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第5話

Author: 楽しくお金を稼ごう
沙綾は、時彦の目に微塵の罪悪感も浮かんでいないことに気づいた。

時彦の大きな手が肩から手首へと滑り降り、沙綾の傷口を強く押さえつけた。瞳から情欲の色が引いていき、そこに残ったのは冷酷さだけだった。

「何を避けている?子供はもう欲しくないのか」

その掌から冷たさが伝わってきた瞬間、沙綾は弾かれたように手を引き抜いた。

白い腕を伝って鮮血が滴り落ちる。その痛々しい光景を目にすると、痛みまでいっそう増したように感じた。沙綾は弱々しくも怒りのこもった声で言い放った。「触らないで。欲しくないわ」

時彦は眉間をわずかにひそめ、一歩前へ出た。その冷たく沈んだ眼差しには、上に立つ者特有の支配欲が滲んでいる。彼は淡々とした声で告げた。「俺の妻としての責任を忘れるな」

責任?

沙綾は結婚当初のことを思い出した。両家は政略結婚だったため、家業を継ぐために子供を何人産むかまで、すでに計画を立てていた。

温もりなど一切ない約束だったが、それでも沙綾は確かに憧れを抱いていたのだ。

だが、時彦は一度でも協力してくれただろうか?

彼が「仕事を最優先する」と一言言い放ったせいで、沙綾は高橋家の両親からの出産へのプレッシャーと、遠藤家の母娘からの嘲笑を、丸二年間もたった一人で背負い続けてきたのだ。

沙綾が望んだ時、時彦は許さなかった。

今はもう欲しくない。

ますます険悪になっていく時彦の顔色を真っ直ぐに見据えながら、手首の痛みに目尻を赤く染めた。

「それはもう、私の責任じゃないわ。あなたの……」

「お姉ちゃん」

朱里がウォークインクローゼットに入ってきて、沙綾と時彦の間を遮るように立ち、言葉を遮った。

「ウェディング写真を台無しにしちゃったのは私が悪かったわ。だから、やけになって自分を傷つけたりしないで。それに、時彦を責めないであげて?今、救急箱を持ってきて手当てしてあげるから」

わざとらしく振る舞う朱里を見て、沙綾は込み上げる涙を押し殺し、冷たく笑い飛ばした。

「白々しい真似はしなくていいわ」

「お姉ちゃん、私は本当に助けたいだけなのに」

朱里は、いかにも可哀想な被害者といった顔を作った。

時彦の視線が、沙綾の手に冷たく注がれる。

「自業自得だ。放っておけばいい」

踵を返して部屋を出て行く、その薄情で冷酷な背中を見つめながら、沙綾は目の奥に込み上げる涙を必死に抑え込んだ。

愛されていないということは、たとえこちらが傷つこうとも、向こうは少しも気に留めないということだ。

そんなこと、とうの昔に理解しておくべきだったのだ。

だが、あの日時彦が助け出してくれて、辛抱強くそばに寄り添ってくれた日々……あの時の温もりは、一体何だったというのか。

時彦に庇ってもらえた朱里は、沙綾の耳元で声を潜め、嘲笑うように囁いた。「誘惑に失敗したからって、今度は可哀想なフリをして同情を引こうとしてるわけ?お姉ちゃん、夢を見るのはもうやめた方がいいわよ。私がいる限り、時彦には指一本触れさせないから」

残り29日。

朱里は絶対に二人きりにするつもりはなかったし、沙綾に時彦の心変わりを促す隙を与える気など毛頭なかった。

もともと時彦と政略結婚するはずだったのは自分の方なのだ。沙綾が突然戻ってきて、その座を奪い取ったりさえしなければ、二人はとうの昔に結ばれていたはずだった。

時彦は必ず約束を守って離婚し、自分と婚姻届を出してくれると、朱里はそう信じている。

一方の沙綾は――

私が時彦を誘惑したですって?

沙綾は馬鹿でも見るような目で朱里を一瞥した。これ以上無駄話をする気にもなれず無視すると、朱里は怒りで地団駄を踏みながら時彦の後を追って部屋を出て行った。

沙綾は破片をゴミ箱に捨て、自ら救急箱を取り出して消毒と包帯を済ませた。

片付けを終える頃には、すでに深夜になっていた。母からの嫁入り道具であるジュエリーボックスを整理する気力は、もう残っていなかった。

疲労困憊のままベッドで丸くなっても、なかなか寝付けない。そのままうつらうつらと空が白み始めるまで耐え、沙綾はスーツケースを手に取ると、一抹の躊躇いも見せずに屋敷を後にした。

