まな板のレモンに包丁の刃を入れると、切れ味が悪くなっているのか果汁が飛んで顔にかかる。目に近い場所だったせいか、沁みて涙が出そうになった。「話すのが怖い」「…………陽介は知ったからって、変わんねえと思うぞ」「だからって」佑さんは、案外。女心をわかってないと思う。好きな男に、知られたいわけがないじゃないか。だけど陽介さんだから、話したいとも、思った。ずっと一緒にいたいなら、打ち明けるしかないんだから。勇気がなくて一歩が踏み出せずに、約束を果たせないままだったけれど、僕が女だと知ってるならもう猶予はなく選択を迫られる。「お前がどんだけ黙り込もうと閉じ籠ろうと、陽介が簡単に引き下がるわけないしな」「……はは、そんな感じ、する」このまま曖昧なままでいられればと何度も思ったけれど、そうもいかない。初めて陽介さんと交したキスは、とても熱くて扇情的で、その先があることを思わせるキスだった。だけど多分僕はその先を、受け入れられない。その先が、怖いことだと身体が記憶してしまっている。思い出すのは小さい頃から何度も喧嘩して、いつも対等だったはずの手に力づくで押さえつけられて、身動き一つ取れなかった衝撃。僕の悲鳴にビビった幼馴染みに口をふさがれ、床に押し倒された時にぶつけた後頭部の痛み。高校最後の三学期だった。隣の家に住む幼馴染みとは中学までおなじで、高校で向こうは男子校、僕は女子校と別れてしまっていたけど、しょっちゅう一緒に遊びに出掛けていて、僕は完全に男友達扱いで。その日も幼馴染みとその友人と一緒に遊んで、帰りの夜の道だった。友人とは駅で別れて、幼馴染みと二人で家まで歩いていた途中、小学生の頃によく潜り込んで遊んだ廃ビルの前を通りかかり。懐かしいから寄っていこうと言われてのこのこと付いていった結果だった。興奮したらしい乱暴な手に、衣服の何処かから裂けるような音が聞こえた。埃っぽい廃ビルの空気は懐かしかった筈なのに、犯罪めいた行為を助長する恐ろしい空間でしかなくなった。体中まさぐられながら見上げた幼馴染の顔に、近くを通った車のライトが一瞬だけ通過する。酷く歪んだ表情で、「お前が女みたいな顔をするから」と、僕を罵った。その時、僕はちょっとだけ笑ってしまったことも覚えている。女の私に、酷いことを言うものだ、と。だけどあの
【神崎慎】「……知ってたんですか」慌てた様子で翔子さんの口止めをする陽介さんに、ピンと来た。彼女の出身校を思い出して、今知った?違う、そうじゃない。「知ってたんですか」もう一度聞くと、陽介さんは明らかに『しまった』という顔をした。その表情に、血の気が降りる。陽介さんが、嘘を吐いてた?いつから知ってた?デートの時は?キスされた時は?好きだと言ってくれた時は?もしかして最初から?男の僕に「好きだ」というフリをして男の僕にキスをするフリをして本当は、全部知ってた。……知ってたから、だから出来たのか即座に脳内でリピートされたのは陽介さんの告白の言葉だった。”男も女も関係なく、慎さんが好きです”男が好きなわけじゃないだろうに、なんで僕がいいんだろうこの人は、と何度も不思議に思った。でも、何のことはない。本当は知ってたんだ。そう思ったら途端に、色褪せて薄っぺらいものであったように、感じられて。衝撃を受けることで、気付いた。僕はその言葉を随分、大切に思っていたらしい。随分長い間、茫然としていた気がするけど、もしかしたらほんの数秒だったのかもしれない。カララララ……と、硬質な何かが落ちた音で我に返る。気付くと指の力が抜けていて、手の中にあったシェーカーが消えていた。「失礼しました」とシェーカーを拾い上げて、彼から視線が外れたのをいいことにそのまま背を向ける。「ま、慎さんっ、あの」焦って何か言い訳をしようとする、その声に、なんでだろう。振り向くことが出来なかった。なぜか、酷く、怖くて。言い訳を聞くのが、怖くて顔を見ることも出来ない。