アトリエの夜は、昼間とはまったく違う顔を見せていた。
窓には障子が閉められ、外の冷気を遮るために分厚いカーテンまで引かれている。空気には絵具の甘い匂いと、灯心の油が溶け合い、奥底で微かに火が灯っている。夜の気配が、部屋のすみずみにまで染み渡っていた。
卓上に残るキャンバスは、今日の作業の名残をそのままさらしている。けれど今、そこに向かうべき筆はない。
静かな夜だった。時計の針の進む音すら聞こえないほど、すべてが沈黙に包まれている。
薫は部屋の片隅に立ち、指先でカーテンの裾を無意識に撫でていた。礼司は椅子に座ったまま、窓際に視線を投げていた。ふたりの間に会話はなかった。ただ、どちらからともなく呼吸をひそめ、静かな緊張が床の上を這うように広がっていく。
何かが始まる予感があった。けれど、それが何なのかは、まだ誰も知らなかった。
卓上に置かれたグラスの水面が、わずかに揺れる。薫の手が、なにげなくそれを持ち上げ、口をつける。水の冷たさが唇に触れ、体の奥にひんやりとした通路を作る。その感触さえも、どこか遠いもののように思えた。
礼司が動く。
椅子の背に身を預けると、わずかに軋みが響く。それだけで、薫の全身に稲妻のような緊張が走る。
ふたりは今日、ろくに言葉を交わしていなかった。
礼司は、絵を描かれるだけの存在ではないことを知っていた。薫が描きたいのは、彼の“生”そのもの。紙の上で再現しきれない、瞬間ごとに変わる気配や、肌の奥の熱――それを求めているのだ、と。
そのことに、薫自身が気づいてしまっている。
礼司は何も言わず、薫のほうを見た。
静かなまなざしだった。怒りも憎しみもない。ただ、どこか迷いと、決意の色が交じり合っている。
薫の指先が、小さく震えた。
熱が、手のひらの内側にじんわりと集まっていく。
この夜は、もういつもの夜ではなかった。アトリエの中の空気が、まるで水面のように、薫の全身を内側から濡らしていく。
「……」
礼司は唇を開いたが、言葉は落ちなかった。ただ、視
夜明け前のアトリエは、世界から切り離された静けさに満たされていた。行為の嵐が通り過ぎ、熱を分け合ったふたりは、仮眠用ベッドの上で寄り添っていた。シーツは大きく乱れ、肌には互いの汗と熱の名残がまとわりついている。遠くでは鳥の声もまだ聞こえず、灯火は細い芯だけを残して揺れていた。薫は、礼司の胸に顔を埋めていた。長い黒髪が広がり、礼司の指がその髪をゆっくりとなでていく。薫の額には細かな汗が残り、呼吸は浅く、けれど落ち着いていた。ふたりの間に会話はなかった。だが、言葉よりも密やかな気配が、肌と肌の隙間に滲んでいた。薫は小さく目を閉じ、まるでそこに夢の残り香を感じているかのようだった。まぶたの縁には涙の痕が残っている。それは痛みや悲しみの涙ではなかった。胸の奥から滲み出る、安堵と愛しさに満ちた透明なものだった。礼司は、薫の背に腕をまわしている。掌で背骨をなぞり、骨の小さな起伏や、肌の温度をたしかめるように優しく撫でる。そのたびに、薫の身体が微かに震え、呼吸が熱くなる。指先から伝わるすべてが、礼司の心の奥へ沁み込んでいった。静かな幸福が、ふたりの間にじわじわと広がっていく。礼司は、今まで感じたことのないほどの「安心」を覚えていた。自分の輪郭が、薫に抱かれていることによって、初めて穏やかにほどけていく。このまま、目を閉じて眠りたい。そう思ったのは、人生で初めてだった。他人の腕の中で眠ることを、こんなにも強く望む夜があることを、これまで知らなかった。薫の手が、礼司の胸元にそっと伸びる。その指は頼りなげで、けれど確かに礼司の存在を確かめていた。指が胸の骨をなぞり、脈を測るように、ゆっくりと胸に頬を寄せる。礼司は、その動きを拒まなかった。ただ、受け入れていた。薫は唇を開き、かすかな声を零す。「……夢みたいだ」礼司は、薫の額に唇を寄せる。汗の匂いと、どこか少年のような薫自身の香り。「……僕もだ」その言葉を言いながら、礼司は自分の声がふるえている
