先生とスタッフが二人の前に歩み寄ってきた。「まあ、悠斗くんのお父様ですね?珍しいわ。悠斗くんの親子活動に参加されるのは初めてですものね」冬真はいつもの冷淡な表情のまま、無言で軽く頷いただけだった。その近寄りがたい、人を寄せ付けない態度に、先生は思わず身震いした。楓は得意げに口元を歪め、冬真の顔を指差しながら先生に言った。「この人ね、全然来る気なかったのよ。私が朝一で橘家に乗り込んで、ベッドから引きずり出してきたの」大げさな物言いだった。確かに早朝に橘家を訪れ、冬真の部屋に直行したものの、なんとドアにカギがかかっていた。楓が外で執拗にドアを叩き続け、しばらくして完璧に身支度を整えた冬真が姿を現した。悠斗は小さな胸を誇らしげに張った。パパを親子活動に連れてこれるのは、楓兄貴だけなんだ。楓兄貴がいなかったら、毎年の親子活動にパパは顔も出さなかっただろう。あの面倒くさい母さんが自分と瑛優の面倒を見てくれるだけで、いつも競技で母さんが一位を取れるか心配で心配で仕方なかった。「藤宮さんは橘社長のご友人としてご参加なんですか?」担任は当然楓のことを知っていた。学校で数々の問題を起こしてきた楓のことを、快く思っていなかった。楓の姿を見た瞬間、担任は直感的に悟った。今日の親子活動でも、また何か厄介なことを起こすに違いない。担任は厳かな表情で説明を始めた。「親子活動には明確な規定がございまして、実の親でない場合でも、必ずお子様の親族であることが条件となっています。それは子供たちに帰属意識を持たせるためです。親の存在は誰にも代替できません。もし誰でも親の代わりが務まるとなれば、活動中に子供たちが違和感を覚え、マイナスな感情を抱くかもしれません。それは子供の心身の発達に良くない影響を及ぼす恐れがあります」楓の表情が一変した。「私は悠斗くんのパパよ!!」担任を睨みつける楓の目には、明らかな警告の色が浮かんでいた。楓の剣幕に一瞬たじろぎながらも、担任は深く息を吸うと冬真の方に向き直った。「橘様、いつもなかなかご連絡が取れませんので、本日お会いできたついでに少しお話させていただきたいことが……」「あんた、ただの先生でしょ。保護者に余計な関心持たないでよ!」楓が嘲るように吐き捨てた。楓の言葉を無視し、担任は真剣な面
冬真の眉間に深い皺が刻まれた。「執事からそのような報告は一切受けていない」担任は諦めたような目で冬真を見つめた。以前なら、悠斗と瑛優に何か問題があれば、夕月に電話一本で即座に対応してもらえたものだ。だが今や悠斗は問題児と化し、何度も橘家の執事に連絡を入れても、いつも適当な返事で済まされるばかり。「そんな些細なことで大げさね!」楓が声を張り上げた。担任は怒りを抑えきれない様子で楓に向き直った。「あなたが悠斗くんのパパを名乗るのを見て、全て分かりました。悠斗くんのジェンダー認識の歪みは、誰が引き起こしているのかって」「なに言ってんだ!このやろう、ぶっ飛ばすぞ!」楓の表情が一変し、まるで鬼のような形相になった。今にも袖をまくり上げて担任に殴りかかりそうな勢いだ。楓の剣幕に担任が思わず後ずさると、悠斗が跳び上がって手を叩いた。「そうだ!ぶっ飛ばしちゃえ!」まさに大人の真似をしたがる年頃の悠斗は、悪態をつくことで自分が強くなったような気分になる。他の子供たちを怖がらせることができれば、自分も一人前の大人になれたような気がするのだ。「楓!」冬真の叱責の声が鋭く響いた。そして担任に向き直り「悠斗が学校で問題を起こしたことは、しっかりと指導いたします」担任は唇を引き結んでから切り出した。「子供の教育には環境が何より大切だと古くから言われています。良い環境で育てば良い子供に育つ。悠斗くんの健やかな成長のために、周りにいる大人の方々の影響というものを、もう一度じっくりとお考えいただければと……」「へぇ?女の争いを売ってきたわけ?」楓が挑発的な声を上げた。担任は呆気にとられた表情を浮かべる。なんという突飛な発想なのだろう。「藤宮さん、あなたは……」教養ある者としての矜持から、担任は楓から視線を外し、冬真にミッションカードを差し出した。「ステージ1のミッションカードです。悠斗くんと素敵な親子の時間を過ごしていただければ」楓の両手が拳を作る。担任を見つめる目には軽蔑と敵意が満ちていた。——このアマ、カードを渡す時にお尻フリフリして。こんな媚び媚びした態度!絶対に冬真のこと狙ってるわ!——待ってなさい。ただの保育士のくせに、私が悠斗を悪い方向に導いてるなんて匂わせて。こんな露骨な嫌がらせ、きっちり痛い目に遭わせてや
