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光の主役、影の懺悔

光の主役、影の懺悔

By:  リリィCompleted
Language: Japanese
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世界一の富豪である高橋景介(たかはし けいすけ)は、有名なワーカホリックだった。浅見奈緒(あさみ なお)は彼と結婚して五年になるが、仕事のために何度も置き去りにされてきた。 一度目は、奈緒の誕生日だった。彼女が心を込めてレストランを予約したというのに、景介は買収案件のために急遽海外へ飛び、彼女が昼から夜まで待ち続けるのを気にも留めなかった。 二度目は、彼女が交通事故に遭った時だった。生死の境を彷徨い、緊急手術のために家族の同意署名が必要だった彼女は、途切れそうな意識の中で最後の一振りの力を振り絞り、彼にメッセージを送った。 しかし、返ってきたのは【取り込み中だ。重要な件だから、自分で処理しろ】という冷淡な一言だけだった。 三度目は、彼女の父親が危篤になった時だった。父は景介の顔を一目見たいと願っていたが、彼は数兆円規模のプロジェクトの調印式に忙殺され、ついに姿を見せることはなかった。 奈緒は次第に冷たくなっていく父の手を握りながら、電話の向こうから流れる「ただいま電話に出ることができません」という無機質なガイダンスの声を、ただ呆然と聞き続けていた。 その瞬間、彼女の心は底知れぬ絶望に染まり、完全に冷え切った。 何度も、何度も。彼女はようやく悟った。景介の心の中では、どんな出来事も、どんな人間も、自身の築き上げたビジネス帝国には及ばないのだということを。

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Chapter 1

第1話

世界一の富豪である高橋景介(たかはし けいすけ)は、有名なワーカホリックだった。浅見奈緒(あさみ なお)は彼と結婚して五年になるが、仕事のために何度も置き去りにされてきた。

一度目は、奈緒の誕生日だった。彼女が心を込めてレストランを予約したというのに、景介は買収案件のために急遽海外へ飛び、彼女が昼から夜まで待ち続けるのを気にも留めなかった。

二度目は、彼女が交通事故に遭った時だった。生死の境を彷徨い、緊急手術のために家族の同意署名が必要だった彼女は、途切れそうな意識の中で最後の一振りの力を振り絞り、彼にメッセージを送った。

しかし、返ってきたのは【取り込み中だ。重要な件だから、自分で処理しろ】という冷淡な一言だけだった。

三度目は、彼女の父親が危篤になった時だった。父は景介の顔を一目見たいと願っていたが、彼は数兆円規模のプロジェクトの調印式に忙殺され、ついに姿を見せることはなかった。

奈緒は次第に冷たくなっていく父の手を握りながら、電話の向こうから流れる「ただいま電話に出ることができません」という無機質なガイダンスの声を、ただ呆然と聞き続けていた。

その瞬間、彼女の心は底知れぬ絶望に染まり、完全に冷え切った。

何度も、何度も。彼女はようやく悟った。景介の心の中では、どんな出来事も、どんな人間も、自身の築き上げたビジネス帝国には及ばないのだということを。

これは政略結婚の代償なのだと、奈緒は自分に言い聞かせた。最初から、彼は愛することはないと言っていた。だが、彼が他の誰も愛していないことが、せめてもの救いだった。

しかし、その絶望に慣れかけていた頃、社交界に驚くべきニュースが飛び込んできた。

あの女っ気がなく、仕事のことしか頭にないはずの景介が、あろうことか一人の女性と交際し、手のつけられないほど甘やかしているというのだ。

噂によれば、彼はその女の子と海外の雪山へスキーに行くために、調印を控えた数兆円のプロジェクトを反故にしたという。

またある噂では、彼女が飼っている子猫の看病に付き添うため、一週間連続ですべての会議をキャンセルしたとも言われている。

さらに、彼はその女の子が数億円の価値がある契約書に落書きをするのを許し、彼女が「つまらない」と言っただけで、創業以来の重鎮たちとの会談を即座に打ち切ったという……

奈緒はこれらを聞いた時、最初は信じられなかった。

そんなはずがない。相手はあの景介なのだ。時間を命よりも尊び、常に理性的な、あの景介がそんな痴態をさらすはずがない!

