Masuk「いいよ。でも、婚約者に連絡しておかないといけないから、数分待ってもらえる?」彩乃は隙のない笑みを浮かべてそう言った。忍はわずかに目を細めたが、笑顔は崩さなかった。「もちろん、誤解されたら困るからね」彩乃は返事をせず、ただ彼を見つめた。電話をするから、少し離れてほしいという意味だ。忍は笑いながら数歩下がり、腕を組むと、その色気のある目元で、彩乃を何気なく見つめた。久しぶりに会ったが、やっぱり相変わらず手厳しい女だ。忍が先ほど言ったことは半分本気で半分冗談だ。丁寧に振る舞っているのも建前にすぎない。下手に警戒されて逃げられたくなかっただけだ。本当のところは、ただ彼女と会って、食事をして、少し話がしたい。それだけなのに、ここまで遠回しにしても、婚約者を持ち出されるとは思わない。それにしても、もうすぐ一年になるというのに、まだ婚約は続いているのか。娘はもう二歳になるというのに、彩乃はまだ婚約破棄しないなんて、頭がおかしくなったのだろうか?忍は妙に前向きで、彼女の周りをうろついていれば、絶対にチャンスは巡ってくるはずだと思った。彩乃がそれらしく電話をかけるふりをしているのを眺めていると、彼女の視線がこちらを向いて、二人の目が合った。彼女は目配せして、早く乗るように促した。忍は笑みを深めながら助手席側へ回った。しかし、ドアは開かない。軽くノックすると、窓がすっと下がった。彩乃が首を傾げて顔を覗かせた。「ごめんね、婚約者が助手席には乗せないでって」「へえ」忍は笑った。「随分と器の小さい男だな」「忍だって、もし婚約者がいたら、他の女性を平気で助手席に乗せられる?」忍は少し考えてから答えた。「それもそうだな」忍は無事に後部座席に乗り込み、彩乃とは遠く離れた。彩乃はようやく運転に集中し始めた。車を走らせる姿は、あの鋭く隙のない性格とはどこか噛み合わない。両手できちんとハンドルを握る様子を見ていると、忍の頭には、授業中に机の上に行儀よく両手をそろえる小学生の姿がふと浮かんだ。本当に可愛いと思った。彩乃は今年で25歳、彼はもう31歳だ。忍は持ち前の性格もあってか実年齢を感じさせず、青年のような若々しく爽やかな顔立ちをしている。友人たちも若者が多く、付き合うときは自然と年齢差を気にしない。月
彩乃は、忍が自分に気があることを知っていた。一度、成り行きで体の関係を持ってしまって以来、この御曹司はどうやら彩乃と遊び半分の付き合いをしたがっているらしい。そこに本気なんてあるはずがない。そもそも、二人にはそれほど接点がないのだから。それでも忍がここまで彩乃に執着するのは、たぶん男の征服欲が働いているからだろう。興味を持った相手を、自分のものにしたい。ただそれだけだ。彩乃が好みなのは、素直で言うことを聞く年下の男の子みたいなタイプだ。忍はたしかに顔もいいし、家柄も申し分ない。今ではそれなりに顔見知りでもある。けれど、好みじゃない相手に心を動かされることはない。好きじゃないものは、どうしたって好きになれない。彩乃は、自分が嫌だと思うことを無理に受け入れたりしない。好みではない相手を、わざわざ自分に納得させて受け入れるようなこともしない。天音ほど思うままに生きているわけではないにせよ、自分の手の届く範囲で、自分で責任を取れるだけの余地があるなら、彩乃はきちんと自分の気持ちに従って生きる。だから彩乃は、ほとんど失敗をしない。そのうえで、自分の望む形で日々を送れているのだから、これほど快適なことはない。忍は面倒な存在だ。そもそも彼のような人は、自分の身近にいていい存在ではない。彩乃はハンドルに手を置いたまま、指先で軽く叩いた。ほどなくして、忍が車から降りてきた。好きではない。けれど、忍の持つあの人目を引く華やかさだけは、認めざるをえない。何もしなくてもそこにいるだけで目を奪われるし、さりげなく歩くだけでも不思議と様になる。生まれつき、そういう目立ち方をする男なのだ。あまりに整った男を前にすると、多くの人は近づくことも、まともに目を合わせることさえためらう。もっとも、彩乃にとって忍はまったくの他人というわけではない。今さら気圧されるほどの相手でもなく、彼が車のそばまで歩いてきても、ただ静かにその様子を見ている。コンコン、と忍がドアガラスを叩いた。彩乃は応じるように窓を下ろした。するとすぐに、彼の片手が窓枠にかかり、少しかがみ込むようにして顔をのぞかせた。「おや、これはこれは、一条社長じゃないか。危うくぶつけるところだったよ。せっかくだし、少しお話でもしないか?」彩乃は、彼のわざとらしい仕掛けを意に介さず受け