「ママは真ん中に座って!私が後ろでアルパカから守ってあげる!絶対に野菜泥棒なんかにママの近くに来させないよ!」瑛優が張り切って言った。三人で三人乗り自転車に乗り込んだ。一方、楓も役割分担を済ませていた。「冬真は前で、思いっきり漕いでね。悠斗くんは人参を守って。私がアルパカの追い払い係をするわ」楓は内心で計算していた。きっとアルパカは人参を狙ってくる。その時、人参を守っている人に唾を吐きかけたり、服を噛みちぎったりするはず。自分も冬真も唾をかけられるのは御免。だったら、それは悠斗に任せるしかない。もし悠斗が人参を守り抜けたら、きっと自分のことを頼もしく思ってくれるはず——楓はそう考えていた。冬真は息子に野菜の入ったバケツを抱えさせることに不安を覚えた。悠斗がこれを守り切れるとは思えなかったのだ。だが楓が言い終わるや否や、悠斗は人参とキャベツの詰まったバケツを抱えて飛び出していた。「絶対に野菜を守ってみせるよ!」小さな戦士のように目を輝かせる悠斗。大人である楓の方がアルパカの追い払いには適任だろうと考え、冬真もこの役割分担を了承した。三人乗り自転車の最前列に冬真、真ん中に悠斗、後部には楓が座った。出発の態勢が整った頃、天野たちのチームも動き出していた。「パパ、頑張って!追い抜くんだ!」悠斗が前のチームを見て叫んだ。冬真は夕月と瑛優の後ろ姿を見つめた。その前に座る天野は頭一つ分高く、まるで大きな盾のように二人を守っているように見えた。夕月が天野を呼んだのは、自分に見せつけるためか——冬真は内心で考えた。天野昭太に勝てると夕月は思っているのだろうか?冬真は軽蔑するように笑った。天野の身体能力は確かに優れている。だが親子遠足の勝負は単なる体力だけでは決まらない。園内を五、六百メートル進むと、アルパカの群れと遭遇した。まるでデリバリーを見つけたかのように、アルパカたちが一斉に駆け寄ってきた。夕月は素早く身を屈め、上半身でバケツの口を完全に覆い隠した。鮮やかな色のバケツを見つけたアルパカたちは、中に餌があると察したのか、一斉に夕月に噛みつこうと寄ってきた。「こらっ、離れなさい!」アルパカたちが夕月に近づこうとした瞬間、瑛優が小さな手でアルパカの頭を必死に押しのけた。「ママ、大丈夫!私が
全力でスピードを上げようとした瞬間、楓とのペダルの踏み方が全く合っていないことに気付いた。自転車が蛇行し始める。「楓!ペダル止めてくれ!」冬真が叫ぶ。楓が漕ぐことでかえって邪魔になっている。一人で漕いだ方がましだ。「きゃっ!やめてっ!服が!」楓は冬真の声など耳に入らない。アルパカが袖を引っ張り、髪に噛みつく。一匹の頭を押しのけても、すぐに別のアルパカが寄ってくる。「うぅ……パパぁ!早く行ってよぉ!」背後では悠斗が泣き叫んでいる。冬真はスピードを上げようとするが、楓のペダルのせいで進路が狂う。結局、夕月と瑛優の姿が視界から消えていくのを、ただ見送ることしかできなかった。キャンプ場には、すでに第1ステージをクリアした親子たちが三々五々と集まり、残りの参加者を待ちながら休憩を取っていた。「到着!」天野の呼吸は、激しい運動の後とは思えないほど安定していた。後ろを振り返った天野の表情が凍りつく。額から一筋の冷や汗が伝った。夕月は天野の声で危険地帯を脱したと悟り、野菜の入ったバケツを必死に抱えていた体勢をようやく緩めた。娘の無事を確認しようと後ろを振り返った瞬間、夕月も天野と同様に言葉を失った。自転車が止まったのを感じた瑛優は、不思議そうに左右を見た。「わっ!アルパカがついてきてる!ママ、人参守って!おじちゃん、早く漕いで!」瑛優が悲鳴のような声を上げる。「瑛優……そのアルパカさん、放してあげなさい」夕月が静かに言った。瑛優はその時初めて気付いた。両脇に挟まれたアルパカの頭を、自分の腕で締め付けていたのだ。いつの間にか首を掴まれていたアルパカたちは、舌を垂らし、目を白黒させて明らかに力尽きていた。慌てて腕を緩めると、二匹のアルパカは脱力したように地面にドサリと倒れ込んだ。「はぁ……はぁ……あははっ!自分でびっくりしちゃった!」瑛優は胸をなでおろしながら、照れ笑いを浮かべた。天野は言葉を失ったまま黙り込んだ。ずっと視界の端に映っていた二匹のアルパカは、まさかこんな状態だったとは……夕月は自転車から降りると、バケツを先生に手渡して採点を待った。人参もキャベツも、一枚の葉っぱも失うことなく守り抜いていた。先生はホワイトボードに瑛優の名前が書かれたマグネットを貼り付けた。「
