入学早々、医療戦士に選ばれました〜光のハンカチと3人の治療簿〜

入学早々、医療戦士に選ばれました〜光のハンカチと3人の治療簿〜

last updateZuletzt aktualisiert : 05.08.2026
Von:  東雲明Gerade aktualisiert
Sprache: Japanese
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Zusammenfassung

一人称

魔法

友情

医者

成長

時は20××年の近未来、魔法と現代科学が融合した世界で、原因不明の疫病が流行していた。主人公ハヤトは猛勉強の末、名門医大ルミエールアカデミー医療専門学校への入学許可証を手にする。立派な医者になるため、ルミエールアカデミーへ入学するが、入学早々、疫病に対抗できるたった一人の医療戦士として選ばれてしまう。ライバルのマルクスや親友のテオやエマなど、多種多様な生徒たちがハヤトを取り巻き、学園生活、友情、さまざまな試練を乗り越え、ハヤトは医療戦士として成長していく。

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Kapitel 1

第1話 ルミエールアカデミーをバカにするな!

 ルミナス市の中央駅を出た瞬間、俺は思わず足を止めた。

 朝の光を受けた硝子張りの建物が、空まで届きそうなほど高く連なっている。建物と建物のあいだには半透明の通路が渡され、その内側を淡い青白い光が絶えず流れていた。

 遠くから見れば、街の上空に何本もの光の川が浮かんでいるように見える。

 通りには、朝から多くの人が行き交っていた。仕事へ向かうらしい人、制服姿の学生、荷車に薬草の籠を積んだ商人。焼き立てのパンの香りと、薬草を煮出した飲み物の少し苦い匂いが混ざり合い、村の朝とはまるで違う空気を作っている。

 俺は胸の内ポケットに入れた封筒へ、そっと手を当てた。

 白い紙に、細い金色の縁取り。

 中央には、光を抱く獅子と薬草を組み合わせた紋章が刻まれている。

 今朝、俺が育った孤児院へ届いたばかりの合格通知だ。

 何度読んでも、書かれている文字は変わらない。

 ルミエールアカデミー医療専門学校への入学を認めます。

「……本当に、合格したんだよな」

 誰に聞かせるでもなく呟き、封筒の角を指先で押さえた。

 紙越しなのに、そこだけがまだ熱を持っているような気がする。

 入学試験を終えた日から、ずっと落ち着かなかった。

 答えを間違えたかもしれない問題が、いくつも頭に浮かんだ。あの設問は、もっと早く答えを出せたはずだ。最後まで迷った選択肢もある。試験官が答案を集めていく背中を見送ったあとで、急に正しい答えを思い出した気さえした。