忍は一樹といとこ同士で、二人の母が実の姉妹である。忍は幼い頃から上流階級のコミュニティで育ち、性格はおおらかだ。容姿もオーラも「俺様」系で、無理に気取らなくても自然と威圧感とカリスマ性が漂っている。竜紀みたいに、どこか鼻につく見栄っ張りなタイプとはまるで違う。忍には大人の男の魅力がある。金と欲望が渦巻く華やかな社交界が最初から、彼の居場所として用意されているようだ。さっぱりとした爽やかさとは無縁の、とにかく濃くてインパクトのある顔立ちだ。隼人のような近寄りがたい冷酷な気高さとは違い、彼には少しだけ親しみやすさがある。しかし、オーラが強いため、決して安易に手を出せるような相手ではない。とにかく、彼の一挙一動はすべて絵になり、派手で華やかな雰囲気を纏っている。老若男女問わず惹きつける、非常に魅力的な人物である。天音は、忍がにぎやかな場を好むことを知っている。年齢や立場の違いはあっても、きっと自分とは気が合うタイプだろうとも思う。もちろん、彼にはマイナスな点もある。見た目からして、どうにも誠実一本には見えないのだ。顔つき、身長、雰囲気、さらには髪の毛一本に至るまで、彼は「遊び慣れた男」という言葉がそのまま形になったようだ。いかにも女慣れしていそうで、笑えばなおさら人を惑わせる。妙に艶っぽく、目を引く男だ。現在はフリーらしいが、プライベートでどんな人なのか、天音は知らない。天音はまだ若く、何に対しても少し好奇心が強い。月子に聞いてみようかとも思ったが、月子から隼人に話が伝わりそうで、それはやめて彩乃のところへ向かった。「ねえ、彩乃さんって忍さんのことよく知ってる?」天音は尋ねた。「あの人、プライベートだとどんな感じなの?」彩乃はこめかみをぴくりとさせたが、それを天音に気づかせることはなく、不思議そうに聞き返した。「なぜ急にあの人のことが気になったの?」「さっき見かけたから気になっちゃって」天音は甘えるように言った。「ねえ彩乃さん、教えてよ」彩乃は少し考える素振りを見せてから言った。「ちょっと子供っぽいところがあるわね」「子供っぽいところ?」天音は驚いた。「まさか。兄さんより一つ年上何でしょ?どうして子供っぽいの?」「精神年齢は別だから」「確かに、兄さんは昔から大人びてて落ち着いてたもんね
「だって、洵のほうがあなたよりずっとできた人だから」天音は、洵が大切にするのは相手の本心だけだと分かっている。家柄がいいとか、お嬢様だとか、そんな理由で特別扱いするような人ではない。洵が誰かを大事にするのは、その相手からの思いやりを、自分もちゃんと感じ取ったときだけだ。もしそうでなければ、出会ったばかりの頃、洵があれほど彼女に近づかれるのを嫌がったはずがないのだ。天音には様々な欠点があり、価値観も少し歪んでいるが、ゆっくりと洵によって真っ当な道へと引き戻された。もちろん、変わろうとした天音自身のおかげでもある。天音は相変わらず自分のすべてが最高だと思っているが、洵と一緒にいることはプラスアルファの要素だ。なぜなら、彼女はさらに良い方向へ、もっともっと素敵な自分へと変わっていけるからだ。これが、素晴らしい人を好きになることのメリットなのだ。天音は、自分が洵を好きになれたことを本当に幸運だと思っている。もし自分と同じようにひねくれた人間とつるんでいたら、きっとろくでもない騒ぎをいくつも起こしていたに違いない。彼女は今のすべてが大好きで、心から楽しんでいる。天音と洵は付き合い始めてからも、それぞれ自分の家で暮らしており、同棲はしていない。天音は、同棲したら生活習慣の違いから衝突が増えそうで心配だったし、そもそも洵のほうからその話を出したこともない。