「一匹につき五点加点です!」先生は五本の指を立てて瑛優に告げた。「は?アルパカを捕まえたら加点になるんですって?……早く言ってくれれば……」京花の声がだんだん小さくなっていく。だが、自分たち家族はアルパカを見ただけで逃げ出したのだ。加点を知っていたところで、捕まえられるはずもなかった。結局、京花は望月の名札が二位の位置に移されるのを黙って見つめるしかなかった。先生は瑛優の名前の横のスコアを書き換えた。藤宮瑛優:40点橘望月:30点そして、もう一人の先生が悠斗の点数を発表した。「橘悠斗くん、0点です」さっきまでマイバッハから颯爽と降り立った時の誇らしげな姿が嘘のように、悠斗は惨めな姿になっていた。アルパカに咥え取られたLVの帽子は行方不明、襟元は歪み、アルパカの唾液で服が臭くて思わず息を止めてしまう。楓も散々な有様だった。髪は蓬髪し、アウトドアジャケットのジッパーは半開き、まるでホームレスのような出で立ち。「ちょっと待って!零点ってどういうこと?計算間違ってんじゃない?」楓が我に返って声を荒らげた。先生は目を回したい衝動を抑えながら答えた。「到着した時点で野菜入りのバケツごと消失していたのですが。この状態でどうやって採点すれば?」楓は両手を空っぽにしている悠斗を見つめた。「バケツは?人参は?まさか……キャベツの葉っぱ一枚も残ってないの?」「あのね」悠斗は不機嫌な顔で言い返した。「アルパカが怖すぎたんだよ。一匹がバケツごと持ってっちゃったの」そして急に声を荒げ、楓を責め立てた。「なんで僕を守ってくれなかったの!」「だって私、自転車漕いでたでしょ!そもそも漕ぐのなんて悠斗には無理だし……あなた男の子なんだから、バケツくらい守れるでしょ!」「バケツを失くした分、さらにマイナス3点」先生が告げる。「橘悠斗くん家族の得点は、マイナス3点となります。次の競技では、頑張って挽回してくださいね」先生は悠斗の名札をホワイトボードの最下段に配置した。京花は最下位の悠斗を見て、あまりの珍事に瑛優のアルパカ捕獲による加点のことは忘れてしまった。「まぁ冬真さん!最下位なんて初めてでしょう?貴重な経験になりましたね!」からかうような声を上げる。冬真の表情は完全に曇っていた。夕月が瑛優と天野と一
楓は悠斗を連れて少し離れた場所に座った。幸い着替えは持参していた。アルパカの唾液で汚れた服を脱ぎ、嫌そうな顔で脇に放り投げる。自分の着替えに夢中になっていると、「僕の服も汚れちゃった」と悠斗が小さな声で言った。折りたたみ椅子に座ったまま、楓はあごを少し上げて答えた。「バッグの中に入ってるわよ」悠斗は頬を膨らませて不満気に呟いた。「着替え、自分でするの?」家では使用人が身の回りの世話をしてくれる。だから外でも、親しい楓が着替えを手伝ってくれるはずだと思っていた。楓は髪をウェットティッシュで必死に拭きながら、顔をしかめている。今の彼女の頭の中は、早くシャワーを浴びて髪を洗いたいという思いでいっぱいだった。悠斗の相手をしている余裕などなかった。周りを見渡すと、他の園児たちは皆、親に面倒を見てもらっていた。水を飲ませてもらったり、汗を拭いてもらったり、着替えを手伝ってもらったり。夕月は瑛優の髪を優しく整えている。悠斗の胸に複雑な感情が込み上げてきた。去年の親子行事。汗をかいた時は、夕月が優しく着替えを手伝ってくれた。汗取りパッドを背中に当ててくれて、顔も綺麗に拭いてくれた。喉が渇いたと言う前に、水筒を口元まで持ってきてくれた。でも楓は、そんなことは何一つしてくれない。悠斗は首を垂れて、汗と唾液で臭くなった服と、汚れた靴を見つめた。夕月がいた時だけ、自分はいつも清潔な子供でいられた。楓には、自分の面倒の見方さえ分からないんだ。「パパ、着替え手伝って?汗かいちゃった……」悠斗は冬真に声をかけた。「自分でやれ」冷たい一言が返ってきた。父親を怖がっている悠斗は、首を縮めて諦めたように小さなリュックから着替えを取り出した。楓が身なりを整え終わると、だらしなく声を上げた。「ねぇ悠斗、ポテチ開けてくれない?」悠斗は「自分で開けたら?」と言いかけて、ふと思い出した。楓を親子行事に誘った時、あの嫌な母親を怒らせる作戦を立てていたことを。楓の説明によると、夕月を怒らせるには、みんなの前で楓に対して優しく、献身的に振る舞えばいいのだという。楓が何を頼んでも、すぐに応えること。だって、夕月にはそんな態度を見せたことがないから。夕月が、楓に甘えまくる悠斗を見て、楓の言いなりになる悠斗を見たら、きっ
悠斗は心の中での不快感を必死に抑え込んだ。自分は橘家の跡取り息子なのに、大奥様に可愛がられている孫なのに!ふと夕月の方を見ると、この方を見ていた。やった!ちゃんと気付いてくれた!テンションの上がった悠斗は、さっそくイカの袋を開け始める。「あ〜ん、して」楓が手を汚したくないといった素振りで言う。悠斗は顔を曇らせた。夕月の視線が逸れてしまったのが気になる。それでも一切れのイカを取り出し、楓の口元まで運ぶ。でも目は夕月から離せない。こっち向いてよ!――悠斗は心の中で叫んでいた。自分が楓にこんなに尽くしているのを見て、夕月はきっと嫉妬しているはず。ママになりたくないって言ったのは夕月の方だ。もう二度と、僕が食べさせるイカは食べられないんだから。「まぁ悠斗くんったら、楓さんにイカをあ〜んって!