 終わった試験のことを、いつまでも考えても仕方がない。

 分かっていた。

 分かっていても、古い問題集を引っ張り出し、もう答えの出ない問いを解き直してしまう夜があった。

 俺は、最初から何でもできる人間じゃない。

 一度で覚えられないなら十回書いた。十回で足りなければ、覚えるまで繰り返した。

 分厚い教本を前にして眠気に負けそうになった夜も、理解できない言葉ばかりが並ぶページを閉じたくなった日もある。それでも投げ出さなかった。

 医療の道へ進みたかったからだ。

 苦しそうにしている誰かのそばで、何もできずに立ち尽くすことが嫌だった。

 知識があれば。

 技術があれば。

 少しでも落ち着いて、正しいことを考えられるようになれば。

 自分にも、誰かを助けられる日が来るかもしれない。

 そんな願いだけを頼りに、ここまで来た。

「浮かれてる場合じゃないな」

 俺は小さく息を吐き、内ポケットから手を離した。

「まだ、入学を許されただけだ」

 医者になったわけじゃない。

 誰かを治せるようになったわけでもない。

 むしろ今の俺には、知識も経験も足りないことだらけだ。制服を着たところで、急に立派な人間になれるわけじゃない。

 それでも、何も始まっていなかった昨日までとは違う。

 今日から俺は、夢へ向かうための準備を始められる。

 合格通知には、入学までに制服と学用品をそろえるよう記されていた。

 指定店は中央通りの角にあるらしい。

 封筒の紋章へ指先を触れると、金色の光が細い線になって宙へ浮かんだ。線は人通りの多い通りへ向かい、迷わないように俺の進む先を示している。

「便利なもんだな」

 そう呟きながら歩き出したものの、すぐに人の多さへ圧倒された。

 村の市場なら、朝のうちに誰がどこで何を売っているのか全部分かる。けれどルミナス市では、目に映るものすべてが新しく、足を止めたくなる店ばかりだった。

 窓いっぱいに色とりどりの薬草を並べた店。

 光る文字を空中へ浮かべている書店。

 小さな治療具らしきものを扱う金属店。

 通りの脇には、白い花と青い葉を植えた花壇が続いていた。風が吹くたび、薬草らしい清涼な香りが街の空気へ混じる。

 少し先の広場では、大きな映像板が朝の報せを流していた。

 人の流れに押されながら横目で見たものの、文字はあまりにも早く切り替わっていく。俺には、青い光をまとった誰かの姿と、画面の端に映る赤い警告の印しか分からなかった。

 何かの事故か、それとも病に関する報せなのか。

 気にはなったが、立ち止まって見ている余裕はない。

 今日は、買うべきものがある。

 俺は歩調を早めた。

 通りを曲がった先で、白い尖塔が見えた。

 周囲の高い建物よりもさらに上へ伸びた塔は、朝日を受けて静かに光っている。その足元には深い緑の薬草園が広がり、いくつもの白い建物が整然と並んでいた。

 ルミエールアカデミー医療専門学校。

 遠くから眺めたことは何度もある。

 けれど、今日の校舎は今までとまるで違って見えた。

 もう、憧れるだけの場所じゃない。

 あそこが、俺の学び舎になる。

 そう思った瞬間、胸の奥にあった不安が、ほんの少しだけ別のものへ変わった。

 怖い。

 それでも、行きたい。

 知らないことだらけの場所へ、自分の足で入っていきたい。

 指定店は、学院の尖塔を正面に望む大通りの角に建っていた。

 大きな窓には、ルミエールアカデミーの制服が飾られている。

 灰色の上着。赤いインナーベスト。整った形のネクタイ。胸元には、獅子と薬草の紋章が金色に輝いていた。

 その隣には、女子用らしい赤いリボンと長めのチェック柄のスカートも飾られている。

 俺は店の前まで来て、また足を止めた。

 窓に映った自分の姿が目に入ったからだ。

 着古した上着。使い込んだ鞄。何度も縫い直した袖口。

 華やかな街の中では、自分だけが別の場所から紛れ込んできたように見えた。

 本当に俺が、あの制服を着るのか。

 合格通知を受け取ったあとだというのに、まだ現実味がない。

「入らないと、何も始まらないだろ」

 自分に言い聞かせるように呟き、扉を押した。

 鈴のような澄んだ音が鳴る。

 店内には、新しい布と革、それから紙の匂いが満ちていた。

 高い天井から吊るされた光球が、柔らかな明かりを落としている。壁には学年や寮ごとに分けられた制服が整然と並び、棚には筆記具、教本、実習用の上着、分厚い記録帳が置かれていた。

 どれも新品で、どれもまだ俺の手になじんでいない。

「いらっしゃいませ」

 奥の棚を整えていた店員が、こちらへ振り向いた。

 淡い青色のエプロンを着た、落ち着いた雰囲気の女性だ。俺の手にある封筒の紋章を見ると、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。

