ANMELDEN時は20××年の近未来、魔法と現代科学が融合した世界で、原因不明の疫病が流行していた。主人公ハヤトは猛勉強の末、名門医大ルミエールアカデミー医療専門学校への入学許可証を手にする。立派な医者になるため、ルミエールアカデミーへ入学するが、入学早々、疫病に対抗できるたった一人の医療戦士として選ばれてしまう。ライバルのマルクスや親友のテオやエマなど、多種多様な生徒たちがハヤトを取り巻き、学園生活、友情、さまざまな試練を乗り越え、ハヤトは医療戦士として成長していく。
Mehr anzeigenルミナス市の中央駅を出た瞬間、俺は思わず足を止めた。
朝の光を受けた硝子張りの建物が、空まで届きそうなほど高く連なっている。建物と建物のあいだには半透明の通路が渡され、その内側を淡い青白い光が絶えず流れていた。
遠くから見れば、街の上空に何本もの光の川が浮かんでいるように見える。
通りには、朝から多くの人が行き交っていた。仕事へ向かうらしい人、制服姿の学生、荷車に薬草の籠を積んだ商人。焼き立てのパンの香りと、薬草を煮出した飲み物の少し苦い匂いが混ざり合い、村の朝とはまるで違う空気を作っている。
俺は胸の内ポケットに入れた封筒へ、そっと手を当てた。
白い紙に、細い金色の縁取り。
中央には、光を抱く獅子と薬草を組み合わせた紋章が刻まれている。
今朝、俺が育った孤児院へ届いたばかりの合格通知だ。
何度読んでも、書かれている文字は変わらない。
ルミエールアカデミー医療専門学校への入学を認めます。
「……本当に、合格したんだよな」
誰に聞かせるでもなく呟き、封筒の角を指先で押さえた。
紙越しなのに、そこだけがまだ熱を持っているような気がする。
入学試験を終えた日から、ずっと落ち着かなかった。
答えを間違えたかもしれない問題が、いくつも頭に浮かんだ。あの設問は、もっと早く答えを出せたはずだ。最後まで迷った選択肢もある。試験官が答案を集めていく背中を見送ったあとで、急に正しい答えを思い出した気さえした。
終わった試験のことを、いつまでも考えても仕方がない。
分かっていた。
分かっていても、古い問題集を引っ張り出し、もう答えの出ない問いを解き直してしまう夜があった。
俺は、最初から何でもできる人間じゃない。
一度で覚えられないなら十回書いた。十回で足りなければ、覚えるまで繰り返した。
分厚い教本を前にして眠気に負けそうになった夜も、理解できない言葉ばかりが並ぶページを閉じたくなった日もある。それでも投げ出さなかった。
医療の道へ進みたかったからだ。
苦しそうにしている誰かのそばで、何もできずに立ち尽くすことが嫌だった。
知識があれば。
技術があれば。
少しでも落ち着いて、正しいことを考えられるようになれば。
自分にも、誰かを助けられる日が来るかもしれない。
そんな願いだけを頼りに、ここまで来た。
「浮かれてる場合じゃないな」
俺は小さく息を吐き、内ポケットから手を離した。
「まだ、入学を許されただけだ」
医者になったわけじゃない。
誰かを治せるようになったわけでもない。
むしろ今の俺には、知識も経験も足りないことだらけだ。制服を着たところで、急に立派な人間になれるわけじゃない。
それでも、何も始まっていなかった昨日までとは違う。
今日から俺は、夢へ向かうための準備を始められる。
合格通知には、入学までに制服と学用品をそろえるよう記されていた。
指定店は中央通りの角にあるらしい。
封筒の紋章へ指先を触れると、金色の光が細い線になって宙へ浮かんだ。線は人通りの多い通りへ向かい、迷わないように俺の進む先を示している。
「便利なもんだな」
そう呟きながら歩き出したものの、すぐに人の多さへ圧倒された。
村の市場なら、朝のうちに誰がどこで何を売っているのか全部分かる。けれどルミナス市では、目に映るものすべてが新しく、足を止めたくなる店ばかりだった。
窓いっぱいに色とりどりの薬草を並べた店。
光る文字を空中へ浮かべている書店。
小さな治療具らしきものを扱う金属店。
通りの脇には、白い花と青い葉を植えた花壇が続いていた。風が吹くたび、薬草らしい清涼な香りが街の空気へ混じる。
少し先の広場では、大きな映像板が朝の報せを流していた。
