凌一は長い睫毛を伏せ、優しい声で答えた。「わかった。君の言う通りにしよう」「先生、まだ夕食は?」夕月が尋ねた。「いや、まだだ」「じゃあ、私たちと一緒に鍋はいかがですか?」夕月が誘いの言葉を口にした時、凌一は涼の方をちらりと見た。そして、微かに口角を上げ「ああ、そうさせてもらおう」と答えた。涼は眉を持ち上げ、まるで面白いものを見つけた猫のように、黒い瞳を大きく見開いて凌一の一挙手一投足を観察していた。凌一に随行していたボディーガードの一人が、店内での食事を聞くと「少々お待ちください」と進み出た。警備員は丁寧に取り分けた器で、二種類のスープを試飲した。さらに、化学検査キットで食材の安全確認を行った後、一歩下がり、凌一に向かって「お待たせいたしました。どうぞ、お召し上がりください」と告げた。車椅子の凌一は、夕月の右側のテーブルに位置を移動した。夕月は涼と同じ側に座っていたが、凌一の食事の不便さを察して、すでに煮えた具材を取り分けて凌一の器に載せた。「先生、どうぞ」「ありがとう」凌一は穏やかな声で答え、遠慮なく続けた。「夕月、野菜も少し取ってくれないか」夕月は手際よく凌一の取り分けを続けていたが、涼が思わず口を挟んだ。「随分と気軽に使っているじゃないか」袖をまくりながら、涼は続けた。「橘博士の世話は俺がさせてもらうよ」「あんた奥に座ってるから取り分けづらいでしょ。私がやるわ」夕月は静かに言い返した。涼は諦めながらも、凌一を冷ややかな目で見据えた。「鍋を一緒に食べるなんて、何か考えがあるんじゃないの?」夕月は二人の間の微妙な空気を感じ取り、さっと野菜を取り分けて涼の器に載せた。「はい、食べて。べらべらしゃべってないで」涼は鼻で軽く息を吐き、頬杖をつきながら甘えた声を出した。「俺の話し声がうるさい?それとも機嫌取りしてるの?」「桐嶋弁護士って口が達者なのが取り柄でしょ?」夕月は茶化すように言った。「この口には他にも色んな使い道があるんだけどな」涼のため息混じりの言葉に、夕月の持つ箸が思わず震えた。昼間のオフィスで、彼の熱い唇が膝に触れた感覚が蘇ってきた。「夕月、何考えてるの?」涼が顔を近づけてきて、その輝く瞳に探るような色が宿っていた。夕月は彼の目を見られなかった。まるで見つめ合えば
星来は夕月の胸に身を隠し、凌一の声が聞こえても相手をする気になれなかった。凌一の周りに冷気が漂う。夕月が懐の星来に優しく問いかける。「星来くん、今の気分はどう?お父さんが来てくださったから、先に一緒に帰ってもいいのよ」星来は自分のスマートフォンに打った文字を夕月に見せた。『瑛優ちゃんと一緒に鍋を食べたい』夕月の顔に穏やかな笑みが浮かぶ。小声で尋ねる。「本当に大丈夫?個室に移ることもできるし、少しずつ周りの環境に慣れていけばいいの。無理をする必要はないわ」星来はスマートフォンで素早く文字を打った。『自分でチャレンジしてみたい』「分かったわ!」夕月が頷くと、星来は夕月の腕から離れ、自分の席に戻った。夕月は瑛優の方を向き、「星来くんが一緒に鍋を食べたいって」と伝えた。瑛優は嬉しそうに星来の隣に座り直した。夕月は凌一に向き直り、「先生、どうしてここまで?」と尋ねた。「私が連絡したの」綾子が割り込むように言った。「凌一さんには星来くんをこんな場所に連れてきたって伝えたわ」綾子が凌一に向かって続ける。「やはり星来くんを連れて帰ってください。こんな環境に耐えられるわけないでしょう」凌一は冷たい視線を綾子に向けた。「星来に近づくなと言ったはずだ。聞く耳を持たないのなら、今すぐにでも桜国から出て行ってもらうこともできる」綾子の呼吸が一瞬止まった。夕月は二人の様子を窺っていた。凌一は綾子に対して特別な敵意を見せているわけではない。なのに、なぜ綾子だけが星来と距離を置かなければならないのか。綾子は確かに星来との血縁関係を主張していた。一体どういう関係なのだろう。「橘博士、どうしてそこまで綾子を責めるんですか?彼女が何か?」直人が不満げに声を上げた。凌一の声は相変わらず静かだったが、その言葉には逆らえない威圧感が滲んでいた。「今すぐ、消えろ」瞬時に、綾子の目に涙が浮かんだ。「お姉さんと約束したでしょう?私のことを守ってくれるって!」その一言に、凌一の表情は万年氷河のように冷たいままだった。涼は眉を上げ、微かな笑みを浮かべた。綾子は怒りに任せて、踵を返して立ち去った。「綾子!」直人は慌てて後を追った。鳴は綾子の去った方向を見つめ、それから躊躇いがちに凌一の様子を窺った。何か言いたげだったが、凌一の