「ルミエールアカデミーにご入学の方でしょうか?」

「はい。ハヤト・キサラギです」

「ハヤト・キサラギ様。ご入学、おめでとうございます」

 その言葉を聞いた途端、胸の奥が熱くなった。

 合格通知を読んだときも嬉しかった。

 けれど、誰かの口から「おめでとうございます」と言われると、それまで曖昧だった出来事が急に現実になる。

「……ありがとうございます」

 声が少し低くなった。

 照れくさくて、まともに店員の顔を見られない。

「では、こちらの読み取り板へ合格通知をお願いいたします」

 言われたとおり、封筒を受付台の薄い板へ置く。

 すると紋章から金色の光が広がり、店の奥の壁へ細かな文字が浮かび上がった。

 制服一式。

 実習用の上着。

 筆記具。

 基礎医学の教本。

 薬草の形や性質を記録するための手帳。

 通学用の鞄。

 必要な品が、一つずつ表示されていく。

「……多いな」

 思わず本音が漏れた。

 全部持ち帰る自分の姿を想像する。両腕に箱を抱え、前も見えないまま公共車両へ乗ることになりそうだ。

 店員はくすりと笑った。

「ご安心ください。ご購入いただいた品は、こちらの圧縮箱へお入れします」

 彼女が受付台の下から取り出したのは、手のひらほどの小箱だった。

「この大きさに?」

「はい。家へ着いてから蓋を開ければ、元の大きさへ戻ります」

「だったら最初から、表示の横に書いておいてほしかったな」

 つい口に出してから、失礼だったかと思った。

 けれど店員は嫌な顔をせず、少し楽しそうに目を細めた。

「毎年、同じことをおっしゃる方がいらっしゃいます」

「俺だけじゃないのか」

「はい。皆さん、最初は驚かれます」

 その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。

 俺だけが、何も知らない田舎者みたいに戸惑っているわけじゃない。

 新しい場所へ来れば、誰だって最初は分からないことがある。

 そう考えると、急に気が楽になった。

「筆記具は、いくつか種類がございます」

 店員が棚から数本を取り出して、柔らかな布の上へ並べた。

「こちらは軽くて、長時間書いても手が疲れにくいものです。こちらは少し重みがありますが、細かな文字を書きやすくなっています」

 俺は一本ずつ手に取って、指先へなじむ感触を確かめた。

 試験勉強のときに使っていた鉛筆は、短くなるまで何本も使った。書き心地が悪いだけで、集中できない日があることも知っている。

「これにします」

 選んだのは、派手な装飾のない細身の筆記具だった。

「実習でも使いやすそうです」

「堅実なものを選ばれるのですね」

「高いものを持っていても、使いこなせなければ意味がないので」

 言ってから、自分でも少し生意気に聞こえた気がした。

 だが店員は、今度は真剣な顔で頷いた。

「とても大切な考え方だと思います」

 その一言が、なぜか心に残った。

 次に手に取ったのは、厚い薬草記録帳だった。

 表紙は深い紺色で、角には金色の補強が施されている。中を開けば、白い紙が何百枚も綴じられていた。

 そこへ、薬草の名前、形、匂い、作用、扱うときの注意を書き込んでいくのだろう。

 まだ何も書かれていない真っ白な紙を見ていると、少しだけ怖くなった。

 知らない言葉ばかりが並ぶ授業。

 周囲には、自分よりずっと賢く、ずっと経験のある生徒がいるかもしれない。

 授業についていけなかったらどうする。

 手帳のページを埋められなかったらどうする。

 そんな不安が、また頭をもたげる。

 俺はそっと表紙を閉じた。

「大丈夫だ」

 小さく呟く。

 不安だからといって、ここへ来た意味がなくなるわけじゃない。

 分からないなら学べばいい。

 書けないなら、書けるようになるまで続ければいい。

 それは、今までだって同じだった。

「では、制服をご試着ください」

 店員に案内され、俺は店の奥にある円形の台へ上がった。

 足元に描かれた魔法陣が、淡い光を放ち始める。

 細い光が靴先から肩までをゆっくりとなぞり、背丈や腕の長さ、肩幅を確かめるように何度か往復した。

 その様子を見ていると、少しだけくすぐったい。

 やがて壁に掛けられていた制服が、ひとりでに宙を滑ってきた。

「腕を通してみてください」

