礼司は、グラスの底に残った氷を音もなく傾けた。ブランデーはすでにぬるく、香りは輪郭を失っていた。
広間の賑わいは少しずつ落ち着きを見せ、人々は各々に集まり、噂話や商談、近況の交換に花を咲かせている。礼司は人波の切れ目を縫うようにして、館内の奥まった書斎に向かった。
この迎賓館の一室、重厚な書棚と黒革のソファが並ぶその部屋は、礼司にとってわずかな休息の場だった。
扉を閉めると、遠くから聞こえる弦楽の音も霞んでいった。
礼司は深く息を吐き、ソファの背にもたれた。
会いたくなかったわけではない。むしろ、四年という歳月の間に何度も、あの少年のことを思い出していた。だが今日、再会して初めて目の当たりにしたその姿は…思っていた以上に、心を乱した。
礼司は目を閉じる。
「…薫」
その名を口の中だけで転がすと、どこか甘い痛みが滲んだ。
あの細い肩、首筋から頬へと続くやわらかな線、濡れたような黒い目、結わえた髪の結び目…一つ一つが記憶の中の少年とはまるで違っていた。
薫はもう、弟ではなかった。
かつて膝にのせて本を読んでやった手。風呂上がりの濡れた髪を拭いた記憶。細い指で裾をつかんできた夜…それらは、もう通じない。
あの目が、そう言っていた。
礼司はブランデーの残りを喉に流し込んだ。喉が焼けるような感覚すら、今は心地よかった。
ドアの向こうから、足音が近づく気配がした。軽く、しかし確かな歩み。
やがてノックの音が響いた。
「…入れ」
扉が静かに開き、そこに現れたのはやはり彼だった。
薫は一礼し、ゆっくりと部屋に入る。
「お久しぶりです、礼司さん」
礼司は答えようとして、言葉が出てこなかった。
その声は、昔と変わらない響きを持ちながらも、低く、深くなっていた。大人の男の声だった。
「こうしてご挨拶を申し上げるのも、ずいぶんと久しいですね」
「…ああ。そうだな」
ようやく絞り出した声は、かすかに掠れていた。
薫は数歩進み、書棚のそばに立った。やわらかい灯りが頬を照らし、肌の白さが際立つ。
「相変わらず、ここは落ち着きます」
「覚えてるのか」
「ええ。子どもの頃、よくこの部屋で待たせてもらっていました」
礼司は言葉を失いかけた。
そうだ。書類の山を処理しながら、横に座らせていた。退屈そうにしながらも、薫は静かに本を読んでいた。礼司の時計の音、ペンの走る音。そういうものを、彼はすべて覚えていた。
「パリでは、充実していたようだな」
「…おかげさまで」
薫の声はあくまで静かだったが、どこか挑むような色が含まれているようにも感じた。
「ご覧になりましたか。招待状に載せていただいた肖像画」
「…ああ」
言葉が喉でつかえる。あの絵。キャンバスいっぱいに描かれた青年の横顔。裸の肩口から首へと続く線。決して猥褻ではない。けれど、そこには確かに生々しい熱と、静かな昂りがあった。
「モデルは…」
「パリで知り合った、彫刻家の卵でした」
礼司はグラスを置いた。
薫の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「女性の裸よりも、男性の方が…描きやすくて」
礼司はその言葉に、はっとして目を向けた。
「男の…方が?」
「ええ」
間髪を入れず、薫は視線を逸らさなかった。
沈黙が落ちた。
その沈黙の中、礼司は自分の心臓の音を聞いていた。
薫の顔は変わらない。けれど、その目の奥に、何か試すような光があった。
「…少し、外の空気を吸ってこようか」
礼司は立ち上がりながら、内心で逃げるなと自分に言い聞かせていた。けれど、薫は彼の動きを遮るように一歩、近づいた。
「礼司さん」
その声に、背中がこわばる。
「あなたは、変わりませんね」
礼司は振り返った。
「何が、だ」
薫はゆっくりと笑った。その笑みには、哀しみと愛しさがないまぜになっていた。
「そうやって、ずっと僕を“昔のまま”にしておこうとする。でも、僕は…」
そこまで言って、言葉を切った。
礼司は彼の視線から逃れられなかった。
「君は…もう、弟じゃないんだな」
その言葉を口にした瞬間、自分でもなぜか喉が痛んだ。
薫の瞳が、わずかに潤んだように見えたのは、灯りのせいだったのか。
「ええ、そうです」
短く答えたあと、薫はそっと頭を下げた。
「今夜は、これで失礼します」
そう言って彼は、音もなく部屋を出て行った。
