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幼馴染はあの女のために、母を殺した​

幼馴染はあの女のために、母を殺した​

Oleh:  オレンジよ​Tamat
Bahasa: Japanese
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母の心臓手術を行えるのは、世界でわずか三人だけだった。 ​ 「神の手を持つ心臓外科医」と呼ばれる夫、柘植覚(つげ さとる)は、手術を放り出し、風邪を引いた初恋の相手・杉之原美帆(すぎのはら みほ)の看病のために海外へ向かった。 ​ 絶望の淵に立たされたとき、幼馴染の稲玉琉太(いなだま りゅうた)が、最高の医師を連れて母の手術のために駆けつけてくれた。 ​ けれど、遅すぎたのか、母は結局、手術台の上で息を引き取った。 ​ 三年の月日が流れ、覚と離婚し、琉太からプロポーズされた。受け入れようとしたそのとき、琉太と覚の会話が耳に飛び込んできた。 ​ 「天音は気が強い。もしあのとき、母親が本当は病気じゃなかったことや、俺たちが美帆のために母親を死に追いやったと知ったら……」 ​ 全身の血が、一瞬で凍りついた。 ​ 琉太が覚の言葉を遮った。 ​ 「もういい。 ​ 美帆は母親のことで体調を崩し続けてた。天音の母親だけが唯一、適合するドナーだったんだ。俺が美帆の死を黙って見過ごせというのか? ​ 今こうして責任を持って天音と結婚してやるんだ。彼女はこれで満足すべきだろう」 ​ そのとき、私・竹本天音(たけもと あまね)は初めて知った。 ​ 母は、どこも悪くなんてなかったのだ。 ​ 彼らが共謀して、母を殺したのだ。 ​

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Bab 1

第1話 ​

母の心臓手術を行えるのは、世界でわずか三人だけだった。

「神の手を持つ心臓外科医」と呼ばれる夫、柘植覚(つげ さとる)は、手術を放り出し、風邪を引いた初恋の相手・杉之原美帆(すぎのはら みほ)の看病のために海外へ向かった。

絶望の淵に立たされたとき、幼馴染の稲玉琉太(いなだま りゅうた)が、最高の医師を連れて母の手術のために駆けつけてくれた。

けれど、遅すぎたのか、母は結局、手術台の上で息を引き取った。

三年の月日が流れ、覚と離婚し、琉太からプロポーズされた。受け入れようとしたそのとき、琉太と覚の会話が耳に飛び込んできた。

「天音は気が強い。もしあのとき、母親が本当は病気じゃなかったことや、俺たちが美帆のために母親を死に追いやったと知ったら……」

全身の血が、一瞬で凍りついた。

琉太が覚の言葉を遮った。

「もういい。

美帆は母親のことで体調を崩し続けてた。天音の母親だけが唯一、適合するドナーだったんだ。俺が美帆の死を黙って見過ごせというのか?

