LOGIN30歳になるまでに、私・野口篠(のぐち しの)は二度も家から追い出された。 一度目の相手は、海鳴市のトップ実業家である伊藤裕貴(いとう ゆうき)だった。政略結婚とはいえ子供を授かり、健診へ向かうはずだった日、私はあろうことか、彼がタワーマンションの最上階の窓際で、女子大生と体を重ねているところに出くわしてしまったのだ。 彼は「物分かりの悪い女だ」と私を責め立て、そのまま家から追い出した。 父は、「あれほどの金持ちともなれば、外で女遊びをするのは当たり前だ」と言ってのけた。 その言葉への反発もあり、二度目は私を10年間一途に想い続けてくれた幼馴染、野口健太(のぐち けんた)と結婚した。彼は私に対してとても優しく、何でも受け入れてくれる器の大きな人だった。 元夫が毎年未練がましく謝罪の品を送ってきても、彼は嫌な顔一つしなかった。 結婚して3年が経っても私がいまだに身ごもらないことさえ、決して責めようとはしなかった。 肌を重ね、快楽の波に呑まれるたびに、彼は私の耳を甘噛みしながら甘い声で囁いた。「子供なんて、欲しくないなら作らなくていい。俺は君さえいてくれればそれでいいんだ」 しかし記念日の当日。彼は突然見知らぬ女を家に連れ帰り、私の荷物を寝室から放り出すよう執事に命じたのだ。 私は渡すはずだった妊娠検査薬を強く握りしめ、震える声で問いかけた。「どういうつもり?」 彼はタバコを指に挟んだまま、まるで馬鹿げた冗談でも聞いたかのように鼻で笑った。 「篠、これ以上白々しい芝居を続ける気か? 伊藤に捨てられたあの時、何も学ばなかったのか?」
View More健太が私を見つけ出したのは、雨の降る日だった。その時私はロッキングチェアに座り、猫の耳を撫でていた。「篠……やっと見つけた」彼の口元は興奮で震えていた。雨に濡れそぼったその体は、枯れ木のように痩せ細っていた。もう、心が整理されていたからかもしれない。彼の姿を再び目にしても、私の心は波立つことはなかった。憎しみさえも消え失せていた。「雨宿りしていけば?」健太は瞬きをすると、すがりつくように言った。「ああ、そうさせてもらう」彼は大きなタオルで頭を拭いながら、慎重に言葉を選んでいる様子だった。「篠、ここは君には狭すぎる。俺と一緒に東都へ帰ろう」私は彼の言葉を遮り、かつて愛し、そして憎んだこの男を静かに見つめた。「あなたがいた大きな豪邸より、ここでの暮らしのほうがずっと穏やかだった。これで十分なの」健太の笑顔が引きつり、その目には底なしの不安が渦巻いた。「分かってる。すべては俺が悪かったんだ。これからの生涯をかけて、君に償う。篠、聞いてくれ。泉の子どもは俺が始末した。すべての黒幕が泉だったという証拠も見つけたんだ。彼女は今や半身不随になった。だから、彼女を裏社会の風俗店へ売り飛ばしたんだよ。君を苦しめた代償を、何百倍にもして支払わせてやる。だから、俺にもう一度だけチャンスをくれないか……」「『これからの生涯』なんて言葉、二度と使わないで。滑稽だわ」私は口角を上げ、笑って見せた。「以前は、命に代えても私を守るって言っていたわよね。私にどんな結果をもたらしたか、自分でも分かっているでしょ?だから、健太」私は彼の方へ顔を向けた。「守れないような約束を軽々しく口にするのはやめて。守れない約束ほど、安っぽいものはないわ」今にも泣き出しそうな男を前に、私は疲れを感じて、眉間を軽く揉んだ。「私とあなたの関係は、もう完全に終わったの。お互い、もう解放されよう」二度の結婚で、残ったのは傷だらけの身体だけ。他人に希望を託しても、結局は傷つく運命にあるのだった。健太は口を開き、まだ何かしがみつこうとしているようだった。だが私の冷たい視線に触れ、最後には言葉を飲み込んだ。彼は重い足取りで歩き出し、ドアのところで一度立ち止まった。「君は……あいつのところへ行くのか?」「あいつ」が誰