……

翌朝、時彦が階下に降りると、キッチンで忙しそうに立ち回る朱里の姿があった。

「時彦、朝ごはんはもうすぐできるわよ」

時彦は淡々とダイニングテーブルに腰を下ろし、傍らに控える家政婦の松本恵子(まつもと けいこ)に視線を向けた。

「沙綾はどうした?なぜ朱里に朝食を作らせている」

「旦那様、私が出勤した際、ちょうど奥様が出かけられるところでした。おそらく会社に行かれたのかと」恵子は答えた。「朝食は朱里様がご自身で作るとおっしゃったのです」

結婚してからの二年間、沙綾は従順で聞き分けが良かった。

時彦が家にいる時は、必ず彼のために朝食を用意し、喜ばせようとしてきた。

彼が家で夜を過ごした翌朝に、沙綾の手作りの朝食を見なかったのは、これが初めてのことだった。

時彦の脳裏に、昨夜の「子供は欲しくない」という沙綾の言葉が蘇り、その表情は冷たく凍りついた。

子供は、彼女が欲しくないからといって、不要にできるものではない。

「旦那様、奥様は顔色も優れず、手首には包帯を巻いておいででした。とても悲しそうなご様子で……」

恵子は心配そうに言葉を継いだ。家を出て行く時の沈み込んだ沙綾の様子と、今キッチンで張り切っている朱里の姿を見れば、彼女にもすべてが理解できた。

美しくて優しい沙綾は、きっと朱里にひどく傷つけられたに違いない。

それなのに、夫の時彦はいつも朱里が度を越すのを甘やかして許しているのだ。

沙綾のために不満をぶちまけてやりたい気持ちは山々だったが、雇われの身では発言権などあるはずもない。

時彦は恵子の言葉を聞いてもこれといった反応を示さず、朝食を運んできた朱里を見つめると、少しばかり柔らかな眼差しを向けた。

……

沙綾は高橋グループの本社に戻り、福祉振興会に退職届を提出した。

福祉振興会の理事たちは、今月15日の理事会で決議を行い、新たな会長を選出することを決定した。

それまでの間、沙綾は依然として既存のプロジェクトを完遂しなければならない。

「明日のチャリティーオークションの準備はどうなっている?」

アシスタントの鈴木有栖(すずき ありす)が答えた。「奥様……」

「これからは小林さんと呼んでちょうだい」沙綾は淡々と言い放った。

「はい、小林さん」

有栖は驚きを隠せなかったが、言われた通りに従った。

「会場のスタッフはすべて手配済みで、招待客もほぼ出席の返事をいただいています。ただ、寄付されたオークション品の数がまだ足りません」

「名簿を貸して。残りの人には私が連絡するわ」

沙綾はスマートフォンを取り出した。そこには、一通のメッセージが届いていた。朱里からのものだった。

沙綾は画面をタップして開いた。

ダイニングテーブルに座る男がナイフとフォークを持ち、サンドイッチの欠片をレンズの方向へ差し出している。

朝の光が男の体に降り注ぎ、その端正な顔立ちをより一層引き立てていた。浮き出た喉仏や鋭い顎のラインには、圧倒的な色気が漂っている。

写真の解像度は非常に高く、彼の眼差しは柔らかで、黒い瞳に映る朱里の恥じらう姿までもがはっきりと写り込んでいた。

以前は、時彦も自分に対してこんなふうに優しく接してくれたことがあったのだ。

画面をタップする手が微かに震えた。沙綾は朱里のLINEを開き、彼女をブロックリストに放り込んだ。

沙綾の視線が、薬指の結婚指輪に落ちた。手を伸ばしてそれを外し、指輪の内側に刻まれた『TS』の二文字を指先でなぞる。

結婚の際、沙綾がどうしてもと頼んで刻んでもらったものだが、今となってはこの二文字があまりにも皮肉だった。

沙綾はそれを有栖に手渡した。

「これをリストに加えて」

有栖は驚きの声を上げた。「小林さん、これはあなたの結婚指輪じゃないですか。オークションに出すなんて、社長が怒るんじゃ……?」

時彦が気にするはずもない。

彼自身の結婚指輪など、今頃どこに放り投げられているかも分からないのだから。

「構わないわ」

沙綾は有栖の手から名簿を受け取った。

沙綾が本気だと悟り、有栖は指輪を受け取り、言われた通りに処理した。オフィスを出る際、有栖はふと立ち止まり、ハッとしたように呟いた。

「私ってば馬鹿ね。オークションになれば、社長が絶対にこの指輪を競り落として、また小林さんにプレゼントするに決まってるじゃない。社長はチャリティーにも貢献できて、奥様のご機嫌も取れる。一石二鳥だわ」

