中原邸を出たとき、東の空はまだ灰色だった。
日の出には至らない、けれど夜の帳はすでに後ろへ退きはじめていて、屋敷の門前には白い霧が薄くかかっていた。礼司は背を伸ばしたまま、ふと見上げた。
空気が冷たく、頬を撫でる風に草の匂いが混ざっていた。まだ朝ではなく、もう夜ではない。そんな狭間の時間が、彼の輪郭を曖昧にしていた。邸内の灯りがひとつ、廊下に残っているのが見えた。
自分が出てきた部屋とは別の棟だったが、灯りは低く、まるで黙ってこちらを見送っているようだった。「……」
声にはならない吐息を、彼は口元から漏らした。
何もしていない。
誰にも咎められていない。けれど胸の奥に、小さな棘のような感触があった。指先はまだ、薫の髪の柔らかさを覚えていた。
肌に触れた瞬間の体温、あの静かな瞳がまぶたの裏に焼きついていた。夜の出来事が夢だったかのように、空が白んでいく。
けれど、夢ではなかったと、礼司は足元の砂利の感触に確信する。歩き出す。
街道には人影がなかった。町もまだ眠っている。けれど、鳥たちの声が高くなり、徐々に世界が目を覚ましつつあることを告げていた。なぜ、薫にあのように触れたのか。
自分の手が、なぜあの瞬間、震えたのか。答えはどこにもなかった。
それは欲望とも違っていた。優しさの延長線上にあるにしては、熱すぎた。理性で包み込めるような感情では、とうにない。胸の中で静かに渇きが広がっていた。
水のない底の方で、音もなく亀裂が走っていくような、そんな感覚。礼司は川沿いの道へ出た。
白い朝靄が、水面の上をゆるやかに流れていた。ゆるく曲がった道の先、石畳の段を降りて、礼司は土手に腰を下ろした。
草に露が降りていて、袴の裾がすぐに濡れた。そのことにも気づかぬまま、彼は川を見つめていた。
川は、静かだった。
昨夜深く、書斎には細く揺れるランプの炎だけがあった。礼司は重厚なローテーブルに肘をかけ、掌で煙草の箱を転がしながら汽笛のような渋みを含んだ煙をゆるやかに吐いた。窓の外では深い闇がひろがり、硝子越しに光の輪が弧を描いて漂っている。書物の背表紙には金文字が飾られ並んでいたが、礼司の視線はそこにはなく、夜の静寂に溶けかけた自らの沈黙を、重さとして感じていた。なぜ断れなかったのか。その問いが、じりじりと胸を焦がしている。肖像画は単なる形の記録ではない。「描く」とは、対象の奥にある時間や感情、視線の流れさえ絵というかたちに閉じ込める行為だということを、礼司は画を学んだ者として理解していた。描くことは、見るとは違う。見ることは偶然を伴う。しかし描くのは、選びと固定と共有だ。礼司は煙草を再度くゆらせ、火種の赤い光がゆらりと揺れた。そして、昼に交わした薫の声と言葉の輪郭が、血となり熱となって蘇る。「礼司さんを、描きたい」その言葉に宿る真剣さ。形式や技術を越えた何かを見透かそうとする視線。礼司はそれを簡単には否定できなかった。自分もまた、薫という存在の中に触れられていない自分の側面があると知られたくなかった、あるいは誰かにとってそうであったらいいと密かに願っていたのかもしれない。だが、それを承諾するとは、描かれるという行為に自分を任せることでもあった。煙草の灰が落ちる音が、書斎の静寂を切り裂いた。礼司は灰皿に静かに消し、深く息を吐いた。心の奥がざわついている。自問するほどに、答えは見つからない。ただ一点、それ以上拒めない力が自分を動かしたという記憶だけが確かにあった。描かれることへの恐れだけではない。描かれるということに含まれる、「見たい」と願う他者の欲望。誰がどこを、どう見ているのか。その視線に従うことが、思ったよりも自分を揺らすと、礼司は悟った。手元のランプが揺れ、硝子の影が波打つ。暗闇の前線が書斎を少しずつ支配し、礼司の輪郭を溶かしていった。彼は煙草をケースに戻し、立ち上がった。足もとは揺らぎ、息は浅い。「……」口を動かしかけて止める。薫に返す言葉があったのかも