今こうして責任を持って天音と結婚してやるんだ。彼女はこれで満足すべきだろう」

そのとき、私・竹本天音(たけもと あまね)は初めて知った。

母は、どこも悪くなんてなかったのだ。

彼らが共謀して、母を殺したのだ。

私はドアノブを、壊れそうなほど強く握りしめた。

爪が手のひらに食い込んでいるのに、痛みさえ感じない。

涙が音もなく溢れ出し、床に落ちていった。

琉太が私にプロポーズしたのは、最初から最後まで美帆のためだった。

三年間そばにいてくれたことも、すべて嘘だった。

ドアの向こうでは、まだ会話が続いている。覚が言った。

「あのとき、美帆のために、俺はこの手で天音の母親を殺した。自分を恨めしそうに見つめてたあの目が、今も忘れられない。

こうしてお前が天音と結婚式を挙げることが、俺にとって彼女へのせめてもの償いだろう」

琉太の口元に、冷ややかな嘲笑が浮かんだ。

「美帆が愛してるのがお前でなければ、誰が天音みたいな女と結婚するか。

いいか、美帆を大切にしろ。さもなければ、タダでは済まさないぞ」

「お前も天音を大切にしてやれ」

覚が言葉を返した。

「余計なお世話だ。天音を愛してなどいない。俺が愛してるのは、いつだって美帆だけだ。天音と結婚するのも、美帆のために徳を積むようなものさ」

琉太が冷たく言い放った。

体中の血が凍りつくようだ。

部屋に飛び込んで、その偽りの仮面を剥ぎ取り、どうしてこんな残酷な真似ができたのかと問い詰めたかった。

けれど、体は鉛のように重く、その場に釘付けになって動けない。

結局、私は逃げ出した。

なんて情けない、問いただす勇気さえ持てない臆病者なのだろう。

一人で道を歩いた。

周囲は楽しそうな連れ合いばかりだ。

それなのに、私には行くべき場所がどこにも見当たらない。

空が暗く曇ってきた。

大粒の雨が体に叩きつけられた。

前触れもなく降り出した雨は、肌を刺すように痛い。

私は街の片隅でうずくまり、雨水と涙がすべてを塗りつぶすままにさせている。

世界はこんなに騒がしいのに、私の居場所はどこにもない。

不意に温かな体温が私を包み込み、懐かしいシダーウッドの香りが漂ってきた。

頭の上で、琉太の声が響いた。

「電話に出ないから、ずっと探してたんだ。こんなところにいたのか」

私は虚ろな瞳を向けたまま、何も答えなかった。

彼は話を続けた。

「お母さんのことを思い出してたんだろう?