 灰色の上着を受け取り、そっと袖へ腕を入れる。

 布地が肩へ触れた瞬間、ほんのり温かくなった。

 少し長かった袖が指先に合わせて縮み、肩の位置が自然に整っていく。背中や腰回りも、最初から俺の身体の形を知っていたかのようにぴたりとなじんだ。

 赤いインナーベストを着る。

 最後に、赤いネクタイが胸元へ収まる。

 首元を整えられたとき、俺は思わず息を止めた。

「肩を回してみてください。腕を上げても、窮屈ではありませんか?」

 言われたとおり、ゆっくり肩を回す。

 腕を上げ、身体をひねる。

「……動きやすい」

「実習や治療の補助に入ることも考えて、動きやすく作られているんです」

 目の前の鏡に、全身が映し出された。

 そこにいるのは、見慣れた自分のはずだった。

 センターで分かれた茶色の髪。

 少し鋭く見える目。

 緊張すると、すぐ口数が減る癖。

 何も変わっていない。

 それなのに、鏡の中の俺は、今までとは少し違う人間に見えた。

 胸元には、金色の獅子と薬草の紋章がある。

 赤い糸で縁取られたその紋章は、俺が獅子寮へ所属することを示していた。

 おそるおそる触れてみる。

 指先に伝わる刺繍の硬さが、合格したという事実を、ようやく現実のものに変えてくれた。

「俺が、これを着るのか……」

 嬉しい。

 そう言えばいいだけなのに、照れくさくて、出た声は妙に低かった。

 店員が鏡越しに微笑む。

「とてもお似合いです」

「まだ、制服に着られてるだけです」

「そんなことはありません。しっかりなじんで――」

 そこで、店員の言葉が止まった。

 鏡越しに見た彼女の顔から、穏やかな笑みが消えている。

 驚いたように、俺の顔と、受付台に置かれた合格通知を見比べていた。

 合格通知の紋章は、もう役目を終えたはずだ。

 それなのに金色の獅子だけが、かすかに脈打つような光を宿している。

「どうかしましたか?」

 俺が尋ねると、店員ははっと息をのんだ。

 次の瞬間には、何事もなかったように笑顔を作っていた。

「いえ。その……失礼しました」

 けれど、視線だけはまだ俺の胸元に残っている。

 まるで、制服の紋章ではなく、その奥にある何かを見ているようだった。

「あの動画の……医療戦士の。あぁ、なんでもありません」

「医療戦士?」

 聞き慣れない言葉に、俺は眉をひそめた。

「普通の医者でいいのに」

 俺はただ、医療を学びたいだけだ。

 誰かの苦しみを少しでも減らせる人間になりたいだけだ。

 戦うだとか、そんな大げさな言葉を向けられる理由なんて、どこにもない。

 店員は一瞬だけ、悲しそうな顔をした。

 けれどすぐに視線を伏せ、丁寧に頭を下げる。

「申し訳ありません。今の言葉は、どうかお気になさらないでください」

「いや、気になるだろ」

 思わず言い返した、そのときだった。

「制服に着られているな」

 背後から、冷たい声が落ちた。

 さっきまで胸に残っていた不思議な感覚が、一瞬で引いていく。

 鏡越しに振り返ると、少し離れた場所に同じ年ごろの男が立っていた。

 隙なく整えられた黒髪。

 皺ひとつない黒い上着。

 上質な生地は店内の光を柔らかく反射し、右手の指には、家柄を見せつけるような銀色の指輪が光っている。

 口元には、相手を最初から自分より下だと決めつけている者特有の、冷たい笑みが浮かんでいた。

 見覚えがある。

 入学試験の会場で、何度か視線がぶつかった男だ。

 試験の結果が掲示されたとき、俺の名前が自分より上にあることを見て、露骨に表情を歪めていた。

 あの目を、忘れるはずがない。

「……マルクス・ヴェルナー」

 俺が名前を呼ぶと、男は満足そうに目を細めた。

「覚えていたか。光栄だな、ハヤト・キサラギ」

「なんだよ」

「なんだ、とは失礼だな。せっかく新しい制服を見に来てやったんだ。田舎者が身の丈に合わない服を着ていると、あまりにも目立つからな」

 マルクスはゆっくりと近づいてきた。

 値踏みするような視線が、俺の頭から足元までをなぞる。

「よく似合っているじゃないか。服だけはな」

「用がないなら、あっちへ行け」

「ずいぶん余裕だな。筆記試験で少し点を取った程度で、自分が選ばれた人間だとでも思っているのか?」

「そんなことは思ってない」

