量子科学では――夕月が会社のロビーに足を踏み入れると、彼女に気づいた社員たちが次々と挨拶をしてきた。社員たちが彼女に向ける眼差しには、純粋な感嘆の色が満ちていた。夕月はシンプルでゆったりとしたウエストマークのセットアップを着ているだけだ。墨色の長い髪はすっきりとポニーテールに結い上げられ、こめかみの後れ毛は二本のアメピンで留められている。足元は履き慣れたフラットシューズで、オフィスには普段使いできるようにと、わざわざ快適なシルクのスリッパまで用意してあった。最近、夕月が新しい社内規則を公布し、各フロアに更衣室が設けられた。社員は社内でスリッパを履いてもよく、ノーメイクでも構わない。今ではハイヒールとストッキングで出勤する女性社員はほとんど見られなくなり、たまに退社後のデートのために一足持ってくる程度だ。社員たちは皆、夕月のこの計らいは「悪だくみ」だと言っている。今やオフィスのデスク周りは自宅より快適で、帰りたくなくなってしまい、結局オフィスで馬車馬のように働く羽目になる、と。口ではそう言っているが、彼らがこの変化を喜んで受け入れているのは明らかだった。「藤宮社長、おはようございます」「社長、おはようございます」夕月は社長専用エレベーターに乗り込んだ。このエレベーターは彼女一人が使い、彼女だけが開ける権限を持っている。専用エレベーターのドアが閉まると、七、八人の一般社員が別のエレベーターに乗り込んだ。「今日のニュース見た?橘グループの社長が婚約するって!しかも相手、うちの社長の実の妹さんで、できちゃった婚らしいわよ!」顔見知りの社員数人が、エレベーターに乗るやいなや、待ちきれないとばかりに口を開いた。「姉妹で同じ男に嫁ぐなんて、橘家もどうかしてるぜ!」「社長の妹さん、きっとずっと前から橘社長とデキてたのよ!数年前から、あの二人いつもベッタリだったって噂だもん!」一人の社員が、ひどく憤慨した様子で言った。「社長はきっと、お子さんが大きくなるまでずっと我慢してたのよ。せっかくの青春を無駄にしちゃって、本当にかわいそうだわ」「社長、妹さんの妊娠のこと、もちろん知ってたわよね?見た感じ、あんまりショック受けてるようには見えなかったけど」すると別の社員が言った。「そりゃ、気持ちを整理してから会社に来てるのよ。さっき
涼の体が前のめりになる。閉まりかけていたエレベーターのドアが、彼の体を感知して見えない力に阻まれたように、再び両側へと開いていく。夕月の顔が、涼の視界いっぱいに広がる。彼は頭を下げ、相手の両目をまっすぐに見つめた。正常なパーソナルスペースを越えた先で、夕月の睫毛が人並み以上に濃密であることに気づく。眉は一本一本が際立ち、何本かは自由気ままに伸びていた。女の瞳は、白目と黒目の境がくっきりと分かれている。彼女が顔を上げることで、顔にかかる影が照明の下からことごとく消え去った。彼女の顔が、涼の視界で、ますます鮮明になっていく。やがて、柔らかな感触が涼の唇に落ちてきた。熱い息が、彼の鼻先で絡み合う。脳内で、轟音と共に巨大な花火が咲き乱れた。眩い閃光が思考を真っ白に爆ぜさせ、視点の焦点さえも奪っていく。エレベーターの照明が、一瞬にして目を灼くほど明るくなった気がした。周りのすべてが純白に染まる。その中で彼が捉えられたのは、くるりと上を向いた夕月の睫毛が、微かに数回震えたことだけだった。その柔らかさが離れていくと、女の指も涼のネクタイからするりと解かれた。夕月の手のひらには、びっしりと細かい汗が滲んでいた。彼女はようやく呼吸を取り戻し、まだネクタイを引かれたまま腰を屈めている涼の姿を見ると、その胸をそっと押し返した。彼女は手を伸ばし、閉ボタンを押す。そして振り返り、エレベーターの外に立つ男を見た。男の体躯は大きい。ホールの照明は箱の中より弱く、今や彼の半身は影の中に沈んでいた。今の夕月には、彼の表情は読み取れない。細かく観察する余裕もなく、ただ視界の端で、光に照らされた男の喉仏のあたりの肌が、淡いピンク色に染まっているのを捉えた。エレベーターのドアが完全に閉まると、夕月は壁に手をついた。そしてわずかに唇を開き、先ほどの感触を反芻する。アドレナリンが急上昇し、エンドルフィンが分泌されて、一日中溜まっていた疲れが吹き飛んでいく。キスを終えた後、体全体が軽くなったようで、頭まで冴え渡るのを感じた。今夜なら、エネルギーに満ちたまま深夜まで残業できそうだ。キスって、本当に効果があるのね。*夕月は部屋に戻り、子供部屋のドアを開ける。瑛優はすでに眠っていた。娘の枕元には、涼が買ってくれたぬいぐるみがいくつか増えている