もう考えるな。いいかい、これからは俺がいる。俺がお前の家族になるから」

彼の胸に顔をうずめ、その穏やかな鼓動を聞きながら、鈍い刃物で何度も心臓を切り刻まれているような心地がした。

こんなに優しく振る舞いながら、どうして母を殺した犯人になれるのだろう。

あのとき、覚は母を見捨てて美帆の看病に行った。

琉太は医師を連れて、私の人生に差し込む一筋の光のように現れた。

今思えば、あの医師はきっと、母の心臓を奪うために連れてこられたのだ。

母の葬儀があんなに急がされたわけだ。

私は気を失っていた。

目を覚ましたときには、母はすでに火葬場へと送られていた。

すべては、私に真実を悟られないようにするためだったのだ。

琉太は私を抱きかかえて家に戻ると、乾いたタオルを手に取り、いつものように髪を拭こうとした。

その指が触れる直前、私は強く顔を背けて避けた。

「自分でやるわ」

そう言い残して、そのまま二階へと上がった。

真実を知った今、もう彼と仲睦まじい恋人を演じ続けることなんて、到底できない。

一秒でも長くそこにいたら、彼を絞め殺してしまいそうで怖かった。

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第1話 ​
母の心臓手術を行えるのは、世界でわずか三人だけだった。​「神の手を持つ心臓外科医」と呼ばれる夫、柘植覚(つげ さとる)は、手術を放り出し、風邪を引いた初恋の相手・杉之原美帆(すぎのはら みほ)の看病のために海外へ向かった。​絶望の淵に立たされたとき、幼馴染の稲玉琉太(いなだま りゅうた)が、最高の医師を連れて母の手術のために駆けつけてくれた。​けれど、遅すぎたのか、母は結局、手術台の上で息を引き取った。​三年の月日が流れ、覚と離婚し、琉太からプロポーズされた。受け入れようとしたそのとき、琉太と覚の会話が耳に飛び込んできた。​「天音は気が強い。もしあのとき、母親が本当は病気じゃなかったことや、俺たちが美帆のために母親を死に追いやったと知ったら……」​全身の血が、一瞬で凍りついた。​琉太が覚の言葉を遮った。​「もういい。​美帆は母親のことで体調を崩し続けてた。天音の母親だけが唯一、適合するドナーだったんだ。俺が美帆の死を黙って見過ごせというのか?​今こうして責任を持って天音と結婚してやるんだ。彼女はこれで満足すべきだろう」​そのとき、私・竹本天音(たけもと あまね)は初めて知った。​母は、どこも悪くなんてなかったのだ。​彼らが共謀して、母を殺したのだ。 ​私はドアノブを、壊れそうなほど強く握りしめた。​爪が手のひらに食い込んでいるのに、痛みさえ感じない。​涙が音もなく溢れ出し、床に落ちていった。​琉太が私にプロポーズしたのは、最初から最後まで美帆のためだった。​三年間そばにいてくれたことも、すべて嘘だった。​ドアの向こうでは、まだ会話が続いている。覚が言った。​「あのとき、美帆のために、俺はこの手で天音の母親を殺した。自分を恨めしそうに見つめてたあの目が、今も忘れられない。​こうしてお前が天音と結婚式を挙げることが、俺にとって彼女へのせめてもの償いだろう」​琉太の口元に、冷ややかな嘲笑が浮かんだ。​「美帆が愛してるのがお前でなければ、誰が天音みたいな女と結婚するか。​いいか、美帆を大切にしろ。さもなければ、タダでは済まさないぞ」​「お前も天音を大切にしてやれ」​覚が言葉を返した。​「余計なお世話だ。天音を愛してなどいない。俺が愛してるのは、いつだって美帆だけだ。天
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第2話 ​
