LOGIN時は20××年の近未来、魔法と現代科学が融合した世界で、原因不明の疫病が流行していた。主人公ハヤトは猛勉強の末、名門医大ルミエールアカデミー医療専門学校への入学許可証を手にする。立派な医者になるため、ルミエールアカデミーへ入学するが、入学早々、疫病に対抗できるたった一人の医療戦士として選ばれてしまう。ライバルのマルクスや親友のテオやエマなど、多種多様な生徒たちがハヤトを取り巻き、学園生活、友情、さまざまな試練を乗り越え、ハヤトは医療戦士として成長していく。
View Moreルミナス市の中央駅を出た瞬間、俺は思わず足を止めた。
朝の光を受けた硝子張りの建物が、空まで届きそうなほど高く連なっている。建物と建物のあいだには半透明の通路が渡され、その内側を淡い青白い光が絶えず流れていた。
遠くから見れば、街の上空に何本もの光の川が浮かんでいるように見える。
通りには、朝から多くの人が行き交っていた。仕事へ向かうらしい人、制服姿の学生、荷車に薬草の籠を積んだ商人。焼き立てのパンの香りと、薬草を煮出した飲み物の少し苦い匂いが混ざり合い、村の朝とはまるで違う空気を作っている。
俺は胸の内ポケットに入れた封筒へ、そっと手を当てた。
白い紙に、細い金色の縁取り。
中央には、光を抱く獅子と薬草を組み合わせた紋章が刻まれている。
今朝、俺が育った孤児院へ届いたばかりの合格通知だ。
何度読んでも、書かれている文字は変わらない。
ルミエールアカデミー医療専門学校への入学を認めます。
「……本当に、合格したんだよな」
誰に聞かせるでもなく呟き、封筒の角を指先で押さえた。
紙越しなのに、そこだけがまだ熱を持っているような気がする。
入学試験を終えた日から、ずっと落ち着かなかった。
答えを間違えたかもしれない問題が、いくつも頭に浮かんだ。あの設問は、もっと早く答えを出せたはずだ。最後まで迷った選択肢もある。試験官が答案を集めていく背中を見送ったあとで、急に正しい答えを思い出した気さえした。
終わった試験のことを、いつまでも考えても仕方がない。
分かっていた。
分かっていても、古い問題集を引っ張り出し、もう答えの出ない問いを解き直してしまう夜があった。
俺は、最初から何でもできる人間じゃない。
一度で覚えられないなら十回書いた。十回で足りなければ、覚えるまで繰り返した。
分厚い教本を前にして眠気に負けそうになった夜も、理解できない言葉ばかりが並ぶページを閉じたくなった日もある。それでも投げ出さなかった。
医療の道へ進みたかったからだ。
苦しそうにしている誰かのそばで、何もできずに立ち尽くすことが嫌だった。
知識があれば。
技術があれば。
少しでも落ち着いて、正しいことを考えられるようになれば。
自分にも、誰かを助けられる日が来るかもしれない。
そんな願いだけを頼りに、ここまで来た。
「浮かれてる場合じゃないな」
俺は小さく息を吐き、内ポケットから手を離した。
「まだ、入学を許されただけだ」
医者になったわけじゃない。
誰かを治せるようになったわけでもない。
むしろ今の俺には、知識も経験も足りないことだらけだ。制服を着たところで、急に立派な人間になれるわけじゃない。
それでも、何も始まっていなかった昨日までとは違う。
今日から俺は、夢へ向かうための準備を始められる。
合格通知には、入学までに制服と学用品をそろえるよう記されていた。
指定店は中央通りの角にあるらしい。
封筒の紋章へ指先を触れると、金色の光が細い線になって宙へ浮かんだ。線は人通りの多い通りへ向かい、迷わないように俺の進む先を示している。
「便利なもんだな」
そう呟きながら歩き出したものの、すぐに人の多さへ圧倒された。
村の市場なら、朝のうちに誰がどこで何を売っているのか全部分かる。けれどルミナス市では、目に映るものすべてが新しく、足を止めたくなる店ばかりだった。
窓いっぱいに色とりどりの薬草を並べた店。
光る文字を空中へ浮かべている書店。
小さな治療具らしきものを扱う金属店。
通りの脇には、白い花と青い葉を植えた花壇が続いていた。風が吹くたび、薬草らしい清涼な香りが街の空気へ混じる。
少し先の広場では、大きな映像板が朝の報せを流していた。
人の流れに押されながら横目で見たものの、文字はあまりにも早く切り替わっていく。俺には、青い光をまとった誰かの姿と、画面の端に映る赤い警告の印しか分からなかった。