なんて優しいの!」京花の声が、大げさなほど高く響き渡る。楓は足を組んだまま、退屈そうに答えた。「何をそんなに驚いてるの?望月ちゃんだってお菓子を食べさせてあげることあるでしょ?」「私は望月のママよ。全然違うじゃない」「何が違うのよ」楓は口元を歪めて言い返した。「私は冬真のパパで、悠斗くんの兄貴なんだから」京花は鼻で笑った。何という支離滅裂な言い方。楓が十八の頃から、冬真への想いは見え見えだった。汐だけが、純粋な友情だと信じ込んでいただけ。京花は冬真の方をちらりと見やる。悠斗があれほど楓に尽くすなら、冬真も楓を可愛がっているに違いない。舌なめずりをしながら、京花は冬真と楓の関係がこじれることを望んだ。大奥様は最近、楓のことを特に嫌っている。夕月の妹なのに冬真と付き合いが深いのは、冬真の評判に関わると。たとえ夕月と離婚しても、二人目の藤宮家の娘を嫁に迎えるなんて、橘家では考えられないことだった。姉妹で同じ男性と……そんな話があるものか。でも京花にしてみれば、冬真の評判が落ちることは願ってもないことだった。そうすれば、自分と父親も橘家の事業から何かしら分け前にあずかれるかもしれない——イカを一切れ楓に食べさせるたびに、悠斗は夕月の方をちらちらと見た。おかしいな。あのうるさいママ、もう見てすらくれない?きっと、自分が楓に尽くしてるのを見て、耐えられなくなったに違いない!そう
前回の失態を取り戻そうと、悠斗は意気込んで麻袋に飛び込んだ。「冬真、早く入って!」楓も麻袋に入り、悠斗の後ろに立って急かした。冬真が麻袋に入った瞬間、楓は体を寄せようとした。冬真の眉が一瞬険しく寄る。楓の体は空を切った。「ほら、三人でぴったりくっつかないと」振り向きながら楓が言う。「カンガルー跳びの時、力が合わせやすいでしょ?」そう言いながら冬真の手に触れようとする。「手は前で持って。袋を掴んで」そうすれば、冬真の腕が自然と自分の腰に回るような形になる。楓の胸が高鳴る。親子行事という建前があれば、堂々と冬真と密着できる。夕月や他の名門家の親たちに、自分と冬真の親密さを見せつけるチャンス。だから悠斗の誘いに乗ったのだ。だが冬真の手に触れようとした指先は、空を掴んだ。次の瞬間、背中を強く押された。冬真は素早く麻袋から抜け出し、不快な空間から離れていく。楓は体勢を崩し、横に傾いた。咄嗟に片手を地面につき、なんとか転倒は免れた。「冬真、何するのよ!」楓は憤然と振り返って詰め寄った。女性に対する思いやりのかけらもない男だ。そして気付いた。冬真の視線は、夕月のいる方向に注がれていた。天野が真っ先に麻袋に入ると、その大柄な体で半分ほどのスペースを占めてしまった。夕月も麻袋に足を踏み入れ、天野と向かい合う。最後に瑛優が入り、まるでサンドイッチの具材のように、二人の大人の間にすっぽりと収まった。これなら、一番背の低い瑛優が大人たちの跳躍の邪魔にならない。夕月は昭太の背後の麻袋の端を掴み、二人で袋全体を持ち上げた。冬真の呼吸が荒くなる。この角度から見ると、夕月が昭太の胸に寄り添うように体を預け、腰に手を回しているように見えた。まるで抱き締めているかのような姿勢に。夕月がここまで男性と親密な距離で接しているところなど、見たことがなかった。「私たちも同じ配置でやりましょう」京花は斎藤鳴を見て提案した。「冬真、始まっちゃうわよ。どこ行くの?」楓は愕然とした。他の親子がスタートラインに集まる中、冬真は審判の先生の元へ向かっていた。「この競技は中止にしてください」冬真の声は冷たかった。「え?橘社長、なぜですか?これは普通の親子競技ですよ」先生は困惑した様子で、「悠斗くん
でも、涼が自分を見つめる時、その夜空の星のように深い瞳の中には、ただ夕月だけが映っていた。エレベーターのドアが開くと、夕月は颯爽と外に出た。会議室に向かいながら、後ろを歩くフェニックス・テクノロジーのメンバーに指示を飛ばす。「三分以内に全役員を会議室に集めて」その言葉を受けて、背後の精鋭たちが瞬時に散開した。彼らは次々と役員たちを半ば強引に会議室へと連れてきた。「何者だ!」「警察を呼びますよ!」役員たちは顔を真っ赤にして抵抗する。だが会議室に入れられた途端、彼らは椅子の背もたれに寄りかかるように座る夕月の姿を目にした。細身の体つきに柔和な表情。しかし主席に座る彼女から放たれるオーラは、その場にいる全員を圧倒していた。役員たちは皆、夕月のことを知っていた。中には夕月の叔父にあたる者も何人かいる。「夕月、お前がこんなことを?」「夕月、やり方が乱暴すぎるぞ」夕月は腕時計に目をやり、「定刻に遅れました。今年のボーナスは30%カットです」と告げた。「何の権限があってボーナスをカットするんだ?」藤宮の姓を持つ役員が不満げに言う。