今まで誰のためにも声を荒げなかった息子が——「まさか!その妖婦に魅せられて、実の母親まで敵に回すつもり?」大奥様の怒声を遮るように、冬真は通話を切った。携帯を机に投げ出した彼の表情から漂う冷気は、まるで室温さえ凍らせるようだった。Lunaの話題さえ出なければ——その名を耳にする度に、疑念が渦を巻く。鐘山での約束。三日以内に車を受け取りに来るはずだった。しかし約束の期限は過ぎ、彼女は姿を見せない。桐嶋涼以外、誰一人として彼女と連絡が取れないのだ。「夜声とヴァルキリーを売りに出せ」冬真は秘書に命じた。「社長、どうして突然……」清水秘書は困惑の表情を浮かべる。どちらも限定モデルの最高級スポーツカー。ガレージでその姿を目にするたび、息を呑むほどの存在感を放つマシンだ。冬真は暗い表情を浮かべたまま、その真意を語ろうとはしなかった。「売却の情報は、確実に広まるようにしろ」これでLunaは動くはずだ。今すぐ現れなければ、二台のマシンは永遠に手に入らない——桜都大学:正午を迎え、決勝戦終了まであと五時間半。夕月は提出ボタンをクリックした。「終わりました」監督官に向かって手を挙げる。その声に、会場内の視線が一斉に集中した。「え?本当によろしいんですか?」監督官は驚きを隠せない。「はい、全問解答済みです」予選では最後の最後まで粘った。それは冬真に時間を取られたせいだけではない。五年のブランクを経て、確かに思考の反応速度は鈍くなっていた。だが、この期間、脳の活性化トレーニングに励んだ成果が出ている。的確な思考さえ維持できれば、解答のスピードは自然と上がるものだ。監督官は夕月の澄んだ瞳を見つめた。提出を確認すると、退室を許可する。他の参加者たちは、残り五時間もある中での提出に、それぞれ複雑な表情を浮かべた。むしろ、この早期退出が彼らにプレッシャーを与えているようだった。問題が易しすぎるのか、それとも自分たちの実力不足なのか—— 疑念が頭をもたげる。安人は、PCバッグを手に会場を去る夕月の後ろ姿を見て、鼻で笑った。天才アピールのつもりだろうが——その代償が正確性である以上、意味はない。たとえ運良くトップ20入りしたところで、チャレンジマッチで完膚なきまでに叩
その発言に、他の記者たちが色めき立った。「さすがゴシップ放送局!息子さんの取材まで?」「息子さん?娘さんだけかと……」陥没した顔の記者は意地の悪い笑みを浮かべる。「息子さんのことだけじゃありません。元旦那様が橘グループの社長・橘冬真だということも……」その言葉は雷のように群衆の中に響き渡った。「マジか!?」「橘冬真って……桜都の御曹司の一人、あの橘冬真?」衝撃的なスクープを知った記者たちの目が、一斉に変質する。「なぜ玉の輿を降りたんですか?」「橘社長があなたを離婚したのは、何かあったからでは?」「名家は簡単には離婚しないはず。どんな不始末が?」報道陣の目が、獲物を見つけた野犬のように輝いていた。スキャンダラスな豪門の内幕を暴こうと、執拗に食い下がってくる。彼らの意識の底には、夕月が過ちを犯したという確信があった。確かに藤宮家の令嬢ではあるものの、18歳まで家族と離れて暮らしていたという事実。そこには、きっと橘家を追われるような不品行が……ゴシップ放送局の記者が興奮した面持ちで、ICレコーダーを取り出した。ついに真相を暴く時が来たのだ。「皆さん、藤宮さんに騙されていましたね」記者は意地の悪い笑みを浮かべる。「では、ご本人の息子さんが、実の母親についてどう語ったのか、聞いてみましょう」再生ボタンが押される。「僕は橘悠斗です。五歳。妹の橘美優は今、藤宮瑛優って名前に変わりました」幼い声が響き渡る。数人の記者がマイクをレコーダーに向けた。「夕月はもう僕のママじゃありません。パパと離婚したんです!」声音だけでも、男の子の怒りは明らかだった。「あの人は僕を捨てたんです。この前、学校に取材に来た時も、僕を知らないフリして通り過ぎたんですよ!」「実のお母様が、どうしてそんな……」記者の声が重なる。悠斗は小さな大人のように深いため息をついた。「うちはお金なんでも使わせてあげたのに、パパと僕のことばっかり文句言うんです。妹の名字まで勝手に変えちゃって……パパの顔を潰すためですよ!知らないでしょう?ママってすっごく面倒くさいんです。家でブタみたいにゴロゴロしてるくせに……それに、僕をいじめるんです!ご飯も食べさせてくれなかった!」「まさか……どうしてそんなひどいことを?」記者は
