暑い暑い日が続く毎日。ひなこちゃんが、ふいに話しかけてきた。とても深刻そうな顔をしている。「大家さん。私の部屋に来てもらえますか?」「あ、う、うん」ひなこちゃんが私を部屋に誘うなんて初めてだ。何だかドキドキする。いったい何を言われるのだろう。「大家さん。颯君のこと、どうするんですか?」ひなこちゃんのピンクでコーディネートされた部屋に入ると、すぐに質問が飛んできた。「え?どうするって……どういう意味かな?」突然で驚いた。颯君のことを聞かれて動揺が隠せない。「大家さんの絵が完成したから、次は私を描いてもらいたくて、颯君にお願いしたんです」「そ、そうなんだ」「なのに……私のことは描けないって言われました」「えっ」「私、ずっとずっと楽しみに待ってたんですよ。大家さんが描けたら、次は私がモデルだって。どんな風に描いてもらえるのかって、いろいろ妄想して。なのに、大家さんは描けて、私は描けないって、ひどくないですか?」「……う、うん」「それで、颯君を問い詰めたら……。大家さんのことが好きだからって」「……」ひなこちゃんの切ない顔を見て、ドキドキが止まらない。颯君は、ひなこちゃんに私のことを話したんだ。「ひどいですよね、ひどすぎますよ」ひなこちゃんはいきなり泣き出した。「……あのね、えっと……」何をどう言えばいいのかわからない。「私よりずっと年上の大家さんが好きって、おかしくないですか?誰が見ても私の方が若くて可愛いのに。大家さんはもう……。だから私、わかったんです。大家さんが颯君のこと誘惑したんですよね?」「ひなこちゃん、何言ってるの?それは違うよ。颯君は大切な同居人だよ。誘惑なんてするはずないじゃない」「同居人だとか言って、モデルをしてる時、2人で部屋にこもってましたよね?2人きりで何してたんだか。大人っていやらしい。大家さんは結婚してるんでしょ?それなのに若い男の子を誘惑するなんて最低です」「待って。私、ひなこちゃんが思うようなことはしてないから。本当よ」そう言った瞬間、颯君に抱きしめられた感触が身体を駆け巡った。「私、颯君が好きです!ここで会ってからずっと。ずっと好きなんです。颯君が素敵過ぎて、話してるうちにどんどん好きになりました。なのに大家さんが誘惑するから……颯君、私のこと全然見てくれない」ひなこちゃん
「結姉……好きだよ」颯君は私をぎゅっと抱きしめた。とろけそうになるそのセリフが、何度も頭の中を駆け巡る。それ以上何かするわけでもなく、ただずっとお互いの温度を感じている時間。ただ、時計の秒針が動く音と、2人の吐く息の音だけがかすかに響いていた。私は思った。今の私にとって、颯君のこのピュアで真っ直ぐな気持ちはすごく新鮮で、大人のドロドロした醜くて汚い部分を綺麗に洗い流してくれる。このまま、ずっとこうしていたい。颯君の腕に包まれていたい――と。だけれど……そんなことが許されるわけもなく……「あっ、ご、ごめんね、颯君。あの、うん。私は……これでも一応、人妻なの。いろいろなことがあって、まだ頭の中が整理できないの。今日のことは……少し考えさせて」上手く言えない、だけれど、今の私にはそれしか言えなかった。颯君は、下を向いたままうなづいた。「結姉、困らせてごめん。でも、結姉を苦しめたくて言ってるんじゃないんだ」「もちろん、わかってるよ。ありがとう。じゃ、じゃあ、降りるね。完成させてもらえたら嬉しいし、また絵の続き描いてね」「……うん。絵は……必ず完成させる」***私の絵が完成したのは、それから数日後のことだった。「ありがとう、結姉。最後まで付き合ってくれて本当に……ありがとう。おかげで良い絵が描けた」颯君が見せてくれた「私の絵」。あまりにも素敵で体が震える。「……素敵……」完成前から最終工程は見ないようにしていた。私の心が感動に包まれた瞬間だった。「これが私?信じられない……」「綺麗でしょ?」「……私じゃないみたい」「結姉だよ、そっくり」「……だけど、こんなに綺麗で透明感があって……やっぱり私とは違うような……」「結姉を見たまま描いた。何も違わない。あなたはこういう風に見られてる。とっても綺麗で、素敵な女性。もちろん、気持ちも込めた。結姉のみんなを包む優しさ、みんなを元気づけようとする明るさ、そして……時々見せる寂しさも。全部、ここに込めたから」「颯君……」あまりにも優しいセリフに涙が頬をつたった。「結姉を描くことができて、本当に幸せだった。ありがとう」そう言って、颯君は私の涙を指で拭った。「こんなに素敵に描いてもらえるなんて、私こそ幸せだよ。でも、この絵はどうするの?」「この部屋に飾っておく。イーゼルに