人の流れに押されながら横目で見たものの、文字はあまりにも早く切り替わっていく。俺には、青い光をまとった誰かの姿と、画面の端に映る赤い警告の印しか分からなかった。
何かの事故か、それとも病に関する報せなのか。
気にはなったが、立ち止まって見ている余裕はない。
今日は、買うべきものがある。
俺は歩調を早めた。
通りを曲がった先で、白い尖塔が見えた。
周囲の高い建物よりもさらに上へ伸びた塔は、朝日を受けて静かに光っている。その足元には深い緑の薬草園が広がり、いくつもの白い建物が整然と並んでいた。
ルミエールアカデミー医療専門学校。
遠くから眺めたことは何度もある。
けれど、今日の校舎は今までとまるで違って見えた。
もう、憧れるだけの場所じゃない。
あそこが、俺の学び舎になる。
そう思った瞬間、胸の奥にあった不安が、ほんの少しだけ別のものへ変わった。
怖い。
それでも、行きたい。
知らないことだらけの場所へ、自分の足で入っていきたい。
指定店は、学院の尖塔を正面に望む大通りの角に建っていた。
大きな窓には、ルミエールアカデミーの制服が飾られている。
灰色の上着。赤いインナーベスト。整った形のネクタイ。胸元には、獅子と薬草の紋章が金色に輝いていた。
その隣には、女子用らしい赤いリボンと長めのチェック柄のスカートも飾られている。
俺は店の前まで来て、また足を止めた。
窓に映った自分の姿が目に入ったからだ。
着古した上着。使い込んだ鞄。何度も縫い直した袖口。
華やかな街の中では、自分だけが別の場所から紛れ込んできたように見えた。
本当に俺が、あの制服を着るのか。
合格通知を受け取ったあとだというのに、まだ現実味がない。
「入らないと、何も始まらないだろ」
自分に言い聞かせるように呟き、扉を押した。
鈴のような澄んだ音が鳴る。
店内には、新しい布と革、それから紙の匂いが満ちていた。
高い天井から吊るされた光球が、柔らかな明かりを落としている。壁には学年や寮ごとに分けられた制服が整然と並び、棚には筆記具、教本、実習用の上着、分厚い記録帳が置かれていた。
どれも新品で、どれもまだ俺の手になじんでいない。
「いらっしゃいませ」
奥の棚を整えていた店員が、こちらへ振り向いた。
淡い青色のエプロンを着た、落ち着いた雰囲気の女性だ。俺の手にある封筒の紋章を見ると、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「ルミエールアカデミーにご入学の方でしょうか?」
「はい。ハヤト・キサラギです」
「ハヤト・キサラギ様。ご入学、おめでとうございます」
その言葉を聞いた途端、胸の奥が熱くなった。
合格通知を読んだときも嬉しかった。
けれど、誰かの口から「おめでとうございます」と言われると、それまで曖昧だった出来事が急に現実になる。
「……ありがとうございます」
声が少し低くなった。
照れくさくて、まともに店員の顔を見られない。
「では、こちらの読み取り板へ合格通知をお願いいたします」
言われたとおり、封筒を受付台の薄い板へ置く。
すると紋章から金色の光が広がり、店の奥の壁へ細かな文字が浮かび上がった。
制服一式。
実習用の上着。
筆記具。
基礎医学の教本。
薬草の形や性質を記録するための手帳。
通学用の鞄。
必要な品が、一つずつ表示されていく。
「……多いな」
思わず本音が漏れた。
全部持ち帰る自分の姿を想像する。両腕に箱を抱え、前も見えないまま公共車両へ乗ることになりそうだ。
店員はくすりと笑った。
「ご安心ください。ご購入いただいた品は、こちらの圧縮箱へお入れします」
彼女が受付台の下から取り出したのは、手のひらほどの小箱だった。
「この大きさに?」
「はい。家へ着いてから蓋を開ければ、元の大きさへ戻ります」
「だったら最初から、表示の横に書いておいてほしかったな」
つい口に出してから、失礼だったかと思った。
けれど店員は嫌な顔をせず、少し楽しそうに目を細めた。
「毎年、同じことをおっしゃる方がいらっしゃいます」
「俺だけじゃないのか」
「はい。皆さん、最初は驚かれます」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
俺だけが、何も知らない田舎者みたいに戸惑っているわけじゃない。
