呼吸が整うまで腕の中で彼女を見下ろしている間に、決めたはずの覚悟が揺らぐ。泣きすぎて、充血してる。目の周りも、すっかり赤くなって腫れ始めていた。これ以上触れるのは、辛い。触れれば触れるほど彼女は泣くのだと思ったら、怖くてたまらない。だけど縋り付いてくる弱々しい瞳は、完全に俺に全部委ねていて。その瞳に、僅かばかりに励まされる。息が整ったのを見計らって、ゆっくりと愛撫を再開した。くちゅ、と水音が響くたび、応じて、ひくひくと身体が跳ねる。目を閉じそうになれば瞼にキスして、顔を背ける頬を指で撫でて、視線を合わせるよう促した。もうこれ以上、過去の記憶に彼女を奪われ泣かれるのは嫌だった。俺のことだけ見てて。貴女の傷を、全部上書きしてしまうまで。怯えるのも泣くのも全部、俺だけに向けていて。彼女の身体から少しずつ余計な力が抜けて、時折熱の籠った吐息をもらす。指先を滑らせ襞を掻き分けて、隠れた小さな粒に触れた。「ひあっ?!」びくんと身体をしならせて、悲鳴を上げる。彼女の目が、心地よさと不安の中で揺れていた。大丈夫だと、汗ばんだ額や目尻にキスをしながら、指はその一点に留まってくるくると撫で続ける。「ああ! うあ、や……やっ! こわい」浅く荒い息遣い、身体を捩らせながら、濡れた瞳が怖いと言って俺を見る。その怖さが、今までのものと違うことはすぐにわかった。感じてくれているのだと高揚し、気持ちは逸る。だめだ。ゆっくり、ゆっくり。身体をもて余し逃げ場を探して、両手でしがみついてくる彼女に、軽く唇を触れ合わせる
肌を撫でながら全ての布を剥ぎ取って、見下ろす彼女の身体はあまりにも綺麗で煽情的で、ふと気を緩めれば理性が吹っ飛びそうになる。落ち着け。絶対、自分を見失うな。ほんのちょっとでも乱暴にするわけにいかない。シャツを脱ぎながら、震えて固く閉じたままの彼女の膝にキスをする。肌のすべてが震えていて、掌から唇から体温が伝わるように、包み込むように触れた。身体の線を手で温めながらゆっくりと撫で、首筋や肩、鎖骨に唇を落とす。時折小さく甘い声が聞こえはじめ、そっと彼女の胸を手の中に包んだ。びくん、と震えたものの抵抗する仕草はなく、恐る恐る指先で敏感な先を擽ると熱を帯びた吐息が漏れた。「……ふ、ぁ」力ない手で、縋るように俺の腕に捕まる。その指先に、キスをした。今までと違う、明らかに快感を呼ぶ愛撫に恐ろしくなったのか混乱したのか、甘い声がすすり泣きに変わり、その泣き声に混じって彼女が何かを呟いた。「……け、さ」「真琴さん?」「……ようすけ、さん。陽介さん」ぐっ、と胸を掴まれたみたいに、苦しくなる。怖くて恐ろしくて、縋りつくため俺の名前を呼んでくれることが、感動するほどに嬉しかった。「……ふ、うっ……陽介さ……」「真琴さん」目を細め、ぽろぽろ涙を零す彼女に、ここにいますと伝えるために名前を呼び返し続ける。だめだ、もう。嬉しくて、苦しくて。泣かせてるのに、幸せだと感じてしまう。俺
慎さんが俯いて、自分の手を見つめた。初めて震えていることに気が付いたみたいで、手の感触を確かめるように何度か握り合わせる。その時、胸元を隠していたワンピースの布が彼女の膝に落ちて「あっ」と擦れた悲鳴を上げた。腕だけで、もう隠しきれてない。白い胸元が目の前で露わになって、また思考が揺れる。無意識に手が動いて彼女に触れようとしたけれど、辛うじて拳を握って耐えた。そんな俺を見て、彼女が少し身体の力を抜いたのが気配で伝わる。「だって、貴方は優しすぎるから」見ると、口元に少し、笑みを浮かべていて。まるで、諭されているような気にさせられる。だけど、慎さんの言葉の意味が俺にはわからない。優しくして、何がいけないんだよ。好きな女に優しくしないで、一体誰に優しくすんだよ。「いつだって、貴方は僕が最優先で、全部僕の為で、あんなに毎日会いに来てくれるのに、僕は何も返せないままで、この先もずっと?」それは、だって。慎さんに寂しい思いはさせたくなかったし、貴女が好きだって気持ちを言葉だけじゃなく表して、不安なことは全部なくしたかったから、で。「僕は貴方に申し訳ないと思いながら傍にいるの?」がん、と頭を殴られたような衝撃だった。慎さんの為にって。不安や哀しい、寂しい、そんな感情を全部、遠ざけてあげたくて。ただ、俺が。そうしてあげたかっただけなのに。「返すなんて、そんなこと俺は」そんなことは気にしなくてもいいのだと彼女に伝えようとするけれど、それは無意味だとすぐに気づいて言葉は途切れる。だって、それは慎さんの感情だ。気にするなと言われて、消えるものじゃない。彼女の為に、俺は必死だった。だけどそれが、彼女の負い目になってたことに、愕然とする。自分が情けなくて、だけど、だからといって。震える彼女に、これ以上、触れるなんて、俺には。「貴方が気にしなくても、僕は気にする。何もできてないんじゃないかと、僕が傍にいる意味なんて無いんじゃないかと、怖くなる。 これが全てじゃないとわかってるよ。けど、好きな人の為に必死になるのはそんなに悪いこと?」混乱する頭の中で、耳に飛び込んで来た言葉。彼女が、初めて、俺に「好き」だと言った。付き合ってくださいと言って、はい、と返事はくれた。嫌いじゃない、とは言ってくれた。それで十分だと、俺はずっと思っ
