた頃には、すでに時刻は遅くなっていた。紗枝はそのまま帰ろうとしたが、エイリーは引き止めた。「紗枝さん、帰り道で楽譜のこと、もう少し聞きたいんです。今日は送らせてください。大丈夫、外には部下たちが見張ってますから、パパラッチなんか絶対に近づけません」そんなふうに言われては、断ることもできない。紗枝は渋々うなずいた。結局、二人はいつもどおり、仕事の話をするだけで、それ以上のことは何もなかった。牡丹別荘にたどり着いた頃には、雨がまだ降り続いていた。エイリーは自ら運転席を降り、傘を手に紗枝のもとへ駆け寄った。「ありがとう」楽譜やバッグを抱えていたこともあり、紗枝は彼の好意を素直に受け取った。二人が並んで玄関に向かって歩き出すと、警備室から一つの人影が現れた。鈴だった。彼女は警備員の上着を身にまとい、紗枝とエイリーが連れ立って帰ってくるのを見て、好奇心に満ちた視線を向けた。「お義姉さん!」鈴の声が夜空に響き渡る。紗枝は思わず立ち止まった。どうしてまたこの子がここに?鈴はわざと傘を持たず、ぱたぱたと駆け寄ってきた。そして近づくなり、目の前の男性の顔をじっと見つめた。「あっ、あなた......エイリーさんですよね!?」エイリーの眉がぴくりと動いた。彼の帰国はごく限られた人しか知らないはずで、世間に知られるのは避けたかった。「すみません、人違いです」彼はさりげなくマスクを整えながら、傘を紗枝に渡した。「じゃあ、行くよ」「うん」紗枝も彼の意図を

  • 億万長者が狂気の果てまで妻を追い求める   第775話

    啓司はわずかに表情を曇らせた。「彼女がそう言うなら、牡丹別荘で彼女の世話をしておけばいい」鈴がどうなろうと構わない。紗枝が余計な情をかけるつもりなら、面倒ごとごと押し付けてやればいい。そんな思いが、啓司の中にあった。一瞬、鈴は言い淀みかけたが、すぐに思い至った。牡丹別荘に行くということは、間接的に啓司と同じ敷地で暮らすことになる。口元が自然とほころんだ。「はい。すぐに牡丹別荘へ向かいます」まさかこんなにあっさり事が運ぶとは。鈴は思わず足早になった。そのころ紗枝は、啓司がまた「厄介者」を自分に押し付けたことなど知る由もなかった。昨夜修正した楽譜を持って出かけており、鈴が牡丹別荘へ到着した時には、すでに不在だった。屋敷の使用人たちは鈴を知らず、玄関で家政婦が逸之に尋ねると、少年は即座に首を振った。「すずって誰?僕、知らないよ」家政婦は眉をひそめると、すぐに入口の警備員に伝えた。「また社長に頼みごとをする類の人か、あるいは社長に取り入ろうとしてるんでしょう。追い返しなさい」彼女はいつも、紗枝と逸之の味方だった。ひとりの女性として、愛情には誠実さが何より大切だと知っていたし、啓司のような男には、そういう「寄ってくる女」も珍しくないこともよく理解していた。「おばさん、すごいね!ママが帰ってきたら言うよ、きっと褒めてくれるよ!」逸之は目を細めて、にこっと笑った。「褒めなくてもいいから、給料が上がればそれでいいんだけどね」家政婦は肩をすくめて笑った。「任せてってば!」と少年は胸を張り、ぽんっと彼女の肩を軽く叩いた。「はいはい、期待してるわよ」この一年あまり、逸之の世話を任されてからというもの、家政婦は地道に給料を貯め続けていた。おかげで今では、桃洲の郊外に家を買う頭金に手が届くほどになっていた。ちなみに、桃洲でも最も安いエリアですら、坪単価は80万円以上。黒木家の給与は、その分、破格だった。一方その頃、牡丹別荘の門前では、鈴は着替える暇もなく、傘を差してはいたものの、全身が冷えきっていた。風に煽られ、衣服の裾が濡れ、唇は紫に染まっている。「お願いです。開けてください......啓司さんが、私にここで働くようにって......」その甘えた声に、警備員は一瞬、心を揺らしたが、職務は職務だ。「申し訳

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status