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第3話

Author: 楽しくお金を稼ごう
だが、時彦はそうしなかった。彼はページの下部にそのままサインし、沙綾の言葉などまるで意に介していなかった。

サインを終えると、警告を孕んだ声が耳に届いた。

「二度と離婚という言葉は聞きたくない」

離婚したくない?なのに、あなたはもう離婚協議書にサインしたじゃない。

彼に軽んじられた胸の痛みを押し殺し、沙綾の心はすっかり冷え切っていた。

離婚協議書にサインをもらえた。それで十分だ。

沙綾は手際よく書類を片付けると、きびきびとした足取りで部屋を出ようとした。

その背後から、突然、時彦の冷淡な声が響いた。

「夜はレストランに行くのを忘れるな」

その言葉を聞いても、沙綾は足を止めなかった。無表情のまま、社長室を後にする。

秘書課の前を通りかかった時、洋一が他の秘書たちに話している声が聞こえてきた。

「焦らなくていいです。夜になれば、社長と奥様が結婚記念日をお祝いしている写真が出回ります。スキャンダルなど、自然と消えてなくなります」

そういうつもりだったのね。

私を利用して、スキャンダルの火消しをするために。

ならば、二部ある離婚協議書のうちの一部を、結婚記念日のプレゼントとして彼に贈ってあげよう。

その時、彼がどうやってスキャンダルを揉み消すのか、見物だわ。

今一番重要なのは、離婚届受理証明書を手に入れることだ。

沙綾は高橋グループ内にある自身のオフィスへ戻ると、親友の橋本奈々(はしもと なな)に電話をかけた。

「奈々、法曹界に離婚の手続きを手伝ってくれそうな友達はいない?」

電話の向こうから、奈々の心配そうな声が聞こえてきた。

「沙綾、本当にそれでいいの?結婚して二年、時彦さんにスキャンダルが出たのはこれが初めてじゃない。何か誤解があるんじゃないの?」

「彼、朱里と不倫したのよ!」

沙綾は唇をかすかに震わせた。怒りが過ぎ去った後には、胸を締め付けるような切なさだけが残っていた。

かつて沙綾は時彦に心を打ち明け、幼い頃に受けた悲しみを語ったことがあった。

その時、いつも冷静な彼の瞳に、かすかな痛ましい光が宿ったのを見た。

だが今、捧げた真心は、自らの心を抉る鋭い刃となってしまった。

記者は朱里の正面からの写真を撮っていなかった。

私以外、誰も真相を知らない。

奈々は彼女の言葉を聞くと、声を荒らげた。

「遠藤家のあの母娘、本当に厚かましいにも程があるわ!おばさんを傷つけた上に、あんたのことまで侮辱するなんて。

時彦さんが思いやりのない男なのは百歩譲って許せるとしても、あんたにそんな不快な思いをさせるなんて絶対に許せない。

離婚よ!あんな男、こっちから願い下げよ!」

「ええ!」

奈々の言葉に背中を押され、沙綾は少しだけ心が救われたような気がした。

奈々は老舗ジュエリーブランドの令嬢で、人脈も広く、見識も豊かだ。きっと彼女なら力になってくれるはずだ。

「奈々、もう離婚協議書にはサインをもらったの。でも、戸籍の手続きだと一ヶ月はかかる。もうこれ以上待ちたくないの。何かいい方法はない?」

奈々はためらうことなく答えた。「顔の広い友達がいるわ。三日で離婚届受理証明書を取れるようにしてあげる」

「ありがとう、奈々」

三日後、もう二度と彼らと顔を合わせずに済むのだ。

退社後、沙綾は奈々に離婚協議書を渡し、約束のレストランへと向かった。

ウェイターに案内され、窓際の席に着く。

広々としたレストランに、客は沙綾一人だけだった。

沙綾はバッグから長方形のギフトボックスを取り出した。中には、精巧な作りのネクタイピンが入っている。

これは沙綾が心を込めて作った、結婚記念日のプレゼントだった。

完成までに一ヶ月を費やし、その間、ヤスリで親指の付け根を怪我したこともあった。

沙綾はネクタイピンをボックスから取り出してバッグにしまい、代わりに丸めたもう一部の離婚協議書をその中に入れ、リボンを掛け直した。

三十分ほど待った後、ようやく時彦が姿を現した。

目の前の男は長身で、彫刻のように端正な顔立ちをしていたが、その表情は相変わらず冷淡だった。席に着くなり、彼はウェイターに命じた。

「料理を出してくれ」

「待って」

沙綾は彼を遮り、ギフトボックスを差し出した。

「結婚二周年のプレゼントよ」

三回目は、もう決してない。

時彦が伸ばしてきた手へと視線を移すと、彼の薬指には指輪を外した浅い跡が残っているのに気がついた。

結婚指輪すら外しているくせに、私には離婚を切り出すことすら許さないなんて!