佑さんが店内の空気を読んで、三人を帰らせたのは声と扉の音だけで聞いていて、その間一度も僕は、彼を振り返らなかった。陽介さんが、言い訳もしないで帰った。背中を向けて拒絶したのは僕のくせに、裏切られたような気持ちになる。僕だって男のフリをしていたのだから、陽介さんを責められる立場にはないのに。でも、あの言葉と一緒に、なんか全部が嘘だったみたいに色がなくなっていく。拒否しても冷たくしても、しつこいくらいにくじけずに向けられてきた笑顔も、キスも、デートも。無条件で与えられてきた、最大級の優しさも。「……慎、お前今日はもう部屋に入れ」「何言ってんの、大丈夫……」「その顔で接客は
ルールは簡単。全く同じ酒を同じ量、同時に飲む。飲めなくなったら負け。酒の指定は交互に。この酒の指定が、結構くせ者だ。慎さんは、ギムレットやマティーニみたいな酒で酒を割るような強めのカクテルばかり指定してくる。やべえ。本気だ、と、危険を感じた俺は慎さんが苦手そうな酒を、と考えたがわからない。もしかしたら甘い系が苦手かとカルアミルクを指定してみたが、逆にこっちが悪酔いしそうになって、炭酸系に切り替えた。そしたら、慎さんは酒を考えるのが面倒になったのか、全部ストレートで指定するようになってしまった。「マッカラン、ダブルで」まじか。量もシングルからダブルに増えやがった。しかも俺が頼むソーダ割だとかがチェイサー替わりになったのか、もはや水も飲まずに酒だけ飲んでいる。「ど……どんだけ……」「大丈夫ですか?」頭が、ぐらぐらする。視界がはっきりしなくなって、つい泣き言が漏れた。大丈夫なわけねえ。目の前にはずらっと並んだ、空のグラス。何杯飲んだか、もうわからね。「大丈夫、っす」だけど、ここで引いたら。もう二度と、会いに来れなくなる。「何か話しますか」マッカランのグラスを煽ってなんとか空けて、俺はまた、モヒートを頼む。好きだからってのもあるし、炭酸でちょっとでも慎さんの胃を膨らせようと狡い手段だ。慎さんの声に、返事をしたかあんまりさだかじゃない。頷いた気はする。
え。と、彼女の表情に釘付けになる。決して、簡単に許してもらえたとは思わないけれど、目の前の彼女はそれこそ湯気でも上りそうなくらいに赤くなった頬を恥ずかしそうに片手で隠して顔を逸らした。そしてきゅっと唇を噛んで、何かを考えて。言葉を探しているようだった。「……僕は、」「はい」「男でも関係ないってくらい、僕を好きだと思ってくれてるんだと、思って……その事が案外、自分でも驚くくらい嬉しかったみたいで」「それは、嘘じゃありません」「でもほんとは知ってた。だからちょっと、ショックでした」ぐっ、と言葉に詰まった。慎さんは俺の表情を見て、少し拗ねたように口を尖らせてから軽く睨んだ。そしてふっと、諦めたように眉尻を下げ口許を緩める。今日は慎さんにどんな冷たい顔をされても仕方ないと覚悟してた。なのに案外、彼女の表情は柔らかくて、だけどそれが、逆に少し怖い。このまま、簡単にはいかない気がしていた。「だから僕には少し、わがままを言う権利があると思うんです」「なんですか。言ってください、なんでも」それで、慎さんの気持ちが晴れるなら。少しでも信頼を取り戻せるなら、なんでもすると本気で思った。慎さんが、大きく深呼吸をする。赤くなっていた顔が、バーテンダーとしてのいつもの営業スマイルに代わっていた。「では、賭けをしませんか。僕と、勝負してください」「……勝負、すか」正直、慎さんの意図がさっぱり読めなくて俺はただ、困惑するばっかりだった。だけど、わがままを聞いてくれと言われたなら、受けないわけにはいかない。「はい。勝負内容は、飲み比べ。グラスを空けられなくなった方が負け。簡単でしょう?」「それは……いいっすけど、何を賭けるんですか」ってか、俺はかなり飲む方だけど、慎さんもそれはよく知ってるはずなのに良いんだろうか。随分と自分に分がある勝負内容に、もっと何か罰ゲーム的なものを言われるかと思った俺は、拍子抜けしていた。だが、次の瞬間。受けたことを、後悔した。「貴方が勝てば、僕はあなたと付き合う。でも僕が勝ったら、二度とこの店に貴方は来ない」わからない。慎さんが、何を考えてるのかさっぱり、わからない。「そんな賭け嫌ですよ! 大事なことを、そんな決め方で」「じゃあ、僕の不戦勝です。いいですか?」「そっ……」だって。なんで、そん