「お母様がコンテストに参加された理由は?」レコーダーから記者の声が続く。「有名になりたいんです!お金が欲しいの!それに僕をパパから奪おうとしてる!僕を人質にして、パパからもっとお金を取ろうとしてるんです!!」幼い声の一言一言が、無数の針となって夕月の体を貫く。全身に細かな痛みが走る。立ち尽くす夕月の頭の中が真っ白になった。かつては息子だった。彼女の弱点であり、鎧でもあった。心臓の鼓動を分け合った愛しい我が子。血の繋がった子供だからこそ。悠斗は指一本動かすだけで、彼女を深く傷つけ、容易く打ち砕くことができる。血の気が引いていく。漆黒の瞳が、光さえ飲み込む暗闇へと変わっていった。「悠斗くん、視聴者の皆さんに伝えたいことはありますか?」レコーダーから記者の声が流れる。「夕月に騙されないでください!自分のことしか考えない悪い人なんです!僕は実の子供だから、どんなママなのか、一番よく分かってるんです!!」悠斗の声が途切れると、記者は録音機を握りしめたまま、夕月に意地の悪い笑みを向けた。無数のカメラのレンズが、夕月の表情を捉えようと向けられる。一瞬の表情の変化も見逃すまいと、カメラマンたちは息を潜めていた。血の匂いを嗅ぎ付けた鮫のように、記者たちはマイクを夕月の顔に突き出してくる。「藤宮さん、息子さんの証言は本当なんですか?」「実の子供を捨てたのは事実ですか?」夕月の体内で血液が凍りつく。手を上げようとすると、凍った関節が軋むような音を立てた。押し寄せるマイクを手のひらで制して、顔に突き刺さるのを防ぐ。ゴシップ放送局の記者は鼻の穴を広げ、興奮した様子で声を張り上げた。「五歳の子供に嘘なんてつけるはずがない!」乾いた唇を開いた夕月の喉から、冷ややかな笑いが漏れる。「子供は、嘘も混ぜて話すものですよ」平たい顔の記者が唾を飛ばしながら詰め寄る。「息子さんがそこまで嫌うのは、母親失格だからでしょう!」「児童虐待を見過ごすわけにはいきません。女性連盟に通報させていただきます」「橘家のお坊ちゃまに豚の餌を……いったいどういうことですか!何か言い訳はないんですか!」「虐待の証拠を出してください。具体的な証拠を」吸い込む空気が肺に達するたび、鋭利な氷となって肉を切り裂いていく。拳を握り締めた夕月
夕月は十数名のボディーガードに護衛され、ようやく教室棟から脱出することができた。しかし、まるで蚊のように執拗に付きまとう記者たちは、彼女の後を追い続けた。「あなたたち、どちらの方々ですか?」「誰に雇われているんですか?」記者たちは無表情なボディーガードたちの顔にマイクを突きつけ、騒々しく質問を浴びせかけた。この騒ぎに、多くの学生たちが興味を引かれ、夕月のいる方向を好奇心に満ちた目で見つめていた。最後尾を歩いていたボディーガードの一人が、しつこく付きまとう記者たちに身分証を提示した。記者たちは身分証に記された「桜国警備」の文字を目にした途端、足を止めた。「何を報道していいか、何を報道してはいけないか、皆さんご存知でしょう?不適切な報道をすれば、責任は自己負担となりますよ」とそのボディーガードは警告した。群がっていた記者たちは一瞬にして静まり返った。機転の利く数名のカメラマンは即座に肩から下ろしたカメラのレンズにキャップをはめた。桜国警備のボディーガードだと知った途端、記者たちは大人しくなった。黒塗りのセンチュリー ノブレスが近くに停まっていた。桜都大学では学長でさえ構内の自由な車の乗り入れは許可されていなかった。しかし、この威厳に満ちた高級車は、大学校内へと悠然と進入してきた。車のドアが開くと、広々とした後部座席に長身の若い男性が座っていた。車内は薄暗く、男の表情は影に隠れていたが、立体的な骨格からその優れた容貌が窺えた。記者たちは首を伸ばし、目を見開いた。「橘冬真社長じゃないですか?似てる気が……」「橘社長は藤宮さんと離婚したはずでは?」「桜国警備のボディーガードを動かせるなんて、橘社長に可能なんでしょうか?」訓練された警備員たちは、記者たちを数メートル先で制止していた。夕月は車のドアの前まで歩み寄り、中の男性を確認すると、丁寧に頭を下げた。「叔父様」その言葉を口にした瞬間、不適切な呼び方だったと気付いた。車内の空気が一気に重くなり、息苦しさを感じた。もう冬真と離婚した今、橘凌一(たちばな りょういち)を叔父様と呼ぶ資格はないのだ。「乗りなさい」大聖堂のパイプオルガンのような低く渋い声音には、拒否できない威厳が漂っていた。その抗いがたい力に導かれるように、夕月