翌朝、ドアが静かに開かれた。​琉太が近づき、慣れた手つきで私の額にそっと口づけを落とした。​「今日はお母さんの命日だ。墓参りの支度はできてる」​その声は低く、穏やかだ。​この三年間、毎朝私を安心させてくれたあの声と変わらない。​私は小さく頷き、何も言わなかった。​出かけようとしたとき、琉太のスマホが鳴った。​画面に【美帆】という二文字がはっきりと浮かび上がり、私の目に映った。​彼の瞳が激しく揺れ動き、繋いでいた私の手を瞬時に離した。​「ちょっと待っててくれ」​琉太は急ぎ足でバルコニーへと向かった。​十分後、戻ってきた彼の顔には、焦りの色がにじんでいる。​「天音、会社で急なトラブルが起きた。今日は一緒に行けそうにない」​私と目を合わせることさえせず、彼は背を向けようとした。​私は手を伸ばし、彼の袖をぎゅっと掴んだ。​「琉太……お願い、今日だけはそばにいて。今日だけでいいから」​消え入りそうな声だったが、ありったけの力を振り絞った。​心の中で自分に言い聞かせた。​もし彼がここに残ってくれるなら、もし私を選んでくれるなら、昨夜聞いたすべてのことを、悪い夢だったと思い込もう、と。​彼は一瞬だけ動きを止めたが、やがて私の指を一本ずつ引き剥がした。​「わがままを言わないでくれ。本当に急用なんだ。​車は手配してあるから、それで向かって。俺はできるだけ早く戻る」​彼は一度も振り返らなかった。​ドアが閉まる音が、私の心に残っていた最後の望みを奪い去った。​私の指は、引き剥がされたときの形のまま、氷のように冷たく固まっている。​――琉太、チャンスをあげたのよ。​それを捨てたのは、あなた自身。​私はスマホを取り出し、大金持ちの父に電話をかけた。​「実家に戻って、跡を継ぐわ」​電話の向こうから、隠しきれない驚きと喜びの声が聞こえてきた。​「本当か?向こうでの暮らしを、すべて捨てて戻ってくるんだな?」​私は窓の外に広がる、灰色に沈んだ空を見つめた。​「三日後に迎えを寄越して」​車は墓地へと向かっている。​スマホが震え、見知らぬメールアドレスから一枚の写真が送られてきた。​写真の中で、美帆は満面の笑みを浮かべ、真ん中に立っている。​彼女の左隣には、私の
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第3話 ​
結局、琉太は迎えに来なかった。​家には帰りたくなかった。​運転手を先に帰らせ、一人で街を歩くことにした。​ショッピングモールの入り口に着いた途端、琉太と美帆の姿が目に飛び込んできた。​二人はまるで少女漫画から飛び出してきたかのように、お似合いのカップルに見えた。​美帆は私に気づくと、一瞬だけ瞳を輝かせた。​琉太の腕をぎゅっと抱き寄せると、真っ直ぐにこちらへ歩いてきた。​彼女の声は甘ったるく、けれどその眼差しには鋭い棘が宿っている。​「天音、どうしてこんな所に一人でいるの?寂しそうだね」 ​私は口角を上げたが、作り笑いをするのさえ億劫だ。​「そうね、なにしろ私の婚約者は……」 ​琉太に視線を向けると、彼はわずかに眉をひそめた。​「美帆のお相手で忙しいみたいだから、一人なのは当たり前でしょう」 ​美帆の目尻がみるみるうちに赤くなった。​彼女は琉太の手を離すと、まるで耐え難い屈辱を受けたかのように振る舞った。​琉太はすぐさま彼女を背後に庇い、私を睨みつけた。その目には隠しきれない苛立ちが宿っている。​「そんなに刺々しい言い方しかできないのか?​何度も言っただろう、美帆は妹のような存在なんだ」 ​それを聞いた私は、自分でも驚くほど冷静だ。​美帆は声を詰まらせ、今にも私に頭を下げそうな仕草を見せた。​「琉太、天音を責めないで。​私がいけないの。私が謝れば済むことだから」 ​琉太は慌てて美帆を支え、ひどく心を痛めている様子だ。​「美帆、お前は何も悪くない。謝る必要なんてないんだ」 ​彼は私に向き直ると、重苦しい視線で脅すように見つめてきた。​「今すぐ美帆に謝れ。さもないと、タダでは済まさないぞ」 ​私は奥歯を噛み締め、口の中に鉄の味が広がった。​これ以上、どうやって自分を欺けばいいのかさえ分からない。​琉太の瞳にも心にも、美帆しか映っていないのだ。​「謝らないわ。一つも間違ったことを言ってないから」 ​彼の額に青筋が浮かび、眼差しは凍りついている。​背後にいた二人のボディガードが歩み寄り、乱暴に私の膝の裏を蹴り上げた。​激しい痛みが走った。​不意を突かれた私は、美帆の前で無残にも膝をついてしまった。​琉太は私を見下ろし、冷たい声で言い放った。
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第4話 ​