金曜の夜は、仕事上がりにすぐに飯を食って一度家に帰り、風呂に入って出かける準備をして……時間が過ぎるのを待つ。閉店間際に、ということだけど時間はいつも客次第で曖昧だ。こちこちこち、と壁時計の秒針の音が気になって落ち着かなくて、結局俺はどう考えても早すぎる時間に、店に向かった。今まで、この扉をこれほど重く感じたことがあっただろうか。押し開けると同時に、音楽と人の声が流れてくる。カウンターの中のその人は、俺に気が付くと少し目を見開いた。「お、陽介来たな」佑さんの声が聞こえたけれど、俺は慎さんから少しも目を離せない。もしもまた、悲しい顔をされたらどうしようと思ったら、心臓が縮み上がりそうだったけど。「いらっしゃいませ。どうぞ」予測に反して彼女は、ゆっくりと苦笑いに変えてそう言った。「慎さん、俺っ」「閉店間際に、と言ったのに。仕方ない人ですね」カウンターに早足で近寄った俺に、すっとオシボリが差し出され反射的に受け取った。座るとすぐ、いつもなら何か作ってくれるのに。「佑さん、ここお願い」と言って、すぐに離れて行ってしまった。今すぐ、出来る話じゃないことくらいはわかってる。だけど早く謝罪だけでもしたかったのに、慎さんの方は今は何も聞くつもりはないということだろうか。他の客の話相手をする慎さんの横顔を見て、酷く寂しくさせられたけど、少しだけ安心もした。良かった、泣いてない。いつもと変わらず、彼女はちゃんとバーテンダーを熟していた。「見過ぎだっつの」「佑さん」「ちょっと飲んで落ち着けよ。何にする?」……あれ?作ってもらったモヒートは、いつもと少し違う気がした。作り手によって違うんだろうか。アルコールが、少し薄いように感じて首を傾げる。「黙って飲んどけ」佑さんが、ぼそっとそう言った。この後話をするのだから、酔う訳にはいかないしそういう意味かもしれない。納得して、ちびちびと、時間を潰すつもりで飲んでいて、時折慎さんを目で追うけれど少しも目を合わせてくれなかった。慎さんが喋ってくれない。それだけでこんなにも居心地が悪くなるのかと充分身に染みた、日付が変わってすぐの頃。ちょうど客の切れ目になった時「うし。閉めるぞ」と、週末にしては随分早く佑さんの合図が入った。「まだ早くない?」「いいだろ別に。意地悪してないでち
「……付き合うつもりもないのに、楽しんでるだけなら、さっさと振ってやってくれって」「……お前っ、なんでそんなこと」「お前が適当にあしらわれてるだけだと思ったんだよ!」頭に血が上りかけたけど、すぐに思い直して溜息と共にその場にしゃがみ込む。駅前の大通りのど真ん中、何人かが迷惑そうに俺たちを追い越していった。そう言えば、一時期少し、遠慮気味な態度の時があった気がする。俺がいつもの調子で押しかけてたから、あんまり気にしてなかったけど。気にも留めないでいた、自分に腹が立つ。何より、今一番慎さんを傷つけたのは俺だった。「え、でも、さ。黙ってたのは向こうも同じなんだし、お互いさまじゃないの?」「んなわけにいくか、知らないフリして好きだって言いまくったし」「あー……」「……キスもした」 男も女も関係なく。 慎さんを好きになりました。だけどその言葉は、彼女の本当の性別を知らないことが前提だ。知ってるくせにそんなセリフを吐いた、それを彼女はどう捉えるだろう。彼女の表情が、物語ってた。知らないフリして、騙して近づいたと、彼女は受け取ったんだ。ぞく、と寒気が背筋を走る。本当にこのまま帰っていいのか、そんな風に思わせたまま。良いわけがなかった。「ってかなんで知らないフリなんかしたんだよ」「俺、戻る。