凌一がドアの横のボタンを押すと、車のドアが再び閉まった。記者たちは一歩も前に出ようとせず、大人しく立ち尽くすばかりだった。警備員たちが去った後、ゴシップ放送局の記者は背を向けて携帯を取り出し、すぐに電話をかけた。「もしもし、楓兄貴?橘家のあの方が夕月さんを庇うなんて聞いてませんでしたよ!今日、あの方を怒らせてしまったら、この業界でやっていけなくなりますよ!」凌一はとうに去っていたが、ゴッシプ放送局の記者は未だに動揺が収まらない様子だった。電話の向こうから藤宮楓の声が響いた。「橘家のあの方って誰のこと?」「橘凌一博士ですよ!ボディガードを連れて、お姉さんを迎えに来たんです」「まさか!」楓は思わず声を上げた。「本当に凌一博士が藤宮夕月を連れて行ったって?冬真とは幼い頃から一緒に育ったのに、私でさえほとんど会ったことがないのよ。桜国科学院の博士として国家機密プロジェクトを任されている人が、どうして……」「間違いありません!」記者は興奮気味に続けた。「この目で確かに見ましたよ!博士は私のことを『ベテラン記者が五歳児から記事のネタを探るとは可笑しな話だ』とまで仰いましたよ」胸に手を当てながら、記者は不安げに続けた。「会社に戻ったら、クビになるんじゃないでしょうか?楓さん!お手伝いするつもりでしたが、まさか凌一博士を怒らせることになるとは……」楓はまだ衝撃から立ち直れない様子で、呟くように繰り返した。「ありえない……凌一博士があの夕月の味方をするなんて……絶対にありえないわ!」「とにかく、藤宮さんの記事はもう私には手が出せません」楓の声が一瞬にして冷たくなった。「あなたが報道できなくても、他のメディアが藤宮夕月の醜聞を争って報道するわ。子供への虐待疑惑は、もうトレンド入りしているのよ」電話を切った楓は、スマートフォンを握りしめ冷笑を浮かべた。ALI数学コンテストで一躍有名になりたいだなんて、ふん!ネット上で持ち上げられれば持ち上げられるほど、夕月の転落は痛快なものになるわ!藤宮家の誇る令嬢は、この私だけ。田舎者が運良く橘家に嫁いだだけ。それだけで彼女の運は使い果たしたも同然よ。橘家は、夕月にとって永遠に超えられない天井なの。これからは、私の足下で這いつくばるしかないわ!センチュリー ノブレスが桜
夕月は凌一に丁重に答えた。「来月には瑛優と新しい学区の家に引っ越す予定です。来週にはALI数学コンテストの結果が発表されますが、上位三位以内には入れると確信しています。そして仕事の件ですが……」夕月が目を上げると、濃く長いまつげが蝶の羽のように僅かに震えた。「私……」彼女は凌一をまっすぐ見つめ、言葉を途切れさせた後、勇気を振り絞って尋ねた。「日興に入れていただくことは可能でしょうか?」その声は、静かな湖面に落ちた小石のように、波紋を広げていった。凌一の澄んだ眼差しが、夕月の清らかな顔を掠めた。夕月は凌一の仕事について、おおよその見当がついていた。凌一が率いる「日興研究センター」は、桜国十大研究機関の一つ。その所在地は地図上にさえ記載されていない機密施設だ。意を決して、夕月は自己推薦を始めた。「第十五次五カ年計画で、国が超知能AI研究を掲げています。凌一さん、あなたはその責任者で……私は……」「藤宮夕月」凌一が彼女のフルネームを呼ぶと、夕月は反射的に背筋を伸ばし、正座のような姿勢で凌一の前に座り直した。「日興に入る資格が、お前にあると?」深い井戸のように静かで波立たない声音で男が問うと、夕月は冬真に通じる冷徹さを感じ取った。さすが叔父と甥、と夕月は思いながらも諦めなかった。「私はあなたが直接選んだ人材です!」十三年前、凌一は教育環境の整っていない地方都市から夕月を見出し、一通の推薦状で花橋大学の飛び級クラスへと送り込んだのだ。女性の輝く瞳に向き合い、凌一は小さく息を吸うと顔を逸らした。「金賞を取ってからにしろ」夕月の唇が上がり、瞳の中で蝋燭の炎のような笑みが揺らめいた。「橘さんは私のALI数学コンテストの参加を気にかけていたんですか?」「たまたま目にしただけだ」男は短く答え、誤解の余地を与えまいとした。黒塗りの高級車がホテルの玄関に停まると、下車しようとする夕月に気付いた星来の表情が急に曇った。彼は夕月に背を向け、小さな手でルービックキューブを握りしめ、瞳には涙が溜まっていた。夕月は後ろから星来を優しく抱きしめた。「星来ちゃん、また瑛優と遊びに来てね。きっとすぐに会えるから」振り返った星来の真っ赤な目には別れを惜しむ気持ちが溢れ、力強く頷いた。夕月が凌一に別れを告げる時、陽
某高級ホテルの最上階で、天野昭太はジムから戻ったところだった。筋肉は未だポンプアップした状態のままだ。シャワーを浴びたばかりだというのに、その体からは熱気が立ち昇っている。秘書の一人が、すでに長時間待機していた。普段から親しみやすく気さくな天野に、秘書は冗談めかして言った。「社長、まさか妹さんが橘グループの社長夫人だったなんて!今まで一度も仰らなかったじゃないですか?」天野の表情が急に冷たくなった。「どこでそんな話を?」秘書はスマートフォンの画面を見せた。「ほら、妹さんがまたトレンド入りしてます」『#藤宮夕月が息子を虐待』『#藤宮夕月の元夫・橘冬真』『#藤宮夕月と豚の餌』トレンドの上位は夕月への批判で埋め尽くされていた。昭太は悠斗のインタビュー音声を再生した。音声を最後まで聞く前に、スマートフォンを握り潰さんばかりの力が入った。