沙綾はこみ上げてくる怒りを抑え込み、感情を交えずに言った。「開けてみて?」

時彦は無表情のままだったが、彼女の言う通りにリボンをほどき、箱の蓋を開けた。

中に何が入っているのか、彼は知っていた。

彼女が一ヶ月間、隠れるようにして作っていたことも。

てっきり、何か価値のあるものかと思っていた。

だが所詮、ただのネクタイピンだ。

ちょうどその時、窓の外で待ち構えていた記者たちが、先を争うようにシャッターを切り始めた。フラッシュの光が、あたりを白昼のように明るく照らし出す。

沙綾は時彦が蓋を開け、箱の中から白いものの一部が顔を覗かせたのを見つめていた。

すると彼は手を離し、ギフトボックスを洋一の腕の中へ放り投げた。スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出すと、手のひらで振動する画面を見つめながら、その口元に温かな笑みを浮かべた。

しかし、沙綾の方を振り返った時には、すでに冷淡な表情に戻っていた。

「少し用ができた。食事が済んだら、一人で帰れ」

スキャンダルの火消し用の写真を撮り終えたら、さっさと立ち去る。利用するだけ利用して、あとは捨てる。

この二年間、時彦から向けられた無関心と搾取には、もううんざりだった。

沙綾の瞳は次第に冷え切り、透き通るような声で言った。「時彦、あと一分だけ残って、箱の中身を見ることもできないの?」

時彦は足を止め、氷のように冷たい視線を彼女に向けた。

「俺の妻としてどう振る舞うべきか、いちいち教える必要があるか?」

一度や二度の我儘なら、見逃してやった。

だが、三度目はない。

他人のような冷ややかな眼差しとぶつかり合った瞬間、沙綾の心から、すっと憑き物が落ちたように穏やかになった。

「必要ないわ」

もう、どうでもいい。

離婚すれば、時彦とは二度と何の関わりもなくなるのだから。

彼の態度など、私にはもう関係のないことだ。

……

窓の外では、記者たちの車が道路を塞いでいた。

一台の黒いベントレーが、その車列に挟まれるようにして停車している。

後部座席では、フラッシュの光を浴びる細く儚げなシルエットに、一人の男が視線を注いでいた。その瞳の奥には、深く暗い光が宿っている。

運転席に座る秘書の小泉礼司(こいずみ れいじ)が電話を受け、送話口を手で覆いながら尋ねた。「社長、橋本様からお食事のお誘いです。何かお手伝いしていただきたいことがあるようでして」

それを聞いた男がわずかに眉をひそめると、礼司はすぐにその意図を察した。

陣は名門の出身であり、財界の重鎮でもある。高学歴で腕っぷしも立ち、何より容姿端麗。おまけにスキャンダルとは無縁で、まさに雲の上の存在のような人だ。

これまで、どれほど多くの女が彼に近づき、射止めようと躍起になったことか。だが陣は、どんな女にも決して隙を見せなかった。

礼司は視線を戻し、電話越しに奈々へ伝えた。「申し訳ありません、橋本様。社長は多忙にしておりまして……」

……

沙綾がレストランを出る頃には、すでに深夜になっていた。

身を切るような春先の冷たい風が襲ってくる。

思わず寒さに身震いし、肩に羽織ったカシミヤのコートをかき合わせた。だが、その瞬間、目の前がぐるぐると回り始め、強烈な吐き気が胸元から込み上げてきた。

スマートフォンを取り出し、運転手に迎えを頼もうとしたが、手元が狂って時彦にかけてしまった。電話口から聞こえてきたのは、甘ったるい女の声だった。

朱里が得意げに、皮肉たっぷりの口調で言った。「お姉ちゃん、もう待つのはやめた方がいいわよ。今、時彦が私の卒業祝いをしてくれているの。時彦ってば、本当にロマンチックなんだから。私が好きなものをちゃんと分かってて……」

あの慌ただしい足取りは、朱里のもとへ急ぐためだったのね。

沙綾は残された最後の力を振り絞って通話を切った。体が限界を迎え、柵に寄りかかって崩れ落ちそうになった、その瞬間。

腰に温もりを感じた。

誰かが体を支え、しっかりと抱き留めてくれたのだ。

抱き留められたことに気づくと同時に、澄んだ松の木のような、見知らぬ香りが鼻をかすめた。

沙綾はハッとして目を開き、一点の非の打ち所もない端正な顔立ちを捉えた。

「氷室さん……?」

沙綾は拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込む感覚で無理やり意識をはっきりさせようとした。腕を上げ、二人の距離を引き離そうとする。