その時、藤宮盛樹が怒りに任せて駆け込んできた。「反乱を起こすつもりか」夕月を見るなり詰め寄る。「お父さん」夕月は穏やかな声で返した。「私は、あなたが任命した副社長であり、買収プロジェクトの責任者です。業務にご協力をお願いします」盛樹は嘲るように冷笑を浮かべ、まるで三つ子を見るかのような目で夕月を見下ろした。「新任の意気込みってやつか。さあ、どんな手を打つのか、見物だな」そう言いながら、入室時から気になっていた涼の方へと歩み寄る。キャビネットから葉巻を取り出すと、にやつきながら涼に差し出した。「桐嶋さん、お忙しい中、わざわざ娘の付き添いとは」涼は翡翠を彫り上げたような長い指で葉巻を受け取った。低く声を落として言った。「藤宮社長、察しが悪いですね」盛樹は即座に会意し、ライターを取り出して葉巻に火を点けた。立ち昇る青い煙に夕月が眉を寄せるのを見て、涼は直ちに葉巻を消し、ゴミ箱に投げ入れた。上着を脱ぎ、夕月の隣に座り直す。夕月は思わず舌先を噛んだ。妊娠中、冬真の吸う煙を散々吸わされた日々が蘇る。受動喫煙の害を伝えた時、大奥様に「田舎者の分際で、よくそん
朝焼けがほのかに空を染め始めた頃、専用のマイバッハSクラスが、黒豹のように藤宮テックの本社ビル前に滑り込むように停車した。ドアが開き、長い脚が最初に姿を現す。艶やかな革靴が大理石の床を踏みしめた。涼が車から降り立つ。深みのあるグレーのオーダーメイドスーツが、鍛え上げられた体躯にぴったりと馴染んでいた。彼は振り返り、今まさに降りようとする夕月に手を差し出した。「彼女さん」すっかり役になりきった様子で、夕月は微笑みながら、その大きな手のひらに自分の手を載せた。オフィスビルのロビーに入ると、夕月と涼を先頭に、フェニックス・テクノロジーの買収プロジェクトチーム——会計士、財務アナリスト、税理士たちが堂々たる行列を成していた。先頭を歩く二人の姿に、フェニックス・テクノロジーのプロジェクトリーダーは思わず目を留めた。夕月の黒いスーツは肩のラインが美しく、細い腰が際立つ上品な仕立て。そして気づいたのは、夕月と涼のスーツが同じブランドだということ。二人の歩調が自然と揃い、醸し出す雰囲気が不思議なほど調和していた。その光景は、まるで絵になるようだった。夕月は迷うことなくエレベーターに向かう。以前二度訪れた経験から、社内の配置は把握していた。「ちょっと!」受付の女性が、ヒールを鳴らして駆け寄ってきた。予約なしでエレベーターには乗れませんよ!」夕月は振り返り、「新任副社長の藤宮夕月です」と告げた。「副社長だなんて、そう言えばなれるんですか?そんな通達、受けてませんけど!」夕月は相手を見向きもしなかった。この異常な対応は、明らかに誰かの指示を受けてのことだった。エレベーターのドアが開く。受付は叫び声を上げ、ドアを押さえようとすると同時に夕月を押しのけようとした。だが夕月に触れる前に、フェニックス・テクノロジーのメンバーが動いた。鉄壁のように夕月の前に立ちはだかり、受付との間を遮った。全員が退役軍人という経歴を持つ専門家たちは、一糸乱れぬ威厳に満ちていた。彼らは何も言わず、ただそこに立っているだけで、小柄な受付の女性の背筋が凍るほどの存在感を放っていた。エレベーターに乗り込みながら、夕月は受付に告げた。「給与計算を済ませて、明日から来なくていいわ」「私を解雇するって?何の権限があるんですか!」受付
鹿谷の方を向いて「だからお前はNo.4ってわけ」天野のこめかみが膨らみ、顔が険しく曇っていく。今にも爆発しそうな様子だ。立ち上がった夕月は出かける支度をしながら、何気なく尋ねた。「どうして急にお兄さんと伶にあだ名つけてるの?」夕月の隣を歩きながら涼は答えた。「彼女さんが嫌なら、もう呼ばないよ」心の中で呟く。あだ名じゃない、順位だ。これからは内緒で呼ぼう。二人が去った後、鹿谷が静かに口を開いた。「桐嶋さん、あんなに積極的に近づいてくるの、何か裏があるんじゃない?」天野は冷ややかに笑う。「あの間抜けな笑顔を見ろよ」テーブルの買収企画書を手に取り、「でも今、藤宮盛樹の信用を得て、かつ私たちも信頼できるのは、桐嶋しかいないんだ」鹿谷は慎重に考えを巡らせ、やがて小さく頷いた。*車内に差し込む陽の光が、夕月の横顔を優しく照らしていた。「悠斗くんが目を覚ましたって、知ってる?」涼の声に、夕月は小さく頷いた。「ええ。北斗さんからすぐに連絡があったわ」事故のあった日以来、夕月は瑛優を病院に連れて行くのを控えていた。橘大奥様とはもはや話し合いが通じない。瑛優を連れて行くだけで、まるで敵が攻めて来たかのような態度を取られる始末だ。しかも、いくつもの慈善団体から名誉職を剥奪された大奥様は今や、夕月の存在そのものを憎んでいた。病院に行けば大奥様の罵声が飛び交い、それは悠斗の療養の妨げにもなる。