数時間後、裕貴が再び私の病室に姿を現した。叩こうが罵ろうが、彼はしつこく私のそばを離れようとしなかった。彼はスープを手に取り、冷ましてから私の目の前に差し出した。私はぷいっと顔をそらした。「裕貴。原田さんを東都まで連れてきたのは、あなたでしょ?あのチンピラどもを裏で操っていたのが原田さんだってことも、本当は知っていたんじゃない?」「篠……俺は」裕貴は口をつぐみ、弁解したいというような顔をした。だが私は、それを手で制した。「一体、何が目的だったの?今のあなたは、まるで別人のようだわ。あなたは海鳴市一の実業家なのよ。あなたが守っている限り、健太がどんなに調べても彼女にはたどり着けない。だから結局、死んだのはあのチンピラたちだけで、彼女は無事だったのね」その言葉を突きつけてから、長い沈黙が流れた。室内は重苦しい空気に包まれる。ただ私の静かな呼吸の音だけが聞こえていた。やがて、裕貴の掠れた、自嘲するような声が聞こえてきた。「篠、俺と一緒に戻ってくれるなら、泉を直接お前に引き渡してやる。どう始末しようと、お前の好きなようにしてくれ」私は鼻で笑い、冷たい視線を彼に向けた。「裕貴。あの時あなたが浮気をせず、私を追い出したりしなければ、たとえ普通に離婚していただけでも、その後の悲劇なんて起こらなかったのよ。今更になっていい人のふりをして現れれば、私が許すとでも思ったの?私はそこまでお人好しじゃないわ。帰りなさい」そう言うと、私は寝返りを打ち、二度と彼を見ようとはしなかった。それでも、裕貴はすぐには立ち去らなかった。拳を握りしめ、何かを言い訳しようとしている。「自分勝手だったことは認める。ただ、お前に野口の本性を見せてやりたかったんだ。あいつはお前に相応しくない!だが、お前が……二人目の子どもまで失うことになるとは、思っていなかった。篠、お前をこんな風に傷つけるつもりはなかった……こんなことになるなら、最初から奪い返していればよかった……」私は目を閉じたまま、静かに答えた。「私の子どもが死んで、さぞ清々したでしょ?あの時、あなたの子どもも失われたんだもの。ある意味、原田さんはあなたの望みを叶えてくれたと思っているんじゃないの……」裕貴は苦笑しながら首を振った。「
「篠……もう一度だけ、チャンスをくれないか?これからは絶対に君を傷つけないと誓う。俺が馬鹿で、見る目がなかった。でも、俺たちが子供の頃から十何年も過ごしてきた絆にかけて、やり直させてくれ」健太はひどく狼狽し、膝をついたままベッドの傍まで来ると、私の手には触れられず、ただシーツを握りしめて懇願した。鼻水を垂らして泣き縋る彼を見ても、私はただただ嫌悪感しか抱けなかった。「白々しいと思わないの?あなたが少しでも気をつけていれば、原田さんが子どもに手を下す隙なんてなかったはずよ。私と彼女の因縁を知っていながら関係を持った。それは私へのあからさまな復讐でしょ!健太、あなたは私より彼女を信じたのよ」今更、何を言っても無駄だ。男に期待など抱いた私が悪かったのだ。自分の幸せを、他人に委ねるべきではなかった。一度捨てることができたのだ。二度目もできないはずがなかった。私は目の潤みを拭い、健太を見下ろした。