ランプの灯が、磨き上げられた応接間の鏡面に柔らかく映り込み、室内を静かな金色で満たしていた。礼司は椅子に腰を下ろし、膝の上で指を組んだまま、何気なく視線を壁際の鏡に向けた。そこに映る自分は、暗い背後を背負ってぼんやりと浮かび上がり、輪郭がわずかに揺らいでいる。「今日は少し疲れているようね」美鈴の声が、向かいのソファから柔らかく届いた。礼司は目を瞬かせ、鏡から視線を外す。美鈴は白い着物の袖を膝の上に整え、まっすぐに彼を見つめている。そこには長年の夫婦の間に育まれた穏やかな眼差しがあった。日常を支える安定感と、形を変えぬ信頼が滲んでいる。「そうかもしれない」礼司は軽く頷き、口元にわずかな笑みを作った。だがその声の奥に、自分でも捉えきれない感触があった。ふと、薫の視線が脳裏に差し込んだ。昼間、応接間で薫が静かに口にした「肖像を描きたい」という言葉。その直後に向けられた視線は、美鈴のそれとはまるで違っていた。あの瞳は、こちらの内側にまで入り込み、形の奥にあるものを掬い取ろうとするようだった。美鈴の視線は、礼司を「夫」として見ている。名前も、役割も、共に過ごした年月も含めたひとつの像を、安定した枠の中に置く。そこに揺らぎはない。だが薫は、枠を外す。そこにあるものを剥き出しにし、外からではなく内から形をつくり直すような…そんな危うさを孕んでいた。礼司は再び鏡に目をやった。映る自分の顔は、灯の加減で片側が影に沈み、もう片側は淡く光を帯びている。その不均衡が、なぜか薫の視線に重なって見えた。見られることは、こうして形を揺らがせるものなのか。「本当に、どうかしたの?」美鈴の問いに、礼司は小さく首を振った。「いや…少し考えごとをしていただけだ」美鈴はそれ以上追及せず、湯気の立つ茶を差し出した。湯呑を受け取る手のひらに、温もりがじんわりと広がる。だがその温もりとは裏腹に、胸の奥には冷たい波がひと筋、静かに押し寄せていた。薫の視線が、また脳裏で形を変える。それは確かに自分を見ているはずなのに、自分とい
馬車の揺れが、思考を断ち切るように規則正しく伝わってくる。街路樹の影が窓硝子を流れ、傾きかけた陽の色が車内に斜めの線を落としていた。礼司は背凭れに軽く身を預け、窓の外を見ていたが、視線は景色を追っていなかった。ふと、硝子の向こうに自分の顔が薄く映る。思わず、それを凝視する。日中の柔らかな光の中で見慣れたはずの自分の顔が、なぜか遠く感じられた。頬の線は硬く、目元には疲れとも違う影が落ちている。形は確かに自分だが、そこに宿るものが空虚に思える。「…」視線を逸らそうとした瞬間、胸の奥に、さっきの薫の眼差しが蘇った。何も言わず、ただこちらを見ていた時の、あの均衡を崩さない沈黙。観察とも、測量とも違う。もっと深く、輪郭の内側に手を差し入れようとするような…そんな眼差し。肖像とは何か。薫の言う肖像は、ただの写しではないことを本能的に悟っていた。あれは筆と絵具を通して、視線の奥にある“なにか”を掬い取ろうとする行為だ。だからこそ、違和感が広がっていく。自分が描かれる。それは単なる形の記録ではなく、時間ごと封じ込められることを意味する。声や匂い、息遣いの間までも、永遠にそこに残される。そんなものを、誰かに渡していいのか。馬車が角を曲がり、夕陽が一瞬強く車内に差し込んだ。硝子に映る自分の目が光を反射して淡く揺れ、その像の背後に、庭の緑と街の影が重なった。薫の瞳もこんなふうに光を掴んで、決して放さなかった。礼司はそのことを思い出すと、胸の奥がわずかに軋む。自邸に着く頃には、陽はかなり傾いていた。玄関で外套を預け、書斎へ向かう。廊下を歩く間も、薫の低い声と、無言の視線の感触が頭の内側に残っている。書斎に入ると、机の上に置きっぱなしの水差しが目に入った。窓辺から伸びる光が、銀の縁を鈍く照らしている。礼司は無意識に椅子に腰を下ろし、そのまま机の上の紙片に手を伸ばした。だが何をしようとしたのか、自分でもはっきりしない。視線は自然と、窓に向かう。そこには外の景色ではなく、またしても自分の輪郭
庭を見下ろす窓が開け放たれていた。春の終わり、すでに陽光は夏の輪郭を帯びていて、薫の邸の応接間には、刈りたての芝と微かな土の匂いが流れ込んでいた。窓際の椅子に、薫はいた。いつものように、黒のシャツを軽く羽織って足を組み、細い指を膝の上に添えている。手元に茶器が置かれているにもかかわらず、彼は一度も湯呑に触れようとはしなかった。視線は庭に落ち、風に揺れる若木の影を、まるで時間そのものの変化を見るように追っている。礼司は、その向かいに座っていた。ここに来るのは三たび目だが、空間はいつも静かすぎた。会話が多くなくとも、不思議と沈黙が気まずくならないのは、薫の性質によるのかもしれない。けれど今日の沈黙には、なぜかうっすらとした緊張が滲んでいた。やがて薫が、ぽつりと口を開いた。「礼司さん。あなたの肖像を描かせてくれませんか」彼の声はいつも通りだった。抑揚が乏しく、淡々とした響きの中に、どこか子供のような素直さがある。だがその言葉だけは、唐突で、礼司の心にわずかなひびを刻んだ。