何かの事故か、それとも病に関する報せなのか。
気にはなったが、立ち止まって見ている余裕はない。
今日は、買うべきものがある。
俺は歩調を早めた。
通りを曲がった先で、白い尖塔が見えた。
周囲の高い建物よりもさらに上へ伸びた塔は、朝日を受けて静かに光っている。その足元には深い緑の薬草園が広がり、いくつもの白い建物が整然と並んでいた。
ルミエールアカデミー医療専門学校。
遠くから眺めたことは何度もある。
けれど、今日の校舎は今までとまるで違って見えた。
もう、憧れるだけの場所じゃない。
あそこが、俺の学び舎になる。
そう思った瞬間、胸の奥にあった不安が、ほんの少しだけ別のものへ変わった。
怖い。
それでも、行きたい。
知らないことだらけの場所へ、自分の足で入っていきたい。
指定店は、学院の尖塔を正面に望む大通りの角に建っていた。
大きな窓には、ルミエールアカデミーの制服が飾られている。
灰色の上着。赤いインナーベスト。整った形のネクタイ。胸元には、獅子と薬草の紋章が金色に輝いていた。
その隣には、女子用らしい赤いリボンと長めのチェック柄のスカートも飾られている。
俺は店の前まで来て、また足を止めた。
窓に映った自分の姿が目に入ったからだ。
着古した上着。使い込んだ鞄。何度も縫い直した袖口。
華やかな街の中では、自分だけが別の場所から紛れ込んできたように見えた。
本当に俺が、あの制服を着るのか。
合格通知を受け取ったあとだというのに、まだ現実味がない。
「入らないと、何も始まらないだろ」
自分に言い聞かせるように呟き、扉を押した。
鈴のような澄んだ音が鳴る。
店内には、新しい布と革、それから紙の匂いが満ちていた。
高い天井から吊るされた光球が、柔らかな明かりを落としている。壁には学年や寮ごとに分けられた制服が整然と並び、棚には筆記具、教本、実習用の上着、分厚い記録帳が置かれていた。
どれも新品で、どれもまだ俺の手になじんでいない。
「いらっしゃいませ」
奥の棚を整えていた店員が、こちらへ振り向いた。
淡い青色のエプロンを着た、落ち着いた雰囲気の女性だ。俺の手にある封筒の紋章を見ると、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「ルミエールアカデミーにご入学の方でしょうか?」
「はい。ハヤト・キサラギです」
「ハヤト・キサラギ様。ご入学、おめでとうございます」
その言葉を聞いた途端、胸の奥が熱くなった。
合格通知を読んだときも嬉しかった。
けれど、誰かの口から「おめでとうございます」と言われると、それまで曖昧だった出来事が急に現実になる。
「……ありがとうございます」
声が少し低くなった。
照れくさくて、まともに店員の顔を見られない。
「では、こちらの読み取り板へ合格通知をお願いいたします」
言われたとおり、封筒を受付台の薄い板へ置く。
すると紋章から金色の光が広がり、店の奥の壁へ細かな文字が浮かび上がった。
制服一式。
実習用の上着。
筆記具。
基礎医学の教本。
薬草の形や性質を記録するための手帳。
通学用の鞄。
必要な品が、一つずつ表示されていく。
「……多いな」
思わず本音が漏れた。
全部持ち帰る自分の姿を想像する。両腕に箱を抱え、前も見えないまま公共車両へ乗ることになりそうだ。
店員はくすりと笑った。
「ご安心ください。ご購入いただいた品は、こちらの圧縮箱へお入れします」
彼女が受付台の下から取り出したのは、手のひらほどの小箱だった。
「この大きさに?」
「はい。家へ着いてから蓋を開ければ、元の大きさへ戻ります」
「だったら最初から、表示の横に書いておいてほしかったな」
つい口に出してから、失礼だったかと思った。
けれど店員は嫌な顔をせず、少し楽しそうに目を細めた。
「毎年、同じことをおっしゃる方がいらっしゃいます」
「俺だけじゃないのか」
「はい。皆さん、最初は驚かれます」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
俺だけが、何も知らない田舎者みたいに戸惑っているわけじゃない。
新しい場所へ来れば、誰だって最初は分からないことがある。
そう考えると、急に気が楽になった。
「筆記具は、いくつか種類がございます」