新しい場所へ来れば、誰だって最初は分からないことがある。
そう考えると、急に気が楽になった。
「筆記具は、いくつか種類がございます」
店員が棚から数本を取り出して、柔らかな布の上へ並べた。
「こちらは軽くて、長時間書いても手が疲れにくいものです。こちらは少し重みがありますが、細かな文字を書きやすくなっています」
俺は一本ずつ手に取って、指先へなじむ感触を確かめた。
試験勉強のときに使っていた鉛筆は、短くなるまで何本も使った。書き心地が悪いだけで、集中できない日があることも知っている。
「これにします」
選んだのは、派手な装飾のない細身の筆記具だった。
「実習でも使いやすそうです」
「堅実なものを選ばれるのですね」
「高いものを持っていても、使いこなせなければ意味がないので」
言ってから、自分でも少し生意気に聞こえた気がした。
だが店員は、今度は真剣な顔で頷いた。
「とても大切な考え方だと思います」
その一言が、なぜか心に残った。
次に手に取ったのは、厚い薬草記録帳だった。
表紙は深い紺色で、角には金色の補強が施されている。中を開けば、白い紙が何百枚も綴じられていた。
そこへ、薬草の名前、形、匂い、作用、扱うときの注意を書き込んでいくのだろう。
まだ何も書かれていない真っ白な紙を見ていると、少しだけ怖くなった。
知らない言葉ばかりが並ぶ授業。
周囲には、自分よりずっと賢く、ずっと経験のある生徒がいるかもしれない。
授業についていけなかったらどうする。
手帳のページを埋められなかったらどうする。
そんな不安が、また頭をもたげる。
俺はそっと表紙を閉じた。
「大丈夫だ」
小さく呟く。
不安だからといって、ここへ来た意味がなくなるわけじゃない。
分からないなら学べばいい。
書けないなら、書けるようになるまで続ければいい。
それは、今までだって同じだった。
「では、制服をご試着ください」
店員に案内され、俺は店の奥にある円形の台へ上がった。
足元に描かれた魔法陣が、淡い光を放ち始める。
細い光が靴先から肩までをゆっくりとなぞり、背丈や腕の長さ、肩幅を確かめるように何度か往復した。
その様子を見ていると、少しだけくすぐったい。
やがて壁に掛けられていた制服が、ひとりでに宙を滑ってきた。
「腕を通してみてください」
灰色の上着を受け取り、そっと袖へ腕を入れる。
布地が肩へ触れた瞬間、ほんのり温かくなった。
少し長かった袖が指先に合わせて縮み、肩の位置が自然に整っていく。背中や腰回りも、最初から俺の身体の形を知っていたかのようにぴたりとなじんだ。
赤いインナーベストを着る。
最後に、赤いネクタイが胸元へ収まる。
首元を整えられたとき、俺は思わず息を止めた。
「肩を回してみてください。腕を上げても、窮屈ではありませんか?」
言われたとおり、ゆっくり肩を回す。
腕を上げ、身体をひねる。
「……動きやすい」
「実習や治療の補助に入ることも考えて、動きやすく作られているんです」
目の前の鏡に、全身が映し出された。
そこにいるのは、見慣れた自分のはずだった。
センターで分かれた茶色の髪。
少し鋭く見える目。
緊張すると、すぐ口数が減る癖。
何も変わっていない。
それなのに、鏡の中の俺は、今までとは少し違う人間に見えた。
胸元には、金色の獅子と薬草の紋章がある。
赤い糸で縁取られたその紋章は、俺が獅子寮へ所属することを示していた。
おそるおそる触れてみる。
指先に伝わる刺繍の硬さが、合格したという事実を、ようやく現実のものに変えてくれた。
「俺が、これを着るのか……」
嬉しい。
そう言えばいいだけなのに、照れくさくて、出た声は妙に低かった。
店員が鏡越しに微笑む。
「とてもお似合いです」
「まだ、制服に着られてるだけです」
「そんなことはありません。しっかりなじんで――」
そこで、店員の言葉が止まった。
鏡越しに見た彼女の顔から、穏やかな笑みが消えている。
驚いたように、俺の顔と、受付台に置かれた合格通知を見比べていた。
合格通知の紋章は、もう役目を終えたはずだ。
それなのに金色の獅子だけが、かすかに脈打つような光を宿している。
「どうかしましたか?」
俺が尋ねると、店員ははっと息をのんだ。
