Mag-log in「神谷会長が言うには、茂は年齢的に身体も弱ってきているのに、仏間で3日間も跪き続けたせいで倒れたって。でも、今は療養施設で休んでいるだけで大したことはない、って話だったけど、実際どうなのかはわからないわ」瑶子の声が、テーブルに置かれた携帯から聞こえてくる。凛と海斗は並んでソファに座り、黙って耳を傾けていた。「それでも、私とお父さんで彰菜さんのあとを追って、茂がどこの療養施設にいるかまでは突き止めたの。ただ、あそこに入ってるのはそれなりの立場の人ばかりで、敷地内に何棟も建物があるし、それぞれ警備の人間やボディーガードが大勢いるから、どこに茂がいるのかまでは見分けられなかった。でも心配しないで。お兄ちゃんが昔お世話になった人が、ちょうどそこにいるらしいの。お兄ちゃんが明日顔を出して、最近入ってきた人がどの棟にいるのか、それとなく聞いてみてくれるって」海斗が口を開いた。「靖さんたちにありがとうって伝えてくれ」「もう伝えてあるわ。でも、気にしなくていいのよ。こういうときこそ、みんなで力を合わせるものだから。それに、あなたたちが関係なくても私は調べてたと思う。茂はずっと神谷家のために生きてきたような人なのに、その神谷家から騙されて、いいように利用されてたなんて……放っておけないもの」瑶子はそう言ってから、重いため息をついた。凛が聞いていることを意識したのか、続く声は柔らかかった。「凛さん、海斗。二人ともあまり心配しすぎないで。茂だって、今まで何十年も何もせずに生きてきた人じゃないんだから、自分の身を守るくらいの力は持ってるはずよ」必要な情報を伝え終えると、長話はせずに電話を切った。こちらはこちらで、次にどう動くかを考えなければならない。凛と海斗は、美雪が茂に家を追い出されたこともすでに把握していた。だが神谷家からは、美雪がもう茂の養女ではないという話が一切外へ出ていない。海斗はその時点で、何かおかしいと感じていた。美雪を神谷家に残しておくことに何らかの価値があるのか。それとも、美雪が神谷家にとって表沙汰にできない何かを握っているのか……今の状況から考えると、神谷家が最も隠したがっていることといえば、28年前に彰菜が凛を捨てた一件だろう。凛が戻ってきたときでさえ、神谷家は「赤ん坊が取り違えられた」という話で押し通していたのだから。
利明は頷いた。「君が戻れば、どうにかできるかもしれない。それに、僕じゃ母さんには敵わない。まして、あの人たちを相手にするのは無理だって、父さんが言ってたんだ」海斗は内心、そこだけはよくわかっているじゃないかと思った。神谷家の人間を一人でも相手にできるような男なら、30歳になるまで自分の人生すら自分で決められずにいるはずがない。凛は茶を半分ほど飲んだが、それでも喉の渇きは消えなかった。利明は目の前の凛をじっと見つめていた。28年間、家族の知らないところで生きてきた本当の妹。顔立ちも、ふとした表情も、驚くほど父に似ている。「将希お爺様はどうにかしてでも君を神谷家に戻したがってた。それだけ君を重要視してるし、神谷家にとっても今の君は無視できない存在だ。それに、君が神谷家に何の興味もないことは向こうも知ってる。だって、父さんのことだって、一度も『お父さん』とは呼んでないだろ?だからそんな君が戻れば、怪しまれないと思うんだ」「だからこそ、今すぐ私が自分から戻ったら不自然だと思いませんか?」凛は静かに言った。「向こうだって、私が簡単に神谷家へ戻る人間じゃないことはわかってます。なのに、何のきっかけもないのに急に戻ったら、かえって怪しまれる」動揺を隠せない利明とは対照的に、凛の目は落ち着いていた。海斗にはすぐにわかった。凛はもう、どう動くべきか考え始めている。なら、自分がすることは、凛が決めたことを支えるだけ。そこで海斗は、ある提案をした。「もうすぐ春の彼岸だから、神谷家はきっと先祖供養を口実に、君を呼び戻すはずだ」研究者として注目を集め始めた凛を、神谷家はどうにかして一族の人間として認めさせたがっているから、そんな機会を逃すはずがない。利明は焦ったように言った。「でも、まだ10日以上ある」「茂さんにすぐ何かするとは考えにくい」海斗の声は落ち着いていた。「神谷家を実際に支えてるのは茂さんだから、神谷家だって、その経済力を無視して好き勝手にはできない。力っていうのは、立場や肩書きだけじゃなく、結局、それを支える金も必要だから」凛は海斗を見る。「海斗は、どうするのがいいと思う?」ついさっきまで利明には冷たい目を向けていたのに、凛と目が合った途端、海斗の表情が和らいだ。声まで自然と優しくなる。「昨日、凛が気にしてた