腕の血管が浮き出るほど激昂した男は、「でたらめも甚だしい!」と怒鳴った。その怒声に秘書は心臓が飛び出るほど震え上がった。ネット上では、夕月の元夫が桜都の名門御曹司・橘グループ社長の橘冬真だということが話題沸騰していた。実子からの告発を聞いた後、ネットユーザーたちの怒りは頂点に達していた。「橘家の坊ちゃんの言う通り!藤宮夕月は橘冬真と七年も結婚してたのに、子供二人産んだ以外に橘家に何か貢献したの?メディアの前で元夫のことを軽々しく扱うなんて、恥知らずもいいとこじゃない?」「奥様生活を捨てて夫も子も見捨てるなんて、ふん。主婦は社会から隔離されすぎて、自尊心が異常に肥大してるのね」「あの女、旦那様がどれだけモテるか分かってないの?桜都の御曹司よ?子供産みたい女性なんて行列できてるのに!」「親戚が桜都の上流階級と付き合いがあるんだけど、橘冬真さんはスキャンダル一つない潔癖な方だって。どれだけ女性が近づいても見向きもしないんですって」「こんな素晴らしい旦那様に何の不満があるっていうの?わがままも大概にしなさいよ!頭おかしいんじゃない?私なら桜都の御曹司に嫁げたら、外で遊び歩かれても、悠々自適な専業主婦して、お茶汲みだってお世話だってやりますけど!」冬真はSNSをやっていないため、多くのユーザーが橘グループの公式アカウントにメッセージを投稿していた。「冬真さん
多忙を極める日々の中、時には悠斗と言葉を交わす時間さえなかった。息子が夕月から虐待を受けていたのかどうか、冬真には分からなかった。ただ、悠斗が言う「豚の餌」という件については、母親から聞いたことがあった。大奥様は夕月の料理を「見るに堪えない」と評していた。母の言葉を借りれば、「恥さらしも甚だしい、とても目に入れられたものではない」ということだった。夕月の郷土料理は、桜都の上流階級にとっては確かに粗末な食事に映ったのだろう。電話越しに清水秘書は感慨深げに続けた。「社長、ようやく濡れ衣が晴れましたね。ネット上の大多数が社長のお味方です!」冬真はネット上の意見など見る気も起こらなかった。「今後、藤宮夕月に関することと、ネット上の話は特に報告する必要はない」もう離婚したのだ。夕月の生死など、自分とは何の関係もない!「おや!?」次の瞬間、清水秘書は驚きの声を上げた。「社長!夕月さんに関するネガティブなトレンドが全て削除されました!」冬真は最初、夕月が金を払って削除したのかと思った。だが、すぐに凍結された16億円の件を思い出した。今の彼女に、そんな工作をする資金などあるはずもない。SNSを開くと、夕月に関するネガティブなワードは全て「法令違反により表示できません」となっていた。男の深い瞳に波紋が広がった。こうした迅速な対応をSNS運営側に取らせるには、相当な影響力を持つ人物の介入としか考えられない。夕月に関するありとあらゆる批判が、一瞬で掻き消されたのだ。誰かが彼女を守っている。冬真は眉間に皺を寄せ、その人物に思いを巡らせずにはいられなかった。桐嶋涼だろうか?アパートメントホテルの一室で、夕月は食器を洗っていた。水の音が響く。夕月と瑛優は食事を終えたところで、瑛優は椅子の上に立ち、布巾でテーブルを拭いていた。テーブルに置かれた夕月のスマートフォンが鳴り、見知らぬ番号からの着信だった。「ママ!」瑛優が夕月を呼んだが、聞こえていないようだった。そこで瑛優は通話ボタンを押した。「もしもし、ママは今お皿を洗ってて……」幼い声で話し始めた瑛優の言葉は、受話器から漏れる冷笑で遮られた。「藤宮夕月、今やネット中があなたを非難してるわ!私の息子がどれだけ人気があるか分
でも、涼が自分を見つめる時、その夜空の星のように深い瞳の中には、ただ夕月だけが映っていた。エレベーターのドアが開くと、夕月は颯爽と外に出た。会議室に向かいながら、後ろを歩くフェニックス・テクノロジーのメンバーに指示を飛ばす。「三分以内に全役員を会議室に集めて」その言葉を受けて、背後の精鋭たちが瞬時に散開した。彼らは次々と役員たちを半ば強引に会議室へと連れてきた。「何者だ!」「警察を呼びますよ!」役員たちは顔を真っ赤にして抵抗する。だが会議室に入れられた途端、彼らは椅子の背もたれに寄りかかるように座る夕月の姿を目にした。細身の体つきに柔和な表情。しかし主席に座る彼女から放たれるオーラは、その場にいる全員を圧倒していた。役員たちは皆、夕月のことを知っていた。中には夕月の叔父にあたる者も何人かいる。「夕月、お前がこんなことを?」「夕月、やり方が乱暴すぎるぞ」夕月は腕時計に目をやり、「定刻に遅れました。今年のボーナスは30%カットです」と告げた。「何の権限があってボーナスをカットするんだ?」藤宮の姓を持つ役員が不満げに言う。その時、藤宮盛樹が怒りに任せて駆け込んできた。