たぶん、彼の中でもまだそういう考えはないのだろう。しかし、週末はいつも一緒に過ごしている。旅行に出かけたり、天音の家で過ごしたりして、二人でたくさんの写真を撮った。どこかへ行くたびにSNSで投稿した。それは全部、天音がやりたいことだ。もともと彼女は、そういう特別な形を大事にしたいタイプだった。今週末はもともと近隣の国へ旅行する予定だったが、長い間ねねちゃんたちの顔を見ていなかったので、二人の子供に会いに行くことにした。天音と洵が付き合ってから、二人揃って月子の家を訪れるのはこれが初めてだ。ホームパーティーは、隼人が二人の子供のために用意した別荘で開かれた。天音と洵は時間をずらして別々に到着し、リビングに入った瞬間、ちらりと目を合わせたが、すぐにいつも通りを装った。天音はすかさず洵に猛烈な勢いでメッセージを送った。【やばい、めっちゃスリルあるね、あはははは】洵
洵は竜紀をちらりと見て言った。「二人で決めたことだ」竜紀はひどく驚いた。洵という男は本当に底知れない。てっきり臆病で傷つくのを恐れているのかと思いきや、本人は微塵も気にしていないようだ。「じゃあ、いつ公開するつもり?」洵は言った。「自然の成り行きに任せる」天音も同調した。「そのうち自然に伝わるわよ。わざと発表するなんて、私らしくないし」竜紀は心の中でツッコミを入れた。まさか結婚する時になって初めて家族に打ち明けるつもりじゃないだろうな?もちろん、それもあり得ない話ではない。ただ、それは天音が血迷って結婚したくなる場合の話だ。二人ともまだ若いし、今はただ恋人同士でいるくらいがちょうどいい。そんな先のことまで考えたって仕方がない。これから先どうなるかなんて、誰にもわからないのだから。食事会が終わったあと、竜紀は天音を捕まえて、二人きりで話をした。「さっきなんで急にちゃんとしろって言ったんだ?」「私が落ち着いて恋愛できるようになったんだから、あなたも少しは大人になって、ちゃんとしなさいってこと」と天音は答えた。「チっ、俺は昔からずっと大人だっつーの」竜紀は呆れたように目を剥いた。彼はただ少し怠け癖があるだけで、接待のノウハウなどとうの昔に知り尽くしているし、ビジネスや契約交渉に関しても子どもの頃から見聞きして育ってきた。物事を成し遂げられるかどうかは彼が本気を出すかどうかにかかっており、今はただ遊ぶのが好きなだけだ。天音がそんなことをわからないはずがない。だからこそ、その言い方が妙に引っかかった。「正直に言えよ。何か俺に隠してることあるだろ?」天音も竜紀相手に、話をはぐらかすような真似はしない。「確かにね。でも、まだ確かな話じゃないわ」竜紀は真面目な顔つきになった。「それ、俺に関わる話ってことか?」「当たり前でしょ」天音は言った。「不確かな情報だから、詳しくは言わないでおくわ」竜紀を傷つけ、余計な心配をかけないためだ。「わかった。じゃあ、今の段階で俺はどうすればいい?」竜紀は意外と現実主義だ。まだ起きていないことを、あれこれ気に病むようなタイプではない。「とりあえず、真面目に努力しているふりをして、お父さんの前でアピールすることね。なんなら、一つのことに熱心に取
その言葉を聞いた瞬間、竜紀と陽介は今すぐその場でテーブルをひっくり返して帰ってやろうかと思った。一方の桜はというと、完全に「甘すぎる」という表情だ。天音は振り返って洵を見た。彼はすぐ後ろにいるため、振り返ると顔がひどく近い。洵は無意識に片眉を上げ、真顔のまま続けた。「本当だ」洵はとても整った顔立ちをしているが、いかにも自分に酔っているような嫌味はまったくなくて、竜紀みたいに鼻につく感じもしない。しかし、ふとした瞬間の何気ない仕草でハッとさせるような色気がある。天音はこういうタイプにめっぽう弱い。天音が何も言わないのを見て、洵は聞いた。「俺を信じないのか?」天音は惜しみなく称賛の言葉を口にした。「ううん、かっこよすぎて見惚れちゃっただけ」洵「?」陽介はまともにダメージを受けたような顔をしている。「おいおい、まじかよ?」そして竜紀の腕を引いて言った。「なぁ、見てらんないだろ!」