奈緒は突き動かされるように、自身のあらゆる人脈と貯金を使い、密かにその女の子を調べた。

しかし、景介はその女の子を鉄壁の守りで隠し通していた。奈緒が多大な労力と大金を投じてようやく手に入れたのは、極めて不鮮明な横顔の盗撮写真一枚だけだった。

写真の中の女の子は若く愛くるしい様子で、景介に大切に抱き抱えられていた。その慈しむような仕草は、結婚して五年の間、奈緒が一度も得られなかったものだった。

その写真を手に入れた当日の午後、奈緒は心ここにあらずの状態で外出したが、道端に出た瞬間、一台の黒い高級車が制御を失ったかのように猛スピードで彼女に向かって突っ込んできた。

奈緒は車の中の人物を確認することさえできず、体が宙に浮き、激しく地面に叩きつけられるのを感じた。激痛が全身を駆け抜け、意識は急速に闇に飲み込まれていった。

再び目を覚ましたのは、消毒液の鼻を突く匂いが漂う病院の中だった。

視界に入ったのは、景介の第一秘書の事務的な顔だった。

「奥様、お目覚めですか」秘書の声には何の感情もこもっていなかった。

「高橋会長からの伝言です。『不必要な詮索はするな。さもなくば、次はただの事故では済まないぞ』とのことです」

奈緒はカッと目を見開いた。あまりの衝撃に、胸の奥を抉られるような痛みが走り、呼吸さえままならない。

彼だったのか?

あろうことか、本当に彼が仕組んだというのか!

たかが、あの女の子の横顔を調べたというだけで。彼は自分を黙らせるための「警告」として、妻である自分に交通事故を仕掛けることすら厭わなかった。

巨大な衝撃と心の痛みが、津波のように奈緒を飲み込んだ。

長年愛し続けてきた男、仕事にしか情熱を持たないと思っていた男が、別の女のためにこれほどまでに狂気じみた、残忍な真似ができるなんて。

信じたくなかったが、信じざるを得なかった。

あの女の子の素顔を拝むことなど、一生叶わないだろうと彼女は思った。

しかし一週間後、思いもよらない場所から一本の電話が彼女の元に入った。

警察署からだった。

「……高橋景介さんのご家族でしょうか?実は通報がありまして……高橋さんに買春の疑いがかけられています。至急、署までお越しいただけますか……」

奈緒の頭の中でゴンと大きな音が響いた。思考が真っ白に染まる。

買春?あの景介が?

彼女は魂が抜けたような足取りで警察署へと駆けつけた。

署内に入ると、真っ先に目に飛び込んできたのは、仕立ての良い華やかなドレスを纏った、まだ二十歳そこそこにしか見えない若々しい女の子だった。彼女は受付の椅子にふんぞり返り、傲慢な態度で不満をぶちまけていた。

「どうしてまだ彼を呼んでないのよ!私は彼を買春で訴えるって言ってるの。言葉が通じないわけ?それとも、彼が世界一の大富豪だからって、怖くて手が出せないってこと?」

周囲の警官たちは顔を引きつらせ、冷や汗を流しながら必死に言い繕っていた。「何かの誤解ではありませんか?高橋さんがそのような……」

「何が誤解よ!」女の子は不機嫌そうに床を蹴った。「あんたたちが動かないっていうなら、別の署に行って訴えるまでよ!」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、署の外で激しい急ブレーキの音が響いた。

一台の黒い高級車が止まり、完璧に仕立てられた黒のスーツに身を包んだ景介が現れた。彫刻のように整った冷徹な顔立ち、そして周囲を圧する圧倒的なオーラに、騒がしかった署が一瞬で静まり返る。

彼は真っ先に奈緒の姿を捉えると、即座に不快そうに眉をひそめ、氷のように冷たい声を投げた。「……なぜお前がここにいる」

奈緒は喉が固く締まり、かろうじて掠れた声を絞り出した。「警察から……電話があったから……」

景介の表情はさらに険しくなり、有無を言わせぬ口調で切り捨てた。「お前の出る幕などない。さっさと帰れ」

言い捨てると、彼は二度と彼女を振り返ることなく、騒ぎの主である女の子の方へ歩み寄った。

そこで繰り広げられた光景に、奈緒は雷に打たれたような衝撃を受け、全身の血が凍りつくのを感じた。

あの、常に高潔で、他者に媚びることなど決してなかった景介が、あろうことかその女の子の前に跪いたのだ。彼は彼女を見上げ、奈緒が五年間の結婚生活で一度も耳にしたことのない、とろけるほど甘く優しい声で、機嫌を伺うように囁いた。

