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第625話

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普段はおとなしくて素直な子が、まさかこんな恐ろしいことをするなんて、誰も思わなかった。

大人たちは悲鳴を上げ、我先にと逃げ惑った。

その時徹だけは、人を刺したにも関わらず隼人の目に浮かぶ、まるで水面のような静けさをはっきりと見て取った。

その瞬間、徹は、骨の髄まで凍るような恐怖を初めて味わった。

そしてその恐怖が消えぬうちに、彼は死の淵に立たされたような感覚に襲われた。

それは一度味わったら、一生忘れられない感覚だ。

あの時、徹は本当に肝を冷やし、それ以来、隼人には手を出さなくなった。しかし、二人の間の確執は消えることなく、憎しみだけが渦巻いていた。

今の隼人は、あの頃の少年ではない。あの年で、あんな残酷なことができるということは、決して素直な人間ではなかったのだ。ただ、まだ牙を剥き出し、本性を現すほどには成長していなかっただけだ。

しかし、どんなに強い人間にも弱点はある。徹は偶然、隼人が書いた日記を見たことがある。それは、ある日までのカウントダウンだった。最初は意味が分からなかったが、正雄がK市に遊びに来ると聞いた時、徹はようやく理解した。隼人はずっと祖父に会う日を指折り数えていたのだ。

その瞬間、徹は笑い転げそうになった。

隼人は、意外とかわいいところがあるじゃないか。

愛されたことのない子供は、ほんの少しの優しさでも、失うことを恐れるものだ。

隼人は何も恐れていないように見えて、実は、大切に想う人や物が、自分の傍からいなくなることを何よりも恐れている。

今、隼人は月子に惚れ込み、付き合っている。これは、ただごとではない。隼人の性格からして、真剣に付き合っているに違いない。もし、月子に振られたら、隼人は、あの頃のように誰からも必要とされない惨めな男に戻ってしまう。きっと耐えられないだろう。もしかしたら、壊れてしまうかもしれない。

そう考えた徹は、口元を歪めて笑った。「隼人、お前が調子に乗っていられるのも、今のうちだけだぞ」

隼人は黙って徹を数秒見つめた後、ワイナリーを出て行った。

ワイナリーの外。

隼人は車の傍に立ち、スマホの連絡先リストをスクロールしていた。

【鷹司結衣】の名前で指が止まった。

彼は結衣に電話をかけた。

結衣がK市を離れてから、ほとんど連絡は途絶えていた。

コール音が長く続いた後、相手はようやく電話に出
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