店員が棚から数本を取り出して、柔らかな布の上へ並べた。
「こちらは軽くて、長時間書いても手が疲れにくいものです。こちらは少し重みがありますが、細かな文字を書きやすくなっています」
俺は一本ずつ手に取って、指先へなじむ感触を確かめた。
試験勉強のときに使っていた鉛筆は、短くなるまで何本も使った。書き心地が悪いだけで、集中できない日があることも知っている。
「これにします」
選んだのは、派手な装飾のない細身の筆記具だった。
「実習でも使いやすそうです」
「堅実なものを選ばれるのですね」
「高いものを持っていても、使いこなせなければ意味がないので」
言ってから、自分でも少し生意気に聞こえた気がした。
だが店員は、今度は真剣な顔で頷いた。
「とても大切な考え方だと思います」
その一言が、なぜか心に残った。
次に手に取ったのは、厚い薬草記録帳だった。
表紙は深い紺色で、角には金色の補強が施されている。中を開けば、白い紙が何百枚も綴じられていた。
そこへ、薬草の名前、形、匂い、作用、扱うときの注意を書き込んでいくのだろう。
まだ何も書かれていない真っ白な紙を見ていると、少しだけ怖くなった。
知らない言葉ばかりが並ぶ授業。
周囲には、自分よりずっと賢く、ずっと経験のある生徒がいるかもしれない。
授業についていけなかったらどうする。
手帳のページを埋められなかったらどうする。
そんな不安が、また頭をもたげる。
俺はそっと表紙を閉じた。
「大丈夫だ」
小さく呟く。
不安だからといって、ここへ来た意味がなくなるわけじゃない。
分からないなら学べばいい。
書けないなら、書けるようになるまで続ければいい。
それは、今までだって同じだった。
「では、制服をご試着ください」
店員に案内され、俺は店の奥にある円形の台へ上がった。
足元に描かれた魔法陣が、淡い光を放ち始める。
細い光が靴先から肩までをゆっくりとなぞり、背丈や腕の長さ、肩幅を確かめるように何度か往復した。
その様子を見ていると、少しだけくすぐったい。
やがて壁に掛けられていた制服が、ひとりでに宙を滑ってきた。
「腕を通してみてください」
灰色の上着を受け取り、そっと袖へ腕を入れる。
布地が肩へ触れた瞬間、ほんのり温かくなった。
少し長かった袖が指先に合わせて縮み、肩の位置が自然に整っていく。背中や腰回りも、最初から俺の身体の形を知っていたかのようにぴたりとなじんだ。
赤いインナーベストを着る。
最後に、赤いネクタイが胸元へ収まる。
首元を整えられたとき、俺は思わず息を止めた。
「肩を回してみてください。腕を上げても、窮屈ではありませんか?」
言われたとおり、ゆっくり肩を回す。
腕を上げ、身体をひねる。
「……動きやすい」
「実習や治療の補助に入ることも考えて、動きやすく作られているんです」
目の前の鏡に、全身が映し出された。
そこにいるのは、見慣れた自分のはずだった。
センターで分かれた茶色の髪。
少し鋭く見える目。
緊張すると、すぐ口数が減る癖。
何も変わっていない。
それなのに、鏡の中の俺は、今までとは少し違う人間に見えた。
胸元には、金色の獅子と薬草の紋章がある。
赤い糸で縁取られたその紋章は、俺が獅子寮へ所属することを示していた。
おそるおそる触れてみる。
指先に伝わる刺繍の硬さが、合格したという事実を、ようやく現実のものに変えてくれた。
「俺が、これを着るのか……」
嬉しい。
そう言えばいいだけなのに、照れくさくて、出た声は妙に低かった。
店員が鏡越しに微笑む。
「とてもお似合いです」
「まだ、制服に着られてるだけです」
「そんなことはありません。しっかりなじんで――」
そこで、店員の言葉が止まった。
鏡越しに見た彼女の顔から、穏やかな笑みが消えている。
驚いたように、俺の顔と、受付台に置かれた合格通知を見比べていた。
合格通知の紋章は、もう役目を終えたはずだ。
それなのに金色の獅子だけが、かすかに脈打つような光を宿している。
「どうかしましたか?」
俺が尋ねると、店員ははっと息をのんだ。
次の瞬間には、何事もなかったように笑顔を作っていた。
「いえ。その……失礼しました」
けれど、視線だけはまだ俺の胸元に残っている。
まるで、制服の紋章ではなく、その奥にある何かを見ているようだった。
「あの動画の……医療戦士の。あぁ、なんでもありません」
「医療戦士?」
