LOGIN世界一の富豪である高橋景介(たかはし けいすけ)は、有名なワーカホリックだった。浅見奈緒(あさみ なお)は彼と結婚して五年になるが、仕事のために何度も置き去りにされてきた。 一度目は、奈緒の誕生日だった。彼女が心を込めてレストランを予約したというのに、景介は買収案件のために急遽海外へ飛び、彼女が昼から夜まで待ち続けるのを気にも留めなかった。 二度目は、彼女が交通事故に遭った時だった。生死の境を彷徨い、緊急手術のために家族の同意署名が必要だった彼女は、途切れそうな意識の中で最後の一振りの力を振り絞り、彼にメッセージを送った。 しかし、返ってきたのは【取り込み中だ。重要な件だから、自分で処理しろ】という冷淡な一言だけだった。 三度目は、彼女の父親が危篤になった時だった。父は景介の顔を一目見たいと願っていたが、彼は数兆円規模のプロジェクトの調印式に忙殺され、ついに姿を見せることはなかった。 奈緒は次第に冷たくなっていく父の手を握りながら、電話の向こうから流れる「ただいま電話に出ることができません」という無機質なガイダンスの声を、ただ呆然と聞き続けていた。 その瞬間、彼女の心は底知れぬ絶望に染まり、完全に冷え切った。 何度も、何度も。彼女はようやく悟った。景介の心の中では、どんな出来事も、どんな人間も、自身の築き上げたビジネス帝国には及ばないのだということを。
View More陽光溢れるB国とは打って変わり、C国にある静寂な高級保養地は、一年を通じて冷涼な空気に包まれていた。景介は、湖のほとりに佇む邸宅に身を置いていた。息を呑むほどに美しいその場所は、同時に、虚無に満ちていた。あの僻地の村を離れて以来、彼はここで終わりのない「静養」を続けている。世間の目には、功成り名を遂げた成功者が手にした優雅な隠居生活と映るだろう。だが彼自身は知っていた。これは、自らに課した無期限の「流刑」なのだと。彼は驚くほど寡黙になった。一日を通して、一度も声を出すことがない日も珍しくない。こめかみに混じる白いものは日を追うごとに増え、瞳の奥には拭い去ることのできない沈黙と疲労が澱のように沈殿していた。彼はただ数時間も湖畔に座り込み、冷たく澄んだ湖面を眺め続ける。その空虚な眼差しは、一体何を見つめているのか分からない。傍らには、常に一冊の経済誌があった。表紙を飾るのは、時折組まれる奈緒の特集記事。そこに写る彼女は、目が眩むほどに輝いている。彼は飽くことなくその写真を眺め、無意識に指先で彼女の笑顔をなぞる。そのたび、心臓を鈍器で執拗に打ち据えられるような激痛が走り、呼吸を奪われた。後悔という名の病は、骨の髄まで深く食い込み、昼夜を問わず彼を蝕み続けていた。あの時、もし少しだけ彼女を見ていれば。もし少し早く真実に気づいていれば……幾千回繰り返したかわからない「もし」の問い。だが無情にも、人生に「もし」など存在しない。この世の栄華を極め、絶大な権勢をその掌に収めながらも、今の彼は自分が何一つ持たぬ「持たざる者」に過ぎないことを痛感していた。世界でただ一人、心から自分を愛し、命を懸けてまで救ってくれた女性を、彼は自らの手で永遠に失った。彼女に報いたものといえば、数えきれないほどの傷と、底なしの屈辱だけ。その残酷な自覚は、一生逃れることのできない呪縛となり、彼の魂を苛み続けていた。時折、秘書が運んでくる奈緒の消息。彼女がますます輝きを増し、その傍らに相応しい伴侶がいることを彼は知る。本来なら祝福すべきことだ。だが、彼女が心から幸せであること、そしてその幸せの理由が自分とは何の関係もないことを突きつけられるたび、身を焼き尽くすような嫉妬と絶望が、彼の理性を引き裂こうとする。彼はより深い孤独に沈むことでしか