海斗は容赦なく言った。「お前の母親の『何もない』なんて、信じられるわけないだろ?」利明は静かに頷く。利明だって信じていなかった。28年前の真相を知ってからというもの、あの家で信用できるのは父と剛だけだった。陰で何度も自分を陥れていた美雪。そして、娘を捨てた彰菜。二人とも、平然と嘘をつくところだけはよく似ている。海斗は凛の肩を抱き寄せ、冷徹な視線を利明に向けて淡々と言い放った。「それで、どうして凛が手を貸すと思ったんだ?」利明の目が一気に赤くなった。「凛、父さんは君をずっと探していたんだ。諦めたことなんて、一度もなかった」それまで淡々と話を聞いていた凛の胸が、大きく揺れた。思わず顔を上げ、利明を見る。利明は必死に言葉を続けた。「本当なんだ。父さんはずっと君を捜してた。ただ、神谷家の人間と、父さんが信じていた周りの人間が手を組んで、父さんを騙し続けていた。2年以上、ずっと嘘の情報を報告され続けて……父さんは何も知らなかった。僕がG県まで行って、当時父さんが信頼していた運転手の男を見つけた。それで初めて、君が……」その先は、どうしても口にできなかった。まともな神経をしていれば、本当の妹を前にそんな言葉を口にできるはずがない。凛と海斗は驚いて顔を見合わせた。利明がすでに28年前の真相まで突き止めていたとは思わなかったのだ。「すまない」利明が頭を下げた。神谷家の跡取りとして育ち、誰に対しても自信と誇りを崩さなかった男が、凛の前で深く頭を垂れる。「本当に、申し訳なかった。僕は君にひどいことをしたし、あの人は……もっと許されないことをした。父さんも、君には謝っても謝りきれないって言ってた。父さんは、ずっと周りの人間を守ってきた。なのに……君のことだけは守れなかったって後悔してる。でも、その父さんだって、みんなに利用されて、裏切られてたんだ……」利明の目は真っ赤だった。それでも涙をこぼすまいと、必死に堪えている。そこにあるのは、凛への罪悪感と、父を案じる気持ちだった。父は自分を捜すことを諦めていなかった。その事実が、凛の胸の奥に不意に落ちた。自分が捨てられたのだと知ったあの日、ほんのわずかに残っていた家族への期待も、凛は自分の中から切り離し、二度と触れない場所へ閉じ込めた。なのに今、その固く閉ざした
利明は、もう4日も父と連絡が取れていなかった。剛もA市に残っているため、茂がB市へ戻ったあと何が起きたのかは知らない。昨夜、海斗から神谷家で何かあったと聞いていた凛は、利明の話を聞いてすぐに結びつけた。「何かあったんですか?」そう口にした途端、凛自身も複雑な気持ちになった。利明の目に一瞬だけ希望が浮かんだが、すぐに消える。「ここじゃ話しにくいから……車に乗る?それとも、どこか静かなところに行くか?」それは、凛の顔色を窺うような聞き方だった。28年前の真相を知って以来、利明が凛の前で見せていた傲慢さも自負も、すっかり影を潜めている。凛にとって、父親である茂への感情は複雑だったが、兄である利明に対してはかなり淡白だ。今となっては嫌ってもいなければ、恨んでもいない。でも、だからといって、特別な情があるわけでもなかった。二人きりで話す気にはなれない。「海斗のところで」「分かった」利明に異論はなかった。海斗に知られて困る話でもない。それに昨日、瑶子からも利明に直接電話があり、茂がA市を離れる前に何か言い残していなかったかと聞かれていた。言い残していたことは、確かにある。しかし、ここで立ちながら話すような内容ではない。利明は車のドアを開け、凛が乗り込むのを待った。凛が車に乗り込む。