聞き慣れない言葉に、俺は眉をひそめた。
「普通の医者でいいのに」
俺はただ、医療を学びたいだけだ。
誰かの苦しみを少しでも減らせる人間になりたいだけだ。
戦うだとか、そんな大げさな言葉を向けられる理由なんて、どこにもない。
店員は一瞬だけ、悲しそうな顔をした。
けれどすぐに視線を伏せ、丁寧に頭を下げる。
「申し訳ありません。今の言葉は、どうかお気になさらないでください」
「いや、気になるだろ」
思わず言い返した、そのときだった。
「制服に着られているな」
背後から、冷たい声が落ちた。
さっきまで胸に残っていた不思議な感覚が、一瞬で引いていく。
鏡越しに振り返ると、少し離れた場所に同じ年ごろの男が立っていた。
隙なく整えられた黒髪。
皺ひとつない黒い上着。
上質な生地は店内の光を柔らかく反射し、右手の指には、家柄を見せつけるような銀色の指輪が光っている。
口元には、相手を最初から自分より下だと決めつけている者特有の、冷たい笑みが浮かんでいた。
見覚えがある。
入学試験の会場で、何度か視線がぶつかった男だ。
試験の結果が掲示されたとき、俺の名前が自分より上にあることを見て、露骨に表情を歪めていた。
あの目を、忘れるはずがない。
「……マルクス・ヴェルナー」
俺が名前を呼ぶと、男は満足そうに目を細めた。
「覚えていたか。光栄だな、ハヤト・キサラギ」
「なんだよ」
「なんだ、とは失礼だな。せっかく新しい制服を見に来てやったんだ。田舎者が身の丈に合わない服を着ていると、あまりにも目立つからな」
マルクスはゆっくりと近づいてきた。
値踏みするような視線が、俺の頭から足元までをなぞる。
「よく似合っているじゃないか。服だけはな」
「用がないなら、あっちへ行け」
「ずいぶん余裕だな。筆記試験で少し点を取った程度で、自分が選ばれた人間だとでも思っているのか?」
「そんなことは思ってない」
「どうだかな。結果を見たときは、随分と得意そうな顔をしていた」
「合格したら嬉しいだろ。普通は」
マルクスの口元が、わずかに引きつった。
俺が淡々と答えるほど、こいつの機嫌は悪くなっていく。
「お前の成績など、ただの偶然だ。試験問題との相性がよかっただけのことを、実力だと勘違いするな」
「偶然で取れる点なら、お前も取ればよかっただろ」
マルクスの目から笑みが消えた。
店内を流れていた穏やかな音楽が、不自然なほど遠く聞こえる。
「調子に乗るなよ」
「乗ってない。事実を言っただけだ」
「孤児院で古い教本を読んでいた程度のお前が、俺より高い点を取れるはずがない」
低く押し殺した声から、隠し切れない苛立ちが滲んでいた。
やはり、こいつが気にしているのは試験の成績だ。
自分より下だと思っていた俺の名前が上にあった。
それが許せないのだろう。
「何を読んで勉強しようが、正しい答えを書けば点は取れる」
「その生意気な口を、いつまで利いていられるだろうな」
マルクスは俺の胸にある紋章へ目を向け、鼻で笑った。
「そもそも、ルミエールアカデミーに入ったところで何になる。あそこは、聞こえのいい理想ばかりを並べる偽善者の集まりだ」
「……何?」
「世界中の病人を救う。医療に身分は関係ない。知識と光の力で未来を変える。よくもまあ、あれほど恥ずかしい綺麗事を並べられるものだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
制服を着たときに感じた不安とは違う。
腹の底から、熱いものが湧き上がってくる。
「お前、自分が何を言ってるか分かってるのか」
「当然だ」
マルクスは俺の感情をわざと逆なでするように、口元を歪めた。
「治る見込みの薄い者へ時間を使い、何の見返りもない相手に手を差し伸べる。そんな行為に何の意味がある? 救う価値のある者を選び、確実な成果を出す方がよほど合理的だ」
「救う価値だと?」
「限られた薬も時間も、役に立つ者へ使うべきだと言っている。誰も彼も助けようとするから、結局は何も守れない。自分たちは正しい人間だと満足したいだけの連中を、偽善者と呼んで何が悪い」
俺は拳を握った。
爪が手のひらへ食い込む。
ここで怒鳴れば、こいつの思うつぼだ。
そう分かっているのに、聞き流すことはできなかった。
「最初から助からないと決めつけて、見捨てる方が正しいっていうのか」
「現実を理解していると言っているんだ」