「どうだかな。結果を見たときは、随分と得意そうな顔をしていた」

「合格したら嬉しいだろ。普通は」

 マルクスの口元が、わずかに引きつった。

 俺が淡々と答えるほど、こいつの機嫌は悪くなっていく。

「お前の成績など、ただの偶然だ。試験問題との相性がよかっただけのことを、実力だと勘違いするな」

「偶然で取れる点なら、お前も取ればよかっただろ」

 マルクスの目から笑みが消えた。

 店内を流れていた穏やかな音楽が、不自然なほど遠く聞こえる。

「調子に乗るなよ」

「乗ってない。事実を言っただけだ」

「孤児院で古い教本を読んでいた程度のお前が、俺より高い点を取れるはずがない」

 低く押し殺した声から、隠し切れない苛立ちが滲んでいた。

 やはり、こいつが気にしているのは試験の成績だ。

 自分より下だと思っていた俺の名前が上にあった。

 それが許せないのだろう。

「何を読んで勉強しようが、正しい答えを書けば点は取れる」

「その生意気な口を、いつまで利いていられるだろうな」

 マルクスは俺の胸にある紋章へ目を向け、鼻で笑った。

「そもそも、ルミエールアカデミーに入ったところで何になる。あそこは、聞こえのいい理想ばかりを並べる偽善者の集まりだ」

「……何?」

「世界中の病人を救う。医療に身分は関係ない。知識と光の力で未来を変える。よくもまあ、あれほど恥ずかしい綺麗事を並べられるものだ」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。

 制服を着たときに感じた不安とは違う。

 腹の底から、熱いものが湧き上がってくる。

「お前、自分が何を言ってるか分かってるのか」

「当然だ」

 マルクスは俺の感情をわざと逆なでするように、口元を歪めた。

「治る見込みの薄い者へ時間を使い、何の見返りもない相手に手を差し伸べる。そんな行為に何の意味がある? 救う価値のある者を選び、確実な成果を出す方がよほど合理的だ」

「救う価値だと?」

「限られた薬も時間も、役に立つ者へ使うべきだと言っている。誰も彼も助けようとするから、結局は何も守れない。自分たちは正しい人間だと満足したいだけの連中を、偽善者と呼んで何が悪い」

 俺は拳を握った。

 爪が手のひらへ食い込む。

 ここで怒鳴れば、こいつの思うつぼだ。

 そう分かっているのに、聞き流すことはできなかった。

「最初から助からないと決めつけて、見捨てる方が正しいっていうのか」

「現実を理解していると言っているんだ」

「それは現実じゃない。ただ、自分が何もしたくない理由を並べてるだけだろ」

「田舎者が、俺に説教するつもりか?」

「説教じゃない。お前の言ってることが気に入らないだけだ」

 マルクスは冷たい視線を俺へ向けたまま、さらに一歩近づいた。

 そして、指先で制服の紋章を軽く弾いた。

「こんな紋章に、何の価値がある。あの学校も、そこに集まる連中も、俺から見れば――」

「ルミエールアカデミーをバカにするな!」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。

 店内の空気が震えたように感じた。

 気づいたときには、俺はマルクスの手首をつかんでいた。

 指先が白くなるほど強く握りしめている。

 マルクスは一瞬だけ目を見開いたものの、すぐに挑発するような笑みを浮かべた。

「なんだ、その目は。俺を殴るつもりか?」

「その口を閉じろ」

「図星を突かれて腹を立てただけだろう。お前だって分かっているはずだ。どれだけ学んでも、救えない命はある。理想だけで病気が消えるわけじゃない」

「だから学ぶんだろ!」

 胸に押し込めていた思いが、一気に言葉となってあふれた。

「何も知らないまま諦めるのが嫌だから、俺はあそこへ行く。今の俺にはできないことばかりだ。間違えるかもしれないし、手を伸ばしても届かないことだってあるかもしれない。それでも、助からないかもしれないって理由で、最初から何もしないよりはましだ!」

「綺麗事だな」

「綺麗事で何が悪い」

 マルクスの目を、まっすぐに見返す。

「知識が足りないなら学ぶ。判断を間違えたなら、どうして間違えたのか考える。今の俺が何もできないからこそ、できるようになるために学校へ行くんだ。何もする気がないお前に、あの学び舎を笑う資格はない」