礼司は、誰もいなくなった書斎で、ソファに沈み込むように座り直した。
指先が微かに震えていた。
グラスの底に残ったブランデーが、最後の光を揺らしていた。
すでに氷は、溶けていた。
礼司の手のひらが、薫の肌をなぞるたび、微かな熱が薫の奥底にまで染みわたっていく。夜のアトリエには、遠い街灯りと雨のしずくが揺れる窓明かりだけが灯り、ふたりの体温と吐息だけが小さな世界を作っていた。布団の上、灯りの下、薫は自分の手のひらをゆっくりと開く。礼司の大きな手に重ね、指を絡める。その指先ひとつひとつが、これまで触れたことのないほど柔らかで、確かな温もりを持っていた。「薫」礼司の低い声が耳元に落ちる。名を呼ばれるたび、薫は自分がこの世のすべてを許されるような気がした。けれど今夜は、それ以上に、自分の中に深く沈んでいくものがある。礼司の指先が頬に触れ、あごのラインをゆっくり辿る。薄闇の中でその動きはまるで波紋のように広がり、薫の体の奥で静かに揺れる。唇の端がそっと持ち上げられる。次いで、礼司の親指が薫の下唇をなぞった。くすぐったいほどの刺激に、薫は自然と瞼を閉じる。視界が暗くなると、他の感覚が研ぎ澄まされる。礼司の呼吸、衣擦れの音、汗ばむ掌の微かな湿度。自分の首筋に沿って降りてくる指先は、ひやりとした緊張の残り香と、じんわりとした快楽の両方を同時に生み出していた。薫は、これが愛されているということなのだと、はじめて身体で知った。言葉はない。指先の圧、体温、吐息の強さ。たったそれだけで、これほどまでに自分が満たされていくのかと驚く。礼司の指が鎖骨をなぞり、肩の骨を優しく指先で描いていく。自分の身体の線が、礼司によって確かめられていく。その度ごとに薫の中で何かが溶けていく。息を詰めるような静けさのなか、薫は自分の指で礼司の腕を辿り、肘から手首へ、そしてその指先にそっと口づけた。細く息を吐きながら、礼司がわずかに声を洩らす。その小さな反応が、薫に安堵をもたらす。礼司もまた、この時間に酔っている。自分だけではないのだと分かると、薫はさらに大胆に、礼司の胸元に顔を埋める。「…好きです」薫はほとんど夢のなかのように、その言葉を落とす。礼司の手が背中をゆっくり上下し、衣服越しに撫でてくる。その熱は、指の先からじわじわと薫の心臓にまで染み込んでいくようだ。薫の呼吸が浅くなり、身体の芯が緩んでいく。礼司の親指が肩甲骨のくぼみに触れ、指で円を描くたび、薫
薫は、ふたりきりになったアトリエの仮眠用ベッドの上で、静かな緊張を全身に纏っていた。天井の裸電球が薄く滲んだ光を落とし、室内は外界と切り離された密やかな闇に沈む。雨上がりの夜の名残が、窓ガラス越しにうっすらと硝子の結露を残し、その水滴が微かに灯りを吸い込んでいる。礼司は薫の背中をやさしく抱き寄せ、薫は自分がその腕の中にすっぽりと包まれていることを、呼吸のたびに痛いほど実感していた。礼司の掌が薫の肩越しに回り、布越しに僅かな熱を移してくる。その温もりは、今にも壊れてしまいそうな硝子細工のように、薫の心をきしませる。けれど、今夜はただ「受け入れる」のではなく、何かを返したいという思いが、薫の胸を密かに膨らませていた。緊張と不安が波のように揺れ動きながらも、薫はそっと自分から礼司の指先を辿る。初めて自ら手を伸ばす瞬間、心臓が跳ね上がる音が耳の奥で爆ぜた。薫の手が礼司の胸元に触れ、その鼓動を指先で感じ取る。布地の下で脈打つ熱と、微かに震える皮膚。その振動が、自分の中の恐れやためらいを少しずつ溶かしていく。薫は静かに息を吸い込む。礼司の髪から、夜の雨を思わせる淡い湿り気と、体温が混ざった匂いが漂う。仄かな香りに包まれ、薫はふいに自分の存在が礼司の腕の中で少しずつ溶け出していくような感覚を覚える。ふたりの間に言葉はなかった。ただ、薫はこれまでのように礼司に身を任せているだけではなく、今度は自分からも応えたいと願っていた。薫の手が礼司の頬に滑り、髪にそっと指を差し入れる。その指先が触れた瞬間、礼司の身体が僅かに揺れる。薫の中で、小さな誇らしさと戸惑いが同時に芽生える。礼司の肌に触れることで、自分が彼に何かを与えられているのだと実感した。礼司は目を閉じ、静かな呼吸を整えている。薫はその横顔を間近で見つめる。額の生え際から頬骨の稜線、唇の薄さ、まぶたの下の薄い青い血管。今まで何度も見てきたはずの顔が、今夜は別のものに見える。触れることで初めて分かる熱。愛しいと思う心が、薫の中で静かに大きくなっていく。やがて礼司が目を開く。薫と目が合う。その瞬間、硝子越しに光が差し込むような錯覚に包まれ、薫は視線を逸らすことができなくなる。礼司の目は、いつになく柔らかく、けれどどこか脆さも孕んでいた。