「一葉。誰が俺の愛しい人を泣かせたんだい?ん?」

佐々木一葉(ささき かずは)は目尻を赤く染め、不満げにぷいっと唇を尖らせた。その態度は、これほど理不尽なわがままを言うのがさも当然の権利であるかのようだった。

「あなたよ!メッセージを送ってから三秒以内に返信しなかったでしょ!それが許せなくて、腹いせに買春だって通報してやったのよ!」

あまりに身勝手で荒唐無稽な理由に、その場にいた者たちは一様に絶句し、冷たい沈黙の中で息を呑んだ。

しかし景介は怒るどころか、低く愉しげに笑い声を漏らした。彼は一葉の頬を愛おしげに撫で、信じられないほど寛大な口調で言った。

「いいよ、俺が悪かった。君が俺を通報して捕まえたいと言うなら、本当に数日間留置所にでも入って、君の気が晴れるまで反省しようか?」

そう言いながら、彼は本当に隣の警官に手を差し出し、手錠をかけるよう促した。警官たちは景介の振る舞いに、顔を青くして後ずさりする。

秘書が慌てて割って入った。「一葉様、誤解です!会長は今日の午前中、不運な事故に遭い、腕を負傷されたのです。ずっと病院で処置を受けていて、スマホも充電が切れていました。だから返信が遅れてしまったんです。どうか、怒らないでやってください!」

一葉はそれを聞くと急に慌て出し、景介の手をひったくるように掴んだ。果たして、スーツの袖口から白い包帯が覗いている。

彼女の目から一気に涙が溢れ出した。「……怪我してたの?どうして早く言わないのよ!」

景介はただ優しく、指先で彼女の涙を拭った。「理由がどうあれ、即座に返信すると約束したのに守れなかったのは俺の落ち度だ。罰を受けるのは当然だよ」

一葉はさらに激しく泣きじゃくり、彼の胸に飛び込んだ。「どうしてそんなに優しいのよ……」

景介は彼女を抱き寄せ、耳元で愛を囁いた。「愛しているからだよ。俺が悪かったんだ、一葉。どんな罰がいいかな?」

一葉は泣き笑いの表情を浮かべ、瞳をくるりと動かすと、署内の床を指差した。「じゃあ……ここで『お馬さんごっこ』をして!」

秘書の顔色が変わり、慌てて止めようとしたが、景介が片手でそれを制した。

彼は彼女を慈しむような眼差しで見つめ、尋ねた。「どうしても、ここでか?」

「絶対、ここで!」

「わかった」景介は躊躇することなく、みんなの前で、その高貴な膝を汚れを厭わず地につけた。四つん這いになり、穏やかな声で言った。「おいで」

一葉は歓声を上げて笑い、慣れた様子で彼の背中に跨がった。誇り高いお姫様のようだった。

世界の経済ニュースを席巻し、一言で市場を揺るがすあのビジネス界の帝王が、今、愛する女の子を背に乗せて警察署の床を這い進んでいる。その顔に不快感や屈辱の色など微塵もなく、あるのは際限のない寛容と溺愛だけだった。