ベッドの上で、礼司の手は薫の肩をとらえ、ゆっくりと身体を倒した。ふたりの間に流れていた言葉はもうどこにもなかった。ただ、肌と肌の感触、呼吸の熱、汗に濡れた額と髪が絡みあう音。仮眠用ベッドは狭く、身動きひとつごとにシーツが乱れ、夜の闇の奥から高まる熱が空気のすべてを塗り替えていく。薫は、礼司の重みを全身で受け止めていた。彼の体温、手のひらの粗さ、胸にあたる息づかい。そのすべてが、痛いほど鮮やかに薫の内側に流れ込んでくる。礼司の手は薫の首筋から背中、腰へと、まるで何かを確かめるように、繰り返し撫でては止まり、抱きしめてはまた手を彷徨わせた。ふたりの脚が絡み、指が肩甲骨をなぞる。そのたびに薫の身体は震え、礼司はその揺らぎを掌に刻む。薫の吐息が礼司の耳元に落ち、髪が肌にまとわりつく。熱が皮膚の表面から、骨の奥へと染み入るようだった。薫は痛みも快楽も、そのすべてを受け入れる覚悟でいた。初めて触れられる部位。礼司の指先が無意識に力を込め、薫の体を探る。首筋、鎖骨、胸の上、脇腹、そして腰のくびれ。すべてが自分ひとりでは気づかなかった“輪郭”として現れる。その都度、薫はわずかに身を揺らし、時折声にならない呻きが漏れる。礼司も、そんな薫の反応を恐れもせず、ひたすらに求め続けた。「……薫」押しつけるような低い声が、薫の名を呼ぶ。薫は、息を詰めたまま礼司を見上げる。夜の灯りが遠くなり、ふたりの影が絡み合っていく。礼司は自分の衝動に呑まれながら、それでも薫のすべてを壊さぬよう、手加減を探していた。優しさと激しさが、行きつ戻りつする。薫の額に唇を落とし、耳元をなぞり、顎先に指を這わせる。薫の脚がふと礼司の腰に絡み、距離がさらに近づいた。どこまでが自分で、どこからが薫なのか、もうわからなかった。薫の身体は、痛みと快楽のはざまで震えていた。けれど、その震えは拒絶ではなかった。むしろ、礼司の“核心”を受け入れたいと願う震えだった。礼司の手が、薫の太ももから腰へと滑る。薫は無意識に腰を浮かせ、礼司を
仮眠用ベッドの上、灯火の輪郭がふたりの影を寄せ合っていた。薫は、仰向けのままゆっくりと瞼を下ろす。唇は微かに開き、首筋には汗がにじんでいる。胸元にはまだシャツが残っているが、布地の間から体温と呼吸がこぼれていく。礼司は、その閉じられた目元をじっと見つめていた。指先は薫の頬に触れたまま、肌の下に流れる微細な震えを感じとる。薫の顔が光に溶け、ほとんど夢のように曖昧になる。耳の奥に自分の鼓動が大きく響いているのを、礼司は痛いほど意識した。ほんの短い間、ふたりの間に再び沈黙が落ちる。だがその沈黙は、もう以前のような戸惑いや躊躇ではなかった。緊張の底に、何かが生まれようとしていた。薫が小さく息を吸い、目を閉じたまま、声にならない声を零す。その表情が「受け入れる」という意志で満たされていることを、礼司ははっきりと悟る。ためらいが、消えていく。礼司は薫の頬に唇を近づけ、そしてゆっくりと口づけた。最初の触れ合いはごく浅く、重なった唇から熱が流れ込む。