竹内グループへ向かう車内で、二人が言葉を交わすことはなかったが、利明だけがときおり隣の凛へ目を向ける。彼の胸の中には、後悔とも苦しさともつかない感情が渦巻いていた。しかし、凛は気づいていても、何も反応しなかった。車が竹内グループ本社前に停まってから、1分もしないうちに、海斗の耳にも「利明が凛を送ってきた」と入った。海斗は拓海を見る。「迎えに行って」凛は本来、社内を自由に出入りできるため、迎えなど必要ない。しかし、朝から神谷家の動きを調べていた拓海にとっては、海斗が誰を迎えに行けと言っているのかは、明白だった。拓海が下まで出たことで、利明も問題なく社内へ入ることができた。歩いていると、すれ違う社員たちが次々と凛に声をかけ、凛もそのたびに足を止めることなく、穏やかな笑顔で挨拶を返していた。ここでは皆、凛に一目置いている。そして、凛の振る舞いにも、気負ったところなどない。利明はそっと指を握り込んだ。かつての自分は、凛を見下し
「神谷家のこと」海斗は全てを隠すということはしなかった。「まだ詳しいことはわかってないから、こっちで状況がはっきりしたら、ちゃんと話すよ」そう言って、凛の髪にそっと口づける。凛は神谷家のことにはさほど関心がないらしく、海斗の胸元で少し頭を動かしただけだった。「明日、大学に行ってくる。大した用じゃないから、送らなくていいよ」そのままゆっくり目を閉じる。海斗は腕の中の凛を見下ろした。「卒検はいつ?」凛はもう眠そうで、あくびをしながら答える。「予約したら教える」「分かった」海斗は凛の髪を、まるで自分の指へ結びつけるように、指先に絡めて遊んでいた。海斗が免許のことを聞く本当の理由は、凛にもわかっていた。自分が免許を取ったら、車を贈ってくれるつもりなのだろう。B市にいたときも、一緒に車を見に行った。まあ、くれるっていうなら、もらっておこう。凛も今、海斗にスポーツカーを贈ろうかと考えているところだった。海斗は天文だけでなく、車やサーキットもかなり好きらしい。そして凛自身、海斗が走っている姿を見るのが好きなのだ。今のところ、その理由はかなり単純だと思っている。運転している海斗は格好いいし、レーシングスーツ姿なら、もっと格好いいだろう。そんなことを考えていたせいか、その夜は海斗と一緒に山道を走る夢まで見た。翌朝、目を覚まして海斗の顔を見るなり、凛は言う。「海斗、私にもレースの走り方教えて」海斗は一瞬きょとんとしたものの、すぐに口元を緩めた。「ああ、もちろん。でも、急にどうして?」凛は昨夜見た夢の話をした。海斗は途中で口を挟むこともなく、真剣に聞いている。彼の黒い瞳が楽しそうに輝き、ずっと凛から離れない。その視線に耐えきれなくなった凛は、いつものように手を伸ばした。海斗の頬に手のひらを当て、軽く押しのける。「そんなに見ないで」すると海斗もいつものように顔を少し傾け、その手のひらに口づけた。凛はすぐに手を引っ込め、何事もなかったように別のことを始める。けれど凛の耳だけは、じわじわと赤くなっていく。海斗は、それを見るのが好きだった。朝食を終えたあと、A大へ向かった凛は、学長から1通の招待状を渡された。「最近、メールを見てないんじゃないか?」凛は一瞬きょとんとしてから頷いた。「ここ数日、すっかり仕事をさ
海斗の眉間がぴくりと引きつった。「そろそろ彼氏でも作ったらどうだ?」「えー?前は駄目って言ってたくせに。私に凛さん取られそうだから、急に恋愛してもよくなったの?」日和がにやにや笑う。凛も堪えきれず笑った。「今はこんなこと言ってるけど、日和さんがお嫁に行くときになったら、海斗のほうが泣きそうね」海斗は、そんなわけがないと言わんばかりの顔をした。食事の間、凛も海斗も瑶子の様子がいつもと違うことには気づいていた。瑶子はときどき会話が耳に入っていないように考え込んでいる。二人は一度だけ目を合わせたものの、その場では何も聞かなかった。食後、海斗は両親を見送りに下まで降りた。車へ向かう途中で、ようやく口を開く。「何かあったのか?」瑶子も息子に隠すつもりはなかった。「茂が倒れたそうよ。神谷家の仏間で3日間正座し続けて、そのあと体調を崩したみたい。