「それは現実じゃない。ただ、自分が何もしたくない理由を並べてるだけだろ」
「田舎者が、俺に説教するつもりか?」
「説教じゃない。お前の言ってることが気に入らないだけだ」
マルクスは冷たい視線を俺へ向けたまま、さらに一歩近づいた。
そして、指先で制服の紋章を軽く弾いた。
「こんな紋章に、何の価値がある。あの学校も、そこに集まる連中も、俺から見れば――」
「ルミエールアカデミーをバカにするな!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
店内の空気が震えたように感じた。
気づいたときには、俺はマルクスの手首をつかんでいた。
指先が白くなるほど強く握りしめている。
マルクスは一瞬だけ目を見開いたものの、すぐに挑発するような笑みを浮かべた。
「なんだ、その目は。俺を殴るつもりか?」
「その口を閉じろ」
「図星を突かれて腹を立てただけだろう。お前だって分かっているはずだ。どれだけ学んでも、救えない命はある。理想だけで病気が消えるわけじゃない」
「だから学ぶんだろ!」
胸に押し込めていた思いが、一気に言葉となってあふれた。
「何も知らないまま諦めるのが嫌だから、俺はあそこへ行く。今の俺にはできないことばかりだ。間違えるかもしれないし、手を伸ばしても届かないことだってあるかもしれない。それでも、助からないかもしれないって理由で、最初から何もしないよりはましだ!」
「綺麗事だな」
「綺麗事で何が悪い」
マルクスの目を、まっすぐに見返す。
「知識が足りないなら学ぶ。判断を間違えたなら、どうして間違えたのか考える。今の俺が何もできないからこそ、できるようになるために学校へ行くんだ。何もする気がないお前に、あの学び舎を笑う資格はない」
周囲の空気が一気に騒がしくなった。
近くにいた客たちが距離を取り、あちこちで動揺した声が上がる。店員も、困ったようにこちらを見ていた。
騒ぎが広がっている。
頭へ上っていた血が、少しだけ引いた。
俺は何をしている。
このまま殴り合いになれば、店に迷惑をかける。入学前から問題を起こしたことがアカデミーへ伝われば、せっかく手にした合格を失うかもしれない。
何より、感情のままに動いて周囲が見えなくなるようでは、医療を学ぶ以前の問題だ。
患者を前にしたときも、思いどおりにならないことはあるだろう。
焦ることも、怖くなることも、腹が立つこともあるかもしれない。そのたびに冷静さを失っていたら、正しい判断などできるはずがない。
俺は奥歯を噛みしめ、マルクスの手首を放した。
「……もういい」
マルクスはつかまれていた手首をさすり、薄く笑った。
「怖くなったか?」
「違う」
乱れていたネクタイを直し、制服の上着を手で払う。
「ここでお前を殴っても、何も変わらない。それに、この制服を着たまま問題を起こしたくない」
「自分の立場を理解する程度の頭はあるらしいな」
「お前は最後まで一言多いんだよ」
「覚えておけ、ハヤト・キサラギ」
マルクスの声には、最後まで相手を見下す響きがあった。
「努力すれば何にでもなれると思っている人間ほど、現実を知ったときの壊れ方は惨めだ。お前があの学校で、どこまで綺麗事を貫けるか見ものだな」
「俺がどうなるかは、お前が決めることじゃない」
「なら、せいぜい足掻け。偽善者の学び舎でな」
マルクスは冷たい笑みを残し、その場から離れていった。
店内のざわめきが少しずつ収まっていく。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
身体の奥では、まだ怒りがくすぶっている。拳を開こうとしても、指がうまく動かなかった。
深く息を吸う。
新しい布と紙の匂い。薬草を使った香料の、わずかに甘い香り。店内を流れる穏やかな音楽。
ひとつずつ確かめるように周囲へ目を向け、ようやく呼吸を整えた。
試着台の鏡に映った顔は、ひどいものだった。
眉間には深い皺が寄り、頬は赤くなっている。名門校の制服を着ているのに、少しも立派には見えない。
「何やってるんだ、俺は……」
悔しさが込み上げた。
マルクスに言われたことだけではない。
挑発に乗り、周囲が見えなくなった自分が情けなかった。
入学試験に合格しただけで、少しは前へ進めたつもりになっていた。けれど実際には、知識以外にも身につけなければならないものがいくつもある。