「反乱を起こすつもりか」夕月を見るなり詰め寄る。「お父さん」夕月は穏やかな声で返した。「私は、あなたが任命した副社長であり、買収プロジェクトの責任者です。業務にご協力をお願いします」盛樹は嘲るように冷笑を浮かべ、まるで三つ子を見るかのような目で夕月を見下ろした。「新任の意気込みってやつか。さあ、どんな手を打つのか、見物だな」そう言いながら、入室時から気になっていた涼の方へと歩み寄る。キャビネットから葉巻を取り出すと、にやつきながら涼に差し出した。「桐嶋さん、お忙しい中、わざわざ娘の付き添いとは」涼は翡翠を彫り上げたような長い指で葉巻を受け取った。低く声を落として言った。「藤宮社長、察しが悪いですね」盛樹は即座に会意し、ライターを取り出して葉巻に火を点けた。立ち昇る青い煙に夕月が眉を寄せるのを見て、涼は直ちに葉巻を消し、ゴミ箱に投げ入れた。上着を脱ぎ、夕月の隣に座り直す。夕月は思わず舌先を噛んだ。妊娠中、冬真の吸う煙を散々吸わされた日々が蘇る。受動喫煙の害を伝えた時、大奥様に「田舎者の分際で、よくそん
朝焼けがほのかに空を染め始めた頃、専用のマイバッハSクラスが、黒豹のように藤宮テックの本社ビル前に滑り込むように停車した。ドアが開き、長い脚が最初に姿を現す。艶やかな革靴が大理石の床を踏みしめた。涼が車から降り立つ。深みのあるグレーのオーダーメイドスーツが、鍛え上げられた体躯にぴったりと馴染んでいた。彼は振り返り、今まさに降りようとする夕月に手を差し出した。「彼女さん」すっかり役になりきった様子で、夕月は微笑みながら、その大きな手のひらに自分の手を載せた。オフィスビルのロビーに入ると、夕月と涼を先頭に、フェニックス・テクノロジーの買収プロジェクトチーム——会計士、財務アナリスト、税理士たちが堂々たる行列を成していた。先頭を歩く二人の姿に、フェニックス・テクノロジーのプロジェクトリーダーは思わず目を留めた。夕月の黒いスーツは肩のラインが美しく、細い腰が際立つ上品な仕立て。そして気づいたのは、夕月と涼のスーツが同じブランドだということ。二人の歩調が自然と揃い、醸し出す雰囲気が不思議なほど調和していた。その光景は、まるで絵になるようだった。夕月は迷うことなくエレベーターに向かう。以前二度訪れた経験から、社内の配置は把握していた。「ちょっと!」受付の女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。予約なしでエレベーターには乗れませんよ!」夕月は振り返り、「新任副社長の藤宮夕月です」と告げた。「副社長だなんて、そう言えばなれるんですか?そんな通達、受けてませんけど!」夕月は相手を見向きもしなかった。この異常な対応は、明らかに誰かの指示を受けてのことだった。エレベーターのドアが開く。受付は叫び声を上げ、ドアを押さえようとすると同時に夕月を押しのけようとした。だが夕月に触れる前に、フェニックス・テクノロジーのメンバーが動いた。鉄壁のように夕月の前に立ちはだかり、受付との間を遮った。全員が退役軍人という経歴を持つ専門家たちは、一糸乱れぬ威厳に満ちていた。彼らは何も言わず、ただそこに立っているだけで、小柄な受付の女性の背筋が凍るほどの存在感を放っていた。エレベーターに乗り込みながら、夕月は受付に告げた。「給与計算を済ませて、明日から来なくていいわ」「私を解雇するって?何の権限があるんですか!」受付
鹿谷の方を向いて「だからお前はNo.4ってわけ」天野のこめかみが膨らみ、顔が険しく曇っていく。今にも爆発しそうな様子だ。立ち上がった夕月は出かける支度をしながら、何気なく尋ねた。「どうして急にお兄さんと伶にあだ名つけてるの?」夕月の隣を歩きながら涼は答えた。「彼女さんが嫌なら、もう呼ばないよ」心の中で呟く。あだ名じゃない、順位だ。これからは内緒で呼ぼう。二人が去った後、鹿谷が静かに口を開いた。「桐嶋さん、あんなに積極的に近づいてくるの、何か裏があるんじゃない?」天野は冷ややかに笑う。「あの間抜けな笑顔を見ろよ」テーブルの買収企画書を手に取り、「でも今、藤宮盛樹の信用を得て、かつ私たちも信頼できるのは、桐嶋しかいないんだ」鹿谷は慎重に考えを巡らせ、やがて小さく頷いた。*車内に差し込む陽の光が、夕月の横顔を優しく照らしていた。「悠斗くんが目を覚ましたって、知ってる?」涼の声に、夕月は小さく頷いた。「ええ。北斗さんからすぐに連絡があったわ」事故のあった日以来、夕月は瑛優を病院に連れて行くのを控えていた。橘大奥様とはもはや話し合いが通じない。瑛優を連れて行くだけで、まるで敵が攻めて来たかのような態度を取られる始末だ。しかも、いくつもの慈善団体から名誉職を剥奪された大奥様は今や、夕月の存在そのものを憎んでいた。病院に行けば大奥様の罵声が飛び交い、それは悠斗の療養の妨げにもなる。