でも神谷家からの見舞いは誰も受け入れてないんだって。お兄ちゃんからも、神谷家で大きなことが起きるかもしれないって言われたの」「どうして茂さんが仏間なんかに?」海斗がすぐに引っかかったのは、そこだった。瑶子が眉を寄せる。何か思い当たることはあるようだが、確かなことは言えないのだろう。海斗は隆へ目を向けた。隆が言った。「俺と瑶子でB市へ行って、少し様子を見てくる。茂さん本人に会えれば、そのとき詳しい話も聞けるだろうからな。凛さんに知らせるかどうかは、お前が決めろ」「うん。二人とも気をつけて」そこで海斗は、ふと思い出した。「そういえば、利明は今A市にいるよな?茂さんの息子だけど、今回のことは知ってるのか?」それは瑶子にもわからない。「直接、利明くんに聞いてみるわ」「ああ。茂さんのことで何かわかったら、すぐ連絡して」両親を車まで見送りながら、海斗はしばらく凛には秘密にしておこうと考えた。詳しい状況すら分からない今、中途半端に伝えて、ただ不安を煽るようなことはしたくない。部屋に戻ると、凛が振り返った。「瑶子さんたちはもう帰ったの?」「ああ。車に乗るところまで見送ってきた」海斗は凛の手を取り、そのまま一緒にリビングのソファへ向かった。すると、別の部屋から日和が勢いよく飛び出してくる。「ねえ、あの部屋って私のために用意してくれたの?私の好きなものばっかりなんだけど!」海
「それで?彼に、私と離婚するように言ったの?」凛の問い返しは、柚葉の痛いところを正確に突いていた。この2週間、柚葉は何度もそれとなく話を振っていた。でも、智也は離婚するそぶりを見せない。それどころか、今まで通り、いえ、今まで以上に優しくしてくる。まるで自分が不倫相手みたいじゃない。愛されていない方が、邪魔者。よく言ったものだ。もともとは、凛の方が、自分と智也の間に割り込んできたのだ。大学の頃、智也はあんなに自分を愛してくれていた。それは誰の目にも明らかだったのに。それが、留学のことで喧嘩したのがきっかけで、智也がどこの馬の骨とも分からないような女と結婚するなんて、思って
「先生、どうしてか聞かないんですか?」凛は涙を拭うと、杏をソファに座らせ、お水を取りに行った。杏が言った。「智也から聞いたわ。子供のことで喧嘩して、昨夜は帰ってこなかったって。彼はまだ子供を欲しがらないの?」凛は首を振った。「今回は、私が欲しくないんです。彼は私に仕事を辞めて妊活に専念して、家で専業主婦をしろって言うんです」「私より考えが古いわね!」杏は腹が立って仕方がなかった。「あの男は出世して偉くなったから、あなたを見下してるの?よくもまあそんな態度がとれるわね。プロジェクトが発表されたら、どれだけの人があなたに会いたがると思ってるの。私の夫が手塩にかけた愛弟子を、使用
智也は、凛が綺麗でスタイルも良いことを知っていた。たまにじゃれあうだけでも、抑えがきかなくなるほどだった。しかし凛と肌を重ねようとすると、心の底で初恋の人を裏切っているような罪悪感が芽生える。だから、この何年もずっと我慢してきた。でも……凛は法律上の妻だ。それに、今夜の彼女はあまりにも魅力的すぎた。凛は、智也に見つめられていることに気づいていた。だけど、初恋の人としか子供を作りたくない男が、自分に欲情するはずがないことも分かっていた。彼女は平然と智也の前を行ったり来たりして、ドライヤーを手に取った。智也は突っ立ったまま、目で凛の動きを追っていた。凛は智也に背を向ける
「同姓同名なだけだよ。彼女はただの、ごく普通の会社員だから」智也は、淡々とした口調で説明した。「でもまあ、プロジェクトにいる凄い人と同姓同名なんて、凛にとっても光栄なことじゃないかな」「ええ、本当に光栄だわ」柚葉はにっこりと微笑んだ。「私たちのプロジェクトの凛さんは、本当に優秀なんですよ」もっとも、優秀すぎて腹立たしいくらいですけど。プロジェクトの責任者であることを盾に、自分を歓迎しないどころか、中心業務にも一切関わらせてくれないんです。やっぱり、「谷口凛」という名前の人はどうも気に食わない。凛は、柚葉をまっすぐに見つめて言った。「小林さんは、どんなプロジェクトを?