 周囲の空気が一気に騒がしくなった。

 近くにいた客たちが距離を取り、あちこちで動揺した声が上がる。店員も、困ったようにこちらを見ていた。

 騒ぎが広がっている。

 頭へ上っていた血が、少しだけ引いた。

 俺は何をしている。

 このまま殴り合いになれば、店に迷惑をかける。入学前から問題を起こしたことがアカデミーへ伝われば、せっかく手にした合格を失うかもしれない。

 何より、感情のままに動いて周囲が見えなくなるようでは、医療を学ぶ以前の問題だ。

 患者を前にしたときも、思いどおりにならないことはあるだろう。

 焦ることも、怖くなることも、腹が立つこともあるかもしれない。そのたびに冷静さを失っていたら、正しい判断などできるはずがない。

 俺は奥歯を噛みしめ、マルクスの手首を放した。

「……もういい」

 マルクスはつかまれていた手首をさすり、薄く笑った。

「怖くなったか?」

「違う」

 乱れていたネクタイを直し、制服の上着を手で払う。

「ここでお前を殴っても、何も変わらない。それに、この制服を着たまま問題を起こしたくない」

「自分の立場を理解する程度の頭はあるらしいな」

「お前は最後まで一言多いんだよ」

「覚えておけ、ハヤト・キサラギ」

 マルクスの声には、最後まで相手を見下す響きがあった。

「努力すれば何にでもなれると思っている人間ほど、現実を知ったときの壊れ方は惨めだ。お前があの学校で、どこまで綺麗事を貫けるか見ものだな」

「俺がどうなるかは、お前が決めることじゃない」

「なら、せいぜい足掻け。偽善者の学び舎でな」

 マルクスは冷たい笑みを残し、その場から離れていった。

 店内のざわめきが少しずつ収まっていく。

 俺はしばらく、その場から動けなかった。

 身体の奥では、まだ怒りがくすぶっている。拳を開こうとしても、指がうまく動かなかった。

 深く息を吸う。

 新しい布と紙の匂い。薬草を使った香料の、わずかに甘い香り。店内を流れる穏やかな音楽。

 ひとつずつ確かめるように周囲へ目を向け、ようやく呼吸を整えた。

 試着台の鏡に映った顔は、ひどいものだった。

 眉間には深い皺が寄り、頬は赤くなっている。名門校の制服を着ているのに、少しも立派には見えない。

「何やってるんだ、俺は……」

 悔しさが込み上げた。

 マルクスに言われたことだけではない。

 挑発に乗り、周囲が見えなくなった自分が情けなかった。

 入学試験に合格しただけで、少しは前へ進めたつもりになっていた。けれど実際には、知識以外にも身につけなければならないものがいくつもある。

 制服を着れば、その瞬間から理想の医療者になれるわけではない。

 怖くても考える力。

 腹が立っても周囲を見る冷静さ。

 自分一人の感情より、守るべきものを優先する強さ。

 今の俺には、どれも足りていなかった。

 それでも、胸にある紋章を外したいとは思わない。

 俺は制服を脱ぎ、汚れや傷がついていないことを確かめた。上着の皺を手のひらで丁寧に伸ばし、赤いネクタイと一緒に箱へ収める。

 その様子を、さっきの店員が黙って見守っていた。

 箱の蓋を閉じたところで、彼女はそっと圧縮の術をかける。

 制服も教本も筆記具も、光に包まれながら手のひらほどの箱へ収まっていった。

「お騒がせして、すみませんでした」

 俺が頭を下げると、店員は少し驚いたように目を瞬かせた。

「お気になさらないでください。ですが、どうかお怪我はありませんか?」

「大丈夫です」

「そうですか」

 彼女はほっとしたように笑った。

 その表情を見て、さっきまでの怒りがさらに恥ずかしくなる。

「……あの、さっきの言葉」

 鞄へ圧縮箱をしまいながら、俺は尋ねた。

「医療戦士って、何なんですか」

 店員の指先が、わずかに止まった。

 答えを待った。

 けれど彼女は、すぐには口を開かなかった。

「今はまだ、知らないままでもいいのかもしれません」

「それ、答えになってませんよね」

「そうですね」

 困ったように微笑んだあと、彼女は受付台の上へ視線を落とした。

「ただ、キサラギ様。どんなことがあっても、今日おっしゃった言葉を忘れないでください」

「今日、俺が言った言葉?」

「はい。最初から何もしないよりはましだ、と」

 胸の奥が、わずかに揺れた。

 自分では、ただマルクスへ言い返しただけだと思っていた。

 けれど店員は、その言葉を大事なもののように受け取っている。

「忘れません」

 俺は短く答えた。

 それ以上、答えをもらうことはできなかった。

 店を出ると、ルミナス市の空は茜色に染まり始めていた。

 西へ傾いた日差しが硝子張りの建物へ反射し、街全体が巨大な光の結晶のように輝いている。半透明の通路を流れる光は朝よりも鮮やかになり、夕暮れの空へ細い帯を描いていた。

