تسجيل الدخول海斗と凛は、それぞれ別のエレベーターに乗る。扉が閉まる間際、海斗は先ほどの凛の姿を思い出していた。驚きで目を丸くする様子は、まるで迷い込んだ子猫のようで、可愛らしく思えた。男の口元がふっと緩んだのだった。……小会議室に入った柚葉が部屋を見渡すが、ここ最近自分を避けてばかりの谷口博士の姿はなかった。梓に尋ねる。「谷口博士はどこ?」梓は首を振った。「分かりません」柚葉が適当な席に腰を下ろそうとすると、隣の人が言った。「小林さん、そこは谷口博士の席です」楕円形の会議テーブルには上座が二つあり、一つはスクリーン側、もう一つがまさに柚葉が座ろうとした場所だった。プロジェクトチームのメンバーは彼女を良く思っておらず、柚葉もまた彼らを見下していた。だから、柚葉は鼻で笑って言い返す。「まだ来ていないじゃない。それに、今日ほどの大事な場で遅刻だなんて、責任者としてあるまじき行為だと思わないの?」梓は真面目な顔で答えた。「先輩はもうとっくに来ていて、少し離席しているだけですから」柚葉は笑みを浮かべただけで、何も言わない。このプロジェクトチームで、梓は谷口博士の一番の腰巾着だ。スクリーンに映る隣の会議室では、人々が続々と入室し、ほどなくして会場は満席になった。審査員も全員そろい、各企業の代表者たちもそれぞれの席に着いている。机の上には各社のネームプレートが並び、それに従って着席するのだ。竹内グループの席の隣は、ちょうどホシゾラ・テクノロジー。席に着いた海斗は、視線をホシゾラ・テクノロジーの席へ向けた。そこには、ぽつんと一つだけ空席が残されている。海斗はそこへ目をやり、面白がるように口元を緩めた。今日は景山グループの御曹司が来ている。では、この席に座るのは誰だ?本来なら、責任者である智也が座るべきだ。だが、御曹司の意向が示されないうちは、智也も勝手に腰を下ろすわけにはいかないのだろう。すると、英樹がホシゾラ・テクノロジーの空席に目を向け、尋ねた。「ホシゾラ・テクノロジーの谷口社長は来ていないのかね?」「こちらにおります」智也が英樹の方を向き、礼儀正しく頭を下げた。智也は柚葉から英樹の顔写真を見せてもらっていたのだ。悠真も口を開く。「智也さん、座って」促されてようやく智也は席に着いた。英樹は智也を
柚葉は智也のそばに立つ。凛が二人をちらりと見たことに気づき、悠真は興味本位で尋ねた。「智也さん、この人は?」しかし智也が答える前に、柚葉が笑顔で悠真に手を差し出した。「智也のお友達?はじめまして、小林柚葉です」悠真は少し気まずさを感じた。智也と一緒に来たが、友達というわけではない。というより、智也を友達と呼ぶのは違うだろう。だが父親からは、智也についていくようにと言われているから、会釈ぐらいはしておくべきか。しかし、手は出さなかった。直感的に、凛がこの女を好んでいないと感じたから。自分は口説かないといけないのだ。智也は柚葉を見て眉をひそめながらも、悠真を紹介する。「景山悠真さんだ」友達だと、肯定も否定もできない。だが、この名前だけで柚葉には分かるだろう。事態を飲み込んだ柚葉の笑みが引きつった。まさか、あの景山家の跡取り息子だったなんて。「失礼いたしました」悠真はふっと笑うと、すぐに視線を凛に戻し、凛が歩き出そうとするのを追っていった。「中に入るんですか?一緒に行きましょうよ!」その目は真剣で、しっぽを振る子犬のように見える。「凛、どこ行くんだよ?」凛を追いかけようとした智也だったが、悠真と同じくボディガードたちに道をふさがれてしまった。ボディガードが容赦なく彼らを睨みつけている。凛は智也を振り返った。「用があるの」「こんなところに何の用だ?」智也は眉をひそめて、もう一度聞いた。「それに誰なんだこいつらは?誰がお前にボディガードなんてつけたんだよ?」その時、柚葉は気づいた。どうやら、凛は智也と一緒に来たわけではないらしい。智也と一緒に来たのではないのなら、考えられる人物は一人だけ。そしてそれは、きっと智也も気づいているはずだ。智也が尋ねる。「竹内社長か?」柚葉は口角を上げた。凛はまた海斗と一緒にいるようだ。「そうだ」男の低い声が響いた。凛が顔を上げると、いつの間にか竹内グループの一団がそこにいた。海斗がその中心に立ち、大勢の部下を従えている。海斗は冷ややかな目で全員を見渡したあと、悠真に視線を止めた。「君も来ていたのか」「竹内社長、お久しぶりです」悠真は挨拶しながらも混乱していた。どうして凛と海斗に接点があるんだ?「ああ」海斗は短く応じると、
