LOGIN仮免試験を終えた凛は、そのあと千晴とカフェで待ち合わせていた。天体観測の機材について相談したところ、千晴が詳しい人間を一人連れてきてくれることになったのだが、その「詳しい人間」というのが、多忙な弟の悠真だった。「凛さん!」姉から道中さんざん言い聞かされていたはずなのに、凛を見つけた瞬間、悠真の目はぱっと輝き、声まで明るくなる。千晴は呆れ半分に笑った。若いうちに、あまりにも理想どおりの相手に出会ってしまうのも考えものだ。凛が立ち上がるより早く、悠真はもう目の前まで来ていた。「凛さん、久しぶり」満面の笑みでもう一度声をかける。そこへ千晴が追いつき、持っていたタブレットを弟の胸に押しつけた。「景山社長。一応、何千人もいる会社の社長なんだから、もうちょっと落ち着いたら?」言葉にはしないが、今の悠真には見えない尻尾でもついていて、凛を前にちぎれそうな勢いで振っていそうだった。悠真は千晴と凛に少し照れくさそうに笑いかけ、千晴が座るのに合わせて自分も席についた。凛がメニューを差し出す。「二人とも、好きなもの頼んで」凛とはもうかなり打ち解けていたので、千晴も遠慮はしなかった。コーヒーとスイーツを選び、メニューを悠真へ回す。「悠真は天文関係はかなり詳しいから、たぶん、機材選びなら役に立つと思う」「ありがとう」凛は姉弟二人に向かって礼を言った。悠真は凛の前に何もないことに気づくと、目を輝かせたまま尋ねる。「凛さんは何が好き?俺が頼むよ」千晴が彼を横目で見る。「凛さんは甘いものが苦手なの」凛は千晴を見て笑った。「うん。私は辛いもののほうが好き。だから、悠真さんは自分の好きなもの頼んで」悠真は少しも残念そうではなかった。むしろ、凛が辛いもの好きだと知れたことが嬉しいらしい。注文したものがすべて揃うと、千晴はゆっくりコーヒーを飲みながら弟へ目を向けた。「ほら、そろそろいいところ見せて」「任せて」悠真はタブレットで天体観測機材のページを開き、凛を見る。「まず、どんな使い方を考えてる?気軽に星空を見るくらいなのか、それとも銀河とか星雲みたいな暗い天体まで、しっかり観測したい?」凛も事前にある程度は調べていた。「暗い天体を本格的に観測するなら、やっぱり天文台みたいな据え置きの設備が必要?」悠真は微笑み、うなずいた。「精度を求め
凛は椅子に腰を下ろすと、海斗を見上げた。「うん。農業システムのほうも、もうすぐ終わると思うよ。産業用ロボットはもう少しかかりそうだけど」「午後に四半期の報告会があるから、製品発表の準備はこっちで進めておく」そう言ってから、海斗は続ける。「仮免の試験会場までは岩崎さんに送らせるよ」「そこまでしなくていいよ。試験、1時間くらいかかるし」海斗が片眉を上げた。「じゃあ、俺が送る?」「卒業検定のときはお願いするかもしれないけど、今日は大丈夫」海斗は凛の後頭部に手を添え、軽く撫でる。こうして触れられることに、凛はもうすっかり慣れていた。「そういえば日和さんから聞いたんだけど、昔、サーキット走るみたいな感覚でS字カーブを教えたの?それで何回も試験に落ちたって」海斗の手が止まり、そのまますっと離れていった。「あいつがやりたいって言ったんだ」「日和さんがやりたがったの?それともあなたがサーキットに入ったら普通に教えられなくなったとか?」凛は面白そうに見上げる。海斗は口をつぐんだ。その沈黙だけで答えは十分だった。凛は笑い、自分から海斗の指に自分の指を絡める。「今度、私にも教えて」海斗が意外そうに目を向ける。「レースの走り方を?」「うん。私ならちゃんと切り替えられるから。免許の試験で変な癖が出たりしないと思うし」凛は、海斗がサーキットを走っている姿が好きだった。けれど助手席から眺めているだけでは、少し物足りないから、できることなら、自分もハンドルを握って、隣を走ってみたい。「いいよ」海斗はあっさり頷いた。もともと日和にも、本気でスポーツ走行を教えるつもりだったのだが、日和は理想的なライン取りもブレーキングもろくに身につかないまま、中途半端にサーキットの走り方だけ覚えてしまい、その結果、免許の試験で何度も失敗する羽目になった。二人が話していると、オフィスのドアがノックされた。揃って顔を上げる。「入れ」海斗が低い声で応えると、ドアが開き、そこにいたのは拓海と笑みを浮かべた駆だった。海斗は淡々と言う。「報告会は午後だろ」「ちょっと早めに来て、海斗さんの顔でも見ようかと思ってさ」駆の視線は、真っ先に海斗の椅子に当たり前のように座っている凛へ向かった。その背後では、まるでそこが自分の守るべき場所だとでも