 大通りの先には、ルミエールアカデミーの白い尖塔が見える。

 夕日を受けた校舎は赤金色に染まり、朝に眺めたときよりも遠く、そして大きく感じられた。

 俺は鞄の上から、制服が入った箱へ触れた。

 合格通知を受け取っただけでは、まだ何者にもなれていない。

 あの制服にふさわしい人間になれるかどうかは、これからの俺次第だ。

 マルクスの言葉が、耳の奥に残っている。

 どれだけ学んでも、救えない命はある。

 理想だけで病気が消えるわけではない。

 そんなことは、俺だって分かっている。

 努力すれば、必ず望んだ結果を得られるとは限らない。必死に手を伸ばしても届かず、自分の無力さを突きつけられる日が来るのかもしれない。

 けれど、救えないかもしれないことと、救おうとしないことは違う。

 何も知らないまま諦めたくない。

 できないことを、できないままで終わらせたくない。

 俺は夕暮れの中に立つ学び舎を、まっすぐに見上げた。

「見てろよ」

 誰へ向けた言葉なのか、自分でも分かっていた。

 次にマルクスと会ったとき、胸を張って言い返せる自分でありたい。

 俺はここで学ぶ。

 知識を身につけ、何が正しいのかを自分の目で確かめる。

 そして、いつか誰かの手を取れる人間になる。

 胸の内ポケットで、合格通知の紋章がかすかに熱を持った。

 医療戦士。

 あの店員が口にした、聞き慣れない言葉が頭から離れない。

 医者を目指す俺に、どうしてそんな呼び名が向けられたのか。

 その答えを、まだこのときの俺は知らなかった。

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第1話 ルミエールアカデミーをバカにするな!
 ルミナス市の中央駅を出た瞬間、俺は思わず足を止めた。 朝の光を受けた硝子張りの建物が、空まで届きそうなほど高く連なっている。建物と建物のあいだには半透明の通路が渡され、その内側を淡い青白い光が絶えず流れていた。 遠くから見れば、街の上空に何本もの光の川が浮かんでいるように見える。 通りには、朝から多くの人が行き交っていた。仕事へ向かうらしい人、制服姿の学生、荷車に薬草の籠を積んだ商人。焼き立てのパンの香りと、薬草を煮出した飲み物の少し苦い匂いが混ざり合い、村の朝とはまるで違う空気を作っている。 俺は胸の内ポケットに入れた封筒へ、そっと手を当てた。 白い紙に、細い金色の縁取り。 中央には、光を抱く獅子と薬草を組み合わせた紋章が刻まれている。 今朝、俺が育った孤児院へ届いたばかりの合格通知だ。 何度読んでも、書かれている文字は変わらない。 ルミエールアカデミー医療専門学校への入学を認めます。「……本当に、合格したんだよな」 誰に聞かせるでもなく呟き、封筒の角を指先で押さえた。 紙越しなのに、そこだけがまだ熱を持っているような気がする。 入学試験を終えた日から、ずっと落ち着かなかった。 答えを間違えたかもしれない問題が、いくつも頭に浮かんだ。あの設問は、もっと早く答えを出せたはずだ。最後まで迷った選択肢もある。試験官が答案を集めていく背中を見送ったあとで、急に正しい答えを思い出した気さえした。 終わった試験のことを、いつまでも考えても仕方がない。 分かっていた。 分かっていても、古い問題集を引っ張り出し、もう答えの出ない問いを解き直してしまう夜があった。 俺は、最初から何でもできる人間じゃない。 一度で覚えられないなら十回書いた。十回で足りなければ、覚えるまで繰り返した。 分厚い教本を前にして眠気に負けそうになった夜も、理解できない言葉ばかりが並ぶページを閉じたくなった日もある。それでも投げ出さなかった。 医療の道へ進みたかったからだ。 苦しそうにしている誰かのそばで、何もできずに立ち尽くすことが嫌だった。 知識があれば。 技術があれば。 少しでも落ち着いて、正しいことを考えられるようになれば。 自分にも、誰かを助けられる日が来るかもしれない。 そんな願いだけを頼りに、ここまで来た。「浮かれてる場合じゃないな」
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