「……肖像画を?」確認のように返した礼司の声は、意図せず低くなった。薫は頷かなかった。ただ、視線だけをゆっくりと礼司に向けた。涼やかな双眸がまっすぐこちらを見つめてくる。その眼差しに、たじろぐ理由など本来あるはずもなかった。けれど、その時の礼司は、まるで胸の奥を探られるような気がして、まぶたの裏が微かに疼いた。「あなたを、描いてみたいのです」「……突然だな」言いながら、礼司は軽く喉を鳴らしてから湯呑に手を伸ばした。茶はすでに冷めかけていた。冷えた陶器が掌に吸い付き、温度を奪っていく。「肖像というのは、ああいう…格式ばったものか」「違います」薫は即座に答えた。「描くための形式ではなくて。見たいんです、礼司さんを。……ちゃんと」その言葉に含まれた“見る”という動詞が、妙に強調されていた気がして、礼司の背筋がわずかに硬くなる。視ら
中原邸を出たとき、東の空はまだ灰色だった。日の出には至らない、けれど夜の帳はすでに後ろへ退きはじめていて、屋敷の門前には白い霧が薄くかかっていた。礼司は背を伸ばしたまま、ふと見上げた。空気が冷たく、頬を撫でる風に草の匂いが混ざっていた。まだ朝ではなく、もう夜ではない。そんな狭間の時間が、彼の輪郭を曖昧にしていた。邸内の灯りがひとつ、廊下に残っているのが見えた。自分が出てきた部屋とは別の棟だったが、灯りは低く、まるで黙ってこちらを見送っているようだった。「……」声にはならない吐息を、彼は口元から漏らした。何もしていない。誰にも咎められていない。けれど胸の奥に、小さな棘のような感触があった。指先はまだ、薫の髪の柔らかさを覚えていた。肌に触れた瞬間の体温、あの静かな瞳がまぶたの裏に焼きついていた。夜の出来事が夢だったかのように、空が白んでいく。けれど、夢ではなかったと、礼司は足元の砂利の感触に確信する。歩き出す。街道には人影がなかった。町もまだ眠っている。けれど、鳥たちの声が高くなり、徐々に世界が目を覚ましつつあることを告げていた。なぜ、薫にあのように触れたのか。自分の手が、なぜあの瞬間、震えたのか。答えはどこにもなかった。それは欲望とも違っていた。優しさの延長線上にあるにしては、熱すぎた。理性で包み込めるような感情では、とうにない。胸の中で静かに渇きが広がっていた。水のない底の方で、音もなく亀裂が走っていくような、そんな感覚。礼司は川沿いの道へ出た。白い朝靄が、水面の上をゆるやかに流れていた。ゆるく曲がった道の先、石畳の段を降りて、礼司は土手に腰を下ろした。草に露が降りていて、袴の裾がすぐに濡れた。そのことにも気づかぬまま、彼は川を見つめていた。川は、静かだった。昨
部屋の窓には、まだ夜の帳が残っていた。障子越しに差す光はひとつもなく、外の空気すら感じさせない密やかな暗さが、室内の輪郭を溶かしていた。礼司はそこに、目を凝らしていた。布団の中、薫は静かに眠っている。熱は幾分引いたのか、額の汗も引いており、頬の紅潮もいくぶん薄れているようだった。だが呼吸は浅く、まつげの隙間からわずかに熱の名残を感じさせた。その頬の上に、礼司はそっと手を伸ばした。まだ冷たさの残る氷嚢を傍らに置き、代わりに自分の掌で薫の額を覆う。熱の有無を確かめる仕草としては自然だった。けれど、指先が頬の輪郭に沿って移動した瞬間、礼司の中に妙な引っかかりが生まれた。生え際に触れたとき、そこにあったのは熱よりも、柔らかさだった。子どもの髪の密度は細かく、絹糸のように繊細で、皮膚の上を流れる感触が微かに残った。その感触が、なぜか礼司の指先に“熱”として残った。熱とは逆の性質を持つものが、逆に火照りを伝えてくるような錯覚。指をそっと首筋に滑らせると、脈打つ動きが皮膚の下で震えた。そこに生命が在るというあまりに生々しい事実が、礼司の呼吸を浅くした。「……」声にならない音が喉の奥で渇いた。手を引けばよかった。目を逸らせばよかった。だが、引けなかった。逸らせなかった。薫の体温は、礼司の掌を通して、心臓の奥にまで染みてくるようだった。体は小さいのに、その存在は礼司の思考を圧迫するほどに大きくなっていた。少年の肩をなぞったとき、礼司の指先ははっきりと“柔らかさ”を知った。筋肉とは違う、皮膚と骨のあいだにある水分を含んだような、言葉にしがたい質感。抱きしめたときにはわからなかったものが、今は指先だけで理解できてしまう。その感触が、礼司の意識の中で輪郭を持ち始めたとき、背筋がぞっとした。手を引こうとした瞬間だった。薫が、目