「私にできることは、全てやったわ」*この日も定光寺は、橘家の来訪により他の参拝客の受け入れを謝絶していた。橘大奥様は座布団の上で正座し、両手を合わせて祈りの言葉を紡いでいる。車椅子に座った悠斗は、手足にギプスを巻かれ、首にはサポーターを着けていた。丸坊主にされた頭には包帯が幾重にも巻かれ、その表情は生気を失っていた。線香の匂いが鼻についく。呼吸をするたびに、体中の傷が疼いた。目覚めてからわずか三日。大奥様は焦るように悠斗を寺に連れてきて、仏様に加護を祈っていた。意識が戻ってすぐ、悠斗は大奥様に尋ねた。「楓兄貴は?」大奥様は答えた。「あの女は拘留されているのよ」楓の名前を聞いただけで、大奥様の口からは呪詛の言葉が零れ落ちた。悠斗は楓のことを、それ以上聞かなかった。意識が戻ってから、おじいちゃん、
その言葉を口にした瞬間、涼は両手を強く握りしめた。胸の奥で心臓が小さく震え、灼熱が全身に広がっていく。こんな告白、突飛すぎたのではないか。夕月は自分のことを気が触れていると思うかもしれない。涼は俯いて、夕月からの審判を静かに待った。自分のすべてを、彼女の裁定に委ねるように。「恋人同士のふりをすれば……確かに父さんを誘い込めるかもしれないわね」夕月は真剣な表情で続けた。「藤宮テックを手に入れた時点で、私たちの協力関係は終わり。その時は別れたことにして、桐嶋さんは恋人じゃなくなる」透き通るような瞳を見つめながら、涼は喉が熱くなるのを感じた。「一ヶ月限定の恋人に、俺をさせてください」夕月は涼に向かって手を差し出した。「あなたの言う、見返りを求めない愛情。私にはまだ経験したことのないものだわ。でも、感じてみたい。体験してみたい。あなたの気持ちを、素直に受け止めてみたい。だって私は、愛されるだけの価値がある人間だから」夕月は微笑みながら、涼との握手を待った。涼は恐る恐る手を伸ばし、彼女の指先に触れた。電気に打たれたように、一度手を引っ込める。興奮のあまり、テーブルに転がり出しそうになる。耳まで真っ赤に染まり、鼻から熱い息を吐きながら、もう一度夕月の指先に触れる。まるで子供のような無邪気な笑顔を浮かべて。手を引っ込めると、夕月に触れた指先をじっと見つめ、どこに置いていいのかわからないような仕草を見せた。「よろしく、彼女さん」天野は切れ長の眉を僅かに顰め、罵声を呑み込んだ。鹿谷は夕月の隣に座り、彼女の指を自分の手のひらで包み込むようにして、そっと撫でた。「僕、初めて見たよ」鹿谷は小声で夕月に囁いた。「こんな綺麗な愛し方できる人。桐嶋さんって、本当にすごいよね」夕月も声を潜めて答える。「私も初めてよ。でも考えてみたら、こういう経験も悪くないかもしれない。こんな良い機会を逃すなんて、むしろ馬鹿みたいじゃない?」頬を染めた鹿谷は、心の内を打ち明けた。「僕も夕月に対して、何も見返りを求めてないんだよ」夕月の目元に浮かぶ柔らかな笑みを見て、鹿谷は恥ずかしさのあまり、夕月の胸元に顔を埋めてしまった。自分の指先を眺めていた涼は、夕月の胸に顔を寄せている鹿谷の姿を目にして、頭の中で警報が鳴り響いた。
「桐嶋さんは、私のことが好きなの?」夕月の問いは率直で大胆だった。涼の耳朶が一瞬で赤く染まる。テーブルに両手をつき、顔を少し伏せると、濃い睫が微かに震えた。抑えきれない笑みが、喉元からこぼれ出る。「ああ、好きだ」その言葉を告げる時、彼は真っ直ぐに夕月を見つめた。その瞳は無数の星が瞬くように輝いていて、夕月は思わず息を止めた。その眼差しの煌めきを見逃すまいとして——涼は柔らかな眼差しで彼女を見つめ続けた。その瞬間、世界が静寂に包まれた。「いつから惹かれていったか、分かるか?」夕月は首を傾げて考えた。「Lunaとして、レースで優勝を重ねた時?」涼は微笑んだ。「桜都大の講壇で颯爽と輝いていた時だ。レースで全速力で駆け抜けた時も、恋に向かって躊躇なく突き進んだ時も。二人の子供を連れて、学校と橘家の間を忙しく走り回っていた時も。お前の全ての姿が、俺の心を掴んでいた。どの瞬間も、どの年も、生命力に満ち溢れていた。市役所で橘冬真と別れを告げた時も、公道でスピード違反をした時も、全てが俺の心を更に惹きつけた」鹿谷は目を丸くして、涼の大胆な告白に聞き入っていた。天野の周りには暗い気配が立ち込め、夕月の一言さえあれば、この厚かましい男を窓から放り投げる構えだった。「夕月に恋愛を強要するつもりか?」天野の声は険しく、目の前の男を引き裂きかねない鋭い眼差しを向けた。涼は夕月だけに視線を注ぎ、天野の言葉には一切反応を示さなかった。「独身女性に対する成人男性の好意や憧れに、隠すべきものはない。けど、俺の気持ちへの返答は求めない。好きだという感情は俺一人のものだ。その責任も俺が負う。お前は関係ない。もし俺の好意が迷惑で不快なら、それは俺の至らなさだ。下がるし、お前の心地よい範囲で常に行動する」夕月の唇が不意に緩んだ。涼の言葉に、予想外の面白みを感じていた。「じゃあ桐嶋さん、あなたの気持ちに私はどう向き合えばいいのかしら?」涼は身を乗り出し、爽やかな匂いが夕月を包み込んだ。「俺の体、結構いいと思わないか?」意図的に低く紡がれたその言葉は、夕月の耳元で雷のように轟いた。脳裏に勝手に浮かぶ、涼が送ってきた自撮り写真の数々。一枚送るたびに「気に入った?」と尋ねてきた。「嫌なら消すよ。