薫の身体が小さく震える。その震えは、拒絶でも恐れでもない。まるで「解けていく」ような、そんな柔らかさだった。礼司は、もう一度薫に唇を重ねる。今度は少しだけ強く、そして長く。薫の唇がわずかに開き、呼吸が漏れる。夜の静けさのなかで、その音がはっきりと耳に届いた。唇を離すと、薫の瞼はまだ閉じられている。礼司はゆっくりと薫の髪を撫で、首筋に手をすべらせる。喉の下、鎖骨のくぼみ、胸元へと指先が動くたび、薫の体はわずかに反応する。肩のあたりでシャツの布地に指がかかり、礼司は、そっとその第一ボタンを外した。布のあいだから、薫の素肌が淡い灯りに浮かぶ。ふたりの吐息が、熱く絡み合う。薫の右手が、無意識のうちに礼司の背中へまわされる。シャツ越しに感じるその手のひらの熱が、礼司の身体の芯まで伝わる。「……礼司さん」薫は目を閉じたまま、小さく名前を呼ぶ。その声が、礼司の内側に、なにか新しい扉を開ける。礼司は薫の首筋に唇を這わせる。皮膚の上を唇が
礼司の指先は、まだ微かに震えていた。頬に添えた手は、熱いのにどこか頼りなく、皮膚をなぞるたびに自分の心臓がどこにあるのかも分からなくなる。薫の睫毛が、触れるか触れないかの距離で震え、閉じた瞼の上に礼司の親指が静かにすべった。夜の灯火がその指先に落ち、皮膚の凹凸にそって明るさと影が波紋のように広がる。礼司の目には、薫の顔が不思議な輪郭で映っていた。肌の下で微かに動く血脈や、頬のわずかな起伏。鼻梁からこめかみに抜ける薄い骨の線。今まで何度も見てきたはずの顔だったが、触れてみて初めて知る感触が、そこにはあった。指が滑るごとに、薫の呼吸がかすかに変わる。吸い込まれるように、礼司はその微細な反応に取り憑かれていた。薫の唇が、声にならない音をかすかに零す。その唇の端に親指をそっと触れたとき、薫の全身がほんの少しだけ身を委ねた。礼司は、吸い込まれるようにして薫の頬から首筋へと手を滑らせる。首の下、鎖骨の端に指がたどりつく。薫は逃げなかった。抵抗の気配はどこにもない。ただ、細く張りつめた緊張と、同時に抗いがたい安心が、礼司の掌の中で静かに溶けていく。「……痛くないか」礼司は息を呑みながら問いかける。「痛くないです」薫は低い声で、けれどしっかりと答えた。指先が礼司の手首にそっと重なる。その温度が、礼司の皮膚に伝わる。それだけで、全身がざわつく。礼司は、自分の体がどこからどこまで自分なのか分からなくなるような、奇妙な浮遊感を覚えていた。触れること――その恐れと悦びが、同じ強さで胸に入り混じる。薫の肌は、決して滑らかというだけでなく、熱や鼓動や、微かな震えまでもが伝わる生き物のようだった。手のひらを薫の肩へすべらせる。肩甲骨のあたりがかすかに盛り上がり、柔らかい襟の生地が礼司の指先に引っかかる。礼司はそのまま、ゆっくりと薫の背へと指をすべらせる。シャツ越しに感じる背骨の線は、まるで新しい地図をなぞるように、礼司に未知の道を教えてくれる。薫は、目を閉じて全てを受け入れていた。逃げるでもなく、縋るでもなく、ただ礼司に開かれている。その「開かれている」こと