次の瞬間には、何事もなかったように笑顔を作っていた。
「いえ。その……失礼しました」
けれど、視線だけはまだ俺の胸元に残っている。
まるで、制服の紋章ではなく、その奥にある何かを見ているようだった。
「あの動画の……医療戦士の。あぁ、なんでもありません」
「医療戦士?」
聞き慣れない言葉に、俺は眉をひそめた。
「普通の医者でいいのに」
俺はただ、医療を学びたいだけだ。
誰かの苦しみを少しでも減らせる人間になりたいだけだ。
戦うだとか、そんな大げさな言葉を向けられる理由なんて、どこにもない。
店員は一瞬だけ、悲しそうな顔をした。
けれどすぐに視線を伏せ、丁寧に頭を下げる。
「申し訳ありません。今の言葉は、どうかお気になさらないでください」
「いや、気になるだろ」
思わず言い返した、そのときだった。
「制服に着られているな」
背後から、冷たい声が落ちた。
さっきまで胸に残っていた不思議な感覚が、一瞬で引いていく。
鏡越しに振り返ると、少し離れた場所に同じ年ごろの男が立っていた。
隙なく整えられた黒髪。
皺ひとつない黒い上着。
上質な生地は店内の光を柔らかく反射し、右手の指には、家柄を見せつけるような銀色の指輪が光っている。
口元には、相手を最初から自分より下だと決めつけている者特有の、冷たい笑みが浮かんでいた。
見覚えがある。
入学試験の会場で、何度か視線がぶつかった男だ。
試験の結果が掲示されたとき、俺の名前が自分より上にあることを見て、露骨に表情を歪めていた。
あの目を、忘れるはずがない。
「……マルクス・ヴェルナー」
俺が名前を呼ぶと、男は満足そうに目を細めた。
「覚えていたか。光栄だな、ハヤト・キサラギ」
「なんだよ」
「なんだ、とは失礼だな。せっかく新しい制服を見に来てやったんだ。田舎者が身の丈に合わない服を着ていると、あまりにも目立つからな」
マルクスはゆっくりと近づいてきた。
値踏みするような視線が、俺の頭から足元までをなぞる。
「よく似合っているじゃないか。服だけはな」
「用がないなら、あっちへ行け」
「ずいぶん余裕だな。筆記試験で少し点を取った程度で、自分が選ばれた人間だとでも思っているのか?」
「そんなことは思ってない」
「どうだかな。結果を見たときは、随分と得意そうな顔をしていた」
「合格したら嬉しいだろ。普通は」
マルクスの口元が、わずかに引きつった。
俺が淡々と答えるほど、こいつの機嫌は悪くなっていく。
「お前の成績など、ただの偶然だ。試験問題との相性がよかっただけのことを、実力だと勘違いするな」
「偶然で取れる点なら、お前も取ればよかっただろ」
マルクスの目から笑みが消えた。
店内を流れていた穏やかな音楽が、不自然なほど遠く聞こえる。
「調子に乗るなよ」
「乗ってない。事実を言っただけだ」
「孤児院で古い教本を読んでいた程度のお前が、俺より高い点を取れるはずがない」
低く押し殺した声から、隠し切れない苛立ちが滲んでいた。
やはり、こいつが気にしているのは試験の成績だ。
自分より下だと思っていた俺の名前が上にあった。
それが許せないのだろう。
「何を読んで勉強しようが、正しい答えを書けば点は取れる」
「その生意気な口を、いつまで利いていられるだろうな」
マルクスは俺の胸にある紋章へ目を向け、鼻で笑った。
「そもそも、ルミエールアカデミーに入ったところで何になる。あそこは、聞こえのいい理想ばかりを並べる偽善者の集まりだ」
「……何?」
「世界中の病人を救う。医療に身分は関係ない。知識と光の力で未来を変える。よくもまあ、あれほど恥ずかしい綺麗事を並べられるものだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
制服を着たときに感じた不安とは違う。
腹の底から、熱いものが湧き上がってくる。
「お前、自分が何を言ってるか分かってるのか」
「当然だ」
マルクスは俺の感情をわざと逆なでするように、口元を歪めた。
「治る見込みの薄い者へ時間を使い、何の見返りもない相手に手を差し伸べる。そんな行為に何の意味がある? 救う価値のある者を選び、確実な成果を出す方がよほど合理的だ」
「救う価値だと?」
