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第9話

Author: リリィ
奈緒は、死線を彷徨うほどの激痛に苛まれていた。知らせを受けて駆けつけたお抱えの医師が、即座に強力な鎮痛剤と消炎剤を投与し、背中の凄惨な傷を慎重に処置した。

「処置が早かったのが幸いでした。最高級の薬を使いましたから跡は残りませんが、当分は水に濡らさず、安静にしてください」

医師はそう言い残して去った。ベッドに突っ伏したままの奈緒の涙は、すでに枯れ果てていた。

肉体の傷はいずれ癒えるだろう。けれど、深く抉られた心の傷口は、修復不可能なほどに腐り、膿み果てていた。

それからの数日間、彼女は自室に閉じこもった。殻の中に逃げ込むカタツムリのように、これ以上、心を切り刻まれるような現実と向き合うことを拒絶した。

しかしある日、階下から耳を劈くような喧騒と音楽が響いてきた。

奈緒は思い出した。今日は一葉の誕生日だ。

景介はこの邸宅で彼女のために盛大なバースデーパーティーを開いた。

奈緒は吸い寄せられるように部屋を出た。二階の回廊に立ち、欄干を掴んで階下を見下ろす。そこには、部外者の自分を置き去りにした、華やかで残酷な別世界が広がっていた。

景介がそのありったけの優しさと忍耐を、傍若無人に振る舞う一葉に惜しみなく注ぎ込んでいるのを、彼女はただ、虚ろな目で見つめるしかなかった。

一葉は、ケーキのデザインが気に食わないと難癖をつけたり、客の視線が失礼だと言い掛かりをつけたりと、なりふり構わずわがままの限りを尽くしていた。

そんな理不尽な振る舞いに対しても、景介は嫌な顔一つせず、すべてを甘んじて受け入れ、あろうことか自ら膝をついて彼女のドレスの裾を整えてやるほど、盲目的なまでに溺愛していた。

そんな中、ふと回廊の上に立つ奈緒の姿に気づいた客の一人が、無意識に声を漏らした。「……あちらに、奥様が」

その一言が、一葉の逆鱗に触れた。

彼女は手に持っていたグラスを床に叩きつけ、景介に向かってヒステリックに叫んだ。

「景介!言ったじゃない!籍はまだ入れてなくても、あなたが愛しているのは私だって!この家の奥様は私一人だけだって!どうしてあの女が『奥様』なんて呼ばれるのよ!」

「落ち着け、一葉。たかが呼び名のことだろう……」景介はすぐになだめようとしたが、一葉の怒りは収まらない。

「嫌よ!嘘つき!納得いかないわ!」一葉は泣き喚き、ついには残酷な要求を突きつけた。「全員の前で宣言して!二度と彼女を奥様と呼ばせないって。それから、彼女にお仕置きをしてやるわ!」

一葉は近くにいた使用人を呼びつけた。「プールに砕いたガラスの破片をぶちまけて!その後、彼女に一枚残らず拾わせるのよ。破片一つでも残したら許さないわ!」

その言葉が終わるや否や、ボディーガードの一人が景介の顔色をうかがった。彼が黙認したのを悟ると、男たちはすぐさま動き出し、一抱えもある大きな籠いっぱいのガラスの破片をプールへと投げ入れた。

全場が騒然となり、招待客たちの間に動揺が走る。

景介は眉一つ動かさず、冷酷に奈緒へと命じた。「一葉の言葉が聞こえなかったのか。……降りて拾え」

奈緒は立ち尽くしたまま、全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。「景介……あなた、どうしても私をこれほどまでに辱めたいの?」