私はただ淡々と「わかったわ」とだけ応じた。​その従順な様子が、かえって琉太の眉をひそめさせた。​彼は私の手首を掴んだ。その力には、どこか理性を欠いたものが感じられた。​「美帆の持病がぶり返したのはお前のせいだ。それなのに、こんな態度をとって、一体何に腹を立ててるんだ?」 ​私は視線を上げ、彼の瞳の奥をじっと見つめた。​「ここは琉太の家よ。誰を住まわせようと、私に拒む権利なんてあるのかしら?」 ​琉太は呆然とした様子で、手の力をわずかに緩めた。何か言いかけたようだ。​後ろから美帆の声が聞こえた。​「琉太、やっぱり私、行くわ。​私のせいで琉太と天音が喧嘩するのは嫌なの」 ​彼女は手を伸ばし、琉太の袖をそっと引いた。​琉太は美帆の手を握りしめた。​「安心しろ。俺がここにいる限り、誰にもお前を追い出させはしない」 ​彼は鋭い目で私を一瞥すると、美帆を抱きかかえて二階へと上がっていった。​翌日、私が外から戻ると、琉太がリビングに立っている。​彼の視線が私に注がれた。​口を開いた彼の言葉は、当然のことと言わんばかりの命令だ。​「美帆が最近、夜にうなされてよく眠れないらしい。お前のそのお守り、しばらく彼女に貸してやってくれ」 ​私は足を止めた。​首にかけたお守りは、十数年もの間、肌身離さず身につけてきたものだ。​幼い頃、私が数日間にわたって高熱にうなされたとき、琉太が彼の両親と共に神社へ参拝し、私のために授かってきてくれたもの。​不思議なことに、それを身につけたその夜、熱はまるで嘘のように引いていった。​それ以来、私は大きな病気をしたことがない。​今、琉太はそのお守りを取り上げようとしている。​黙り込んでいる私を見て、彼は釈明でもするかのように、ぶっきらぼうに言葉を継いだ。​「美帆は今、具合が悪いんだ。​少しの間だけ貸せばいい。体が良くなったらすぐに返すから」 ​私は首にかけたお守りに手を伸ばした。​ためらうことなく、力任せに引きちぎった。​それをテーブルの上に置き、美帆の方へと押しやった。​「元々私のものではない。返す必要もない」 ​言い捨てて、私は二階へ上がった。​今日は、この家を去る日だ。​身分証明書以外、何も持たなかった。​階段を降りると
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第5話 ​
琉太は大きく目を見開き、信じられない様子で呟いた。​「嘘だろ……​俺のそばを離れて、あいつはどこへ行けるっていうんだ?」​琉太は、私に行くあてがないことを知っていたのだ。​それなのに、美帆の命を救うために、私の唯一の肉親を殺した。​私と琉太は幼馴染で、私が母の手ひとつで育てられたことも、彼はよく知っていたはずだ。​母がどれほどの苦労をして私を育て上げ、私にとってどれほどかけがえのない存在だったか。​彼はすべてを分かっていながら、大したことではないと考えていた。​十分な償いさえすれば、母を死に追いやったことさえ許されると思っていたのだ。​どうせ私と一緒にいても大した暮らしはできないのだから、早めにあの世へ逝かせてやったほうがマシだ、とでも言いたげに。​琉太はまるで狂ったように私の行方を探し回っている。​その頃、私は海外へ向かう機内にいる。琉太の手から逃れたというのに、胸のうちはひどく苦しい。​認めざるを得ないのは、あんな仕打ちを受けた後でも、彼が母を除いて最も信頼していた人だったということだ。​私は物心がついた頃から父という存在を知らず、母からは「お父さんは亡くなったのよ」と聞かされて育った。​けれど、本当は彼がこの世界のどこかで、元気に暮らしていることを知っていた。​少し大きくなってから、ようやく母がやむを得ず嘘をついた理由を知った。​母はずっと前に父と恋仲になり、主婦になることを一心に願って父に尽くした。母の世界には、父しかいなかった。​けれど父は、その端正な顔立ちを金持ちの娘に気に入られ、妻子を捨てて、金目当てにその女と海外へ渡ってしまった。​父が勝手に去った後、妊娠中だった母は近所の人々から後ろ指を指され、顔を上げて歩くこともできなかった。​あの時代、未婚で子を宿すことは許されなかった。母は「ふしだらな女だ」「恥知らずだ」と罵られた。​その後、その金持ちの娘はどこからか父に婚約者と子供がいることを聞きつけた。彼が金のために自分と結婚したのだと。​彼女は愛する男を責めることはなかった。​けれど、その矛先は母に向かった。母の仕事は不可解な理由で奪われた。​さらに、母こそが本物の泥棒猫だという噂まで流された。​ただでさえ苦しい生活を送っていた母にとって、その噂は追い打ちを