「私にできることは、全てやったわ」*この日も定光寺は、橘家の来訪により他の参拝客の受け入れを謝絶していた。橘大奥様は座布団の上で正座し、両手を合わせて祈りの言葉を紡いでいる。車椅子に座った悠斗は、手足にギプスを巻かれ、首にはサポーターを着けていた。丸坊主にされた頭には包帯が幾重にも巻かれ、その表情は生気を失っていた。線香の匂いが鼻についく。呼吸をするたびに、体中の傷が疼いた。目覚めてからわずか三日。大奥様は焦るように悠斗を寺に連れてきて、仏様に加護を祈っていた。意識が戻ってすぐ、悠斗は大奥様に尋ねた。「楓兄貴は?」大奥様は答えた。「あの女は拘留されているのよ」楓の名前を聞いただけで、大奥様の口からは呪詛の言葉が零れ落ちた。悠斗は楓のことを、それ以上聞かなかった。意識が戻ってから、おじいちゃん、
その言葉を口にした瞬間、涼は両手を強く握りしめた。胸の奥で心臓が小さく震え、灼熱が全身に広がっていく。こんな告白、突飛すぎたのではないか。夕月は自分のことを気が触れていると思うかもしれない。涼は俯いて、夕月からの審判を静かに待った。自分のすべてを、彼女の裁定に委ねるように。「恋人同士のふりをすれば……確かに父さんを誘い込めるかもしれないわね」夕月は真剣な表情で続けた。「藤宮テックを手に入れた時点で、私たちの協力関係は終わり。その時は別れたことにして、桐嶋さんは恋人じゃなくなる」透き通るような瞳を見つめながら、涼は喉が熱くなるのを感じた。「一ヶ月限定の恋人に、俺をさせてください」夕月は涼に向かって手を差し出した。「あなたの言う、見返りを求めない愛情。私にはまだ経験したことのないものだわ。でも、感じてみたい。体験してみたい。あなたの気持ちを、素直に受け止めてみたい。だって私は、愛されるだけの価値がある人間だから」夕月は微笑みながら、涼との握手を待った。涼は恐る恐る手を伸ばし、彼女の指先に触れた。電気に打たれたように、一度手を引っ込める。興奮のあまり、テーブルに転がり出しそうになる。耳まで真っ赤に染まり、鼻から熱い息を吐きながら、もう一度夕月の指先に触れる。まるで子供のような無邪気な笑顔を浮かべて。手を引っ込めると、夕月に触れた指先をじっと見つめ、どこに置いていいのかわからないような仕草を見せた。「よろしく、彼女さん」天野は切れ長の眉を僅かに顰め、罵声を呑み込んだ。鹿谷は夕月の隣に座り、彼女の指を自分の手のひらで包み込むようにして、そっと撫でた。「僕、初めて見たよ」鹿谷は小声で夕月に囁いた。「こんな綺麗な愛し方できる人。桐嶋さんって、本当にすごいよね」夕月も声を潜めて答える。「私も初めてよ。でも考えてみたら、こういう経験も悪くないかもしれない。こんな良い機会を逃すなんて、むしろ馬鹿みたいじゃない?」頬を染めた鹿谷は、心の内を打ち明けた。「僕も夕月に対して、何も見返りを求めてないんだよ」夕月の目元に浮かぶ柔らかな笑みを見て、鹿谷は恥ずかしさのあまり、夕月の胸元に顔を埋めてしまった。自分の指先を眺めていた涼は、夕月の胸に顔を寄せている鹿谷の姿を目にして、頭の中で警報が鳴り響いた。
「桐嶋さんは、私のことが好きなの?」夕月の問いは率直で大胆だった。涼の耳朶が一瞬で赤く染まる。テーブルに両手をつき、顔を少し伏せると、濃い睫が微かに震えた。抑えきれない笑みが、喉元からこぼれ出る。「ああ、好きだ」その言葉を告げる時、彼は真っ直ぐに夕月を見つめた。その瞳は無数の星が瞬くように輝いていて、夕月は思わず息を止めた。その眼差しの煌めきを見逃すまいとして——涼は柔らかな眼差しで彼女を見つめ続けた。その瞬間、世界が静寂に包まれた。「いつから惹かれていったか、分かるか?」夕月は首を傾げて考えた。「Lunaとして、レースで優勝を重ねた時?」涼は微笑んだ。「桜都大の講壇で颯爽と輝いていた時だ。レースで全速力で駆け抜けた時も、恋に向かって躊躇なく突き進んだ時も。二人の子供を連れて、学校と橘家の間を忙しく走り回っていた時も。お前の全ての姿が、俺の心を掴んでいた。どの瞬間も、どの年も、生命力に満ち溢れていた。市役所で橘冬真と別れを告げた時も、公道でスピード違反をした時も、全てが俺の心を更に惹きつけた」鹿谷は目を丸くして、涼の大胆な告白に聞き入っていた。天野の周りには暗い気配が立ち込め、夕月の一言さえあれば、この厚かましい男を窓から放り投げる構えだった。「夕月に恋愛を強要するつもりか?」天野の声は険しく、目の前の男を引き裂きかねない鋭い眼差しを向けた。涼は夕月だけに視線を注ぎ、天野の言葉には一切反応を示さなかった。「独身女性に対する成人男性の好意や憧れに、隠すべきものはない。けど、俺の気持ちへの返答は求めない。好きだという感情は俺一人のものだ。その責任も俺が負う。お前は関係ない。もし俺の好意が迷惑で不快なら、それは俺の至らなさだ。下がるし、お前の心地よい範囲で常に行動する」夕月の唇が不意に緩んだ。涼の言葉に、予想外の面白みを感じていた。「じゃあ桐嶋さん、あなたの気持ちに私はどう向き合えばいいのかしら?」涼は身を乗り出し、爽やかな匂いが夕月を包み込んだ。「俺の体、結構いいと思わないか?」意図的に低く紡がれたその言葉は、夕月の耳元で雷のように轟いた。脳裏に勝手に浮かぶ、涼が送ってきた自撮り写真の数々。一枚送るたびに「気に入った?」と尋ねてきた。「嫌なら消すよ。
