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第2話

Author: 楽しくお金を稼ごう
沙綾はプリンターから吐き出された離婚協議書を見つめながら、まさか時彦とこんな結末を迎えることになるとは、夢にも思っていなかった。

二年間の結婚生活。彼女は妻としての務めを果たすべく、全力を尽くしてきた。しかし、その真心が報われることはなく、最後には無惨にも裏切られた。これまで自分が捧げてきたものを思うと、胸が締めつけられるようだった。

だが、幸いなことに、今ならまだ引き返せる。傷が浅いうちに決断できたことだけが、せめてもの救いだった。

気がつけば、ずぶ濡れになった服のせいで体はすっかり冷え切っていた。バスルームに入り、シャワーを浴びて出てくると、本家からの着信が入っていたが、彼女はそのまま通話を切った。

その夜、何度も寝返りを打ったものの、なかなか寝つけなかった。翌朝目を覚ますと、頭が重く、少しふらつきを感じた。

だが、大したことはない。

部屋を出てゲストルームの前を通りかかると、ベッドは綺麗に整えられていて、誰かが寝た形跡はなかった。

彼女の瞳が、わずかに翳った。

時彦は昨夜、帰ってこなかったのだ。

車を走らせ、相馬研究所へと向かった。

所長室。

デスクの奥には、成熟した落ち着きを漂わせる男が座っていた。端正で凛々しい顔立ち。リムレスメガネの奥にある理知的な黒い瞳は、パソコンのモニターに集中している。すらりと伸びた長い指で万年筆を走らせ、さらさらと音を立てながら、鋭く整った文字を書き留めていた。

彼女が手を上げてドアをノックすると、男がこちらへ温かな視線を向けた。その視線を受け止めながら、彼女は部屋の中へ足を踏み入れた。

「先輩、お久しぶりです」

彼女は紀行に心から感謝していた。

結婚後、高橋家に馴染むため、彼女は研究の世界から身を引いた。

母親は反対し、恩師に至ってはひどく心を痛め、嘆き悲しんだ。

そんな中、紀行だけは何も言わず彼女を支持し、機会があるたびに、いつでも彼女に声をかけてくれた。

もし彼の誘いがなければ、別の手段で研究の世界に復帰することはできたかもしれない。だが、これほどスムーズにはいかなかっただろう。

「久しぶりだな、沙綾」

紀行は立ち上がり、応接用のソファへ彼女を促した。

「パスポートは持ってきたか?」

「はい」

彼女はバッグから自分のパスポートを取り出し、彼に手渡した。

紀行はそれを受け取り、中を確認した。

「有効期限内だな。手続きは問題なく進むだろう。

ただ、これほど長く離れるとなると、君の夫が……」

言葉を濁す彼に、彼女は隠すつもりもなく、落ち着いた声で答えた。「彼との関係は終わりました。離婚するつもりです」

その言葉を聞いて、紀行は黙って彼女を見つめた。

わずか二年間の結婚生活が、明るく自信に満ちていた女性を、これほどまでにやつれた姿へ変えてしまった。彼女がその結婚生活でどれほど苦労を強いられてきたのか、想像に難くない。

紀行は慰めるように言った。「君の決断は正しい。君を苦しめるような相手に、未練を残す価値はない。沙綾、君はもっとふさわしい、愛すべき人に出会えるはずだ」

沙綾は小さく頷いた。

紀行は手首を上げ、時計を見た。

「食事でもどうだ?氷室社長を紹介しよう。この研究所のスポンサーであり、パートナーでもある。今後、仕事で関わることも多いだろうから、今のうちに顔合わせをしておいたほうがいい」

「分かりました」

氷室陣(ひむろ じん)――その名に、彼女も聞き覚えがあった。

彼は帝都大学の著名な卒業生だ。

研究分野における、紛れもない天才。飛び級で十八歳にして大学を卒業すると、奨学金を得て海外の大学院へ進学し、航空宇宙工学の博士号を取得した。

その類まれな才能を認められ、在学中からトップクラスの航空宇宙メーカーの研究開発に特別研究員として参加。彼が主導した複合材料の研究は次世代機の軽量化に貢献し、国際的な学術誌でも高く評価された。

誰もが、彼は将来の学界を牽引する存在になると信じて疑わなかった。

だが陣は突如として研究の道を一旦離れ、官民を問わない、ある極秘の国家プロジェクトに招聘された。そこで彼は異例の若さでチームを統括し、プロジェクトを成功へ導いたことで、その名を轟かせた。

プロジェクトを完遂した後、陣はすべての栄誉をかなぐり捨てるようにして帰国し、今度はビジネスの世界へと戦場を移した。家業を継ぐとテクノロジー開発に注力し、氷室グループをさらなる高みへと押し上げた。それでいて、陣はまだわずか二十八歳という若さだった。