「限られた薬も時間も、役に立つ者へ使うべきだと言っている。誰も彼も助けようとするから、結局は何も守れない。自分たちは正しい人間だと満足したいだけの連中を、偽善者と呼んで何が悪い」
俺は拳を握った。
爪が手のひらへ食い込む。
ここで怒鳴れば、こいつの思うつぼだ。
そう分かっているのに、聞き流すことはできなかった。
「最初から助からないと決めつけて、見捨てる方が正しいっていうのか」
「現実を理解していると言っているんだ」
「それは現実じゃない。ただ、自分が何もしたくない理由を並べてるだけだろ」
「田舎者が、俺に説教するつもりか?」
「説教じゃない。お前の言ってることが気に入らないだけだ」
マルクスは冷たい視線を俺へ向けたまま、さらに一歩近づいた。
そして、指先で制服の紋章を軽く弾いた。
「こんな紋章に、何の価値がある。あの学校も、そこに集まる連中も、俺から見れば――」
「ルミエールアカデミーをバカにするな!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
店内の空気が震えたように感じた。
気づいたときには、俺はマルクスの手首をつかんでいた。
指先が白くなるほど強く握りしめている。
マルクスは一瞬だけ目を見開いたものの、すぐに挑発するような笑みを浮かべた。
「なんだ、その目は。俺を殴るつもりか?」
「その口を閉じろ」
「図星を突かれて腹を立てただけだろう。お前だって分かっているはずだ。どれだけ学んでも、救えない命はある。理想だけで病気が消えるわけじゃない」
「だから学ぶんだろ!」
胸に押し込めていた思いが、一気に言葉となってあふれた。
「何も知らないまま諦めるのが嫌だから、俺はあそこへ行く。今の俺にはできないことばかりだ。間違えるかもしれないし、手を伸ばしても届かないことだってあるかもしれない。それでも、助からないかもしれないって理由で、最初から何もしないよりはましだ!」
「綺麗事だな」
「綺麗事で何が悪い」
マルクスの目を、まっすぐに見返す。
「知識が足りないなら学ぶ。判断を間違えたなら、どうして間違えたのか考える。今の俺が何もできないからこそ、できるようになるために学校へ行くんだ。何もする気がないお前に、あの学び舎を笑う資格はない」
周囲の空気が一気に騒がしくなった。
近くにいた客たちが距離を取り、あちこちで動揺した声が上がる。店員も、困ったようにこちらを見ていた。
騒ぎが広がっている。
頭へ上っていた血が、少しだけ引いた。
俺は何をしている。
このまま殴り合いになれば、店に迷惑をかける。入学前から問題を起こしたことがアカデミーへ伝われば、せっかく手にした合格を失うかもしれない。
何より、感情のままに動いて周囲が見えなくなるようでは、医療を学ぶ以前の問題だ。
患者を前にしたときも、思いどおりにならないことはあるだろう。
焦ることも、怖くなることも、腹が立つこともあるかもしれない。そのたびに冷静さを失っていたら、正しい判断などできるはずがない。
俺は奥歯を噛みしめ、マルクスの手首を放した。
「……もういい」
マルクスはつかまれていた手首をさすり、薄く笑った。
「怖くなったか?」
「違う」
乱れていたネクタイを直し、制服の上着を手で払う。
「ここでお前を殴っても、何も変わらない。それに、この制服を着たまま問題を起こしたくない」
「自分の立場を理解する程度の頭はあるらしいな」
「お前は最後まで一言多いんだよ」
「覚えておけ、ハヤト・キサラギ」
マルクスの声には、最後まで相手を見下す響きがあった。
「努力すれば何にでもなれると思っている人間ほど、現実を知ったときの壊れ方は惨めだ。お前があの学校で、どこまで綺麗事を貫けるか見ものだな」
「俺がどうなるかは、お前が決めることじゃない」
「なら、せいぜい足掻け。偽善者の学び舎でな」
マルクスは冷たい笑みを残し、その場から離れていった。
店内のざわめきが少しずつ収まっていく。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
身体の奥では、まだ怒りがくすぶっている。拳を開こうとしても、指がうまく動かなかった。
深く息を吸う。
新しい布と紙の匂い。薬草を使った香料の、わずかに甘い香り。店内を流れる穏やかな音楽。