制服を着れば、その瞬間から理想の医療者になれるわけではない。
怖くても考える力。
腹が立っても周囲を見る冷静さ。
自分一人の感情より、守るべきものを優先する強さ。
今の俺には、どれも足りていなかった。
それでも、胸にある紋章を外したいとは思わない。
俺は制服を脱ぎ、汚れや傷がついていないことを確かめた。上着の皺を手のひらで丁寧に伸ばし、赤いネクタイと一緒に箱へ収める。
その様子を、さっきの店員が黙って見守っていた。
箱の蓋を閉じたところで、彼女はそっと圧縮の術をかける。
制服も教本も筆記具も、光に包まれながら手のひらほどの箱へ収まっていった。
「お騒がせして、すみませんでした」
俺が頭を下げると、店員は少し驚いたように目を瞬かせた。
「お気になさらないでください。ですが、どうかお怪我はありませんか?」
「大丈夫です」
「そうですか」
彼女はほっとしたように笑った。
その表情を見て、さっきまでの怒りがさらに恥ずかしくなる。
「……あの、さっきの言葉」
鞄へ圧縮箱をしまいながら、俺は尋ねた。
「医療戦士って、何なんですか」
店員の指先が、わずかに止まった。
答えを待った。
けれど彼女は、すぐには口を開かなかった。
「今はまだ、知らないままでもいいのかもしれません」
「それ、答えになってませんよね」
「そうですね」
困ったように微笑んだあと、彼女は受付台の上へ視線を落とした。
「ただ、キサラギ様。どんなことがあっても、今日おっしゃった言葉を忘れないでください」
「今日、俺が言った言葉?」
「はい。最初から何もしないよりはましだ、と」
胸の奥が、わずかに揺れた。
自分では、ただマルクスへ言い返しただけだと思っていた。
けれど店員は、その言葉を大事なもののように受け取っている。
「忘れません」
俺は短く答えた。
それ以上、答えをもらうことはできなかった。
店を出ると、ルミナス市の空は茜色に染まり始めていた。
西へ傾いた日差しが硝子張りの建物へ反射し、街全体が巨大な光の結晶のように輝いている。半透明の通路を流れる光は朝よりも鮮やかになり、夕暮れの空へ細い帯を描いていた。
大通りの先には、ルミエールアカデミーの白い尖塔が見える。
夕日を受けた校舎は赤金色に染まり、朝に眺めたときよりも遠く、そして大きく感じられた。
俺は鞄の上から、制服が入った箱へ触れた。
合格通知を受け取っただけでは、まだ何者にもなれていない。
あの制服にふさわしい人間になれるかどうかは、これからの俺次第だ。
マルクスの言葉が、耳の奥に残っている。
どれだけ学んでも、救えない命はある。
理想だけで病気が消えるわけではない。
そんなことは、俺だって分かっている。
努力すれば、必ず望んだ結果を得られるとは限らない。必死に手を伸ばしても届かず、自分の無力さを突きつけられる日が来るのかもしれない。
けれど、救えないかもしれないことと、救おうとしないことは違う。
何も知らないまま諦めたくない。
できないことを、できないままで終わらせたくない。
俺は夕暮れの中に立つ学び舎を、まっすぐに見上げた。
「見てろよ」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分かっていた。
次にマルクスと会ったとき、胸を張って言い返せる自分でありたい。
俺はここで学ぶ。
知識を身につけ、何が正しいのかを自分の目で確かめる。
そして、いつか誰かの手を取れる人間になる。
胸の内ポケットで、合格通知の紋章がかすかに熱を持った。
医療戦士。
あの店員が口にした、聞き慣れない言葉が頭から離れない。
医者を目指す俺に、どうしてそんな呼び名が向けられたのか。
その答えを、まだこのときの俺は知らなかった。
