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第762話

Author: 豆々銀錠
逸之はその声に振り向くと、そこにいたのは見覚えのない、清楚な雰囲気の女性だった。スポーツウェアに身を包み、髪はポニーテール、どこか柔らかな眼差しをしている。

逸之は思わず玄関の表札を見直した。

間違いない。

まさか、この女がバカパパの囲った「どろぼう猫」だったりして?

「おばさん、ここの住人ですか?」

探るように尋ねると、彼女は穏やかに首を横に振った。

「いいえ、ここは従兄の家なの。彼に用事があって来たのよ」

そう言って、じっと逸之を見つめてくる。

「もしかして、あなた......啓司お兄さんの息子さんじゃない?」

遠縁の親戚か。

そう思うと、逸之はほっとしてうなずいた。

「そうですよ」

「わあ、すごい偶然ね。場所を間違えたかと思ってたわ。私は斎藤鈴(さいとう・すず)。鈴さんって呼んでくれていいよ」

斎藤鈴?

どこかで聞いたような名前だな......

ふと、彼女の香水の匂いが鼻をつき、逸之はほんの少し不快に感じた。

「鈴さん、降ろしてもらえませんか」

逸之がそう頼んでも、鈴は腕の力を緩めなかった。

「もう少しだけ抱っこさせてよ」

逸之の目にははっきりとした嫌悪が浮かんだ。身をよじって逃れようとすると、鈴は渋々彼を降ろし、代わりにインターホンのボタンを押した。

「どちら様ですか?」

「啓司お兄さん、私よ、鈴。わざわざ会いに来たの」

ドアが開かないのを恐れて、慌てて付け加えた。

「逸ちゃんも玄関にいるよ」

「......なんで僕の名前を知ってるの?」

不審そうに問う逸之に、鈴は笑顔を浮かべた。

「あなたたち兄弟のこと、おじいちゃんが家族のグループチャットで報告してたのよ。この前のお盆休みに私も帰省してて、ちらっと見かけたの」

なるほど。確かにどこかで見たことがある。でも、兄ほど記憶力がいいわけじゃないし、すぐには気づかなかっただけか。

二人が玄関先で言葉を交わしているあいだ、ドアは一向に開く気配を見せなかった。ようやく警備員の声が返ってくる。

「申し訳ありません。ご主人は面会をお断りとのことです」

鈴は呆然とした。啓司の居場所を突き止めるのに、どれだけ苦労したか。

逸之もまた驚きを隠せなかった。あのバカパパが......僕に会いたくないって?

「啓司さんに伝えていただけませんか?私、帝都からわざわざ来たんで
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