凛は何食わぬ顔で彼女の脇を通り抜けた。ちょうどボディガードが柚葉の視界を遮ってくれたため、柚葉が入り口の方を見たとき、凛の姿は見えなかった。勘太の乗る車が入り口に着いた。彼が凛の代わりに携帯を探そうとしたが、凛は自分でやると言って車内に身を乗り出し、シートの下から携帯を見つけ出す。ちょうどその時、後ろにベントレーが止まった。最初は誰の車か分からなかったが、見覚えのあるナンバープレートを見て、前に海斗にぶつけられて新車に買い替えたばかりの、智也の車だと気付いた。なんて運が悪いのか。こんなところで鉢合わせるなんて。凛は、きちんとしたスーツ姿で車から降りてきた智也を目にした。傍らには浩と、見たことのない若者が一緒にいる。智也は凛に気付いておらず、その視線はただ正面のビルに向けられていた。凛としても、彼には気づかれたくない。だが、一緒にいた青年の視線は凛に釘付けになっていた。「悠真さん?」智也が横にいる悠真の方を見ると、彼はどこか一点を呆然と見つめている。瞳を細め、心なしか何かがきらめいているように見えた。かつて同じ時期を過ごした智也には、この目が何を意味するのかくらいは分かる。一目惚れだ。悠真は一体、誰を見ていたのだ?智也は不思議に思い、その視線を辿ってみた。凛だ。それも、自分が見たことのない凛。端正な顔立ちはまるで絵画のようで、その表情には凛とした冷たさが宿っていた。身なりはすっきりとしていて、知性と有能さを感じさせる。眼鏡をかけていない彼女の琥珀色の瞳は、陽光の下で宝石のような輝きを放っていた。風が吹き、凛がさっと髪を整える。視線が交差した。智也までもが動きを止めた。ズボンのポケットに突っ込んでいた手を取り出し、凛の姿をぼんやりと見つめる。あの交流会での上品さとも違う、自立した知性を感じさせる雰囲気。だがどちらの彼女も、智也が見たことのない凛だった。最近忙しくて、ろくに顔を合わせていなかったせいか、ずいぶんと印象が変わったように感じる。美しさに磨きがかかる一方で、自分に向けられる視線は、以前にも増して……冷ややかだ。智也は眉をひそめた。なぜこんな所にいるんだ?それにその服装は?竹内グループを既に辞めたんじゃないのか?しかし、智也よりも先に動いた者がいた。「智也さん、
凛はうなずく。「じゃあ、道中で買いましょう。4人分ね」勘太は途中で車を止めて、簡単な朝食を4つ買ってきた。凛は携帯を革のスカートのポケットに入れ、朝食を受け取る。「東さん、経費で精算しておくのを忘れないでくださいね」「谷口博士、もう4年間もあなたに言われてますから忘れませんよ」勘太は苦笑いし、パンを2口かじると、入札会場へと車を走らせた。9時に車が会場に着いた。凛が車から降りるとボディガードもその横を固める。彼女はまずエレベーターで克哉のところへ向かった。研究所の幹部は皆そろっており、もちろん英樹もいた。柚葉は誤解を避けるため英樹とは一緒におらず、プロジェクトメンバーが全員いる隣の小さな会議室で控えていた。凛が各幹部たちへ順番に挨拶すると、彼らは賞賛の眼差しを向け、英樹も祝福の言葉を贈った。「谷口博士、この日を迎えるまで本当に大変だったな」「ありがとうございます、松田さん」凛は丁寧に礼をし、幹部たちの方を向いて言った。「私は選定に参加しませんので、隣の控室に行っておきますね」皆がうなずく。凛が出ていくと、克哉がついてきて言った。「隣の小会議室のディスプレイはここと連動しているから、各社のプレゼンも見えるし、リアルタイムの映像も流れる。だから君たちも真剣に聞いて、一緒に議論の結果を出してほしいんだ。