俺は多分、いろんな意味で未熟だった。大事にすればするほど喜んでくれるものだと思っていて、わかりあえるものだと思っていて。今、目の前でそれが、彼女の手で壊される。「この先ずっと、絶対よそ見しないで、僕だけ見て、僕だけに欲情しろよ。それを信じさせて、僕に自信をくれ。 僕の全部を、貴方にあげるから」瀬戸際で、ずっと抑えてきたものを。彼女が誘い、引きずり出そうとする。均衡を破ったのは、ほんのわずかな、彼女の言い回し。―――信じさせて、僕に自信をくれ不安に揺れる彼女の目。俺が触れることで、それを拭い去れるなら。そんな解釈が、自分への言い訳が頭に浮かんだ途端に俺は、衝動に負けた。彼女の肩を強く引き寄せて、その衝動のままにただ彼女の唇を貪り気遣いもなく舌が歯列を割り入り込む。気持ちいい。すっかり興奮させられてるからか、柔らかい舌も唇も、唾液も甘い、いつも以上に。彼女の手がいつの間にかネクタイを手放して、息苦しさを訴えるように俺の胸をシャツの上から引っ掻いた。「……くそっ」くそっ!一度は唇を離したけれど、それでもすぐに吸い付きたくなる。簡単には尽きそうにない自分の欲求に悪態を付いた。だけど、それを煽ったのは、彼女自身だ。「俺が、どんだけ必死に抑えてきたと……」とろん、と蕩けた瞳で見上げる慎さんが、憎々しく、愛しい。俺はつい荒くなる動作で彼女を助手席に押し付けシートベルトを着けると、車を発進させた。足りない。キスだけ
視線が痛い。車内の空気が、怖いくらいに息苦しい。運転に集中するフリをして、前だけを見ていたけれど、本当は全神経の殆どが慎さんにアンテナを張っていた。でもまさか。機嫌が悪くなって口をきいてくれなくなったり、怒り出す可能性は考えていても、まさか車から降りようとするとは思わなかった。「……いいです。もう」「え」「帰ります。ここで結構」ちょうど、赤信号で止まったところだった。最初言ってる意味がわからずぽかんと彼女の行動を眺めていて、彼女がシートベルトを外して助手席のドアを開けてようやく、慌てて手を伸ばす。「ちょっ、慎さん、待って!」「嫌だ離せ!」なんとか二の腕を捕まえて車内へと引っ張り戻すが、まだドアが開いたままだった。後ろからバイクが来てないか咄嗟に目視で確認する。その間にも、慎さんが掴まれた腕を離そうと俺の指を一本一本引き剥がそうとしていた。「こっの、馬鹿力! 早く離せ!」「危ない! 危ないからドア閉めて!」離すわけあるか!ぱぱっとクラクションが鳴らされて、信号が青に変わったことを知る。俺は慎さんの腕を掴んだまま、もう片手で自分のシートベルトを外すと助手席へ身体を乗り出し急いでドアを閉めた。「危ないじゃないすか!」「ちゃんと後ろは見て降りようとした! 貴方が引き留めるからです!」とにかくも動かさなければとアクセルを踏む。彼女は未だ腕を振り払おうと暴れ続けていて、また外に飛び出されてはかなわないと捉える力を少し強くして、車を寄せられる場所を探す。怒るだろうか、と思ってはいたけれど。俺から逃げようとしたことが
「あ、あの……。慎さん?」「……聞きたいことは、幾つかありますが」「はいっ、なんでも答えますんで、まず離れて……」「いつの間に、篤と話したんですか」「あ……えーと……」「お正月。帰り際?」いつの間にか、本当に二人きりになっていた。っつっても、ロビーだし時折人は近くを通る。いつもなら、彼女の方が恥ずかしがって離れるのに、今は逆に俺の方が狼狽えていた。離れて、と頼んだのに未だ縋り付いてくる彼女の腰に、つい手を回してしまいそうになる。彼女の身体の感触と匂いと声にくらくらして、正月の時の出来事も全部綺麗に白状させられてしまった。「なんで僕に言わないんです」「あの日慎さんかなり動揺してたし、俺もめちゃくちゃ頭に来てたとこだったから……謝罪なんて聞くか、二度と慎さんの視界に入るなお前も入れるなって勝手に言っちゃって」「また、無茶苦茶なことを……披露宴があるのに」「わかってましたけど、どうしても慎さんの視界の中にアレが侵入するのが嫌だったんです。あんな奴の話を聞かせるのも嫌だし。でももしかしたら、慎さんは謝罪くらい、聞きたかったかもしれないと……」本当は、黙ってたことを悪いなんて思ってない。あの日の真琴さんに対する無神経な言葉を、悟られたくなかったからそれで良かったと思ってる。だけど結局、怖い思いまで、させてしまって。あいつに謝罪の気持ちなんてほんとは更々ないことを、慎さんは気づいてしまっただろうか。例え不審者扱いされても、あの場にかじりついて離れなければ良かったと、情けなくて、申し訳なくて。だけど