涼の唇に薄い笑みが浮かんでいた。何も言わず、春の水面のような艶めいた瞳で夕月を流し見る。静寂が二人を包み込み、空気が徐々に熱を帯びていく。返事を待つ間、夕月は自分の鼓動が耳に響くのを感じた。「下まで送るわ」遠回しな別れの合図だった。「ああ」涼は不満ひとつ言わず、ソファにかけてあった上着を手に取った。夕月は玄関へ向かい、スリッパを履いてドアを開ける。涼が近づいてきて、その手に持っていた上着がふわりと夕月の肩にかかった。香水の匂いはしない。ただ、男のかすかな体香が残っている。ムスクとザクロを混ぜたような、思わず喉を渇かせる香り。「外は寒い。羽織ってろ」夕月が上着に手をかけたとき、涼の声が降ってきた。彼女の手は、男の上着の縁に沿って滑り落ちる。それがずり落ちないよう、指先で裾の角をきゅっと掴んだ。二人はエレベーターに乗り込む。下降していく箱の中で、涼が口を開いた。「もし、本当に俺に瑛優と会ってほしくないなら、そう言ってくれればいい」夕月は即座に口を開いた。「そんなこと、思ってないわ」涼の視線とぶつかる。彼の黒く深い瞳の中には、柔らかな笑みと、悪戯っぽい光が宿っていた。わざとけしかけられたのだと気づき、まんまとその手に乗ってしまった自分に、夕月は少し腹が立った。その上、この男は図に乗って尋ねてくる。「俺が瑛優の面倒を見ているの、君は結構好きだろ」夕月は理屈を並べるしかない。「あなたとお兄さんは、まったく違うタイプだから。瑛優が二人と接することで、学べることも多いと思うの」涼の喉から、くすくすと低い笑い声が漏れた。「はいはい。俺が天野の次だってことは分かってるよ。先輩後輩の序列ってやつは、ちゃんと弁えてるから」夕月はぎり、と奥歯を噛みしめた。「そういう風に一歩引いて見せる手口には、もう騙されないから!」エレベーターが一階に到着した。夕月は小さくあくびをすると、指の腹で目元を軽く揉んだ。「ここで見送るわ。今夜はもう少し残業しないと」「だが、もう眠そうだ」彼は夕月に「無理するな」とは言わない。そんな言葉が、夕月にとって何の意味も持たないことを知っているからだ。涼は無駄な気遣いはしない。彼はエレベーターを降り、夕月に向き合った。夕月はただ言った。「眠くても、コードを十数ページは書けるわ」
涼が慌てて瑛優の前にしゃがみこみ、溢れる涙を拭い取った。「もう二度と会えないわけじゃないよ。おじちゃんに内緒で、こっそり会いに来るから」優しく諭すような声で言うと、瑛優がくるりと天野の方を向いた。「おじちゃん、そんなのダメだよ!人は心を大きく持たなきゃ!」天野は腕組みをしたまま、顔色がさらに一段階暗くなった以外、表情に変化は見られなかった。「お前はまだ小さいから、人の心の怖さが分からないんだ」「でも涼おじさんはきれいで格好いいのに、どうして悪い人なの?」瑛優が首をかしげて反論する。「知らないのか?美しい植物ほど毒が強いんだ」「ママは世界で一番きれい!」瑛優は天野の言葉を全く受け入れようとしなかった。涼が瑛優の傍らにしゃがんだまま、耳元で囁いた。「あいつは僕に嫉妬してるんだよ。おじちゃんの独占欲の表れさ。君とママを自分だけのものにしたがってるんだ」瑛優が小さくため息をついた。「涼おじさん、おじちゃんには確かにお友達がいないのね。ちゃんとお話ししてみる」そして腰に手を当てて天野に向き直ると、堂々と宣言した。「私たち女の人はね、三人でも四人でも旦那さんがいるのが普通なの!」涼が「ぷっ」と噴き出し、頭を下げて肩を震わせた。夕月がダイニングテーブルに身を預け、興味深そうに尋ねた。「瑛優、その言葉どこで覚えたの?」天野が涼を見据える視線は、レーザー光線となって相手を貫き通しそうな勢いだった。「桐嶋さんが教えたんだろう」瑛優が首を振って反論する。「クラスのお友達がみんなそう言ってるもん」天野の前まで歩み寄った瑛優が、手を差し出した。「おじちゃん、手をちょうだい」意味も分からずに手を差し出す天野。瑛優がその手を引いて数歩前に進むと、もう片方の手で涼の手を掴み、二人の手を重ね合わせた。涼が切れ長の瞳を細め、笑みを深くする。瑛優が童謡でも歌うように、小さな口でつぶやき始めた。「みんなでお友達!けんかしない、たたかない、一緒に遊びましょう。仲良し家族になろうね」最後は「ラララ~」と歌い出す瑛優。涼が瑛優の手を引いてくるくると回り始めたが、天野は石の柱のように動こうとしない。涼が天野の腕にぶつかると、足を上げて相手のつま先を踏んだ。「チッ!」天野が睨みつける。涼が目配せで合図を送った。「どうした?瑛