窓の外では夜の気配が濃くなるばかりだった。障子の向こうで木々がざわめく音も遠く、アトリエの中だけがまるで別の時の流れに取り残されたような静けさに包まれている。卓上の灯りはひとつだけ。その灯心が描き出す明暗のなかで、薫の横顔が輪郭を曖昧にさせていた。ふたりはまだ距離を取っていた。けれど、その間にはもう会話の余白さえ残っていない。礼司の胸の奥に、奇妙な高まりがあった。理性の水面に浮かぶ小さな波――だが、その波はしだいに大きく、深くなっていく。薫は、俯いたまま唇を結んでいる。手は膝の上に重なり、かすかに指が動いていた。礼司はその仕草を、息を詰めて見つめていた。沈黙が積み重なる。灯りの下、薫の睫毛が長く影を落とす。その睫毛の先に礼司の視線がふれていた。そのとき、薫が、声を押し出すように名を呼んだ。「……礼司さん」たったそれだけの、静かな声だった。だが、その響きは夜の水面に落ちる石のように、礼司の奥底まで波紋を広げた。自分の名を呼ばれたのは、いったい何度目だろう。仕事でも、家庭でも、その名は日々無数の人間に呼ばれてきた。だが今、薫の唇からこぼれたそれは、どこか身体の奥深くに直に届くものだった。礼司は、気がつけば椅子から立ち上がっていた。言葉を探そうとする脳の動きを、身体が追い越していく。理由も確信もない。ただ、薫の顔に手を伸ばしていた。指が頬に触れた。最初に感じたのは、熱ではなく、わずかな震えだった。薫の肌は驚くほど滑らかで、そして細やかに震えている。「……」薫は顔を背けなかった。けれど、瞼をきつく閉じている。そのまぶたの上に礼司の親指がそっとふれ、睫毛が指の腹をくすぐる。触れること。それは、いとも簡単で、いとも恐ろしいことだった。薫の肩が小さく揺れる。息を呑む気配が、微かに聞こえた。礼司の内側に渦巻いていた抑制が、その一瞬、溶けていく。指が頬から、耳の裏、うなじへとゆっくり滑っていく
アトリエの夜は、昼間とはまったく違う顔を見せていた。窓には障子が閉められ、外の冷気を遮るために分厚いカーテンまで引かれている。空気には絵具の甘い匂いと、灯心の油が溶け合い、奥底で微かに火が灯っている。夜の気配が、部屋のすみずみにまで染み渡っていた。卓上に残るキャンバスは、今日の作業の名残をそのままさらしている。けれど今、そこに向かうべき筆はない。静かな夜だった。時計の針の進む音すら聞こえないほど、すべてが沈黙に包まれている。薫は部屋の片隅に立ち、指先でカーテンの裾を無意識に撫でていた。礼司は椅子に座ったまま、窓際に視線を投げていた。ふたりの間に会話はなかった。ただ、どちらからともなく呼吸をひそめ、静かな緊張が床の上を這うように広がっていく。何かが始まる予感があった。けれど、それが何なのかは、まだ誰も知らなかった。卓上に置かれたグラスの水面が、わずかに揺れる。薫の手が、なにげなくそれを持ち上げ、口をつける。水の冷たさが唇に触れ、体の奥にひんやりとした通路を作る。その感触さえも、どこか遠いもののように思えた。礼司が動く。椅子の背に身を預けると、わずかに軋みが響く。それだけで、薫の全身に稲妻のような緊張が走る。ふたりは今日、ろくに言葉を交わしていなかった。礼司は、絵を描かれるだけの存在ではないことを知っていた。薫が描きたいのは、彼の“生”そのもの。紙の上で再現しきれない、瞬間ごとに変わる気配や、肌の奥の熱――それを求めているのだ、と。そのことに、薫自身が気づいてしまっている。礼司は何も言わず、薫のほうを見た。静かなまなざしだった。怒りも憎しみもない。ただ、どこか迷いと、決意の色が交じり合っている。薫の指先が、小さく震えた。熱が、手のひらの内側にじんわりと集まっていく。この夜は、もういつもの夜ではなかった。アトリエの中の空気が、まるで水面のように、薫の全身を内側から濡らしていく。「……」礼司は唇を開いたが、言葉は落ちなかった。ただ、視