「これ以上話すことはないわ。勝手に離婚届を出して、原田さんと籍を入れたんでしょ?好都合ね、これで私から離婚手続きをする手間も省けたわ。帰りなさい。もう二度と来ないで」健太は床にへたり込み、顔を上げて私を見た。涙と血が混ざり合い、彼の顔を伝い落ちた。まるで血の涙を流しているかのようだった。裕貴は彼を一瞥し、そして私を見た。私が決して健太を許さないことを確信したのだろう。裕貴は安堵したように、病室を出て行った。ドアの外で隙を窺っていた泉が、すかさず滑り込んできた。彼女はしゃがみ込み、痛ましそうに健太の顔の血を拭おうとした。「健太さん、どうしてそんなに卑屈になるの。篠さんは最初から健太さんなんて愛してない。まだ元夫が好きなのよ。腹の子どもだって、どうせ裕貴さんの……」健太は迷いなく、泉をひっぱたいた。そして、キャアッという悲鳴が響いた。泉は無様に床へ投げ出された。彼女のお腹は、以前よりもさらに膨らみを増していた。床に倒れ込み、お腹が重くて起き上がることすらできなかった。「誰が入っていいと言った!出て行け!俺も篠も、お前の顔など見たくない!」泉の顔に一瞬だけ驚愕の色が走ったが。すぐにまた、あの弱々しく哀れな表情を作った。「健太さん、どうしてそんなに怒るの。私はあなたの子
その言葉を最後に、私はもう耐えきれず、その場に倒れ込んだ。ガシャンと鎖が鳴る音に混じり、二人の男の恐怖に満ちた叫び声が響いた。「篠!」「篠!」その後の時間は、止まってしまったかのようだった。耳元で、ただ喧騒だけが渦巻いていた。男たちが怒鳴り合う声が聞こえることもあれば、誰かが「雪が降ってきた」と叫ぶ声が聞こえることもあった。私が目を覚ましたのは、初雪の降る日だった。ベッドの傍らでは、健太がうつ伏せになって眠っていた。私の気配に気づき、彼が目を覚ます。私と目が合うと、その目にあった眠気は一気に吹き飛んだ。彼の目は見る見るうちに赤く充血し、私の手をきつく握りしめ、掠れた声で言った。「篠……やっと目が覚めたんだな」私は空虚な眼差しのまま、瞬き一つせずに彼を見つめた。何の反応も示さなかった。彼の顔に浮かんでいた笑みは引きつり、少しずつ消え失せていった。「頼む、説明させてくれ……あのチンピラどもを雇ったのは俺だ。でも、俺はただ君を脅して、東都へ連れ帰りたかっただけなんだ。あいつらがあんな真似をするなんて……」健太の顔に深い苦痛の色が走り、私の手を握る力がいっそう強くなった。「妊娠しているなんて、知らなかったんだ……なぜ黙っていた?」その時、一枚の診断書が健太の頭に容赦なく叩きつけられた。差し入れを手にした裕貴が立っていた。その眼光は、まるで人を殺しかねないほど鋭かった。「野口、『知らなかった』の一言で、お前が篠を傷つけた事実が消えるわけじゃないぞ!その節穴の目でよく見ろ!診断書に何と書かれている!不妊治療の果ての結果だぞ!この3年間、彼女がどれだけの苦しみに耐え、身体を削って子供を授かったのか……それなのにお前は何をしたんだ!泉が持ってきた薬で、その子どもの命を奪ったんだろう!篠を愛しているんじゃなかったのか!それが、お前の言う『命懸けの愛』か?」病室の空気が、一瞬にして凍りついた。健太は呆然と立ち尽くした。彼は身をかがめてその薄っぺらい紙切れを拾い上げたが、手は震えを抑えることができなかった。「採卵」「体外受精」「不妊治療」「3年間」の文字が、彼の目に焼き付いた。彼の顔色は、一気に血の気が引いて真っ青になった。彼は真っ赤に充血した目を上げ、虚空を見つめる私