涼の視線があまりにも熱く、夕月は居心地悪そうに目を逸らした。「瑛優と、いつまで一緒にいるつもり?」慌てて話題を変える彼女。「君といる方がいいな。追い出されない限りは」男性の声音が耳に心地よく響き、羽根で耳の奥を撫でられているような感覚を覚える。夕月は彼を見ることができずにいると、天野がキッチンから出てくるのが視界に入った。天野は食器洗い機から取り出した皿や茶碗を戸棚に収めた後、身に着けていた黒いエプロンを外した。料理をすることの多い天野のために、夕月がわざわざ選んだ黒いエプロンだった。普段から黒い服を好む天野なら、黒いエプロンも違和感がないだろうと思ったのだが。しかし、そのエプロンを身に着けた天野の姿は、まるで力強い肉屋のように見えてしまうのだった。「なんでわざわざ2人をくっつけるような真似を?」さっき夕月が廊下で騒動を繰り広げている間、天野はずっとキッチンにいた。外に出ることはなかったが、何が起こっているかは手に取るように分かっていた。「義兄さん、そんなことも分からないの?」涼の声に気怠げな響きが混じる。「厄介ごとを押し付けなきゃいけないんだよ。猫同士が喧嘩してる間は、他のことなんて気にしてられないからね」「誰が義兄さんだって!」天野が冷たく鼻を鳴らし、苛立ちを隠そうともせずに相手を急かした。「まだここにいるつもりか?腹も膨れただろうし、とっとと帰れよ」涼が俯くと、漆黒のまつ毛が風に舞う羽根のように、はらはらと震えた。「ああ、僕のことが嫌いなのは分かってるよ。邪魔だと思うなら、帰るよ」マグカップがローテーブルに重々しい音を立てて置かれ、涼が立ち上がる。まるで捨てられた子犬のような佇まいだった。「涼おじさん!」瑛優が子供部屋のドアを勢いよく押し開けて、声を張り上げた。「ちょっと来てもらえる?分からない問題があるの!」涼の足が止まった。振り返ると、瑛優を見つめる眼差しに困惑の色が浮かんでいる。「おじちゃんに聞いてみて。おじちゃんが僕とは遊んじゃダメって言ってるから」瑛優が息を呑み、信じられないといった表情を浮かべた。「おじちゃん、どうして涼おじさんと遊んじゃダメなの?」天野が口を開く前に、涼の声が割り込んだ。「おじちゃんが瑛優にべったりされてるのを見て、やきもち焼いてるんだよ。最近おじちゃ
「本当に私と彼女の結婚を見たいのか?」冬真の声が響いた。夕月の瞳に薄い笑みが浮かぶ。「お幸せに、冬真。今度こそ願いが叶うのかしら?」男の端正な顔に霜のような冷たさが降りる。口から出る言葉にも凍てつくような冷気が混じっていた。「夕月……後悔するぞ」「後悔はしないわ」夕月が彼に告げる。「あなたと結婚したことも、離婚したことも……どちらも後悔していない」「と……冬真」楓がスマートフォンを握りしめ、震え声で呟く。「本当にSNSに投稿するから!」脅そうとしているのに、全く迫力がない。夕月が楓を一瞥する。以前の楓なら、冬真に対して遠慮などしなかった。冬真と寝食を共にし、甘えたり喧嘩を売ったり、強引に自分の言うことを聞かせようとしていたものだ。冬真の子を身籠むほどの度胸があったくせに、今になって脅すことさえできないとは。役立たずもいいところだ。「こっちに来い!」冬真が楓を呼ぶと、楓の肩がびくりと震えた。夕月の陰に隠れたまま、冬真を見上げる勇気すらない。冬真の声がさらに冷たくなる。「橘家の若奥様になりたいんだろう?承知した」「本当?」楓は息をするのも忘れそうになった。「冬真……まさか結婚を餌に私を騙して、油断した隙に子供を始末するつもりじゃ……」冬真の鼻から冷笑が漏れる。楓もようやく少しは頭を使うようになったか。「子供を産むことも認めてやる。これで信用するか?」楓は夕月の背後に身を隠したまま、まだ動こうとしない。「だったらSNSで……私たちの結婚を公表して!」冬真が軽蔑するような笑いを漏らし、スマートフォンを取り出す。しかしその視線は夕月に向けられていた。夕月が彼に告げる。「楓をよろしくお願いします」冬真と楓をくっつければ、この二人はまだまだ一悶着も二悶着もありそうだ。夕月はこの二人が互いに縛り合い、もう自分の前に現れなくなることを心から願っていた。夕月が部屋に向かって歩き出すと、楓の視線は冬真のスマートフォンに釘付けになっている。もう夕月の動向など眼中にない。「夕月!」男が彼女を呼び止めようとする。しかし冬真は名前を呼んだ後、声を落とした。「本当に楓と結婚してやる!」まるで夕月への最後通告のような口調だった。しかし夕月は男を一瞥することもなく、扉が閉まって彼女の姿は完全に遮られた。「冬真、