沙綾が紀行の後について高級レストランへ到着すると、陣はすでに席についていた。

気品がありながらも、どこか冷ややかな顔立ち。窓際の席に座り、書類に目を通していた陣は、人が近づいてくる気配に気づくと、こちらへ視線を向けた。

漆黒の瞳。彼女のすべてを見透かすかのような深い眼差しに、思わず息を呑んだ。

だが、それは一瞬のことだった。陣の視線はすぐに彼女を通り越し、紀行へと向けられた。

先ほどの視線も、ただ何気なく向けられただけのようだ。

沙綾の口元に、ふと自嘲気味の笑みが浮かんだ。これほど伝説的な人物が、自分のことなど知っているはずがない。

「氷室さん、紹介させてください。いつもお話ししていた後輩の高橋沙綾です」

紀行は誇らしげな口調で言った。

「彼女は今回のナノチップ開発に参加し、チームと一緒にシリコンバレーへ行きます」

沙綾は陣に向かって手を差し出し、穏やかな表情で言った。「初めまして、氷室さん。これからよろしくお願いいたします」

近くで見て初めて気づいたが、その男は驚くほど彫りが深く、整った顔立ちをしていた。

時彦の容姿やオーラも、常人には到底及ばないレベルだった。だが、陣はそれをさらに上回っていた。

白いシャツのボタンを一番上まで留め、そこから放たれるオーラは、冷酷なまでに厳格だった。

陣は形式的な挨拶を返すこともなく、完全にビジネスライクなよそよそしい口調で尋ねた。「契約書にはサインしたのか?」

その言葉に、彼女は気まずそうに手を引っ込め、紀行の方を見た。

紀行は穏やかに説明した。「まだそこまで手が回っていませんが、沙綾が決めたことは絶対に変わりませんよ」

氷室は眉間をわずかにひそめ、紀行の言葉に納得がいかない様子だった。

すると、彼の傍らに控えていた秘書が、一部の契約書を沙綾の前に差し出した。

無理もない。紀行は先輩だからこそ自分を信頼してくれているが、陣は自分と面識がなく、どんな人間かも知らない。もし自分が急に気を変えてシリコンバレーへ行かないと言い出せば、代わりの人間を探さなければならず、不必要な損失を被ることになるからだ。

沙綾は紀行に心配はいらないと目配せをし、ざっと契約書に目を通した。

年俸は6億円。もし契約に違反した場合、損失の回収に加えて6億円の違約金が発生する。妥当な条件だ。

秘書から差し出されたペンを受け取ってサインをし、契約書を陣へと押し戻しながら、沙綾はきっぱりと言い切った。「氷室さん、決してご期待を裏切るようなことはいたしません」

「ああ」

男は淡々とした声で応え、ペンを取ると、彼女の名前の隣に自分のサインを書き入れた。

力強く達筆な彼のサインを見つめながら、彼女は少しぼんやりとしていた。

研究所と契約を結ぶのではなかったのだろうか?

だが、陣がこの研究所の全面的なスポンサーであり、最大の提携先であることを思い出し、彼にその権限があるのも当然だと納得した。

そうして思考を巡らせている間に、光に引き伸ばされた黒い影が、彼女の全身をすっぽりと包み込んだ。

陣が立ち上がり、沙綾に向かって手を差し出していた。その一挙手一投足から放たれる圧倒的なオーラは、骨の髄まで染みついた強靭さと、揺るぎない決断力を物語っていた。深い眼差しが彼女の瞳を真っ直ぐに射抜き、静かな声が響く。

「一日も早く研究所に入り、環境とスタッフに慣れてほしい。いい取引ができそうだ、沙綾さん」

沙綾は男を見上げた。

彼は本当に背が高い。百九十センチある時彦よりも、さらに二センチほど高く見える。

視線が交わった瞬間、男の瞳は漆黒に染まり、その奥には強い威圧感が宿っていた。

彼女は訳もなくその気迫に圧倒され、慌てて差し出された手を握り返した。

「はい、尽力いたします。よろしくお願いいたします、氷室さん」

男の指先の冷たさに、彼女の心臓が小さく跳ねた。

なぜか、どこかで会ったことがあるような気がした。以前、どこかで面識がなかったか尋ねようとした、その時だった。

騒がしい音が二人の会話を遮った。

彼女がレストラン中央のモニターに目を向けると、そこにはニュース速報が流れていた。

【トップ豪門の御曹司、不倫疑惑】

週刊誌の記者が隠し撮りした写真には、昨夜、時彦が朱里を庇うように車から降ろし、彼女のマンションへ入っていく姿から、今朝になって彼が自分の車で去っていく様子までが克明に写し出されていた。