数日後——桜高商業ビルの最上階オフィスで、夕月は天野昭太と鹿谷伶と打ち合わせをしていた。桜都の新興開発地区に建つ66階からは、広大な港と海への出口が一望できる。大型貨物船がゆっくりと水平線を横切っていく光景が目に入る。天野はスーツの上着をソファの背もたれに投げ捨て、体にフィットしたシャツ姿。ネクタイも締めず、開いた襟元から日に焼けた肌と真っ直ぐな鎖骨が覗いていた。捲り上げた袖からは、筋肉の盛り上がった逞しい前腕が露わになっている。足を少し開いてリラックスした姿勢で座り、天野は言った。「私のフェニックス・テクノロジーも藤宮テックの買収戦に参加している。だがオームテックより高値を付けても、藤宮盛樹が選ぶ保証はない。短期間で盛樹にオームテックを捨てさせ、君の推す企業に売らせるのは至難の業だぞ」三人掛けソファに座った夕月は、手元の資料に目を通しながら答えた。「あの人を完全に信用させられる経営者が必要なの。その企業に売れば莫大な利益が得られると、心から信じさせられる人物を」だが盛樹の人脈を徹底的に調べても、彼を説得できる人物は見つかっても、信用して任せられる相手がいない。天野と鹿谷は上場企業を持っているものの、彼らも、彼らの部下も、盛樹の警戒心を解くには力不足だった。ノックの音が響き、秘書が扉口に現れた。「天野社長、桐嶋さんがお見えです」凛とした気品を纏った男が、まっすぐに夕月の元へ歩み寄る。その姿が近づくにつれ、まるで月光のような清々しさが部屋全体に満ちていった。「桐嶋さんは私に?」夕月は天野が涼を呼んでいたことを知らなかった。涼は一束の書類を差し出した。「俺のペーパーカンパニーの資料だ。藤宮テックーを400億円で買収する計画を立てている」夕月は計画書を受け取りながら言った。「オームテックの倍の価格提示ね。でもそれじゃ逆に父さんは罠を疑うわ」「だから、俺を信用させるんだ」「どうやって?」涼はスーツのボタンを外し、両手をポケットに入れたまま、夕月の前のテーブルに腰掛けた。「例えば、俺がお前の恋人になるとか」彼の唇が緩み、春風のような微笑みを浮かべた。鹿谷が息を飲む音が聞こえ、天野の雰囲気が一変、即座に警戒態勢に入った。涼は続けた。「オームテックに売れば、藤宮盛樹は金を手にするだけだ。自
受話器を耳に当てる。「若葉理事、申し訳ありませんが、上層部より桜都優秀女性賞の授与を一時見合わせるとの通達が……」大奥様の胸が締め付けられた。「誰かに告発されたの?」不安が込み上げる。夕月は自分に不利な証拠を握っているのだろうか。老婦人の頭の中で思考が渦を巻いた。七年間も橘家に潜伏していた夕月。まるでスパイのように情報を集めていたというのか。「理事、息子さんが警察に連行され、ネットではあなたを『鬼姑』と非難する声が……この状況では女性連盟会も距離を置かざるを得ません」「胡桃会長……」言葉を終える前に、電話は切れた。かけ直そうとした矢先、新しい着信が入る。桜国赤十字社からだった。大奥様の胸に不吉な予感が重く沈んだ。「もしもし」「若葉理事、申し訳ありませんが、ネット上の反応を鑑みまして、名誉会長の名簿からお名前を削除させていただくことになりました」大奥様の心臓が激しく鼓動を打つ。「どうしてそんな……」言葉の途中で、また別の着信が入った。受話器を耳に当てると、今度は慈善団体の役職も剥奪されるとの通達だった。「私が何をしたというの?!」大奥様は憤懣やるかたない様子で秘書に問いかけた。その日の夜、楓のSNSアカウントは運営側によって凍結された。しかし五歳児とバイク走行の件に関する議論は、むしろ増す一方だった。自宅で過ごしていた夕月の元に、凌一からの電話が入る。「星来が、君を心配していると伝えてほしいそうだ」雪山の頂から流れ落ちる清冽な泉のような声が、夕月の耳に届く。凌一の声には広がりがあったが、どこか気の進まない様子が混じっていた。「私は大丈夫です」と夕月は応じた。「レースの走りは見事だった」凌一は付け加えた。「星来の言葉だがな」夕月は微笑みを浮かべながら尋ねた。「冬真さんの任意同行で、橘グループの株価が動くでしょう。先生にご影響は……」恭しい口調で問いかける。「心配無用だ。私の事業は橘グループとは完全に独立している」夕月はほっと息をつき、「来週から藤宮テックのM&A案件を担当することになりました。先生、良い報告をお待ちください」凌一は冷ややかな声で短く答えた。「ああ」「先生、私に成功の見込みはありますか?」質問する夕月の声には、かすかな緊張が混じっていた。「君