柚葉に一括で1億8000万円もの金を渡してしまったせいで、今の利明にはまともなホテルに長期滞在する余裕すらなかった。結局、陸が持っている物件のうち、特別宿舎に一番近い部屋を借りることになった。近いといっても、10キロほど離れている。その話を聞いた正人は、意味ありげに陸をじっと見た。陸が何も言わず笑い、グラスを持ち上げると、正人も察したようにグラスを合わせる。置かれている立場はかなり違ったが、この手のところは二人ともよく似ている。正人は家の中で最も期待されていない末っ子で、これまで家業にもほとんど関わらせてもらえず、好きに遊んで暮らしてきた。ただ、最近は事情が変わりつつある。智也のおかげで正人の存在が家の中でも評価されるようになり、以前とは見る目も変わってきた。一方、陸も一見すれば遊び好きの御曹司だが、海外の名門大学をきちんと卒業している。帰国後に本家の事業を継いだわけではないものの、家から会社を一つ任され、好きにやってみろと言われていた。海斗のように大きな権限を持つ後継者とは比べられないが、それでも陸は任された子会社でゲームを一本開発し、それが今かなりのヒットを飛ばしているし、事業の勢いに合わせ、陸自身の評価も資産も一気に上がっていた。仕事が軌道に乗れば、次は結婚。陸の家ではすでに縁談の話が出始めており、相手の候補まで決まっていた。そして、相手は千晴。正人が飲んでいた酒を盛大に噴き出した。「誰だって?」「千晴だよ」「いやいや、お前ら子供のころからの知り合いだろ。何かあるなら、とっくにくっついてるんじゃないのか?」陸は微笑む。「まあ、幼なじみではあるな。お互いどんな人間かもよくわかってるし、千晴と結婚するのは別に嫌じゃない。親同士も喜ぶし、面倒も少ないから、俺はこの縁談、受けてもいいと思ってるよ」千晴がどう思っているかは知らないが。そう考えた直後、千晴本人からメッセージが届いた。【会って直接話がしたい】陸はすぐ立ち上がる。「どこ行くんだ?」正人が尋ねると、陸は平然と答えた。「幼なじみと今後について相談してくる」「嬉しそうにしやがって」正人は笑いながら悪態をついた。……利明がA市に残ってからというもの、その動向は海斗の耳にも逐一入っていた。一番町特別宿舎10号棟から10キロほどの場所に住み始
茂はすでにG県へ来ていたが、その一挙手一投足を神谷家の人間に見張られていたのだった。だから、娘を捜していることも長くは隠せなかった。将希は知るなり、すぐ電話をかけてきた。まず茂を激しく叱責し、そのうえで何度も念を押した。表立って子供を捜すな、神谷家を世間の注目に晒すような真似はするな、そして何より、秀明の将来に傷をつけるようなことだけは絶対に許さない、と。剛は聞いた。「それで、表立っては捜せなかったってこと?」「ああ。全部、裏でやった。でも俺一人では限界があったから、当時の運転手に頼んで、本人の名義であちこちの警察に保護された赤ん坊がいないか聞いてもらった。でも、何度行っても手がかりはなかった」その瞬間、剛がわずかに眉を寄せた。茂が怪訝そうに尋ねる。「どうした?」「その運転手って神谷家の人間?それとも個人の?」剛は神谷家分家の人間だから、長年茂のそばで働いているとはいえ、本家からすれば大した力もない人間だと思われている。だからこそ本家との距離は遠く、自分の家庭を大切にしてきたし、神谷家の中にいながら、ときには部外者に近い視点で物事を見ることができた。茂は少し遅れて答えた。「職場の運転手だ」そう答えた直後、茂自身も何かに気づいたのか、机の引き出しを開け、古い電話帳を取り出す。紙は黄ばみ、あちこちに折り目がついていたが、それでも長い年月、大切に保管されてきたものだった。茂は中を開き、ある住所と名前を指で示す。「これも調べてくれ」剛の指摘で、茂の中にも疑念が生まれていた。あのころの自分には、あまりにも余裕がなく、一人で三人分動かなければならないような毎日だった。公職を離れたあと、家族を養うための新しい道を探し、捨てられた本当の娘を捜す中、精神的に不安定な妻とまだ幼い利明にも目を配らなくてはいけない。さらに連れて帰ってきた美雪には心臓の病気があり、育てるだけでも細心の注意が必要だった。だから、神谷家の誰かが裏で手を回している可能性まで考える余裕など、当時の茂には微塵もなかった。それに、2年半捜しても、何一つ見つからなかったし、事情を知る神谷家の人間からも、もう諦めろと言われ続けた。だから茂自身も、あの大雪の日に凛は亡くなったのだと思うようになった。剛はうなずき、自ら調査へ向かうと言った。部屋を出ようとし