「私は座ってるだけだから大丈夫だよ。でも……ありがとう。そんな風に言ってもらえて、ほんの少しだけでも颯君の役に立ててると思うと、やっぱり嬉しい」「ほんの少しだけなんて、とんでもない。めちゃくちゃありがたい。本当に……結姉を描きたいって思うから。完成まで嫌にならないでね」「嫌になんて……ならないよ」颯君の優しい言葉が、私の心を温かくする。こんなにも胸が熱い。旦那を見て沈み込みそうになる気持ちに、3人の青年はいつも明るい光を照らしてくれる。だから私は、毎日笑顔でいられる。「じゃあ、始めるよ」「お願いします」颯君はキャンバスに向かった。その姿は、あまりにも美しくて、颯君がキラキラ輝いて見えた。ゆったりした白いシャツは胸元が少しあいていて、細身の黒いパンツのせいで足の長さが際立っている。真剣な表情で、絵の具を使って細かなところまで塗り込んでいく颯君は、唯一無二の「画家」だと思えた。「あと少しだね。もう少しで完成かな?」「……」颯君は急に筆を止め、何も言わないで黙ってしまった。「颯君?どうしたの?」それでも黙っている颯君のことが心配になる。「……大丈夫?」「……完成……させたくない」「えっ……」「俺、もちろん結姉の絵を完成させたい。でも、完成したら……結姉との2人だけの時間が無くなってしまう」「……な、何言ってるの。ずっと同じ家にいるんだから、いつも一緒にいるじゃない」「結姉は……結姉はさ、全然わかってないよ」颯君は急に立ち上がり、私の肩をつかんでそのまま立たせ、部屋の壁にそっと押し付けた。「ちょっ、ちょっと」嘘……颯君の顔がすぐ目の前にある。距離が近過ぎて心臓が飛び出しそうになる。「結姉……」突き刺さりそうなくらい真っ直ぐに見つめられ、少しずつ颯君の唇が近づいてきた。「結姉、キスしたい」一瞬、何が起こったかわからなかった。颯君の体が私を包み込みそうになった時、私は我に返った。「ダメっ!」その場から離れようとした瞬間、颯君は私の腕を掴んだ。「逃げないで。俺の側にいて」せつないほどの甘い囁きに、心拍数が急激に上がった。「颯君、ダメだよ。そんなこと言わないで。あなたは大事な同居人なの」「同居人でも何でも、俺は1人の男だよ。俺は……結姉が好きなんだ。好きで好きでたまらない、ずっと……結姉のことばかり考え
「お帰りなさい」家に戻ると、智華ちゃんがいた。「あっ、ただいま、智華ちゃん。あれ?今日は習い事じゃなかった?」「はい。ちょっと体調が良くなくて……休みました」「そうなんだ、大丈夫なの?熱は?」智華ちゃん、少しつらそうだ。「熱はないので部屋で休みます。すみませんが、食欲がないので夕食はいりません」「わかったわ。でも、つらくなったら病院に連れていくから言ってね」その時、旦那が2階から降りてきた。「あっ、健太さん。すみません、部屋まで連れていってもらえますか?少し体調悪くて」「ほんと?大丈夫?さ、行こう」旦那は、私には見向きもせずに、智華ちゃんの肩に手を回して支え、階段を上がっていった。旦那はともかく、智華ちゃんも……やっぱり私のことが嫌いなのだろうか。1度も名前を呼ばれたことがないし、ひなこちゃんみたいに「大家さん」とも言ってくれない。旦那のことは、健太さんなのに――私の何がいけないのか、今は考えても仕方がないけれど、いつか結菜さんと呼んでもらえるように頑張らないと。ここに居ることが心地良いと感じてもらえるように……そうでないと大家なんて名乗れない。あっという間に夜になり、夕食の準備が整って、智華ちゃん以外は食卓についた。お母さんが買ってきてくれたオードブルのセットが、テーブルの真ん中を飾った。颯君の揚げた唐揚げも。今日はパエリアを作ったし、思いがけず、すごく華やかな食卓になった。「美味しい!このパエリア、お店の味だね」「それは褒めすぎだけど、きっと選んだレシピが良かったと思う」祥太君は本当に褒め上手だ。「うん、パエリア、本当に美味しい。昌子さんのオードブルもいいですね」「あらまあ、そう?みんなに食べてもらいたくてね。奮発しちゃったわ」颯君が言うと、お母さんは嬉しそうに答えた。「いろいろ入ってて味も美味しいです」「まあ、颯君。ありがとう。どんどん食べてね」「ありがとうございます」「私はこの颯君の唐揚げが好きです。いつ食べても本当に美味しいです」と、ひなこちゃんが言った。「ありがとう。うちの1番人気だから」「私、ほんとに唐揚げ大好きなんです。これは今まで食べた中で1番美味しいです」「ありがとう。確かに最近は若い女の子も結構買ってくれるよ」「そうなんですね」それは、きっと颯君のおかげだろう。「ひなこ