お前ら二人は帰れよ」「おい、戻っても、客が居るうちは話も……」「閉店まで店の前で待つ」簡潔にそう答え立ち上がると、俺は店までの道を全速力で駆け出した。知らないフリするべきだと思ったんだよ。女が男に成りすまして周囲の目から隠れてるなんて、何か簡単じゃない事情があるんじゃないかって。だから、慎さんから話してくれるのを待つしかないと思ってた。だけどそれなら、絶対手を出しちゃいけなかった、キスなんかしたらいけなかったんだ。店の真ん前からは少し離れて、入り口付近がよく見える建物の壁際で時間が過ぎるのを待つ。平日のど真ん中、客はそれほど遅くまでは居ないだろうと思う。だとしたら、終電間際くらいには閉めるかもしれない。どちらにせよ、何時になろうと佑さんが表のプレートをcloseにして、電飾を消しに出てくるはずだった。深夜1時を過ぎても、中々佑さんは出て来なくて真冬の夜の空気にさすがに足も手も悴んで痛い。それから客が一人出て行き、三十分ほど
頼むからはよ帰れ。頭を抱えていると、ちょっと離れたところから視線を感じ顔を上げる。佑さんが、にたあっと嫌な顔で笑っていて、思わず頬が引き攣った。めっちゃ面白がってる。翔子は、てっきり来た早々に俺の好きな人は誰だ何処だとやかましく言うのかと思ったが、慎さんにカクテルを入れてもらって案外大人しくしていた。ただ、なぜかじっと、慎さんを見つめて何かを考えている。「何か、他にご用意しましょうか。チーズの盛り合わせとかお勧めですが」不躾な視線にも、さすが慎さんは笑顔の対応だ。なのに翔子は、更に上半身を乗り出すようにして慎さんの顔を覗き込む。「……あの、僕に何か」「……もしかして、神崎さん?」「え……」「やっぱり、神崎さんだよねえ! 地元東灘じゃない?! 雰囲気ちょっと変わったからわかんなかったあ!」翔子が目を輝かせて、スツールから半分腰をあげる。反面、慎さんからはすぅっと笑顔が消えた。神戸、東灘は、翔子の地元だ。同郷?まさか。「あ、ごめん。神崎さんすごく綺麗な子がいるって有名だったから、私が知ってるだけなの。学年違うし。でも喋ったことあるよ、委員会一年間一緒だったし」「翔子、ちょっ」学年。学校が同じ?翔子の行ってた高校は、確か。女子校じゃ、なかったか。「あ、そうか。まことさんって……陽ちゃんの好きな人って神崎さんなんだ! 高校同じだったんだよ、せい」「翔子!」成美女子高等学校。他の客も居る中で、その学校名を言わせる訳には行かない。慎さんが女だって、バレちまう!咄嗟に、翔子の口を塞いでいた。うぐ、とくぐもった声を上げた翔子が恨めしげにこっちを睨んで手を振り払う。「陽ちゃん、なに?」「ちょっと黙れ」「何なのよう」「いいから! 黙れって!」事情があんだよ!兎に角翔子を黙らせる事に必死で、落ち着いていればこの時俺は、もっと上手く誤魔化すことも出来たのかも、しれない。「……知ってたんですか」小さな呟きが聞こえて、はっと視線を上げた。慎さんは表情のない顔で、ただ顔色は真っ青だった。「慎さ……」「知ってたんですか」今気付いたことにでもして取り繕うべきだったんだろうか。知らないフリをすると決めたなら、最後まで白を切るべきだったのか。だけど俺は咄嗟のことで、ただ「しまった」という感情を隠せなかった。”…
彼女がどうして男に成りすましてるのか。 その理由を推し量れば、何か「男」にトラウマでも抱えてるのかそれとも逆に「女」にトラウマがあるのか。 どちらにせよ、とても軽い事情だとは思えなくて簡単に此方からは踏み込めない。 何か怖い経験をしたのだろうか。 真っ先に思い浮かぶ可能性は多分誰しも同じだろう。 想像でしかないけれど、まさかと思う度に軋むほどに強く奥歯を噛みしめてしまう。「そう簡単には、話せないんだろうなー……」「何が」「別に」浩平に聞いたところで、答えがあるわけじゃなし、詳しくを話せるわけじゃなし。 仕事上がり、久々に浩平と飯でも行くかという話になって、会社を出たところだった。