茂が物思いに耽っていると、剛が書類を手にノックして入ってきた。署名が必要なものだという。茂は手早く書類に目を通してサインを済ませると、剛に視線を上げて問いかけた。「例の件、どうなっている?」「まだ調査中」と剛が答えた。「こっちからはすぐに確認できない病院もあるから、もう少しかかりそうだ」茂は署名を終えた書類を返すと、剛をまっすぐ見た。「急いでくれ。美雪があれほど早い段階で気づいていたとしても、自分でDNA鑑定を手配したとは考えにくいから、美雪の友人関係も全部調べてほしい」神谷家で育った美雪の友人となれば、当然ながら裕福な家や有力者の子女が多いため、下手に探れば面倒なことになりかねない。剛の懸念を察した茂は、はっきり言った。「面倒くさいことは気にしなくていい。何かあれば俺が責任を取るから」茂自身、神谷家全体を仕切る立場ではないが、それでも神谷観光をここまで大きくしてきた茂には、それなりの力があった。そこまで話したところで、茂は以前から考えていたことも打ち明けた。「それと、A市で動ける人脈を作ってくれ。新しいチームを立ち上げて、向こうにも事業を広げる」剛は驚いて目を見開いた。「本気?そこまで動けばかなり目立つから、将希さんが許すはずがない」「今まで十分、神谷家のために生きてきた」茂の声は重く、そして迷いがなかった。剛が尋ねる。「凛さんのため?」疲労の滲む顔で、茂は首を振った。「違う。俺自身の家族のためだ」剛は何も言わなかった。凛が戻ってきたことで、神谷家の女性たちは、それまでとは違う生き方があることを知った。だが変わり始めたのは、女性だけではないのかもしれない。家の言うとおりに歩くことを当然だと思い、目を閉じたままついてきた人間の中にも、ようやく自分の人生を考え始めた者がいる。「だったら、瑶子さんや竹内家を頼ったほうが早いんじゃないか?」「いや」茂は即座に断った。竹内家を頼るのが一番早いことくらい、わかっているが、茂にもほかに使える人脈はある。剛もそれ以上は言わず、別の話を切り出した。「利明くんが刑務所に面会に行ったそうだ。誰かが意図的にそう仕向けたみたいだけどな」茂は少しも驚かなかった。「海斗くんだろうな。凛に何かした相手は、全員敵だと思ってるような男だ。やられたら必ずやり返す。利明も少しくらい痛
「ここ、私にとってお母さんとお兄ちゃんとの思い出がいっぱいあるから」美雪は向かいに座り、ポテトを一本取ると、半分ほど齧ってから、残りを指先で持ったまま続ける。「私の記憶だと、お母さんが初めて遊びに連れてきてくれたのも、このお店だった気がする」その言葉を聞いた瞬間、彰菜の目がわずかに揺れた。「それからは、お兄ちゃんと三人で何度も来たよね。最近ずっと二人に会いたくて……今日はたまたま時間が空いたから、久しぶりにここへ来てみようと思ったんだけど、まさかお母さんがいるなんて思わなかった」美雪はテーブルの料理を見回した。「しかも、全部私とお兄ちゃんが好きだったもの。ポテトにケチャップつけないのまで昔のまま」彰菜は、美雪が今もケチャップをつけずにポテトを食べているのを見つめた。「あなたは昔と変わらないわね」しかし、美雪は小さく首を横に振った。「私はもう大人だし……それに、本当の娘でもないから」彰菜は言葉を詰まらせた。少し間を置いてから、優しく言う。「何を言ってるの。あなたはずっと私の娘よ。あなたは私が育てた娘でしょ?美雪」美雪は目を伏せ、ポテトを少しずつ口に運ぶ。「わかってる。お母さんが私を大切にしてくれたことも。でも……お父さんはお母さんに手を上げたでしょ。それにおばあちゃんたちとも喧嘩したって……」声は次第に小さくなっていく。自分のせいだと責めているような娘の姿に、彰菜の胸が痛んだ。この子は、自分が手塩にかけて、大事に大事に育ててきた娘なのだ。「大丈夫。母さんは大丈夫だから、心配しないで。何も悪いことなんてしてないもの。大丈夫……お母さんは何も間違ってない。何も悪くないの……」美雪は、その呟きを聞いていた。まるで自分自身に言い聞かせるように、母親は何度も「悪くない」と繰り返している。「お母さん……どうしたの?」美雪は手を伸ばし、彰菜の手を握った。その手はひどく冷たい。彰菜はその手を軽く押し返し、少し落ち着いてから答えた。「何でもないわ」そう言われれば言われるほど、何かあるとしか思えなかった。眉を寄せた美雪の頭の中では、これまでの出来事が目まぐるしくつながっていく。最近、母親が繰り返している言葉――自分は悪くない。そして凛の名前が出るたび、あるいは凛本人を見るたび、彰菜は異常なほど激しく反応する。母親が、どう
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい
「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活
凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も
「凛さん、何を見ていらっしゃるんですか?」「今、あっちから誰かに見られていた気がします」「え?」と理恵がそちらを見たが、人影はなかった。「もうエレベーターに乗ったみたいです」と凛は言った。「エレベーターって、あっちの?」理恵が指差すと、凛は頷いた。それを見た理恵は、緊張した面持ちでゴクリと喉を鳴らした。あそこは社長専用のエレベーターなのだ。理恵のオフィスのドアの前に来ると、凛はドアプレートに、「人事部ヴァイスプレジデント」と書かれているのを目にした。昇進したんだ。凛はにっこり笑って言った。「中村さん、御昇進おめでとうございます」「ありがとうございます」