だが、沙綾の手が陣の胸に触れた瞬間、彼はその意図を察したように一歩後退した。彼女の腰を支えていた大きな手は、そっと彼女の肘へと移った。

それに、沙綾は安堵の息を漏らした。

だが、その大きな手は突然離れてしまった。

体を支えきれず、沙綾は無意識に陣の腕を掴んだ。

体は震えるほど寒いのに、熱を帯びている。視界はぼやけ、頭も少し朦朧としていた。今にも倒れそうな感覚に襲われ、彼女は懇願した。

「氷室さん、近くの病院まで送っていただけませんか……二つ先の通りにあります」

陣の表情が冷たく沈んでいるのを見て、彼女は少し焦った。

「お願いします、本当に具合が悪くて……」

陣はわずかに眉をひそめ、漆黒の深い瞳で彼女を少しの間見つめた。その言葉が本当なのか、見極めようとしているかのようだった。

沙綾は思わず彼の袖を強く握りしめた。

視界に映る陣の長身がふいに低くなったかと思うと、薄く柔らかな生地越しに、彼女の背中と膝裏に男のたくましい腕が触れた。

突然抱き上げられ、落ちるのではないかと恐れた沙綾は、無意識に陣の襟首を掴んだ。

男の引き締まった筋肉の輪郭が肌に伝わってくる。それはまるで荒れ狂う波のようで、わずかに危険な匂いを漂わせており、沙綾の胸に急激な不安をもたらした。

顔を上げると、陣の瞳の奥には冷たい陰りがあった。真っ直ぐに伸びた背筋はわずかに後ろへ引かれ、沙綾がこれ以上近づくことを拒んでいるようにも見えた。

沙綾は慌てて手を引っ込め、伏し目がちにして彼の視線を避けた。

「……ありがとうございます」

陣の足取りは力強く、わずか数分で沙綾を救急外来へ運び込んだ。

白衣を着た医師たちの姿を見た瞬間、沙綾は張り詰めていた糸が切れたように、そのまま意識を失った。

意識が遠のく直前、立ち去ろうとした陣が医療スタッフに引き止められるのが見えた。

二時間後。

周囲のざわめきで目を覚ました彼女は、自分が病室のベッドに寝かされていることに気づいた。

医療スタッフの感嘆の声に導かれるように窓の外へ視線を向けると、夜空いっぱいに広がるイルミネーション・ショーが目に入った。

だが、沙綾の瞳は空虚だった。

脳裏に、朱里の言葉が響き渡る。

「時彦ってば本当にロマンチックなんだから。私がドローンショーを好きだって知ってて、わざわざ蒼海市から専門のチームを呼んでくれたの。汐見市のどこからでも見えるようにするって、時彦が言ってたわ」

イルミネーションの後、夜空には巨大な文字が浮かび上がった。

『true love is for you』

真実の愛?

あの二人が真実の愛だというなら、私は一体何だったの?

それが真実の愛だったというのなら、当初、政略結婚の話が出た時、時彦が結婚すべき相手は朱里の方だった。

私なんかじゃない。

命を救ってくれた恩を胸に時彦に寄り添い、彼と結婚するために必死に努力し、結婚してからも彼に相応しい妻になろうと全てを捧げてきた自分の姿を思い返すと、やるせない思いで胸が締め付けられた。

沙綾は無表情のまま視線を戻し、ベッドを降りて退院の準備を始めた。

バッグを開けた時、あの精巧なネクタイピンが目に入った。

時彦にこれを持つ資格はない。

彼に捧げてしまったこの二年間と同じように、もう失われた青春は取り戻せない。

でも、このネクタイピンだけは、捨てることはあっても決して彼には渡さない。

ネクタイピンを手に取り、ゴミ箱へ投げ捨てようとした時、思いがけず陣の漆黒の瞳とぶつかった。

これは沙綾が一ヶ月をかけ、丹念に作り上げたものだ。

時彦が最低な男だからといって、どうしてこれを捨てなければならないのか。

だが、これを見るたびに、踏みにじられた自らの真心を思い出してしまうのだ。

陣がネクタイピンをじっと見つめているのに気づき、沙綾は口を開いた。

「氷室さん、病院まで送っていただきありがとうございました。もしよろしければ、このネクタイピンをお礼として受け取っていただけませんか」

男が黙って見つめ返すのを見て、沙綾はふと我に返った。

彼は氷室グループの社長なのだ。手に入らないものなど何一つない彼が、こんな手作りの品など欲しがるはずがない。

気まずくなり、慌てて手を引っ込めようとした時、陣は感情の読めない顔のまま、すっと手を伸ばしてそれを受け取った。

三十分後。

時彦は看護師から電話を受け、病院へと駆けつけた。

エレベーターホールを出た際、長身の男とすれ違った。

その男から放たれる尋常ではないオーラに、時彦は思わず目を奪われた。

視界の端をかすめたその時、男の胸元に一つのネクタイピンが光っているのが見えた。

振り返り、ゆっくりと閉まっていくエレベーターの扉を見つめる。

時彦の視線はネクタイピンを通り越し、陣の、深淵のような黒い瞳と交錯した。

あの男が身につけていたネクタイピンは、沙綾が作っていたものと、その細工も色合いもほぼ完全に一致していた。

沙綾が俺に贈るはずだったものが、別の男の胸元に?

あり得ない!

時彦は眉をひそめ、冷たく沈んだ声で傍らの秘書に命じた。

「洋一、沙綾のギフトボックスをこっちへ持ってこい」

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