夜明け前の寝室は、息を潜めたように静まり返っていた。障子越しの闇はまだ濃く、空がほんのりと白み始める気配すら見えない。掛け布団の下に潜むぬくもりだけが、現実の輪郭を辛うじてつないでいた。美鈴は仰向けのまま、まぶたを閉じても一向に眠気が訪れない。身じろぎさえためらわれるような沈黙の中で、彼女は呼吸を整えながら、遠い昔の夢のような安らぎを思い出していた。あのころの自分は、ただ夫の隣で目を閉じるだけで未来がすべて約束されていると信じていた。いま、布団の下で握りしめた自分の指は冷たく、身体の中心にぽつりと穴が開いてしまったような感覚に襲われている。隣の布団には、礼司が背を向けて静かに横たわっていた。その肩越しに、ゆるやかな呼吸の起伏が見て取れる。眠っているのか、眠ろうとしているだけなのか。どちらにせよ、彼の心が自分のほうへ向いていないことだけは、確かな直感で分かっていた。時折、外の木々が風に揺れるかすかな音が、夜気とともに障子の隙間から流れ込む。美鈴は、手をそっと布団の上に置き、静かにその温度を感じる。やがて目を開けて天井を見つめた。暗闇の中で、夫婦という形の輪郭がぼやけていく。家のために、妻として、嫁として、過ごしてきた日々。その先に“未来”と呼べるものは本当にあるのだろうか。心の中でそっと呟く。「私は、もう知っているのです」——昼間、礼司に告げたあの言葉。真実に形を与えたことで、苦しみと同時に奇妙な解放感も訪れていた。何を選ぶのか、もう自分では決められない。だから、美鈴は静かにその決定を夫に託すことにした。ただ、最後に残された「信頼」だけを手放さずに。ふいに、礼司が寝返りを打つ音が聞こえた。美鈴は息を止め、彼の背中を見つめる。寝具の擦れる音、浅い呼吸、そしてたったいま、夫の視線が壁の向こう側にあることを、痛いほど感じていた。美鈴は自分の心臓の音が聞こえてしまうのではないかと不安になる。その音に耳を澄ませると、孤独と、ひりつくような諦念が体の内側に広がっていった。礼司もまた、まどろみのふりをしながら眠れていなかった。眼を閉じるたびに、父の言葉と薫の指先、そして美鈴の微笑みが交互に浮かんでは消える。「家のために生きる」ことが、
夜の帳が下り、早川家の廊下にはわずかな足音さえ響かない。家人はすでに眠りについたはずだったが、礼司の部屋の障子だけは、深い闇の中にわずかに灯りを滲ませていた。書斎の机上には油を満たした行燈が置かれ、細く揺れる炎が、書付や本の端、手紙の束、礼司の硬く握られた手の甲に長い影を落としていた。礼司は椅子の背に身をあずけ、天井を仰ぐ。窓の外からは虫の音さえ聞こえず、ただ心臓の鼓動と、呼吸音だけが静かに部屋を満たしている。昼間、父の口から発せられた「家」の言葉が、いまも耳の奥にまとわりついて離れない。家督、血筋、跡継ぎ——そのいずれもが、今の自分にとっては氷のように冷たく、重い鎖となって背中に絡みついている。書斎の壁には家族写真が静かに並ぶ。義父の厳格な横顔、美鈴の優しい微笑み、自分の静かな顔。だがそのどれもが、いまの自分とはまるで別人のようだった。あの日、父の静かな口調で語られた言葉が、肉体の芯まで染み渡っている。「家の名は、血でつながれるものだ」礼司は、その言葉を何度も反芻しながら、机の上に置かれた手紙の束を指先でなぞる。筆先が紙に引っかかる感触、乾いた羊皮紙の匂い。指の間に残るのは、ただ“家”という呪縛の手応えだけだった。けれど、意識の底には、別の熱が絶えず燃え続けていた。薫。柔らかな髪、無垢な瞳、火照った唇、細く長い指先。あの夜の温度と香り、互いの肌が触れ合うたびに確かめ合った快楽の残像が、心の隙間に幾重にも重なっている。自分はどちらへ進むべきなのか——その答えは、夜が更けるほどに曖昧になる。家の名と、個人の幸福と。どちらかを選べば、必ず何かを切り捨てることになる。その思いが、礼司の胸を何度もえぐる。障子の隙間からわずかに流れ込む夜気が、足元にまとわりつく。白椿の花瓶が机の隅に置かれており、その花弁の影が灯火の揺れとともに、壁に大きく伸びていた。揺れる花の影と同じように、礼司の心も、強い葛藤に飲み込まれていく。父の言葉が、再び頭の中で甦る。「家を絶やすな」——それは脅しではなく、静かな命令だった。美鈴の苦悩を思うたび、礼司は自分の不実を呪いたく