あれから、月日は流れ、1ヶ月が過ぎた。7月に入り、いよいよ本格的な夏がやってきた。太陽が照りつけ、うなだれるような暑さの中でも、綺麗に咲く庭の木々や草花達には毎日癒されている。同居人のみんなが、それぞれに慌ただしく何かに頑張っている日々――私自身は、そんなみんなに元気でいてもらいたいと、いろいろな料理を作ることを楽しみにしていた。栄養をつけてもらいたいから、料理の勉強にも力を入れた。そして、家事の合間には、少しの時間を見つけて颯君の絵のモデルもしていた。ほんの少しの間でも、回数を重ねるごとに、最近はずいぶん慣れてきた……ような気がする。最初はあんなに緊張していたのに。きっと颯君がいろいろと褒めてくれるのも、私にしては嬉しいことで、いつしかモデルの時間が楽しみになっていた。颯君は、美大の授業が終わってからと休日に、たまにスーパーでバイトをしている。一生懸命頑張っている颯君のために、せめてモデルとして支えられたらと思っている。夕方になり、私はそのスーパーに買い物に行った。大型スーパーの惣菜コーナー。レイアウトにも凝っていて、様々な「おかず」の種類があり、デパ地下のようなワクワク感が味わえる。売り場の一部、お客の側から見えるところに、颯君は立っていた。手際よく唐揚げや天ぷらを揚げている姿に、おば様達はくぎづけになっている。颯君の爽やかな笑顔がとてもカッコよくて、相変わらず惣菜コーナーにはたくさんの人が集まっていた。「お兄さん、さつまいもの天ぷらとイカ天、揚げたてが欲しいんだけど。大丈夫かしら?」「いつもありがとうございます。はい、大丈夫ですよ。少し時間くださいね」「あら、私のこと覚えてくれてるの?ありがとう。あなた本当に素敵ね」70代くらいのマダムが、颯君に声をかけている。「この前もさつまいもの天ぷら買ってくれましたよね」「あらやだ。さつまいも好きだなんて、何だか恥ずかしいわね」「さつまいもは美味しいですから。僕も好きです、さつまいも」「あら~、あなた、本当に素敵だわ。また買いに来るわね」「ありがとうございます。いつでもお待ちしてます」「でも、この前来たらクマみたいなでっかい男性がいたわよ。あの人だとなんだかガッカリするのよね」マダムが笑う。「それは店長です。クマって」颯君も笑う。話をしながらでも天ぷらを揚げる手つき
文都君……こんな私に、優しい言葉をかけてくれてすごく嬉しい。文都君の純粋で綺麗な心。それに触れてしまったら、今まで自分がしてきたことに激しい後悔をしてしまう。私は、本当にバカな女だ。とことん自分が嫌になる。でも、おかげでハッキリと心が決まった。川崎君との関係にケリをつけたいと――中途半端にしていては何も解決しない。私は、何かに急き立てられるように、その場で川崎君に電話をかけた。「……」何度かコールしているけれど、反応がない。もう1度かけてみよう……「……はい」「あっ、ごめんね、川崎君。今、話せる?」出てくれたことは良かったけれど、なんだか声に元気がない。「うん。今は、大丈夫」この前とはずいぶん違う反応だ。あの罵声は、今でも忘れられないほど酷かった。そのことは胸にしまい、とにかく冷静に話そうと試みた。「ごめん仕事中に。どうしても今、話したいことがあって……」「……ああ」「私ね……」「別れたいんだろ?」「えっ」「いいよ、わかってる。結菜が別れたいって思ってるならそれでいいよ」川崎君の答えに拍子抜けしてしまう。「あっ、う、うん。本当に……ごめん。川崎君にはいろいろ相談に乗ってもらってたのに……」「そんなこといいよ、別に。もう、結菜のことはキッパリ忘れるから」川崎君の淡々とした言葉が続き、少し怖い気がした。でも……きっとこれでいいんだと、自分に言い聞かせた。「うん。今まで本当にありがとう。体に気をつけて元気でいてね」川崎君は、それ以上、もう何も言わなかった。電話を切り、ドキドキしている心臓の辺りを触った。「……落ち着け……大丈夫、大丈夫だから。これからは川崎君のことを忘れて、しっかり前を向く。それでいいんだよね。新しい道を歩かなくちゃ」1人つぶやくそのあとに、私は深く深呼吸をして、空を見上げた。「……帰ろう」1歩踏み出す足取りは、なんとなく、いつもより少しだけ軽く感じた。