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第6話 ​
琉太はすぐに私の足取りを掴んだ。​それは驚くことではない。権力も財力も持つ彼にとって、私を見つけ出すのは遅かれ早かれのことだ。​けれど、彼にとって予想外だったのは、私がこれほど遠くまで逃げていたことだろう。​彼は焦りに駆られ、今すぐにでも私の目の前に飛んで行きたいに違いない。私が何を知り、なぜ彼を訴え、すべてを捨てて消えてしまったのかを問いただすために。​初めて父と対面したとき、彼は私の想像とは違っている。​よくいる父親のように気取ったところがなく、威圧感もなかった。​電話で母の訃報を伝えたので、対面したときの彼の表情はどこか沈んでいる。​きっと母のことを思い出しているのだろう。​父は深いため息をつくと、私を悲しませまいと母との過去には触れず、そっと私の肩を叩いた。​「よく来たな。​昔のお父さんには力がなかった。だが、これからはもう、お前に辛い思いをさせない」​ここ数年で私が耳にした中で、最も温かい言葉だ。​十数年も憎み続けてきた人の口から、こんな言葉が出るとは思ってもみなかった。​父の言葉に嘘はなかった。海外で過ごすうちに、私の心は少しずつ前向きになっていった。​さまざまな国を巡るうちに、母を亡くした悲しみの霧も、しばらくの間は晴れていった。​けれど、まだすべてが終わったわけではない。​琉太はその報いを受けていないのだから。​私が琉太のことを思い出しているように、琉太も私のことを考えている。​それどころか、ここ数ヶ月、彼は一瞬たりとも私のことを忘れたことはなかった。​私が去ってから、彼は国内で美帆と一緒に過ごしている。表向きは、ただの仲の良い男友達として振る舞っている。​以前の彼にとって、それはこの上ない幸せなことだったはずだ。​けれど今、琉太は自分の過ちがいかに深かったかを思い知らされた。​美帆と一緒にいても、もはや彼の心は安らぐことなく、次第に苛立ちを募らせていった。​それどころか、私のことを想うようになっていたのだ。​彼は国内のすべてを放り出して私を追いかけようとしたが、涙を浮かべた美帆に引き止められた。​「琉太まで私を捨てるの?」​このところ、美帆と覚の仲はうまくいっていない。​原因はすべて、彼女と琉太の距離が近すぎることだ。​皮肉なことに、美帆
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第7話 ​
琉太はずっと想い続けてきたその顔を見つめ、苛立ちに震えていた心がようやく静まっていくのを感じた。​そして彼は強引に私を抱きしめた。その声はわずかに震えている。​「天音、やっと戻ってきてくれたんだ」​彼にとって、私は一度失い、ようやく取り戻した宝物なのだろう。​だが私にしてみれば、この男と顔を合わせることほど忌々しいことはない。​ありったけの力で彼を突き放し、そのままドアを閉めようとした。​「天音、一体どうしたんだい?話してくれ!​どうして?俺たちの間に何があったんだ?言ってくれさえすれば、何だって解決できるはずだ」​もっともらしい彼の言葉を耳にして、私はただ、おかしくてたまらない。​この期に及んで、まだ私の前で無実を装うつもりなのだ。​だから、私は彼の目をじっと見つめ、一言一言を噛み締めるように言った。​「いいわ、それなら教えて。​母は本当はどうやって亡くなったの?​その心臓は、誰のものになったの?」​琉太は私の問いかけを聞き、わけもなく動揺を見せた。​彼は口ごもり、はっきりと説明できないまま、ただ言い逃れをした。​「お母さんが亡くなったのは、俺だって望んでたことじゃないんだ。