数日後——桜高商業ビルの最上階オフィスで、夕月は天野昭太と鹿谷伶と打ち合わせをしていた。桜都の新興開発地区に建つ66階からは、広大な港と海への出口が一望できる。大型貨物船がゆっくりと水平線を横切っていく光景が目に入る。天野はスーツの上着をソファの背もたれに投げ捨て、体にフィットしたシャツ姿。ネクタイも締めず、開いた襟元から日に焼けた肌と真っ直ぐな鎖骨が覗いていた。捲り上げた袖からは、筋肉の盛り上がった逞しい前腕が露わになっている。足を少し開いてリラックスした姿勢で座り、天野は言った。「私のフェニックス・テクノロジーも藤宮テックの買収戦に参加している。だがオームテックより高値を付けても、藤宮盛樹が選ぶ保証はない。短期間で盛樹にオームテックを捨てさせ、君の推す企業に売らせるのは至難の業だぞ」三人掛けソファに座った夕月は、手元の資料に目を通しながら答えた。「あの人を完全に信用させられる経営者が必要なの。その企業に売れば莫大な利益が得られると、心から信じさせられる人物を」だが盛樹の人脈を徹底的に調べても、彼を説得できる人物は見つかっても、信用して任せられる相手がいない。天野と鹿谷は上場企業を持っているものの、彼らも、彼らの部下も、盛樹の警戒心を解くには力不足だった。ノックの音が響き、秘書が扉口に現れた。「天野社長、桐嶋さんがお見えです」凛とした気品を纏った男が、まっすぐに夕月の元へ歩み寄る。その姿が近づくにつれ、まるで月光のような清々しさが部屋全体に満ちていった。「桐嶋さんは私に?」夕月は天野が涼を呼んでいたことを知らなかった。涼は一束の書類を差し出した。「俺のペーパーカンパニーの資料だ。藤宮テックーを400億円で買収する計画を立てている」夕月は計画書を受け取りながら言った。「オームテックの倍の価格提示ね。でもそれじゃ逆に父さんは罠を疑うわ」「だから、俺を信用させるんだ」「どうやって?」涼はスーツのボタンを外し、両手をポケットに入れたまま、夕月の前のテーブルに腰掛けた。「例えば、俺がお前の恋人になるとか」彼の唇が緩み、春風のような微笑みを浮かべた。鹿谷が息を飲む音が聞こえ、天野の雰囲気が一変、即座に警戒態勢に入った。涼は続けた。「オームテックに売れば、藤宮盛樹は金を手にするだけだ。自
受話器を耳に当てる。「若葉理事、申し訳ありませんが、上層部より桜都優秀女性賞の授与を一時見合わせるとの通達が……」大奥様の胸が締め付けられた。「誰かに告発されたの?」不安が込み上げる。夕月は自分に不利な証拠を握っているのだろうか。老婦人の頭の中で思考が渦を巻いた。七年間も橘家に潜伏していた夕月。まるでスパイのように情報を集めていたというのか。「理事、息子さんが警察に連行され、ネットではあなたを『鬼姑』と非難する声が……この状況では女性連盟会も距離を置かざるを得ません」「胡桃会長……」言葉を終える前に、電話は切れた。かけ直そうとした矢先、新しい着信が入る。桜国赤十字社からだった。大奥様の胸に不吉な予感が重く沈んだ。「もしもし」「若葉理事、申し訳ありませんが、ネット上の反応を鑑みまして、名誉会長の名簿からお名前を削除させていただくことになりました」大奥様の心臓が激しく鼓動を打つ。「どうしてそんな……」言葉の途中で、また別の着信が入った。受話器を耳に当てると、今度は慈善団体の役職も剥奪されるとの通達だった。「私が何をしたというの?!」大奥様は憤懣やるかたない様子で秘書に問いかけた。その日の夜、楓のSNSアカウントは運営側によって凍結された。しかし五歳児とバイク走行の件に関する議論は、むしろ増す一方だった。自宅で過ごしていた夕月の元に、凌一からの電話が入る。「星来が、君を心配していると伝えてほしいそうだ」雪山の頂から流れ落ちる清冽な泉のような声が、夕月の耳に届く。凌一の声には広がりがあったが、どこか気の進まない様子が混じっていた。「私は大丈夫です」と夕月は応じた。「レースの走りは見事だった」凌一は付け加えた。「星来の言葉だがな」夕月は微笑みを浮かべながら尋ねた。「冬真さんの任意同行で、橘グループの株価が動くでしょう。先生にご影響は……」恭しい口調で問いかける。「心配無用だ。私の事業は橘グループとは完全に独立している」夕月はほっと息をつき、「来週から藤宮テックのM&A案件を担当することになりました。先生、良い報告をお待ちください」凌一は冷ややかな声で短く答えた。「ああ」「先生、私に成功の見込みはありますか?」質問する夕月の声には、かすかな緊張が混じっていた。「君