警察署内は水を打ったように静まり返り、誰もが生唾を呑み込むことさえ憚られるような静寂に包まれている。

ただ奈緒だけが、必死に口を覆い、決壊したダムのように涙を流し続けていた。

この目で見なければ、死んでも信じなかっただろう。あの冷酷無情で、仕事こそがすべてだと思っていた景介に、こんな一面があったなんて……
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第1話
世界一の富豪である高橋景介(たかはし けいすけ)は、有名なワーカホリックだった。浅見奈緒(あさみ なお)は彼と結婚して五年になるが、仕事のために何度も置き去りにされてきた。一度目は、奈緒の誕生日だった。彼女が心を込めてレストランを予約したというのに、景介は買収案件のために急遽海外へ飛び、彼女が昼から夜まで待ち続けるのを気にも留めなかった。二度目は、彼女が交通事故に遭った時だった。生死の境を彷徨い、緊急手術のために家族の同意署名が必要だった彼女は、途切れそうな意識の中で最後の一振りの力を振り絞り、彼にメッセージを送った。しかし、返ってきたのは【取り込み中だ。重要な件だから、自分で処理しろ】という冷淡な一言だけだった。三度目は、彼女の父親が危篤になった時だった。父は景介の顔を一目見たいと願っていたが、彼は数兆円規模のプロジェクトの調印式に忙殺され、ついに姿を見せることはなかった。奈緒は次第に冷たくなっていく父の手を握りながら、電話の向こうから流れる「ただいま電話に出ることができません」という無機質なガイダンスの声を、ただ呆然と聞き続けていた。その瞬間、彼女の心は底知れぬ絶望に染まり、完全に冷え切った。何度も、何度も。彼女はようやく悟った。景介の心の中では、どんな出来事も、どんな人間も、自身の築き上げたビジネス帝国には及ばないのだということを。これは政略結婚の代償なのだと、奈緒は自分に言い聞かせた。最初から、彼は愛することはないと言っていた。だが、彼が他の誰も愛していないことが、せめてもの救いだった。しかし、その絶望に慣れかけていた頃、社交界に驚くべきニュースが飛び込んできた。あの女っ気がなく、仕事のことしか頭にないはずの景介が、あろうことか一人の女性と交際し、手のつけられないほど甘やかしているというのだ。噂によれば、彼はその女の子と海外の雪山へスキーに行くために、調印を控えた数兆円のプロジェクトを反故にしたという。またある噂では、彼女が飼っている子猫の看病に付き添うため、一週間連続ですべての会議をキャンセルしたとも言われている。さらに、彼はその女の子が数億円の価値がある契約書に落書きをするのを許し、彼女が「つまらない」と言っただけで、創業以来の重鎮たちとの会談を即座に打ち切ったという……奈緒はこれらを聞いた時、最初
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第2話
記憶が潮のように押し寄せ、息が詰まるほどの苦しさを運んできた。彼と結婚する前、奈緒は景介の名を幾度となく耳にしていた。メディアはありとあらゆる美辞麗句を並べ、彼の端正な容姿、類まれなる能力、そして冷徹な手腕を絶賛した。彼は非の打ち所がない完璧な後継者であり、高橋グループを引き継いでわずか一年で高橋家を長者番付の頂点へと導いた。唯一の欠点と言えば女っ気がまったくないことで、まるで仕事のために製造された精密機械のようだと評されていた。だが、夜会で偶然目にした彼の一瞬の姿――高潔で禁欲的な雰囲気と、群を抜いて洗練された立ち振る舞いに、彼女は一瞬で心を奪われた。それ以来、彼女の心に他の男が入る余地などなかった。だからこそ、家族から政略結婚の話を持ちかけられた際、彼女は狂喜乱舞してそれに応じた。当時、親友はこう言って彼女を諫めたものだ。「景介さんは確かに非の打ち所がないけれど、あの人は感情のない仕事人間にすぎないわ。あんな血も通っていないマシーンのもとに嫁いだところで、幸せになんてなれるはずがない」しかし奈緒は、自分が献身的に尽くし、彼を愛し抜けば、いつかその氷のような心も溶かせるはずだと無邪気に信じていた。だが、現実はどうだったか。新婚初夜。彼は夫婦の営みを義務として淡々と済ませると、何の感情も乗せずにこう言い放った。「俺は男女の情愛には興味がない。お前を娶ったのは、あくまでビジネス上の必要性からだ。分を弁えて過ごすなら、夫としての義務は果たすし、高橋の妻としての栄誉も一生保証しよう。だが、それ以上のものは望むな」だからこそ結婚して以来、彼が仕事にかまけて何度自分を二の次にし、平然と置き去りにしても、彼女はすべてを飲み込んで耐え忍んできた。彼は自分を愛していないが、他の誰も愛していない。それだけで十分だと言い聞かせてきた。だが、今日。彼が一葉という女をどれほど大切に掌中の珠として扱い、彼女のためにどれほど高く誇りある頭を垂れ、奈緒が五年間の結婚生活で一度も得られなかった「愛している」という言葉を囁いたのかを、目の当たりにしてしまった。もはや、自分を欺き続けることは不可能だった。彼は女っ気がないわけでも、生まれつき冷淡なわけでもなかったのだ。ただ単に、彼が愛しているのは自分ではなかったというだけ。これまでのすべて