​俺はずっとお母さんに見守られて育ってきた。そんな結末を、望むはずないだろう?」​そんな言葉で同情を誘おうとしているようだが、私にはただ吐き気が増すだけだ。​そう、母に手塩にかけて育てられたことを、琉太自身も覚えている。​幼い頃、私の家は貧しく、幽霊が出ると噂されるようなボロ屋に住んでいた。​その古びた家には、母との幸せな思い出がすべて詰まっていた。​琉太とは壁一枚を隔てた隣同士だったが、その暮らしぶりは雲泥の差があった。​彼はまさに天に恵まれた子だった。​愛以外のすべてを手に入れていた。​両親は年中仕事で家を空けており、幼い頃の琉太はいつも寂しさに包まれていた。​親友と呼べる存在はいなかった。私を除いては。​子供同士の絆というものは、いつだって純粋なものだ。​琉太は母にまつわる良からぬ噂も、私の家の貧しさも気に留めず、服の質の違いにさえ無頓着だった。​彼の制服はいつも新品のようにきれいに整っていたが、私は色あせた制服を着るしかなかった。​私が食事をしていると、彼は決まって私
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第8話 ​
琉太は片手で頬を押さえ、信じられないという表情で私を見つめた。​彼の中での私は、いつも穏やかで、誰に対しても声を荒げることのない人間だったのだろう。​ましてや、彼にこんな仕打ちをするなんて。​彼は何不自由なく育った御曹司で、これまで誰からも逆らわれたことがなかった。​たとえそれが一人の命に関わることであっても。​彼にとって、美帆の命こそが最優先だった。​それどころか、母の命を美帆に差し出すことは、彼にとって十分に見合う取引だとさえ考えていた。​そうすれば、私のこれからの生活を一生保証してやれるのだから、と。​たとえ母が生きていたとしても、母なら迷わず承諾したに違いないと信じていた。​私の意見を求める者など、誰もいなかった。​私が母を失いたくないという気持ちは、誰にも理解してもらえなかった。​私は頑なに琉太を家の外へ追い出し、ソファに座って乱れた心を落ち着かせようとしている。​そのとき、父から電話がかかってきた。​「国内での用件は、順調に進んでるか?」​今日起きた出来事をどう話せばいいのか分からず、ただ頭の中がひどく混乱している。​「お前がこれまでどんな日々を送ってきたか、少し調べてみた。安心しなさい。お父さんは、お前に理不尽な思いをさせたままにはしない」​父は一度言葉を切り、さらに冷徹な声で続けた。​「それから、お母さんのことも……あんな形で終わらせはしない」​この数日を共に過ごして感じたことだが、父は母に対して並々ならぬ想いを抱いているようだ。​けれど、裏切りは裏切りだ。どれほど深い事情があろうとも、裏切ったという事実に変わりはない。​金のために妻子を捨てたような振る舞いを、心の底では軽蔑している。しかし、今の私には彼に頼るほか道がない。​だから素っ気なく返した。​「分かったわ……数日中に裁判を起こす」​琉太は、私の問いかけから、母が亡くなった真相を私が知っていることに気づいた。​彼の心に焦りが生まれ、無意識のうちに美帆を責め始めた。​彼女のせいで、私と彼との関係は修復できないほど壊れてしまったのだと。​だが、本当は誰かを犠牲にする必要などなかったはずだ。彼ほどの財力があれば、適合するドナーを他に見つけ出すこともできたはずだ。​それなのに、彼は美帆のために、
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第9話 ​