最後には君たちの意見も聞くからね」「わかりました」凛はうなずき、隣の小会議室の扉を見た。「小林さんは来ましたか?」「来てる。下にいた」「下に?」凛は少し不思議に思った。さっき自分が上がってきた時には会わなかったのだが。克哉は含みを込めて言った。「たぶん、誰かを待ってるんだろう」その「誰か」なんて、言わなくてもわかる。凛は静かに目を伏せた。克哉は凛が何を考えているかはわからなかったが、注意を促す。「今日は私情を挟まないこと。すべてはプロジェクトの利益を優先して考えるんだよ」凛は克哉の言っている意味を理解した。簡単に言えば、智也がいるからとホシゾラ・テクノロジーを不当に否定してはならないし、竹内グループにいたという理由で忖度もするな、ということだろう。凛はすべて分かっていた。「私情は挟みません」「うん」克哉は真剣に彼女を見つめ、最後には温かく笑うと、凛の肩をポンと叩いて言った。「松田さんが言
竹内グループ。拓海が社長室のドアを開けると、海斗は既にデスクに向かい、今日の書類にすべてサインを終えていた。時刻はまだ、午前8時を過ぎたところだ。「竹内社長、研究開発センターのメンバーが到着しました」海斗はペンを止め、顔を上げた。「10分ほどの簡単な打ち合わせをする」要点を的確に指示し、海斗は言った。「朝食は30分で済ませろ。8時50分にビルの西口で集合だ」一同は立ち上がり、オフィスを出て行った。海斗が拓海に向き直る。「言っておいたやつは持ったか?」拓海は自分の鞄を軽く叩いた。「はい、持っています」「20部コピーして、すべてホッチキスで留めろ」海斗の表情は険しく、その瞳には鋭い光が宿っている。拓海は直ちにコピーをした。しかし、枚数が多いため、恵と理央にも手伝ってもらい、ホッチキスで留め始める。手にした書類を一目見て、恵は眉をひそめながら尋ねた。「竹内社長は、これを町中で配り歩くつもりなの?」拓海はただ、小さく微笑むだけ。恵の言う光景は想像し難いが、海斗が審査員たちの目の前に書類を放り出し、すべてを支配している様子が拓海の目にありありと浮かんだ。理央は書類を整理しながら愚痴をこぼす。「てかこの男、本当に最低。浮気したせいで人生が終わることを思い知ればいいんだから。森田さん、やっぱり私たちはついていっちゃ駄目なの?」拓海は困ったような笑みを向けた。「ここでだって、噂は入ってくると思うよ。それに、君たちまで来たら、秘書室から人がいなくなっちゃうだろ?」「まあ、そうだよね」理央がホッチキスを勢いよく打ち込む音を聞き、恵がたしなめた。「ちょっと、丁寧にやってよね。この書類で私たちの最大のライバルを仕留めるんだから」「わかってるよ」と理央は言った。「凛さんはこの件、知ってるのかな?」恵は軽く肩をすくめた。「私には分からない」二人の表情はどこか寂しげで、拓海は口を開かざるを得なかった。「谷口さんは知ってるよ。それと、谷口さんに対する接し方を考えた方がいいかもな」「どうして?」と怪訝な顔をする理央。すると、恵が間髪入れず答える。「そのほうが、社長が喜ぶから」「その通りだ」拓海は書類20部を重ねた。鞄に入りきらなかったため、彼はいたって普通のビニール袋を取り出し、それらをまとめると口を結ん
「自分のできる範囲でなら、お応えします」「俺の望みは、全て君ができることだから」海斗はそう言い捨てると、車窓をゆっくり閉めた。車が夜の闇へと走り去っていく。凛が家に帰り、ドアを閉めたその時、携帯の通知音が鳴った。【しっかり休め】たった一言。凛は画面を見つめる。海斗は何かを察したのかもしれない。【社長もゆっくりお休みください】ソファーに腰かけ、仁から渡された袋を開けてみる。そこには明日着ていくための服と靴が入っていた。凛が二宮邸にいた数日間、仁は凛のためにエステや美容室を手配したり、服飾店に連絡をしては、凛と同じ体型のモデルに服を着せ、凛に選ばせようと必死だった。凛はその度に断っていた。だが、二宮邸のクローゼットを仁が埋め尽くすことだけは止められなかった。この服も、きっとその一部だろう。茶色の服に、太いヒールつきのショートブーツ。