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第2話

Penulis: 沢井歓
市立中央病院の救急外来には、鼻を刺すような消毒薬の匂いが満ちていた。

「どうしたらこうなるんですか?花粉アレルギーがこれだけ重いのに、花の山みたいな場所へ自分から飛び込むなんて」

首筋一面にびっしりと広がった赤い発疹を見た当直医の声は、厳しかった。

「あと30分遅かったら、喉頭浮腫で命を落としていましたよ」

私はじっと俯いたまま、看護師が冷たい綿棒で手の甲の血管を探すのに身を任せていた。

「すみません。油断していました」

「最近の若い人は、本当に自分の体を大事にしませんね」

医師は手早く処方箋を書き終えると、次の患者のほうへと行ってしまった。

私は背もたれに身を預け、スマホを取り出した。

画面には何の通知もなかった。不在着信もなければ、新しいメッセージもない。

あの会場を出てから、もう3時間が経っている。

啓司は、私を探そうとしなかった。

彼にしてみれば、これは私の稚拙な抗議の仕方でしかないのだろう。

外で冷たい風に当たって気が済めば、おとなしく戻ってきて謝るはずだ、と。

実際、この3年間、先に折れてきたのはいつだって私の方だった。

午前2時、ようやく長い点滴が終わった。

タクシーを拾い、啓司と暮らすはずの新居へと帰る。

半年前にふたりで買った、高層階にある広い部屋。内装にこだわるため、私はあちこちを走り回り、数えきれないほど徹夜して準備したのだ。

エレベーターの扉が開く。玄関の前に立ち、いつもの手つきで暗証番号を打ち込んだ。

「ピーッ。暗証番号が違います」

静まり返った深夜の廊下に、冷たい機械の女声がやけに耳障りに響いた。

私は一瞬、その場に固まった。

番号は出会った記念日のままで、これまで一度も変えたことがない。

息を大きく吸い込み、もう一度だけ丁寧に入力し直す。

「ピーッ。暗証番号が違います」

その場に立ったまま、赤く点滅するエラーランプを眺めていると、ふいに、なぜか滑稽に思えてきた。

そのとき、不意に扉が内側から開いた。

私を見た啓司の顔に、驚きが一瞬だけよぎる。

「帰ってたのか?インターホンを鳴らせばいいのに」

私は彼を見たまま何も言い返さず、その広い肩越しに、ただ玄関のたたきへと視線を落とした。

そこには、ピンク色の女性用スリッパが1足だけ増えていた。

サイズは明らかに、私のじゃない。

傍らの靴箱の上には、やはり私のものではないブランドバッグが無造作に置かれている。

「番号、どうして違うの?」

啓司は身体をずらして私を通しながら、事もなげに答えた。

「昼過ぎ、亜佐ちゃんが招待状を何枚か取りに来てくれたんだ。亜佐ちゃんは物覚えが悪くて、何度も打ち間違えてはシステムをロックさせてしまう。

面倒だから、亜佐ちゃんがいつも使っている番号に変えておいた。ついでに亜佐ちゃんの指紋も登録した」

水をひと口飲んで、彼は私を振り返る。

「お前も指紋を入れてあるんだから、番号が変わったところで困らないだろう」

靴を脱ぎかけた私の手が、ぴたりと止まった。

指紋認証システムには、管理者権限を3人分までしか登録できない。

私と彼でふたつ。

残るひとつが、いま、亜佐子のものになったのだ。

この広い家が、急に狭くなった気がした。

この部屋を買って越してきた日のことを、私はまだ鮮明に覚えている。

啓司はひと晩を徹して、玄関で工具の音を鳴らしながら、この靴箱を自分の手で組み上げてくれた。

棚板の1枚1枚に柔らかなベルベット地を丁寧に張って、ここがお前の好きなヒールでいっぱいになるんだと笑っていた。

あの頃、彼は私を抱き上げて靴箱の上に座らせ、そのまま口づけた。その目は、私たちの未来への期待だけで満ちていた。

ここに、お前以外の女のものが置かれることは絶対にない。そう、彼は確かに誓ってみせたのだ。

「なんで黙ってるんだ?」

啓司が正面に歩み寄り、私の頬へ手を伸ばそうとする。

さっと顔を背けて、その手を避けた。

行き場を失った手が宙で止まり、彼の眉がわずかに寄る。

「まだ昼間のことを怒ってるのか?

初音、もうすぐ結婚するんだぞ。少しは大人になれないのか?

亜佐ちゃんは帰国したばかりで、こっちに友達もろくにいない。兄貴分として面倒を見るのは当たり前だろう。

スリッパ1足にまで焼きもちを焼くつもりか?」

まったく悪びれもしない彼の顔を、私は静かに見上げた。

私がひとりで救急外来から帰ってきたことも、喉頭浮腫で窒息しかけたことも、この人は何ひとつ知らないのだ。

「いいえ。妬いてなんかいない」

彼の脇をすり抜けて寝室へ行き、クローゼットからスーツケースを出すと、自分の服を1枚ずつ淡々と詰めていく。

啓司が後ろからついてきて、ドア枠に寄りかかったまま私の作業を眺めている。

「何をしてるんだ?こんな夜中に家出ごっこか?」

その声に慌てた様子はなく、あるのはただ面倒くさいという苛立ちだけだった。

「初音、その手は前にも使っただろう。飽きないのか?」

私は一切答えず、黙々と荷物を詰め続けた。

「もういい」

彼が歩み寄り、私の手を押さえる。

「明日は結婚指輪を合わせに行くんだ。騒ぐのはやめろ。

約束する。明日は1日、亜佐ちゃんを呼ばない。お前だけに付き合う。それでいいだろう?」

私の手の甲を押さえる彼の指を、私はただじっと見つめた。

そして、そっと、少しずつ自分の手を引き抜いた。

「……いいわ」

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