「ハヤト様ぁ〜なんとかしてください〜」 夕暮れの光が、獅子寮の談話室を淡い金色に染めていた。 床から天井まで届く大窓の向こうでは、白を基調とした校舎群が茜色の空を静かに映している。建物を結ぶ連絡通路には青い誘導灯がともり始め、授業を終えた学生たちの影が細く伸びていた。 暖房の風が天井からゆるやかに降り、机の上に散らばった付箋をかすかに震わせる。その穏やかな空気の中で、テオだけが世界の終わりを迎えたような顔をしていた。 俺へ向かって両手を組み、祈りを捧げている。「俺を拝んでも点数は上がらないぞ」「そこをなんとか。ハヤトなら、俺の頭を一晩で優等生仕様に改造できるだろ?」「できたら医療戦士じゃなくて別の何かになってる」「じゃあ三日でいい」「時間の問題じゃない」 テオの前には教材が六冊、薄型端末が二台、書きかけのノートが三冊並んでいた。広げられた光医学基礎のページには、循環経路を示す複雑な図が載っている。その隣で、テオが自分なりに描いた図は何本も足を生やした虫にしか見えなかった。「これは何だ?」「光の循環経路」「足が十一本あるぞ」「細かいところは気にするな。大事なのは全体の勢いだ」「試験官が勢いで点をくれると思うか?」「そこをハヤトの指導力で」 都合のいいことを言いながら、テオが向かい側の椅子を引いた。 俺はすぐには座らず、手にしていた端末へ視線を落とした。画面には、五分ほど前に医療棟から届いた連絡が表示されている。『当面の急変なし。本日の面会は十九時まで可能』 短い文章を、これで何度読み返したか分からない。 急変はない。それは安心していい知らせのはずなのに、胸の奥へ絡みついた緊張は簡単にはほどけてくれなかった。 意識を失い、白い寝台へ戻されたミナ。冷たい床に落ちた、端のほつれた布切れ。病室を満たしていた張り詰めた声と、こちらを射抜くようなマルクスの目。 その記憶に重なるように、アキト先輩の言葉が蘇る。 マルクスもまた、光の病の犠牲者なのではないか。 確かめられたことは何もない。マルクスの敵意も、ミナが持っていた古い布の正体も、薄暗い水底へ沈んだまま手が届かなかった。 端末を伏せると、冷たい画面が指先から離れた。 立ち止まって考えている間にも、小テストは近づいてくる。そして今、俺の前ではテオが本気で救援を待っている。「
「マルクス!ミナに何をする気だ!」 白い自動扉が左右へ開ききるより早く、俺の声が病室を揺らした。 天井から降り注ぐ医療灯の光が、床も壁も冷たく染めている。一定の温度に保たれた空気には、薬品に似た清潔な匂いが混じっていた。その中央で、窓際の寝台にいるミナだけが、張り詰めた影へ閉じ込められている。 背中は起こした枕へ押しつけられ、栗色の髪が頬に乱れていた。その右腕をマルクスがつかみ、逃げようとする顔へ自分の顔を近づけている。ミナの眉は苦しげに寄り、空いた手で彼の胸元を懸命に押し返していた。「やめて……離して!」 細い声とともに、握られた腕がもう一度強くねじられる。身体は寝台の端へ逃げようとしているのに、マルクスの指がそれを許さない。拒絶の意味を取り違える余地など、どこにもなかった。 視界の奥で何かが白く弾けた。 頭の中から、ミナの声以外が消える。心臓から押し出された熱が一気に腕へ集まり、次に気づいたときには床を蹴っていた。握った右拳を引き、マルクスの横顔だけを見据えて前へ出る。「ハヤト、待て!」 右腕へテオの両手が絡みついた。同時に左肩と脇腹をエマの腕が押さえる。勢いを殺しきれず、三人分の靴底が白い床を擦った。乾いた摩擦音が、壁際の機器から鳴る電子音と重なる。「離せ、あいつはミナに――」「分かってる! だからこそ今は殴るな!」「ハヤト、ミナを見なさい!」 エマの声が鋭く耳へ入った。 俺の拳は、マルクスへ届く寸前で震えている。その向こうにいるミナは、胸元で左手を固く握り、怯えた目でこちらを見ていた。呼吸に合わせて肩が小さく上下するたび、寝台脇の表示に淡い波形が走る。間隔の詰まった作動音が、怒りで狭まっていた俺の意識へ一本ずつ亀裂を入れてきた。 彼女の目に映っているのは、無理やり迫るマルクスと、拳を振り上げた俺だ。 その事実が、頭から冷水を浴びせられたように染み込んでくる。 ここは訓練室ではない。力を競う場所でも、怒りをぶつける場所でもない。俺が拳を振るえば、それをすぐ近くで受け止めるのはミナになる。守るために来た俺が、怒鳴り声と暴力で彼女をさらに追い詰めてどうする。 肺へ入る空気が熱い。仮想訓練から残る胸の圧迫感も、遅れて輪郭を取り戻した。俺は一度まぶたを閉じ、空調の冷たい風を鼻から吸う。消毒された空気が喉を通り、荒れていた呼吸を少しず