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第3話
「ほら、終わったわよ」一葉は書類を奈緒の手に押し戻した。その声は、施しを与えるような傲慢さと警告を孕んでいた。「景介から聞いてるわ。あなたたちは所詮、形だけの政略結婚なんだってね。だったら、奥様らしく分を弁えることね。不動産や宝石の購入契約みたいな些細なものなら、次からは私に回して。用がないなら景介に近づかないで。彼だって、あなたの顔なんて見たくないんだから」奈緒は、協議書に捺された鮮やかな朱色の印を見つめた。景介の絶対的な権威を象徴するその印影が、今は無惨なほどに皮肉に満ちて見える。奈緒が口を開き、それが不動産の購入契約などではなく、離婚協議書であることを伝えようとした、その時だった――突如として、会場内に鼓膜を刺すような非常ベルが鳴り響いた。「火事だ!逃げろ!」誰かの叫び声を合図に、会場内は一瞬にしてパニックに陥った。人々は我先にと出口へ向かって殺到する。会場の奥にいた奈緒と一葉は、その小柄な体が災いし、逃げ惑う群衆に抗う術もなく突き倒された。「ああっ!」「踏まないで!」容赦のない無数の足が彼女たちの体の上を通り過ぎていく。全身を貫く激痛。奈緒は骨が砕けるような感覚に襲われながらも必死に這い上がろうとしたが、指先一つ動かすことさえできなかった。「景介!景介、助けて!」一葉が恐怖に満ちた悲鳴を上げる。「一葉!」すぐさま、景介の焦燥に駆られた声が響いた。人混みを掻き分け、必死の形相で戻ってきた彼の姿を認めた瞬間、奈緒の心の底には、微かな希望が芽生えてしまった。だが、駆け寄った景介の視線が捉えたのは、一葉だけだった。彼は迷うことなく身をかがめると、一葉を横抱きにし、壊れ物を守るように腕の中に収めて、そのまま出口へと走り去った。……最初から最後まで、彼は地面に這いつくばる奈緒を一瞥だにしなかった。「景介!景介!」奈緒は残された最後の力を振り絞って彼の名を呼んだが、その声はパニックが渦巻く悲鳴と怒号にかき消された。彼は聞こえていただろうか。おそらく聞こえていたはずだ。だが、彼は一度も振り返らなかった。このまま誰かに踏み殺されるのだと、奈緒が絶望に目を閉じたその時。あろうことか、あの聞き慣れた足音が再び戻ってきた。死んだも同然だった彼女の心に、一筋の明かりが灯る。彼は……やはり、自分を助けに
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第4話
奈緒が顔を上げると、そこには病床の傍らに座り、一葉に甲斐甲斐しく水を飲ませている景介の姿があった。一葉は少し怯えた様子を見せてはいるものの、軽い擦り傷を負っている程度で、命に別状はないのは明らかだった。景介は、血に塗れ、見る影もなく無惨な姿となった奈緒の姿を認めながらも、その瞳に微かな動揺すら浮かべなかった。そこにあるのは、凍てつくような無関心だけだった。「一葉が水信玄餅を食べたいと言っている。お前が作るのが一番美味かったはずだ。今すぐ病院のキッチンへ行って作ってこい」彼は冷淡な声で命じた。奈緒は自分の耳を疑った。全身血まみれで横たわる自分には目もくれず、ただ一葉が水信玄餅を食べたいと言っただけで、あろうことか手術台から引きずり下ろしたというのか。五年間、心の奥底に押し殺してきた屈辱、悲しみ、そして絶望がこの瞬間、ついに音を立てて決壊した。彼女は震える体で必死に身を起こし、喉をかきむしるような叫びを上げた。「景介!あんまりだわ……っ。オークション会場で私が踏みつけられ、死にかけていた時、あなたはどこにいたの?あなたの目には、あの女しか映っていなかった!今だってそうよ。私が重傷を負って手術が必要な時に、彼女の一言で私をここに引きずり出した。この五年、私はあなたにとって一体何だったの?私はあなたの妻なのよ!なぜここまで、私を虫けらのように踏みにじるような真似ができるの?」喉を切り裂くような慟哭。涙が頬の血を洗い流し、その姿はあまりにも無惨で、見る者の胸を締め付けるほど凄惨だった。だが、景介の表情には微塵の動揺もなかった。眉ひとつ動かさず、その瞳には一欠片の憐憫さえ宿っていない。逆に、彼の腕の中にいた一葉が嫌そうに耳を塞ぎ、甘ったれた声を上げた。「景介、うるさいわ……あんな大声で叫ばれたら、頭が痛くなっちゃう……」景介はすぐさま一葉を愛おしげに抱き寄せ、その耳を優しく手で覆った。「よしよし、怖くないよ」奈緒には一度も向けられたことのない、とろけるような声音でなだめる。そして次の瞬間、崩れ落ちる奈緒を見下ろすと、その瞳には冷徹な光が宿った。「それで。これだけ捲し立てておいて、結局は行かないというのか?」奈緒は、もはや生気の一欠片も宿らぬ瞳で彼を見つめた。その心はすでに、形を留めぬほど冷え切った灰となり、風に吹か