凛はそれらを持って部屋に上がり、風呂に入り、歯を磨き、恵からもらったハンドクリームを塗った。明日という日が来るのを、静かに待つ。……空がうっすらと明けてきた。智也はすでに目を覚ましていた。クローゼットを開き、今日の入札に着ていくスーツとネクタイを選ぶ。しかし、なぜだか違和感を覚えた。以前は隙間なく詰まっていた服のハンガーが、今日は等間隔に整えられているのだ。あんなに窮屈だったはずのクローゼットに、なぜ隙間ができているのだろう?彼はクローゼットの反対側を見てみることにした。そこは凛が使っていた場所。コンコン。その時、ドアがノックされた。「若様、朝食の準備ができました」使用人だった。健吾が今日の入札のために、使用人を泊まり込ませていたのだ。「分かった」智也はベッドの方へ戻り、服とネクタイを整えてから部屋を出た。食卓にはご飯からパンまで、様々な朝食が並んでいる。智也は席につき、それを眺めたが、数口箸をつけるだけでやめてしまった。凛が作ってくれる朝食がなくなってから、ずっと調子が狂っている。何を食べていても喉を通らない。使用人が智也の顔色をうかがう。「もうよろしいのですか?もしかして、お口に合いませんでしたか?」「あなたのせいじゃない。ただ、凛が作る食事に舌が慣れてるから」そう言って智也は立ち上がると、玄関に向かった。一度会社へ
その夜、智也はずっと動き回っていた。妹を救い出すために。そして両親に気づかれないように。だが、結局は両親にばれてしまった。両親はすぐさま警察署へと向かい、目を真っ赤に腫らして泣きじゃくる娘と面会した。今回の騒動の原因が凛だと知った二人は、罵詈雑言を並べ立てる。「お父さん、お母さん、どうしてここに?」「智也は隠そうとしてたんだけど、柚葉ちゃんが内緒で連絡してくれたのよ」「やっぱり、お父さんとお母さんと柚葉さんは私の味方なんだね」柚葉さんは、お兄ちゃんに内緒で両親に連絡を入れ、自分を助けようとしてくれたらしい。だから何があっても、この件に柚葉さんが関わっていたことだけは絶対
柚葉はふてぶてしく笑っていた。その時、智也の携帯が鳴った。「胡桃ちゃんからだよ、智也」柚葉が智也に電話に出るように急かす。智也は携帯を手に取ると、急いで外へと向かっていった。「凛、明日は迎えにくるから、勝手にどっか行くなよ。柚葉、行こう」「うん、帰ろう」二人は出ていった。策が千石鍼灸院の戸を閉め、凛に携帯を返した。「竹内社長があんたにって」凛は自分の携帯を見つめ、小さく呟いた。「だから竹内社長は私を見つけられたのね」「凛さん、谷口社長はまだあんたの夫なんだろ?」先ほど、智也が言っていたことを策は全部聞いていた。だが、凛は首を振る。「じゃあ、隣の女
智也に肩を掴まれ、凛は痛みで顔を歪めた。「何してるんだい!」薬を持ってきた紗枝が杖を振り上げ、智也の腕を叩く。「この子の夫だろうと、私の患者にそんな態度は許さないよ!この子が弱りきっているのが分からないのか。妻の体調も心配せず、痛めつけるなんて。そんな夫、聞いたことも見たこともないよ。さっきの男の子のほうが、よっぽど気が利いていたね。水を飲ませたりタオルを持ってきたり、一生懸命だった。あちこちに針を打ったんだから、まだ痛むんだよ。すぐに放しなさい!」紗枝が厳しい視線で智也を睨んだ。智也は慌てて手を離した。「鍼治療をしたのか?」「鍼治療と薬湯をしたって言ったでしょう」
海斗もその後に続く。「タケウチ・ホテルとしても、谷口社長の妹さんを危険物の持ち込みによって周囲に危険を及ぼしたってことで訴えさせてもらうから」そして、冷ややかな視線を智也に向けた。「谷口社長、次会う時は法廷で」海斗は、そう言い残し出口に向かって歩き始めた。状況を見守っていた策は、すぐに海斗の後を追って尋ねる。「竹内社長、あの谷口社長と凛さんってどんな関係なんだよ?」「元旦那」と、海斗は低く答えた。驚きに目を見開いた策。え?まさかそういう趣味だったの?海斗は振り返り、部屋の中をちらりと確認すると、策に念を押した。「谷口社長に彼女を連れて行かせるなよ」それと同時に、