しかし、沙綾はそうは思わなかった。

沙綾が福祉振興会の会長を引き継いだ頃には、時彦はすでに彼女に対して冷たくなっていた。

過去に何度か自分から誘ったこともあったが、彼はすべて「仕事が忙しい」という理由で断ってきた。

時彦が出席するはずもないし、沙綾の顔を立ててやろうなどと考えたこともないだろう。そのせいで、沙綾は他のセレブ妻たちから少なからず嫌味を言われてきたのだ。

ましてや、今の彼の目には朱里しか映っていない。

沙綾は市内の富裕層の名簿をぱらぱらとめくり、氷室グループの金箔押しの名刺に目を留めると、すぐに電話をかけた。

昼休み、洋一がオフィスにやって来て、沙綾に薬を手渡した。

「奥様、お薬をお忘れでしたよ」

確かに屋敷に置き忘れていたことを思い出し、沙綾は受け取って礼を言った。

「奥様、昨日、社長から奥様名義でマンションを手配するよう指示がありました。手続きはすでに完了しております。こちらが権利書と鍵です」

洋一は言葉を続けた。

「社長からの、結婚記念日のプレゼントとのことです」

沙綾は納得した。結婚してからの二年間、特別な日には必ず時彦からプレゼントが届いていた。

新婚当初は、それを甘く幸せなことだと感じていた。

後になって、それがすべて洋一に代行させていたものだと知った時は、落ち込んだこともあった。

しかし、時彦は多忙を極める社長であり、毎日のスケジュールが何十万人という社員の生活に関わっているのだと、沙綾は理解するよう努めた。

だからこそ、時彦がふと自分を思い出した時に買ってきてくれるような、ショートケーキ一つ、キャンディー一つといった小さな幸せを、沙綾は一度も求めたことがなかった。

ほんの少しでも応えてくれれば、沙綾は燃え上がるような熱情で彼に飛びついていったのだ。

たとえその後、時彦の態度がどんどん冷淡になっていったとしても、沙綾は喜んで夫婦の結婚生活を守り続けてきた。

だが、今振り返ってみれば、自分があまりにも愚かだったことに気づいた。

「忙しい」というのは、ただの言い訳に過ぎなかったのだ。

沙綾は思考を引き戻し、権利書を受け取って中を確認した。

朧月レジデンス。汐見市にある高級マンションで、プライバシー保護に優れており、会社からも研究所からも近い。

29日後には汐見市を離れることを考えれば、新たに家を買い求める必要はない。家探しに時間を浪費したくもなかったし、長期のホテル暮らしではプライバシーや安全、特に研究資料の安全性を保証できない。

脳裏に、時彦が朱里に贈った数億円相当のエメラルドのネックレスがよぎった。沙綾はそれを受け取ることにした。

夜になり、沙綾は有栖と共にドレスサロンへ赴き、明日のチャリティーオークションのためにオーダーメイドしたドレスの試着を行った。

その合間に、沙綾は奈々にメッセージを送った。

【奈々、離婚のこと、友達から返事はあった?】

奈々はちょうど氷室家の屋敷にいた。外から車のエンジン音が聞こえてきたのを確認し、返信を打った。

【安心して、もうすぐ彼に会えるから】

彼女はスマホをしまい、執事の取り次ぎを経てこちらへ向かってくる男の姿を見つめた。

橋本家と氷室家はビジネス上の付き合いがあり、奈々の姉が彼の兄に嫁いでいるため、二人は親戚関係にあたる。

奈々はその立場を利用して、陣へと近づいていた。

しかし、陣の態度は常にどこかよそよそしかった。

沙綾から離婚を手伝ってくれる友達はいないかと尋ねられた時、奈々はすぐに陣のことを思い浮かべた。

彼はかつて国際研究機関に所属しており、独自の人脈を持っている。ましてや、今や財界の重鎮として確固たる地位を築いている彼には、周囲の者も一目置かざるを得ない。

親友を助けたいという一心で深夜の訪問を急いだ彼女だったが、そこには少しばかりの私心も混ざっていた。

陣に近づけるチャンスがあるのなら、奈々は決してそれを手放したりはしない。

「陣、私の親友がクズ夫に不倫されて、一日も早く離婚届受理証明書を手に入れたがっているの。力を貸してくれない?」

奈々は離婚協議書を開いて差し出した。書類上の手続きはすべて整っており、陣が一目確認し、部下に指示を出しさえすれば済む話だった。

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