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第5話
手術後の日々は、気が遠くなるほど長く、そして過酷なものだった。奈緒はたった一人、病床に横たわり、点滴が一滴一滴、静かに血管へと落ちていくのを眺めていた。傷口からは、脈打つような断続的な鈍痛が伝わってくる。包帯の交換や処置のたびに、それはさながら拷問のような苦痛を彼女に強いた。看護師たちの手つきは極めて慎重で優しかったが、その瞳に浮かぶ隠しきれない憐憫の色は、肉体の傷よりも深く奈緒の心を抉った。「少し我慢してくださいね、すぐ終わりますから」看護師が小さく声をかけて部屋を出ていくと、廊下からは同僚と囁き合うひそひそ話が微かに漏れてきた。「……本当にお気の毒よね。あんなに酷い怪我なのに、ご家族が一度もお見舞いに来ないなんて。手術の同意書だって、あのボロボロの体で無理やり自分で署名なさったのよ」「そうよね。お隣のVIP室に入ってる一葉さんは、ちょっと擦りむいただけだって言うのに、高橋会長が片時も離れずに付き添ってるっていうじゃない。彼女のために数千億円規模のビッグプロジェクトをいくつもキャンセルしたらしいわよ……」「同じ人間なのに、どうしてこうも運命が違うのかしらね」その言葉は、無数の細い針となって奈緒の心に深く突き刺さった。だが、彼女の心はすでに麻痺していた。ただ静かに目を閉じ、窓の外へと顔を背ける。何も聞こえなかったふりをするのが、今の彼女にできる唯一の自衛だった。退院の日、空はどんよりとした鉛色をしていた。手続きを済ませて病院の正面玄関を出ると、幼馴染たちが車を連ねて待ち構えていた。「奈緒!こっちだ!」見慣れた友人たちの笑顔に触れ、凍てついていた心にようやく微かな温もりが宿った。その夜、彼らは奈緒を馴染みのバーへと連れ出した。「地獄からの生還」と「自由の身になったこと」を祝うためだという。「離婚して大正解だよ!あんな男、奈緒にはもったいなさすぎる」「そうだよ。奈緒は美人でスタイルも抜群、おまけに家柄だって完璧なんだ。あんな冷徹男放っておいても、言い寄ってくる男なんて掃いて捨てるほどいるって!」「明日、俺がとびきりの年下イケメンを紹介してやるよ。あの無愛想な鉄仮面より、百倍マシな奴をな!」友人たちは軽口を叩き合い、懸命に奈緒を笑わせようとしてくれた。久しぶりに口にする酒。奈緒の顔にも、ようやく忘
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第6話
景介の氷のように冷淡な視線がようやく奈緒に向けられた。背後に控える男たちの、育ちの良さを感じさせる風貌を一瞥すると、その顔は瞬時に、見るに耐えないほど険しくなった。「奈緒、一葉に不届きな下心を抱くなと警告したはずだ。自分一人では飽き足らず、友人を使って彼女を誘惑させようというのか?」奈緒は耳を疑った。誘惑?「景介、あなたの目は節穴なの?先に私の友人たちに絡んできたのは、一葉の方よ!」景介がさらに何か言い返そうとした時、自分を真っ先に宥めようとしない彼の態度に腹を立てた一葉が、地団駄を踏んで部屋を飛び出した。「一葉!」景介はすぐに後を追った。その声は一転して、焦燥と溺愛に満ちたものに変わる。「待て、悪かった!もう二度と他の女とは二人きりで会わない。約束する、だから……いい子だ、怒らないでくれ」彼は立ち去り際、ボディーガードに冷酷な命令を下すのを忘れなかった。「その男どもだ。一葉に触れた方の手を、二度と使い物にならなくしておけ」そう言い捨てると、振り返りもせずに一葉を追っていった。ボディーガードたちが一歩、また一歩と距離を詰め、荒っぽい真似に出ようとする。 奈緒は信じられない思いで、咄嗟に友人たちの前に立ちはだかった。「やめなさい!目をそらさずによく見なさいよ!先に手を出したのは一葉の方でしょう?この人たちは私の大切な友人なの。この界隈でも名の通った人たちよ。指一本でも触れてみなさい、タダで済むと思っているの?」リーダー格のボディーガードは表情ひとつ変えず、淡々と、だが抗いようのない威圧感を持って告げた。「奥様、我々を困らせないでください。ご友人方の家柄が立派なのは存じておりますが、高橋会長の前では物の数ではありません。会長の一言で、彼らの実家ごと路頭に迷わせることなど造作もないのです。我々としても、会長に納得いただけるだけのけじめをつけねばなりません」奈緒は全身の血が引いていくような感覚に襲われた。激しい憤りと、どうしようもない無力感が津波のように押し寄せ、彼女を飲み込んでいく。景介の妻になった自分を、これほどまでに呪ったことはなかった。自分が辱められるだけでなく、かけがえのない親友たちまで地獄へ道連れにしてしまった。その事実に、彼女は窒息しそうなほどの自己嫌悪に陥った。彼女は深く息を吸い込み、荒れ狂