突然、仮想のマルクスがよろめき、倒れてしまう。 床へ片膝をついた瞬間、彼の輪郭に赤い格子が走った。視界の右上へ〈光の病・疑似症状/光脈低下・呼吸不安定〉の警告が開く。現実のマルクスが発病したわけではない。目の前にいるのは、収録された声と姿からアキトが組み上げた訓練用アバターで、光の病らしき症状も今回だけの架空の設定だ。「マルクス、大丈夫?」 ミナのアバターが、決められた台本どおりに駆け寄った。栗色の髪が肩から滑り、差し伸べた指がマルクスの腕へ触れる。その声も、今この場所から届いたものではない。現実のミナは医療棟にいて、訓練中の俺たちとは離れている。 仮想の床は磨かれた鏡のように二人を映し、白い壁には存在しない窓から柔らかな光が差していた。あまりに精巧な影と衣擦れの音が、ここにいない二人へ現実の重みを与えてくる。理屈で切り離そうとするほど、ミナの声だけが耳の奥へ鮮明に残った。 分かっている。分かっているのに、胸の内側で絡まった呼吸はほどけなかった。 倒れたマルクスの表示が橙から赤へ変わる。続いて、ミナの肩が小さく揺れた。彼女は苦しげに息を吸い、マルクスのそばへ手をついた。もう一枚の警告窓が視界へ重なり、〈光脈変動・循環低下〉の文字が明滅する。これも現実のミナの容体ではない。アキトが仮想映像に組み込んだ、二人同時救助の課題にすぎない。「嘘だろ……二人とも?」 足が床へ縫い留められたように動かない。 ミナへ駆け寄りたい。考えるより先に、全身がそう訴えていた。けれど、先に倒れたのはマルクスだ。呼吸数も、光脈の低下幅も大きい。相手との因縁を理由に観察を後回しにすれば、俺は患者を見る前に名前で命を選んだことになる。 では、マルクスを先に診るのか。その間にミナの表示が悪化したら? 赤い窓が交互にせり出し、二人の姿を切り分ける。救う順を選べと迫られている気がした。どちらかへ踏み出した途端、もう一方を置き去りにする。そんな錯覚が足首へ重く絡む。 医療を学ぶ者なら、表示された数値から緊急度を見極めるべきだ。そう教わってきた。けれど、患者の顔へ知っている名前が重なった途端、覚えたはずの手順が薄い紙片のように散っていく。ミナを選べば私情に負ける。マルクスを選べば、大切な人を助けたいという本心から逃げる。どちらへ動いても、自分の判断を信じられなくなる気がした。 小
「アキト先輩、本気で言ってるのかしら。ハヤトに命の選別をさせるなんて」 エマの硬い声が、鹿寮の静かな個室を一直線に走った。 膝の上に置かれた端末は消灯したままなのに、その縁を押さえる指だけが白くなっている。アキト先輩を見つめる横顔には、普段の冷静さを崩すまいとする緊張がにじんでいた。 それが俺の力を疑う言葉ではないことくらい、聞き返さなくてもわかる。 最近は講義中にも息苦しさが出る。光刃を使ったあとは脈が整うまで時間を要し、階段を上がるだけで胸元へ重さが残る日もあった。エマはその変化を、俺以上に細かく記録している。薬を渡す時刻も、食事を残した量も、俺が誤魔化そうとした呼吸の乱れさえ見逃さない。 白を基調とした部屋には、冷たいほど均一な照明が降り注いでいた。壁面収納も机も、角を落とした近未来的な造りで統一されている。窓際には室温と空気の状態を示す透明な表示板が浮かび、数字だけが淡い青色に明滅していた。 ただし、整然としているのは内装だけだ。 壁には星空を背に杖を掲げる少女たちのポスターが何枚も並び、棚には色違いの衣装をまとったフィギュアが隙間なく飾られている。机の端には、虹色の宝石をはめ込んだ星の杖まで置かれていた。 冷静な大学部三年生の部屋というより、架空の変身少女たちが占拠した展示室に近い。「命の選別とは、ずいぶん厳しい表現を使うね」 アキト先輩は机の前に立ったまま、壁面ディスプレイへ指を滑らせた。笑顔の少女が映っていた待ち受けが消え、代わりに人体模型と複数の波形が浮かび上がる。「先輩自身が言ったんですよ。どの命を助けるのか、選ぶ覚悟が必要だって」 俺が答えると、アキト先輩の口元から柔らかな笑みが消えた。「撤回する気はないよ。救命の現場で、時間も力も無限に与えられるとは限らない。誰かへ手を伸ばしている間に、別の誰かの状態が変わることもある。知識として理解するだけでは、判断できるようにはならない」「だからといって、いまのハヤトへ精神的な負荷まで加える必要があるの?」 エマの指先が端末の角を一度だけ叩いた。「光の力を使わなくても、急に心拍が上がる時があるわ。訓練そのものに耐えられても、その後まで影響が残るかもしれない」「生体情報は継続して監視する。限界を超える前に止めるよ」「その限界を決めるのは誰?」 鋭い問いに、アキト先輩は即答