かつて橘夫人だった頃なら、広報対策を助言していただろう。だが今となっては、全て冬真の自業自得。橘家が揺らごうと、もう自分には関係のない話だった。夕月はICUのガラス窓越しに、息子の姿を見つめていた。医療機器と真っ白なシーツに埋もれた悠斗は、気を付けなければ見過ごしてしまいそうなほど小さく見えた。耳に蘇るのは、二、三歳の悠斗が病院で泣き叫んでいた声。夕月の腰にしがみつき、小さな体を母の胸に埋めていた温もり。あの頃の夕月は、悠斗の全てだった。盛樹が夕月の前に立った。夕月は冷ややかな目で、彼の手に握られた血染めのベルトを一瞥した。「オームテックの重役が接触してきた。藤宮テックの代表として、買収の話をまとめて欲しいそうだ」盛樹は夕月の顔を見据え、意味深な笑みを浮かべた。「来週から会社に来い。副社長の席を用意してやる」世界的な実力を持つレーサーLunaが自分の娘だと知り、さらに多国籍企業オームテックが目を付けているとなれば——盛樹の口元が歪み、瞳に強欲な光が宿る。「さすがは私の娘だ」夕月の肩に手を伸ばそうとした瞬間、夕月は躊躇なくその手を払い除けた。「気持ち悪い。触らないで」夕月は嫌悪感を露わにした。「お前っ!」盛樹が罵りかけたが、指先についた楓の血に気付いた。女だから、血を見れば怖がるだろう——そう思い込んでいた盛樹は、巨額の利益をもたらすであろう娘の顔を見て、途端に機嫌を直した。「分かった分かった、手を洗ってくる。晚月、お前は本当に期待している娘だ。藤宮家の未来はお前にかかっているんだからな!」夕月は胸が反り返るような吐き気を抑えながら答えた。「お父様、ご安心ください。藤宮家の未来は私にお任せを」大奥様は夕月と瑛優を追い払うと、廊下の長椅子に腰を下ろし、アシスタントに指示を出し始めた。「メディアに話を回しなさい。重症の息子が病室にいるのに、母親である夕月は付き添いもしない。実の妹が息子をバイクに乗せているのを知っていながら止めもしなかった。それなのに祖母である私を責めるなんて!」アシスタントは黙って老婦人の言葉を携帯に書き留めていた。突然、知人から送られてきたニュースに目を留めた。開いた瞬間、アシスタントの顔から血の気が引いた。警察に連行される冬真の姿を捉えた動画が、ネットに出
「お嬢ちゃん、ここは無菌室だから、入れないのよ」瑛優は看護師に尋ねた。「悠斗はいつ目を覚ますの?」看護師は優しく微笑んで答えた。「きっと、すぐだと思うわ」夕月が来てみると、瑛優はICUの壁際にしゃがみ込み、クレヨンで何かを描いていた。夕月は、瑛優が描いた常夜灯の絵を病室のドアに貼るのを見つめていた。瑛優は絵を貼り終えると、両手を合わせて目を閉じた。その表情には深い祈りが刻まれていた。夕月の喉元に、苦い感情が込み上げてきた。「悠斗が目を覚ましますように。そうしたら、ママに謝れるから」夕月は娘の頬に手を添えた。悠斗からの謝罪など、彼女は気にしていなかった。でも悠斗は確かに、瑛優と最も近しい存在だった。双子として生まれ、かつては心も体も寄り添って生きてきた二人。重傷を負った悠斗との対面は瑛優にとって初めての経験で、死の影がこれほど身近な人に迫ったことも初めてだった。この恐怖は、きっと長く瑛優の心に残るだろう。夕月はその場に膝をつき、瑛優を強く抱きしめた。瑛優は夕月の肩に顔を埋め、堪えきれない涙を零した。声を立てて泣くまいと必死に耐えながら、夕月の肩で泣き続けた。温かい涙が、母の肩の布地をじわりと濡らしていく。廊下では、数名の警官がまだ残っており、冬真への事情聴取を続けていた「藤宮さんから提出された資料によりますと、交通課内部で違反を隠蔽していた形跡が見られます。楓さんの度重なる違反運転について、橘さんと秘書の方にも調査にご協力いただきたいのですが」冬真の表情が一層暗く沈み、眉間に深い影が落ちた。警官と共に立ち去ろうとする息子の姿に、大奥様は突然、バネが跳ねたように椅子から立ち上がった。「何故冬真を連れて行くの?冬真は何も悪いことなんてしていないわ!」大奥様の大声に、周囲の人々が好奇の目を向けていた。「母さん、取り調べに協力するだけだ」冬真は恥ずかしさを覚えながら言った。大奥様の叫び声に、通りがかりの人々は冬真が何か悪事を働いたのではないかと疑いの目を向けていた。老婦人は夕月に矛先を向けた。「悠斗があんな状態なのに、まだ冬真を陥れる資料なんか集めて!」さらに声を荒げ「そんな証拠があったなら、なぜ早く警察に渡さなかったの?楓を逮捕させることもできたはずでしょう!あなたは最初から悠斗を傷つけ