沙綾の脳裏に、今朝家を出る時に見た、あの綺麗に整えられたままのゲストルームのベッドが蘇った。

二人はもう長い間、同じベッドで寝ていなかった。

最近の時彦は朝早くに出かけ、夜遅くに帰宅し、家に戻っても仕事をしているため、そのままゲストルームで寝泊まりしていた。

てっきり、時彦が自分の睡眠を妨げないよう気遣ってくれているのだと思い、心の中で少しばかり甘い喜びを感じていたのだ。

まさか、愛する女のために操を守っていただけだったとは。

彼女の口元に、苦々しい笑みが浮かんだ。

「沙綾、大丈夫か?」

紀行の気遣う声で、彼女は我に返った。

自分がずっと陣の手を握ったままだったことに気づき、気まずそうに手を離した。

「申し訳ありません、氷室さん」

男は感情の読めない目で沙綾をちらりと見ると、席に座り、ウェイターが差し出したおしぼりを手に取って手のひらを拭いた。

沙綾はかすかに眉をひそめた。

嫌がられている。

禁欲的で冷酷、女を近づけないという噂は、どうやら本当らしい。

この食事の間、沙綾はずっと上の空だったが、なんとか最後まで持ちこたえ、直属の上司になるであろう男に悪い印象を与えずに済んだ。

沙綾は車を走らせ、高橋グループの本社へと向かった。

今日こそ、時彦と離婚について話し合わなければならない。

高橋グループに到着するとすぐに、洋一が書類の束を彼女に手渡してきた。

「奥様、有希子様が……」洋一は少し言いにくそうに口を開いた。「今はまだ、この資金は出せないと仰っています」

有希子は高橋グループの福祉振興会の前会長だったが、沙綾が引き継いだ後、帳簿には多額の赤字が生じていた。

当時、有希子は後で必ず穴埋めすると約束したものの、一年以上経った今でも、資金が振り込まれる気配はなかった。

最近になってようやく承諾したものの、正式な手続きを踏むよう要求され、書類にサインをもらいに行かなければならなかった。

昨夜、本家を出る前に、沙綾は執事を通して書類を有希子に渡しておいたはずなのに、まさかまた約束を破られるとは。

洋一を困らせたくなかったため、沙綾は黙って書類を受け取り、離婚協議書と一緒に重ねて社長室へと足を踏み入れた。資金の件は、また後で直接問いただせばいい。

時彦はソファに座り、長い脚を無造作に組んで手元の書類に目を通していた。彼が着ているスーツは、昨夜のものとは違っていた。

彼には潔癖症があり、適当な場所でシャワーを浴びて着替えるような真似は絶対にしない。

つまり、彼が朱里の家に行ったのは、これが初めてではないということだ。

沙綾は長いまつ毛を二度震わせ、湧き上がる感情をすべて胸の奥へ押し込めた。

沙綾が入ってきたことに気づき、時彦は淡々と視線を上げた。

「昨夜はどこに行っていた?」

こちらが彼の行き先を問い詰めるより先に、彼の方から先制攻撃を仕掛けてきた。

沙綾が答えないでいると、時彦は冷ややかな口調で言った。「二度とあんな真似はするな」

昨夜、勝手に席を立ったことを責めるだけで、沙綾がなぜ本家を出て行ったのかについては、少しも関心がないらしい。

いつからだろうか。

時彦が気にかけるのは、ただ一つ、「高橋家の妻として相応しく振る舞うこと」だけになってしまったのは。

沙綾は彼の言葉には応じず、低い声で尋ねた。「離婚のこと、考えてくれた?」

時彦は眉間をひそめた。

「些細なことで、何をそんなに騒いでいるんだ?」

愛人とオフィスでイチャつき、その愛人を平然と家に連れ込み、妻としての尊厳を無惨に踏みにじった。さらには、堂々と愛人の家に泊まり込んでいる。

世間の注目を集め、ニュースでこれほど騒ぎ立てられているというのに。

高橋グループには火消しをするつもりすらないらしく、沙綾は今やすっかり世間の笑い者だ。

時彦にとっては、これらがすべて「些細なこと」だとでもいうのだろうか?

沙綾は手に持った書類を強く握りしめた。怒りと悲しみで、瞳の奥にじわりと涙が滲む。

その手が、ふと優しく握られた。

驚いて顔を上げると、時彦はいつもと変わらぬ淡々とした表情で、沙綾の手から書類を受け取った。そして、スーツのポケットから万年筆を取り出すと、ページをめくりながらサインをし始めた。

その万年筆は、結婚一周年の記念日に彼女が贈ったものだった。まさか、時彦がずっと使い続けていたとは。

時彦の声は相変わらず冷淡だった。

「1億だ。俺が出してやる。

今後、基金会で資金が必要になったら、直接財務部に回せ」

お金に関することであれば、時彦は昔から沙綾に対して出し惜しみをしたことがない。

だが、沙綾が求めていたのは、決してそんなものではなかった。

彼女は、時彦が福祉振興会の書類にサインした後、そのまま下にある二枚目、三枚目の離婚協議書へとページをめくり、ペンを走らせようとするのを見つめていた。

もう少しよく見れば、それが離婚協議書であることに気づくはずだ。

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