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2.再会は音もなく

Penulis: 中岡 始
last update Terakhir Diperbarui: 2025-08-21 11:14:56

薄暮が完全に落ちきる前、中原家の迎賓館はすでに淡い灯りに包まれていた。

天井の高い広間には、洋式のシャンデリアと、壁際に控えた和の行燈が互いの光を遠慮がちに交差させていた。漆喰の白壁には季節の草花を描いた屏風が据えられ、洋絨毯の上には艶やかな裾が波を描いている。和装の婦人たちと、燕尾服をまとった紳士たち。金襴やレース、香水と香の混じる空気が、まるで一枚の抽象画のように視界を彩っていた。

その場に立つ者たちは皆、互いに名を知り、あるいは誰かの紹介で名刺を交わすような間柄だった。けれどその空間において、ひときわ異彩を放つ姿があった。

薫である。

彼は深い墨色の洋装をまとい、首元に柔らかく巻かれた白いスカーフが肌の白さを引き立てていた。背筋はまっすぐに、肩の線は細く、しかしどこか凛とした張りを持っている。髪は後ろに軽く結ばれ、結い目からこぼれるような黒髪が、動くたびに小さく揺れた。

一歩足を踏み入れた瞬間、何人かの視線が彼に向けられたのを薫は感じた。感嘆、好奇心、あるいは噂の具現としての視線。

けれど彼の瞳は、どこにも焦点を合わせていなかった。

見ているようでいて、誰も見ていない。見られていることを受け入れながら、その視線の奥にあるものだけを掬い取ろうとするような、そんな冷静なまなざしだった。

グラスを手にしたまま、薫は広間の奥へと進む。壁際の花瓶には秋草が活けられていた。薄と桔梗。色とりどりの着物が咲く中、その静かな佇まいはかえって視線を引いた。

と、不意に。

視界の端で、ある一人の男が動いた。

薫は無意識にそちらへと顔を向けた。

その瞬間、空気が止まった。

時間さえ、ゆっくりと折りたたまれるように感じられた。

礼司。

人混みの向こう、ちょうど窓際に立っていた。

燕尾服に身を包み、凛とした立ち姿。やや長めの髪を後ろへ撫でつけた輪郭。目元に浮かぶのは、微かな疲労と、どこか人を寄せつけない冷ややかさ。

それでも、その眼差しがこちらを見たとき――薫の胸が音を立てて跳ねた。

「…」

言葉にならない何かが喉元までせり上がり、けれど声にはならなかった。

そして、礼司の表情がわずかに揺れる。

ほんの一瞬だった。眉がわずかに寄り、目が見開かれ、呼吸が止まったように見えた。だがすぐにその変化は、洗練された社交の仮面の下へと引っ込められた。

礼司はそのまま、何事もなかったかのように隣の人物に視線を向け、会釈を交わしていた。

けれど薫には、それだけで充分だった。

たしかにあの人は、自分を見た。

記憶の中ではなく、少年としてではなく、今この時の自分を。

そして、動揺した。

視線をそらした礼司の姿が、むしろ薫の胸に鮮明に残った。

気づかないふりをした瞬間こそ、人は真実に触れている。

薫はゆっくりとグラスを持ち替えた。手のひらに冷たい水滴が伝う。パリで慣れたはずの視線の重みとはまったく違うものが、今、そこにあった。

彼の視線を受けた場所が、熱を帯びて疼いているようにさえ感じた。

一方、礼司は人の輪の中に身を置きながら、意識を別の場所に引き戻されていた。

あれが、薫…?

あんなに変わるものなのか。

背筋が伸び、顔立ちが引き締まり、まるで硝子細工のように澄んだ光を放っていた。男としての線を持ちながら、なぜか視線を絡め取る柔らかさがある。

「ご主人」

声をかけられて、礼司は反射的に返事をした。

「ええ、はい」

だが心は、確かにさきほどの視線の中に引き寄せられていた。

薫が帰国するとは聞いていた。しかし、今日この夜会に現れるとは知らなかった。いや、知っていたとしても、この感覚は変わらなかっただろう。

礼司はグラスの中の琥珀色をじっと見つめた。アルコールの香りが鼻に刺さる。だが、それ以上に強く鼻腔をくすぐったのは、ふとした風に乗って届いた香油の気配だった。

薫が近くを通ったのだ。背後をすれ違う気配が、指先に、首筋に触れるようだった。

「…っ」

礼司は無意識に手の中のグラスを握りしめた。

抑えがたい何かが、身体の内側で軋みを上げていた。

何に反応しているのか、まだ自分でもわからなかった。ただ一つ、理屈ではなく確かに感じたのはーー

薫をもう、かつての“弟”として見ることはできない、ということだった。

それは、何よりもはっきりとした真実だった。

広間の奥、再び視線を戻すと、薫の姿はすでに別の人々に囲まれていた。

しかし、礼司の目にはその後ろ姿が、強く、まっすぐに焼きついていた。

あの肩の線、首筋、言葉も交わさぬまま去っていった気配ーー

再会は音もなく、けれど確かに、すべてを変えてしまった。

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