彼は心に描く。眩いスポットライトを浴び、トロフィーを受け取る彼女の、自信に満ちた晴れやかな笑顔を。それは本来、もっと早く彼女が手にするはずの栄光だった。だが、他でもない自分のせいで、あまりに長い遠回りをさせてしまったのだ。目を閉じれば、脳裏にありし日の彼女の姿が去来する。嫁いできたばかりの、不安と期待に揺れていたうぶな瞳。静まり返った邸宅で、帰るはずのない夫のために黙々と夕餉を整えていた背中。警察署で流した、あの絶望の涙。そして、最後に彼に向けられた、何一つ感情を映さないほど冷たく澄み切った眼差し……熱い一筋の涙が、何の予兆もなく目尻を伝った。それは音もなく襟元に吸い込まれ、跡形もなく消えていく。再びまぶたを持ち上げた彼の瞳からは、もはや一切の執着が消え失せていた。ただ遠い空の下にいる彼女の幸せを願う――そんな憑き物が落ちたような清々しいまでの慈しみが、今の彼に残された唯一の感情だった。彼はようやく、自らを苛み続けた自責の念から自分を解き放った。「彼女はこれからも幸せに生きていく。だが、その幸せの中に、自分が存在することは二度とない」その残酷な事実を、彼は初めて真の意味で受け入れたのだ。彼はラジオのスイッチを切った。耳障りなノイズは止み、部屋には夜特有の、どこか物悲しい虫の音だけが満ちた。彼は手元にあった医療支援施設の建設に関する書類を手に取り、デスクライトを点灯させて没頭し始めた。粗末な土壁に、彼の影が長く伸びる。その背中は孤独だったが、もはや迷いも葛藤も微塵も感じさせなかった。それからさらに、三年の月日が流れた。B国、柔らかな陽射しが降り注ぐ午後。歴史ある建築と最先端の文化が交差する街の一角に、奈緒のアトリエはある。巨大な掃き出し窓から差し込む光が、最終調整中の大型デザイン模型を鮮やかに照らし出していた。静寂を重んじる引き算の美学と、近未来的なテクノロジーを融合させたその流麗なフォルムは、間もなく公開される彼女の新たな代表作だ。今日の彼女は、洗練された純白のセットアップに身を包んでいる。タイトにまとめ上げた髪からは、凛とした額と優美なうなじが覗いていた。模型の細部に指先を滑らせながら、現地のエンジニアと流暢な公用語で議論を交わす。研ぎ澄まされた集中力と自信に満ちたその佇まいからは、静謐ながらも周囲を呑み
三年の月日は、多くの物事をあるべき場所へと落ち着かせるのに十分な時間だった。奈緒の名は、今やデザイン界において、確固たる地位と尊敬を集める響きとなっていた。彼女の事務所はかつての倍以上に拡大し、独特な美学と現代の思潮を融合させた作品は、世界の頂点に立つ展示会で次々と脚光を浴び、賞を総なめにするほどの快進撃を続けていた。彼女はもはや誰の付随物でもない。ただ一人の人間――デザイナー、浅見奈緒だった。彼女の生活は充実し、穏やかだった。急いで新しい婚姻を望むこともなく、自らコントロールする人生の調べを心ゆくまで享受していた。悠希との関係は安定し、心地よい。互いに仕事では阿吽の呼吸を見せるパートナーであり、私生活では何でも語り合える知己でもある。悠希の尊重と理解、そして焦らせることのない柔らかな寄り添いは、彼女に、かつて味わったことのない平穏と安らぎをもたらしていた。関係を一歩進めるかどうかは、彼女にとって急ぎの課題ではない。自立しながらも緩やかに響き合っている、今のこの絶妙な距離感を、彼女は何よりも慈しんでいた。