「俺には、恋愛経験ゼロの奴がここで拗ねてるようにしか見えないけど」と竜紀は答えた。「お前外出ろ」竜紀は図太く言い返した。「出るかよ。でも気持ちはわかる。こんなの見せつけられちゃ、確かに耐えられねえよな」そして今度は天音に向かって言った。「恋してる人間ってのは、やっぱ全然違うもんだな」竜紀は天音があそこまで男にメロメロになっているのを見たことがない。洵と一緒にいる彼女は、これまでの恋愛とは明らかに違う。もしかすると、今回は本当に長続きするかもしれないと彼は思った。年を重ねると、人って変わるものなのだろうか。そう思いはしたが、竜紀自身は今の自分が昔とそこまで変わったとも思っていない。父にあれこれ仕事を押しつけられて前より忙しくなった、そのくらいだ。中身まで急に大人になった気はしない。だからこそ、天音の変化にはどうしても少し戸惑ってしまう。もちろん、竜紀たちはもともと視野の狭い人間ではない。自分ではまだ未熟だと思っていても、世間の大半よりはよほど場数を踏んでいる。ただ、それでも比較対象が常に自分自身だから、こういう変化には敏感になってしまう。願い事をしようと言い出したのは竜紀だったので、彼は自らこう締めくくった。「俺たちの願いが、全部叶いますように」皆もノリ良く、次々とそれに賛同した。若い者同士、食事
隼人が去ると、賢は言われた通りに月子の相手をする役に回った。ほどなくして、二人は洋館の方へと案内された。そして、賢は月子の相手をしながら、隼人が医師と共に去っていく後ろ姿を見て、ようやく安堵のため息をついた。隼人が月子の言うことを聞いてくれてよかった。あいつが意地になると、誰も手がつけられないからな。月子も……隼人のことを心配しているんだろうか?でも、月子のあの冷たい態度からはそうは見えない。それに、彼女はずっと一樹と一緒に行動している。二人は今、付き合っているらしい。正直、賢には信じられなかった。本当に月子は一樹と付き合っているのか?もし本当に付き合っているなら、隼人
月子は隼人に尋ねた。「どうして、私を監視して子供を奪えば、私とよりを戻せるなんて思ったの?」隼人がこんな行動に出たのは、幼い頃に見捨てられた経験からくる、染み付いた考え方のせいだった。月子に別れを切り出されたことは、隼人にとっては見捨てられたのと同じだった。彼は生きる気力さえ失い、どうやって引き留めたらいいのかも知らなかったから、何もできなかったのだ。子供の頃、隼人はどうして両親が会いに来てくれないのか尋ねたこともあったかもしれない。でも、聞いても解答を見いだせなかったから彼は次第にそれをある種の運命として受け入れるようになっていた。だから隼人の中では、月子に別れを切り出された
「ずいぶんって……ちょっと大げさじゃない?」隼人は、正確な時間まで口にした。「5時間15分だ」月子は黙っていた。「お前の顔を見て、やっと安心したよ」隼人はそう言った。月子が取り乱していた姿を見て、胸が張り裂けそうだったのだ。もし彼女が一人になりたいと言わなければ、ずっとそばにいてやりたかった。月子は遠くの景色に目をやりながら言った。「ここはあなたの家なんだから、私が迷子になんてなるはずないでしょ」「それもそうだな」隼人は軽く笑った。月子の様子がだいぶ落ち着いているのを見て、彼も安心し、彼女と一緒に景色を眺めた。そろそろ戻ろうと、月子は思った。一番の理由は、隼人と二人で静
賢は一樹の口のうまさに、まったくお手上げだった。でも、月子はもう怒りでいっぱいで、ずっと我慢している。子供のことまで心配させてしまっては、彼女の気持ちを無視できない。「隼人が、子供たちの面倒を見たいと……」一樹は聞いた。「どうしてですか?彼の子供でもないのに」賢は言った。「子供たちを使って、静真を罰するためです」一樹は静真のことをよく知っているから、それを聞いて頷いた。「それは確かにいい方法かもしれませんね。急所を突いていますし、あいつの自業自得ですからね」そして彼はますます顔色が悪くなる月子に視線を移し、それから危険な目で賢を見据えた。「でも、あの二人の揉め事は、本人たちだけ