「辱めだと?」景介は鼻で笑った。「お前の両親の会社が存続できるかどうかは、俺の一言にかかっているということを、もう一度教えてやる必要があるか?」

奈緒は雷に打たれたような衝撃を受け、その顔から瞬時に血の気が引いた。

彼は……両親が人生のすべてを捧げて築き上げてきた心血を、あんな女のわがままを叶えるための脅しに使ったのだ。

プールの中で煌々と輝くガラスの破片と、景介の氷のように冷酷な眼差し。それらを前にして、奈緒の心の中にわずかに残っていた最後の希望は、跡形もなく粉砕された。

奈緒は一段、また一段と階段を降り、同情と好奇の視線が入り混じる中、冷たい水の中へと足を踏み入れた。

鋭利なガラスが瞬時に肌を切り裂き、鮮血が絶え間なく溢れ出して、周囲の水を禍々しく赤く染めていく。

破片を一つ拾い上げるたび、掌には新たな傷が刻まれ、心を突き刺すような激痛が走る。

だが、彼女はもはや痛みさえ感じないかのように、ただ機械的にその動作を繰り返した。

どれほどの時間が過ぎただろうか。ついに、最後の一片を拾い終えた。

全身を濡らし、両手は血肉で判別がつかないほどボロボロになりながら、血まみれの姿でプールから這い上がった彼女は、景介と一葉の前に立ち塞がった。

景介はその凄惨な姿を目の当たりにしながらも、瞳に何の動揺も見せなかった。彼はただ、冷淡に全賓客へ向けて言い放った。「よく見ておけ。今後この家で、誰であっても彼女を『奥様』と呼ぶことは許さん。それは俺に刃向かうものと見なす」

彼は彼女の尊厳とプライドを、衆人環視の中で完膚なきまでに踏みにじった。

奈緒の心は、この瞬間、完全に息絶えた。

彼女は血に染まった体を引きずりながら、一歩一歩、扉へと向かった。

踏み出す一歩ごとに、足の裏を刃で抉られるような激痛が全身を貫く。けれどその痛みは、自分を窒息させ続けてきた底なしの泥沼から、ようやく這い上がろうとする再生の足跡でもあった。

邸宅を出た直後、彼女のスマホが震えた。役所からの連絡だった。

「浅見さん、高橋さんとの離婚届受理に向けた手続きが終了しました。本日、最終的な受理の登録にお越しいただけますか?」

奈緒はスマホを握りしめ、画面に表示された番号を凝視した。すると、喉の奥から乾いた笑いがこぼれ出した。笑って、笑って――やがて、その目からは堰を切ったように涙が溢れ出した。

「はい。今すぐ向かいます」

離婚届受理証明書を手にした時、奈緒を包み込んだのは、かつてないほどの軽やかさだった。

帰路、都心の広場にある巨大なデジタルサイネージを見上げた彼女は、ふとある決意を固めた。

景介は、自分が「奥様」と呼ばれることをあれほどまでに拒んだ。

ならば望み通り、全世界に知らしめてやろう。浅見奈緒と高橋景介は、もう何の関係もない赤の他人なのだと。

彼女は車を止めると、迷わず大手広告代理店へと向かった。そして、巨額の費用を投じ、翌日の市内全域、あらゆる主要拠点のデジタルサイネージの放映権を買い占めた。流されるのは、簡潔かつ冷徹な一文のみ。

【公式声明!高橋景介氏と浅見奈緒氏の婚姻関係は、本日をもって正式に解消されました。今後、両者は互いの人生に一切干渉いたしません。浅見奈緒は現在独身であり、新たな出会いを歓迎いたします】

すべてを終えた彼女は邸宅に戻ると、最低限の荷物だけをまとめ、一番早い海外行きのチケットを予約した。一刻も早く、この場所を去るために。

飛行機が離陸し、空高く舞い上がる。

小さくなっていく街を見つめながら、奈緒の心は凪のように静まり返っていた。

街中のスクリーンが自分の離婚を宣告していると知ったとき、あの男がどんな顔をするのか。もはや、そんなことはどうでもよかった。

ただ一つ確かなのは――自分は、自由になったということだけだ。

翌日、太陽はいつも通りに昇った。

景介が目覚めた時、隣では一葉がまだ深い眠りについていた。

日課として、仕事の確認のためにスマホを手に取った彼は、画面を埋め尽くす膨大な数の不在着信とメッセージに、一瞬言葉を失った。

ニュースサイトの見出しには、信じがたい言葉が踊っていた。

【世界の富豪・高橋景介、まさかの公開離婚!元妻・浅見奈緒が全城広告で「独身。求婚者求む」と宣言?】
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