その瞳は今や澄み渡り、揺るぎない輝きを宿していた。かつての傷痕は時の流れによって丹念に修復され、内面的な強さと余裕へと変わっていた。今の彼女からは、柔らかくも目を射るような光が放たれている。世界が注目するある夜、A国。「デザイン界のアカデミー賞」と称される世界年間デザイン大賞の授賞式が、華々しく幕を開けようとしていた。奈緒は、年間最優秀デザイナーの最有力候補として、自らデザインした、静謐な自然の情景を繊細なグラデーションで表現したスモーキーグレーのロングドレスに身を包み、泰然自若として会場へ足を踏み入れた。一瞬にして全てのレンズが彼女に向けられ、その一挙手一投足には自信と魅力が満ち溢れていた。同じ頃、地球の裏側にある、荒涼とした僻地の村。そこには乾ききった痩せた大地が果てしなく広がり、唯一の色彩といえば、新設されたばかりの小さな学校に翻る旗だけだった。日は暮れてなお、辺りには肌を刺すような熱気が澱んでいた。簡素ながらも清潔な事務所で、景介は財団のエンジニアと新水源探査プロジェクトに関するビデオ会議を終えたばかりだった。白いリネンシャツの袖を肘まで捲り上げ、陽に焼けた腕は小麦色に染まっている。その
奈緒の元に大きな吉報が届くたび、その夜、景介の書斎に設えられたバーキャビネットの扉は、決まって開かれた。誰の同席も求めず、ただ独り暗闇に沈み、巨大な掃き出し窓の向こうに広がる街の灯を眺めながら、喉を焼くほど強い酒をひたすら煽り続ける。画面の中で、受賞の喜びを凛とした笑みで語る彼女を見つめ、彼は低く、掠れた笑い声を漏らす。だがその笑みは、何の予兆もなく溢れ出した涙に取って代わられ、ウイスキーの焼け付くような刺激と混ざり合って、彼の喉と心臓を激しく灼き尽くしていく。そこにあるのは、筆舌に尽くしがたい複雑な感情だ。彼女への心からの誇り、骨髄にまで染みる悔恨、取り返しのつかない喪失感……それら全てが、やがて果てしない寂寥となって彼を包み込んだ。彼は、墓場まで持っていく秘密を守るかのように、裏で手を回し、彼女の行く手を阻むあらゆる障害をあらかじめ取り払っていた。目障りな競合他社が汚い手を使って彼女の事務所を潰そうとすれば、翌日にはその会社が原因不明のコンプライアンス違反で厳重な調査を受けることになった。重要な国際展示会の枠を誰かに横取りされれば、すぐに主催者側に断れない圧力がかかり、名前が訂正された。チームの核心メンバーの家族が難病にかかれば、世界的な権威が「たまたま」診察時間を空けてくれた……その全てが天衣無縫に処理され、景介の関与を示す痕跡は一切残されなかった。彼はもはや、彼女からの感謝など望んでいない。それどころか、自分が関わっていると知られることを何より恐れた。これは彼が生き続けるための理由探しであり、微々たる、そして哀れな贖罪に過ぎないのだから。季節は巡り、一年、また一年と過ぎ去った。ある日、より詳細な調査報告書が彼のデスクに置かれた。奈緒がキャリアにおいてさらなる飛躍を遂げたという知らせに加え、そこには一枚のスナップ写真が添えられていた。写真には、アート専門の書店で、品のある穏やかな男と肩を並べる奈緒の姿があった。二人は同じ本を覗き込み、自然な笑みを浮かべている。男の眼差しは彼女の横顔に注がれ、そこには隠しようのない敬意が溢れていた。報告書によれば、この男性は海外から帰国した著名な建築デザイナー、周防悠希(すおう はるき)。由緒ある家柄の出身で、彼自身の実績も目覚ましく、多くの専門分野で奈緒と理念が合致してい