「陽ちゃん! 浩平くん!」「げ」一番ややこしいのに、待ち伏せされていた。「ちょっとお! 二人そろって顔顰めないでよ酷い!」ぷんすか怒った顔で近づいてくる翔子は、もっと憔悴してるのかと思いきや案外元気そうだった。 なんだ、それほど心配することでもなかったかと、少し安心もしたが損した気分にもなる。「そうだ、此間お前、翔子ちゃんからの電話俺に丸投げしやがったな」「悪い。デート中だったから」「それだよ。相手誰だったんだよ、お前の好きな人って誰だってめちゃくちゃ問い詰められたんだぞ俺」「慎さんに決まってるだろ」「もう無視しないでよ! 陽ちゃんの好きな人? まことさんって言うんだ!」翔子の横を浩平と二人素通りしたが、しつこく後をついてきた。 なんだかすげー、嫌な予感がする。「お前、マジであのひとと付き合うの?」「付き合うよ、絶対なんとかする」断言すると、浩平が呆れた顔で絶句した。「やっぱ、浩平くん知ってるんじゃない! 誰々? 会社の子?」「っつか、お前、俺のことに首突っ込むより真田さんと仲直りしろよ!」「したよー、陽ちゃんに言われた次の日にちゃんと! えへへ」「だったらデートでもして来い」翔子の恋愛観は、若干一般からはずれている。 友達として楽しい奴だったし、人の陰口悪口は絶対言わない裏表のないところが好きだった。 反面、かなり自由奔放なところがあり、それに気づいたのは付き合ってからだ。 人を悪く言わないイコール、他人にも自分にも、どこまでもおおらかな人間だった。「今日は接待でいないんだもん。ねえねえ、どっか飲みに行かない?」「行か
【高見陽介】翔子とは、別れと同時に会社を辞めてった時から一度も会ってはいなかったが、同期の中で共通の友人も何人かいる。その中の何人かとは連絡取ったり遊んだりしていることは聞いてたから、元気に頑張ってるらしいっていうのは知ってた。直接本人から連絡があったのは、一週間くらい前のことだ。どちらかというと友達の延長上で付き合ったようなところがあった俺たちだから、別れた後もほとぼり覚めれば友達に戻るもんなのかもしれないな、と頭の何処かで思っていた。電話越しの泣き声をほっとけなかったのも、本当に友人としての情でしかない。それは、間違いなく断言できるけれど。『貴方は、こっちが辟易するくらい優しい人で、そんなところを僕は嫌いじゃありません。僕に遠慮して、失くすことはないです』慎さんが言ってくれた言葉は、感動するくらい嬉しくて同時に、それと同等くらいの罪悪感を抱かされる。彼女の言葉は決して嘘ではないけれど本音でもないのだということが、すぐにわかってしまった。今大事な人と居るのに、電話なんて出るわけないと思ったけれどどうしても目の前で出てくれと言わんばかりで、それが全部綺麗ごとじゃないことくらい、わかる。でもどうすりゃいいのかが、さっぱりわからない。電話に出たことが、正しかったのかどうなのか。宥めたり安心させたり、もっと上手くやれる奴はやれるんだろうけど。「終わりました。……心配させてすみません」「いや……別に、心配とか」「……わかんないすね、こういう時どうするのがいいとか」覗き込むと、むすっとしてまだどこか拗ねた表情で、やっぱり面白くなかったんだと伝わってくる。すんません、それでも俺。拗ねてくれたことが、嬉しいです。ちゅ、と不意打ちで、キスをしてしまえば慎さんが恨めしそうに眉根を寄せた。「……なんですか、急に」「ムスッとしてたから、ずっと」「……僕の機嫌が悪かったら、そういう誤魔化し方するんですか貴方は」「すみません、でも可愛くて、つい」「それに別にムスってなんてしてません」ふいっと横を向いた顔が、やっぱりとても機嫌が良いようには見えない。妬かせて喜ぶ趣味は無いけど、妬いてくれたらやっぱり男としては嬉しい。「もっと怒ってくれても、いいんすよ」そう言うと、ちらりと此方に目を向けて一度唇を咬む。そしてたっぷりの間をおい