障子を隔てて父の足音が遠ざかると、居間の空気はわずかに緩んだ。しかし、それは息苦しさからの解放ではなく、芯まで沁み込む重い余韻だった。食卓に残されたふたり、礼司と美鈴は、まるで細く裂けた畳の目地の上にそれぞれ腰かけているような感覚だった。膳の上の湯飲みからは、まだ微かに湯気が立ちのぼっている。美鈴は正しい所作で箸を置き直し、両手を揃えて膝の上に置いた。その手指には朝の冷気がしみていた。礼司は目の前の白米に箸を伸ばすが、米粒がやけに遠く思える。何か言葉を発すべきか、あるいは何も言わずにおくべきか――そのどちらも、今日の自分にはできない気がした。静けさの中、食器の縁が微かに合わさる音がした。美鈴が茶碗を持ち上げるとき、その指先の動きがほんの少し震えていることに礼司は気づく。それでも美鈴は視線を上げない。ふたりの目線は、食卓の上に置かれた器や箸や、わずかに残った味噌汁の色にだけ向けられている。「……冷めてしまいましたね」美鈴がぽつりと呟く。けれど、その声には普段の柔らかさがなかった。微かな濁りが混じり、部屋の隅に響いて消える。「……ああ」礼司は短く返す。続けて言葉を探したが、唇はただ無意味に動くだけだった。美鈴は少し首を傾けるが、視線はまだ膝に落としたままだ。二人の間には、明確な“問い”がある。けれど、それを口にした途端、何かが取り返しのつかない形で崩れ落ちてしまう。そんな予感が、静かに食卓の隅を満たしていく。庭の方から、雨粒が縁側の木を打つ音が聞こえてくる。今日は薄曇りで、障子越しに淡い光が部屋を満たしているが、その光は決して温かくなかった。どこか、すべてが灰色に沈んでいる。美鈴はふと、障子の向こうに揺れる葉陰を見つめる。その瞳は深い湖面のように静かで、底知れぬ思いを湛えていた。「……お義父様のこと、お気になさらないでください」ようやく美鈴が言葉を紡いだ。だが、その声音にはどこか、自分に言い聞かせる響きがあった。「俺は……」礼司は続けかけて、
障子越しの光が居間の畳に淡く落ちている。早朝の家は、まだ冷え残った空気に包まれ、炊き立ての米の湯気と、味噌汁の香りが静かに広がっていた。食卓には三つの膳が並び、その中心に座る早川惣右衛門の背筋は、朝の空気よりもさらにぴんと張りつめていた。惣右衛門は無駄な言葉を嫌う人間だ。その沈黙には、いつも何かを問う鋭さがあった。今日の朝食も、箸の音と茶碗の音、そして微かな湯気の立ち上る音だけが流れている。美鈴は礼司の隣に控えめに座り、白椿のように楚々とした佇まいで、静かに膳を進めていた。「……最近、屋敷が静かだな」惣右衛門の声が、障子の外の風よりも低く重く響いた。その一言で、食卓の空気が一段、重たくなる。礼司は箸を置く動作を一瞬だけ止め、すぐに持ち直す。美鈴は変わらぬ微笑みを唇の端に浮かべたまま、小さく首を傾ける。「ご不自由をおかけしていませんか」美鈴の声は柔らかく、だが芯のあるものだった。惣右衛門はその声に直接返すことなく、ゆっくりと茶をすする。「家というのは、ただ静かに在ればよいというものでもない。……賑わいがあってこそ、血が通う」それはつまり、子のいないこの家を指していることは明白だった。礼司は言葉を探して喉を動かしたが、結局何も出てこなかった。惣右衛門は視線を正面に据え、少しだけ顔を上げる。「礼司。お前もそろそろ二十五歳に近い。……家の跡目のこと、考えたことはあるか」その問いは、まるで釘を打ち込むように、静かだが重くのしかかる。美鈴の手がわずかに震えたのを、礼司は横目で見て取った。「……はい」礼司は小さく答えた。それだけで胸が締め付けられる。「美鈴も、体調はどうだ。最近は無理をしていないか」惣右衛門は美鈴にも視線を移す。その目には、情よりも家を存続させる意志のほうが強く宿っている。美鈴は微笑みを崩さず、丁寧に膝を揃えた。「ご心配には及びません。身体は、元気でございます」その声には揺らぎがない。だが、心の内側では、どこかに