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第7話
友人たちは、猛スピードで遠ざかっていく景介のテールランプを、激しい憤りに震えながら見送るしかなかった。今は何よりも、重体となった奈緒を病院へ担ぎ込むことが先決だった。再び病院で目を覚ました時、傍らにいたのは看護師だけだった。「奈緒さん、気がつきましたか?ご友人がすぐに運んでくださったおかげですよ。彼らは仕事で急用ができて先ほど戻られましたが、目が覚めたら連絡するようにと言い置いていきました……」「いいえ、いいんです」奈緒は掠れた声でそれを遮った。「皆さん忙しいんですから、邪魔をしたくありません」看護師は、彼女のあまりにも頑なで孤独な佇まいに、同情を隠せない様子だった。「ですが、どなたか付き添いの方がいらっしゃらないと……」「一人で大丈夫です」奈緒は静かに目を閉じ、今にも決壊しそうな自分の脆さを、誰にも悟られぬよう心の深淵へと無理やり押しやった。それから、長く、果てしなく孤独な療養生活が始まった。彼女はたった一人で食事を口に運び、一人で痛みに耐えながら包帯を替え、誰の手も借りずに自分の面倒を見続けた。退院の日、彼女は自ら手続きを済ませ、邸宅へと戻った。彼女は荷物の整理を始めた。かつて慈しむように選び抜き、けれど景介には一度としてまともに目を向けられることのなかった贈り物や服、そして彼に内緒で買っておいたお揃いの品々を、未練もなく次々とゴミ袋へ放り込んでいった。疲れ切った体を引きずり、最後の荷物を片付けていたその時だった。玄関の扉が開き、景介が一葉の腰を抱き寄せるようにして入ってきた。彼は荷物を片付けている奈緒など最初から視界に入っていないかのように、控えていた執事に淡々と命じた。「一葉はしばらく静養が必要だ。当面はここで暮らしてもらう。一番日当たりのいい主寝室を空けておけ。備品はすべて彼女の好みに合わせて新調しろ。一葉はピンクを好む。寝具はシルク、カーテンは遮光性の高いものに替えろ。部屋には毎日、摘みたての白い薔薇を切らさないように。それから食事だが……」彼は事細かに、一分の隙もなく指示を重ねていく。その口調はあまりにも真剣で、一葉への執着が痛いほどに伝わってきた。階段の踊り場に立ち尽くす奈緒の胸の奥は、その睦まじいやり取りを浴びせられるたび、まるで氷の海に突き落とされたかのように、しんとしぼんでいった。
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第8話
それからの数日間、奈緒は景介が一人の女性をどこまで甘やかすことができるのかを、まざまざと見せつけられた。一葉が「国外のチョコレートが食べたい」と言えば、彼は深夜の国際便をチャーターしてまで運ばせた。「暗いのが怖くて眠れない」と一葉が甘えれば、彼は手元の仕事をすべて放り出し、一晩中彼女を抱きしめてあやし続けた。夜中に一葉が「流れ星が見たい」とねだれば、プライベートジェットを飛ばして、最も観測に適した山頂へと連れて行った。屋敷の使用人たちは、陰でひそひそと噂をしていた。「旦那様があの一葉様をこれでもかってくらい甘やかしているわね……」「ええ、あんなに熱を上げている旦那様なんて初めて見たわ。まるで別人のようだもの」「やっぱり、あの方が本命だったのね。奥様は……お気の毒に」その会話を耳にするたび、奈緒の心は千々に乱れた。けれど彼女にできるのは、ただ一人、アトリエに閉じこもることだけだった。そこが、今の彼女にとって唯一の避難所だった。ある日、一葉がふらりとアトリエに現れ、壁に掛けてあった一枚の油絵に目を留めた。「この絵、素敵ね。私の部屋に飾ることにするわ」当然の権利だと言わんばかりの口ぶりで、一葉はその絵を指差した。奈緒は即座に拒絶した。「だめよ。それは私の恩師の遺作なの」一葉は不満そうに唇を尖らせ、甘えた声を出す。「頂戴よ。本当に気に入っちゃったんだもの」「だめだと言っているわ」奈緒の態度は頑なだった。「私は景介じゃない。あなたのわがままに応えるつもりはないわ。この絵は誰にも渡さない」何を言っても暖簾に腕押しだと悟ると、一葉の顔から笑みが消えた。「じゃあ、お金で買うわ。いくらならいいの?」「売らないわ。出ていって」奈緒は冷たく言い放ち、アトリエを去ろうとした。逆上した一葉が、無理やり奈緒の腕を掴む。「どうして私に寄こさないのよ!」奈緒が反射的にその手を振り払うと、一葉はバランスを崩したかのように声を上げ、激しく後ろに転倒した。その拍子に額がイーゼルの鋭い角に当たり、瞬時に血が滲み出した。「ああ!痛いっ!」ちょうどその時、アトリエの扉が勢いよく開かれ、異変に気づいた景介が足早に入ってきた。彼はまず室内の様子を素早く見渡した。床に座り込んで額から血を流して泣いている一葉と、その傍らに立ち尽くす奈緒。