ひとつずつ確かめるように周囲へ目を向け、ようやく呼吸を整えた。
試着台の鏡に映った顔は、ひどいものだった。
眉間には深い皺が寄り、頬は赤くなっている。名門校の制服を着ているのに、少しも立派には見えない。
「何やってるんだ、俺は……」
悔しさが込み上げた。
マルクスに言われたことだけではない。
挑発に乗り、周囲が見えなくなった自分が情けなかった。
入学試験に合格しただけで、少しは前へ進めたつもりになっていた。けれど実際には、知識以外にも身につけなければならないものがいくつもある。
制服を着れば、その瞬間から理想の医療者になれるわけではない。
怖くても考える力。
腹が立っても周囲を見る冷静さ。
自分一人の感情より、守るべきものを優先する強さ。
今の俺には、どれも足りていなかった。
それでも、胸にある紋章を外したいとは思わない。
俺は制服を脱ぎ、汚れや傷がついていないことを確かめた。上着の皺を手のひらで丁寧に伸ばし、赤いネクタイと一緒に箱へ収める。
その様子を、さっきの店員が黙って見守っていた。
箱の蓋を閉じたところで、彼女はそっと圧縮の術をかける。
制服も教本も筆記具も、光に包まれながら手のひらほどの箱へ収まっていった。
「お騒がせして、すみませんでした」
俺が頭を下げると、店員は少し驚いたように目を瞬かせた。
「お気になさらないでください。ですが、どうかお怪我はありませんか?」
「大丈夫です」
「そうですか」
彼女はほっとしたように笑った。
その表情を見て、さっきまでの怒りがさらに恥ずかしくなる。
「……あの、さっきの言葉」
鞄へ圧縮箱をしまいながら、俺は尋ねた。
「医療戦士って、何なんですか」
店員の指先が、わずかに止まった。
答えを待った。
けれど彼女は、すぐには口を開かなかった。
「今はまだ、知らないままでもいいのかもしれません」
「それ、答えになってませんよね」
「そうですね」
困ったように微笑んだあと、彼女は受付台の上へ視線を落とした。
「ただ、キサラギ様。どんなことがあっても、今日おっしゃった言葉を忘れないでください」
「今日、俺が言った言葉?」
「はい。最初から何もしないよりはましだ、と」
胸の奥が、わずかに揺れた。
自分では、ただマルクスへ言い返しただけだと思っていた。
けれど店員は、その言葉を大事なもののように受け取っている。
「忘れません」
俺は短く答えた。
それ以上、答えをもらうことはできなかった。
店を出ると、ルミナス市の空は茜色に染まり始めていた。
西へ傾いた日差しが硝子張りの建物へ反射し、街全体が巨大な光の結晶のように輝いている。半透明の通路を流れる光は朝よりも鮮やかになり、夕暮れの空へ細い帯を描いていた。
大通りの先には、ルミエールアカデミーの白い尖塔が見える。
夕日を受けた校舎は赤金色に染まり、朝に眺めたときよりも遠く、そして大きく感じられた。
俺は鞄の上から、制服が入った箱へ触れた。
合格通知を受け取っただけでは、まだ何者にもなれていない。
あの制服にふさわしい人間になれるかどうかは、これからの俺次第だ。
マルクスの言葉が、耳の奥に残っている。
どれだけ学んでも、救えない命はある。
理想だけで病気が消えるわけではない。
そんなことは、俺だって分かっている。
努力すれば、必ず望んだ結果を得られるとは限らない。必死に手を伸ばしても届かず、自分の無力さを突きつけられる日が来るのかもしれない。
けれど、救えないかもしれないことと、救おうとしないことは違う。
何も知らないまま諦めたくない。
できないことを、できないままで終わらせたくない。
俺は夕暮れの中に立つ学び舎を、まっすぐに見上げた。
「見てろよ」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分かっていた。
次にマルクスと会ったとき、胸を張って言い返せる自分でありたい。
俺はここで学ぶ。
知識を身につけ、何が正しいのかを自分の目で確かめる。
そして、いつか誰かの手を取れる人間になる。
胸の内ポケットで、合格通知の紋章がかすかに熱を持った。
医療戦士。
あの店員が口にした、聞き慣れない言葉が頭から離れない。
医者を目指す俺に、どうしてそんな呼び名が向けられたのか。
その答えを、まだこのときの俺は知らなかった。