かつて橘夫人だった頃なら、広報対策を助言していただろう。だが今となっては、全て冬真の自業自得。橘家が揺らごうと、もう自分には関係のない話だった。夕月はICUのガラス窓越しに、息子の姿を見つめていた。医療機器と真っ白なシーツに埋もれた悠斗は、気を付けなければ見過ごしてしまいそうなほど小さく見えた。耳に蘇るのは、二、三歳の悠斗が病院で泣き叫んでいた声。夕月の腰にしがみつき、小さな体を母の胸に埋めていた温もり。あの頃の夕月は、悠斗の全てだった。盛樹が夕月の前に立った。夕月は冷ややかな目で、彼の手に握られた血染めのベルトを一瞥した。「オームテックの重役が接触してきた。藤宮テックの代表として、買収の話をまとめて欲しいそうだ」盛樹は夕月の顔を見据え、意味深な笑みを浮かべた。「来週から会社に来い。副社長の席を用意してやる」世界的な実力を持つレーサーLunaが自分の娘だと知り、さらに多国籍企業オームテックが目を付けているとなれば——盛樹の口元が歪み、瞳に強欲な光が宿る。「さすがは私の娘だ」夕月の肩に手を伸ばそうとした瞬間、夕月は躊躇なくその手を払い除けた。「気持ち悪い。触らないで」夕月は嫌悪感を露わにした。「お前っ!」盛樹が罵りかけたが、指先についた楓の血に気付いた。女だから、血を見れば怖がるだろう——そう思い込んでいた盛樹は、巨額の利益をもたらすであろう娘の顔を見て、途端に機嫌を直した。「分かった分かった、手を洗ってくる。晚月、お前は本当に期待している娘だ。藤宮家の未来はお前にかかっているんだからな!」夕月は胸が反り返るような吐き気を抑えながら答えた。「お父様、ご安心ください。藤宮家の未来は私にお任せを」大奥様は夕月と瑛優を追い払うと、廊下の長椅子に腰を下ろし、アシスタントに指示を出し始めた。「メディアに話を回しなさい。重症の息子が病室にいるのに、母親である夕月は付き添いもしない。実の妹が息子をバイクに乗せているのを知っていながら止めもしなかった。それなのに祖母である私を責めるなんて!」アシスタントは黙って老婦人の言葉を携帯に書き留めていた。突然、知人から送られてきたニュースに目を留めた。開いた瞬間、アシスタントの顔から血の気が引いた。警察に連行される冬真の姿を捉えた動画が、ネットに出
「お嬢ちゃん、ここは無菌室だから、入れないのよ」瑛優は看護師に尋ねた。「悠斗はいつ目を覚ますの?」看護師は優しく微笑んで答えた。「きっと、すぐだと思うわ」夕月が来てみると、瑛優はICUの壁際にしゃがみ込み、クレヨンで何かを描いていた。夕月は、瑛優が描いた常夜灯の絵を病室のドアに貼るのを見つめていた。瑛優は絵を貼り終えると、両手を合わせて目を閉じた。その表情には深い祈りが刻まれていた。夕月の喉元に、苦い感情が込み上げてきた。「悠斗が目を覚ましますように。そうしたら、ママに謝れるから」夕月は娘の頬に手を添えた。悠斗からの謝罪など、彼女は気にしていなかった。でも悠斗は確かに、瑛優と最も近しい存在だった。双子として生まれ、かつては心も体も寄り添って生きてきた二人。重傷を負った悠斗との対面は瑛優にとって初めての経験で、死の影がこれほど身近な人に迫ったことも初めてだった。この恐怖は、きっと長く瑛優の心に残るだろう。夕月はその場に膝をつき、瑛優を強く抱きしめた。瑛優は夕月の肩に顔を埋め、堪えきれない涙を零した。声を立てて泣くまいと必死に耐えながら、夕月の肩で泣き続けた。温かい涙が、母の肩の布地をじわりと濡らしていく。廊下では、数名の警官がまだ残っており、冬真への事情聴取を続けていた「藤宮さんから提出された資料によりますと、交通課内部で違反を隠蔽していた形跡が見られます。楓さんの度重なる違反運転について、橘さんと秘書の方にも調査にご協力いただきたいのですが」冬真の表情が一層暗く沈み、眉間に深い影が落ちた。警官と共に立ち去ろうとする息子の姿に、大奥様は突然、バネが跳ねたように椅子から立ち上がった。「何故冬真を連れて行くの?冬真は何も悪いことなんてしていないわ!」大奥様の大声に、周囲の人々が好奇の目を向けていた。「母さん、取り調べに協力するだけだ」冬真は恥ずかしさを覚えながら言った。大奥様の叫び声に、通りがかりの人々は冬真が何か悪事を働いたのではないかと疑いの目を向けていた。老婦人は夕月に矛先を向けた。「悠斗があんな状態なのに、まだ冬真を陥れる資料なんか集めて!」さらに声を荒げ「そんな証拠があったなら、なぜ早く警察に渡さなかったの?楓を逮捕させることもできたはずでしょう!あなたは最初から悠斗を傷つけ