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第2話

Author: ゴーヤの卵炒め
裕司が戻ってきたのは、翌朝のことだった。

雪子はまだ眠りの中にいたが、男の熱い体温を感じた。

目を覚ますと裕司だと気づいて、本能的に手で押しのけた。

「触るな!」

裕司の動作が止まり、眉間に不機嫌の色が浮かんだ。

「触らせない?小娘のわがままがひどくなったな!」

雪子は目を伏せた。「私……ちょっと気分が悪いの」

裕司は眉を上げた。

「確かに少し腫れてる」彼は顔をしかめた。「昨日の俺がやりすぎたか?」

雪子は黙ったままだった。

裕司は彼女の頬をつねった。

「分かった。怒るな。悪かった」

甘えた口調で言った。「前から温泉に行きたいって言ってただろ?数日後が誕生日だし、連れてってやる」

雪子のまつげが微かに震え、ようやく彼を見上げた。

「私の25歳の誕生日のためなの?」

「ああ」裕司はそっけなく言った。「そういえば温泉でやったことないな」

雪子はうつむき、目が熱くなった。

彼女には理解できなかった。

どうして人がこんなに平然と嘘をつけるのか。

別れる準備をしながらも。

行くはずもない旅行の計画を立てるなんて。

裕司は結局雪子を無理強いしなかった。

だが抑えきれない欲望は発散させる必要があり、結局彼女を抱きしめたまま自分で済ませた。

雪子は知らないうちにまた眠り、再び目を覚ますと裕司は既に出て行っており、メッセージが一つ残されていた。

【仕事で忙しいから、ゆっくり休んでいて】

布団の上には男の痕が残り、その下の肌はひんやりと冷えていた。どうやら男は立ち去る前に、彼女に薬を塗ってやったらしい。

裕司はいつもこうだった。

年齢が彼女よりずいぶん離れていたからか、彼の世話は隅々まで行き届いていた。

病気になったら自ら薬を飲ませ、苦味を嫌がれば砂糖を添えて一滴一滴と辛抱強く飲ませた。

雨が降れば、図書館から教室までのわずかな道のりさえ、仕事を中断して送り迎えしていた。

それほどまでに優しくされて、彼の真心を疑うことなど微塵もなかった。

だが今となっては理解できた。

彼が慈しんでいたのは今の雪子ではなく、あの時とっくに逝ってしまった少女なのだ。

胸がざわめき、雪子はシャワーを浴びて出かけた。

今日は隣接する大学でスポーツ講座を担当する予定だった。

会場で一人の女子学生がひときわ熱心で、次々と質問を投げかけてきた。

雪子はその子が自分と面影が似ているように感じ、不思議と打ち解けて話が弾んだ。

最後にその子は言った。「姉さん、私は夏目妙子(なつめ たえこ)です。海外から帰国したばかりで、ラインを交換しませんか?」

そう言って妙子が前方を見上げると、突然瞳を輝かせた。

「白野おじさん!」

雪子が顔を上げると、全身の血が凍る思いがした。

そこに立っていたのは、まさかの裕司だった。

妙子は小鳥のように楽しげに裕司のもとへ駆け寄り、裕司は溺愛たっぷりに彼女の髪をくしゃくしゃと撫でた。

「何を騒いでるんだ。お前の姉の友達だ。兄さんと呼べ」

妙子は舌を出してへそを曲げた。

「嫌よ。10歳も年上なんだから、おじさんって呼ぶわ!」

そう言うと彼女は雪子の方を見た。

「紹介するね。この方はさっき知り合ったお姉さん!神田雪子さんよ!」

裕司はその時初めて雪子に気づき、表情がこわばった。

雪子は淡々と言った。「これがあなたの『忙しい仕事』?」

妙子はやっと気づいた。「あれ?あなたたち知り合いなの?」

裕司ははっと我に返り、「ああ、ただの……友達だ」

雪子はまつげを微かに震わせ、自分に似ているがより若い少女を見つめ、全てを悟った。

裕司は別れも告げずに、既に次の身代わりを見つけたのか?

胸が苦しくなったが、彼女はその事実を暴こうとはせず、そっと身を引こうとした。

だが妙子は彼女の袖を引っ張った。

「みんな知り合いなら、一緒にご飯でも行きましょうよ!」
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