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第9話
奈緒は、死線を彷徨うほどの激痛に苛まれていた。知らせを受けて駆けつけたお抱えの医師が、即座に強力な鎮痛剤と消炎剤を投与し、背中の凄惨な傷を慎重に処置した。「処置が早かったのが幸いでした。最高級の薬を使いましたから跡は残りませんが、当分は水に濡らさず、安静にしてください」医師はそう言い残して去った。ベッドに突っ伏したままの奈緒の涙は、すでに枯れ果てていた。肉体の傷はいずれ癒えるだろう。けれど、深く抉られた心の傷口は、修復不可能なほどに腐り、膿み果てていた。それからの数日間、彼女は自室に閉じこもった。殻の中に逃げ込むカタツムリのように、これ以上、心を切り刻まれるような現実と向き合うことを拒絶した。しかしある日、階下から耳を劈くような喧騒と音楽が響いてきた。奈緒は思い出した。今日は一葉の誕生日だ。景介はこの邸宅で彼女のために盛大なバースデーパーティーを開いた。奈緒は吸い寄せられるように部屋を出た。二階の回廊に立ち、欄干を掴んで階下を見下ろす。そこには、部外者の自分を置き去りにした、華やかで残酷な別世界が広がっていた。景介がそのありったけの優しさと忍耐を、傍若無人に振る舞う一葉に惜しみなく注ぎ込んでいるのを、彼女はただ、虚ろな目で見つめるしかなかった。一葉は、ケーキのデザインが気に食わないと難癖をつけたり、客の視線が失礼だと言い掛かりをつけたりと、なりふり構わずわがままの限りを尽くしていた。そんな理不尽な振る舞いに対しても、景介は嫌な顔一つせず、すべてを甘んじて受け入れ、あろうことか自ら膝をついて彼女のドレスの裾を整えてやるほど、盲目的なまでに溺愛していた。そんな中、ふと回廊の上に立つ奈緒の姿に気づいた客の一人が、無意識に声を漏らした。「……あちらに、奥様が」その一言が、一葉の逆鱗に触れた。彼女は手に持っていたグラスを床に叩きつけ、景介に向かってヒステリックに叫んだ。「景介!言ったじゃない!籍はまだ入れてなくても、あなたが愛しているのは私だって!この家の奥様は私一人だけだって!どうしてあの女が『奥様』なんて呼ばれるのよ!」「落ち着け、一葉。たかが呼び名のことだろう……」景介はすぐになだめようとしたが、一葉の怒りは収まらない。「嫌よ!嘘つき!納得いかないわ!」一葉は泣き喚き、ついには残酷な要求を突きつけた。「
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第10話
景介の眠気は一瞬で吹き飛び、彼は弾かれたように起き上がった。離婚だと?市内全域に広告……?彼はすぐさま内線電話をひったくり、凍てつくような冷徹な声を張り上げた。「今すぐ、市内のデジタルサイネージを運営する全社の責任者に繋げ!三分以内だ。あんな真似を誰が許可したのか、即刻突き止めろ!」だが、指示を出し終える間もなく、寝室の壁面に埋め込まれたスマートモニターが自動で点灯した。早朝のニュース番組の画面下部には、あの忌々しい「公式声明」が、テロップとなって堂々と流れていた。【公式声明!高橋景介氏と浅見奈緒氏の婚姻関係は、本日をもって正式に解消されました。今後、両者は互いの人生に一切干渉いたしません。浅見奈緒は現在独身であり、新たな出会いを歓迎いたします】一文字一文字が、景介の頬を烈火のごとく打ち抜くビンタとなって襲いかかる。怒りが一気に頂点に達し、景介の顔は鬼気迫るほどに歪んだ。握りしめたスマホがみしりと不気味な軋みを上げ、今にも粉砕せんばかりの凄まじい力が指先にこもる。あの女……よくも、よくもやってくれたな!衆人環視の中でこれほど無惨に泥を塗られるとは。離婚だと?俺のサインもなしに、どうやって手続きを済ませたというのだ!「調べろ!今すぐ徹底的に洗え!彼女がどうやって離婚届を受理させたのか、一秒でも早く突き止めろ!」駆けつけた秘書に対し、景介は額に青筋を立てて咆哮した。「役所のどこのどいつが、独断でこんな越権行為を許したんだ!誰の差し金だ!」秘書は景介の凄まじい怒りに蛇に睨まれた蛙のように硬直し、息を殺して深々と頭を下げると、逃げるように調査へと向かった。景介は苛立たしげにナイトガウンの襟元を大きくはだけさせた。胸中に渦巻くのは、天を突くような憤り。だがその奥底には、自分でも気づかないほど微かな、得体の知れない焦燥が混じり込んでいた。まるで、絶対的な支配下にあった何かが、指の間から砂のように零れ落ちていくような、不吉な予感。間もなくして、調査結果がもたらされた。秘書は戦々恐々としながら、消え入りそうな声で報告した。「会長……そ、その……すべて判明いたしました。離婚の手続きは……手続き上の不備は一切なく、完全に合法的なものでした……」「合法だと?」景介は鋭い眼差しを秘書に突き刺した。「ふざけるな!俺が署名して
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