この言い草に、琉太はまったく好感を抱けなかった。​今日、彼は私に平手打ちを食らったばかりで、腹の虫が収まらなかったのだ。​美帆は、ちょうどよい怒りを発散できる相手となった。琉太は彼女の手を強く握りしめ、鋭い声を上げた。​「いい加減にしろ!​俺はお前の彼氏じゃない。俺だって一人の人間だ。​悩みがあるなら、覚にでも言えばいいだろう?」 ​美帆は呆然と琉太を見つめ、その言葉を聞きながら、涙を流し続けた。​だが今の琉太にとっては煩わしいだけで、ためらうことなくその手を振り払った。​「さっさと失せろ」 ​その日以来、美帆は琉太のそばに姿を現さなくなった。​しかし、琉太は何かを疑っているかのように、妙に熱心に彼女の身辺を調べ始めた。​調べてみなければ分からないものだ。そこには、琉太を激昂させるに十分すぎる事実が隠されていた。​あの日、美帆が口にした心臓の病など、すべて彼女のついた真っ赤な嘘だったのだ。​彼女に病気などなく、私の母の心臓も、最初から必要ではなかった。​彼女が仕組んだこれらすべては、ただ母を亡くした私の苦しむ姿を見たかった、それだけのためだった。​私にこれ見よがしに突きつけたかったのだ。私をあれほど愛していた男たちも、結局は形だけのまやかしに過ぎないと。​彼らが愛していたのは、最初から最後まで彼女一人。​私ではなかったのだ。​美帆の裏でのあくどい振る舞いを知った琉太は、激怒した。​かつて彼女を好きだった頃は、その仕草のすべてが愛らしく、慰めを求める姿さえも守ってあげたいと思えたものだ。​だが、こんなことが起きた今、彼はこの女を憎まずにはいられない。​琉太の目には、美帆の悪巧みのせいで、彼と私が決定的に引き裂かれたのだと映っている。​自分自身の過ちこそが最大の原因であることに、少しも気づいていない。​何より彼が我慢できないのは、美帆に欺かれていたことだ。​琉太はプライドが高く傲慢な男で、誰かに騙されることを何よりも忌み嫌っている。​たとえその相手が美帆であっても、決して許されることではない。​そして、美帆は彼に強引に連れてこられた。​琉太は美帆を引きずり、私の前で無理やり跪かせた。​「天音、全部この女のせいなんだ。こいつさえいなければ、俺たちが離ればなれにな
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第10話 ​
琉太は美帆の言葉に、返す言葉も出ないほど逆上し、ただひたすらに彼女の髪を掴んで地面に叩きつけ続けた。​最初のうちこそ、美帆には琉太を罵る力があったが、血が流れて広がるにつれ、彼女は恐怖に支配されていった。​死を目前にした本能だろうか。彼女の頬を涙が伝い、大きな雫となって地面に滴り落ちた。​「琉太、お願い、許して……助けて……​私が悪かったわ。もう分かったから」 ​だが、それは虚しい叫びに過ぎない。​琉太は完全に自分の怒りに溺れ、美帆に対して一欠片の憐れみも抱いていない。​結局、彼女は大量の血を失い、琉太の手によって命を散らした。​美帆が完全に息を引き取ったとき、ようやく琉太は自分が何をしたかに気づいた。​彼は勢いよく死体から手を離し、叫び声を上げた。​「俺じゃない……俺じゃないんだ……」 ​しかし、美帆の凄惨な死に様を見つめるうちに、なぜか妙な達成感を覚えたようだ。​「クズ女め、死んで当然だ。お前にはお似合いの最期だ!」 ​琉太の顔を見つめながら、私はふと、この男を哀れに思った。​この茶番劇を終わらせるときが来たのだ。​琉太は同じように私の足元に跪き、取り憑かれたかのようにつぶやいた。​「天音、これで俺たちの邪魔をする者は誰もいなくなったぞ。​またやり直せる。これからはずっとお前を大切にするって誓うから。だから許しておくれ。​海外に行くんだろう?これからは向こうで一緒に暮らそう。許してくれるなら、俺は何だってする。​天音、俺はようやく自分の間違いに気づいた。死んだ人は戻ってこない。お母さんのことは俺も本当に悲しいと思ってる。けれど、生きてる者は、前を向いて生きていかなきゃいけないんだ」 ​どの口がそれを言うのかと思ったが、もうどうでもよかった。​まもなく、すべてが終わる。​自分の犯した罪から逃れられる者など、どこにもいない。​私は琉太の顔をそっと掴み、力を込めてその頬を叩いた。​「琉太、私をここまで地獄に突き落としておいて、自分だけ何事もなかったかのように済ませるつもり?​あなたみたいな人間が生きてるだけ無駄だわ。死んだほうがマシよ」 ​そう言って私が握りしめたナイフは、陽の光を浴びて鋭く輝いた。今すぐその胸に一突きしてやりたいという衝動を抑えきれない。​だが
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