突然、背後から誰かが彼を抱きしめた。夕月が星来を自分の胸に引き寄せる。星来の体を自分に寄りかからせ、温かな掌で彼の後頭部を包み込んだ。「あなたは誰にも悪いことなんてしてない。これはあなたのせいじゃないの。星来くんと一緒に鍋を食べられて、私も瑛優も涼おじさんも、みんなとても嬉しかった。私たちにとっても、とても特別な体験だったのよ」星来の体が激しく震えていたが、夕月の香りに包まれると、荒い呼吸が次第に落ち着いていく。小さな手が夕月の腰のあたりの布を握りしめ、彼女の胸に顔を埋めて嗚咽を漏らしながらも、必死に声を殺そうとしていた。自分はなんてダメなんだ!夕月は星来を抱きしめながら言葉を止め、掌で彼の後頭部を包み込むことに集中した。少しでも安心感を与えようと。程なくして警察が到着すると、夕月が説明する。「この女性が子供を連れ去ろうとして、さらに私の娘を叩こうとしましたが、娘が阻止しました」鳴が口を挟む。「夕月さん、少し大袈裟すぎやしないか」警察官が綾子に尋ねる。「あなたとこのお子さんはどういう関係ですか?」「私は……」綾子の声が完全に詰まった。夕月が綾子に問いかける。「星来くんの親族だとおっしゃってましたね?警察の方の前で、その証拠をお見せいただけますか?」綾子の顔色が険しくなった。星来との関係を証明することはできない。親族だと名乗ること自体、凌一への重大な背信行為だった。「それでは、あなたと星来くんの関係は何ですか?星来くんに対する監護権があることを警察に証明できるのですか?」綾子の視線が夕月に向けられ、その冷たさが増していく。警察官が夕月に質問する。「あなたは彼の何にあたりますか?」夕月が答える。「この子は私の娘の友達です」警察官が追及する。「では保護者の方は?連絡は取れますか?」夕月が頷く。「もちろんです」スマートフォンを取り出して凌一に電話をしようとした瞬間、瑛優の声が響いた。「大叔父上!」振り返ると、車椅子に座った凌一がアシスタントに押されて店内に入ってきた。仙人のごとき美貌の男性が、庶民的な鍋店という煙と湯気の世界に現れる光景は、あまりにも場違いだった。周囲の客たちが目を見開いて凌一を見つめていた。涼の喉から軽い笑い声が漏れる。「随分とタイミングが良いじゃないか」綾
綾子の平手が瑛優に向かって振り下ろされるが、瑛優の顔から数センチのところで止まった。瑛優が綾子のもう片方の手首を掴んでいる。綾子は両手の骨が折れそうな痛みを感じていた。「痛い!」綾子が叫び、夕月に向かって吠える。「夕月、あんたの娘をどうにかしなさいよ!」夕月が冷ややかに言い放つ。「瑛優、しっかり押さえておいて」「了解!」瑛優がママの指示に応え、戦闘態勢に入った。涼が尋ねる。「手伝おうか?」「いいえ」夕月が断る。「警察に電話するくらい、私一人でできるわ」夕月が警察に電話をかける。「もしもし、桜都プラザの鍋店で暴れている人がいます。子供に暴力を振るって、私の子を連れ去ろうとしています」星来が夕月を見つめた。夕月の口から出た「私の子」とは、自分のことだろうか?胸の奥で何かが震えたが、表情はまだ困惑に満ちている。今の星来には身体化症状が顕著に現れていて、全身がこわばったように感じられる。周囲からの視線がまるで接着剤のように、彼の動きを封じ込めているかのようだった。瑛優が星来の前に立ちはだかり、綾子の両手首をがっしりと掴んでいる。綾子の顔に冷や汗が滲み、顔色が真っ青になった。手首を貫く激痛で身動きが取れず、綾子は口を開くしかない。「手を離せって言ってるでしょう!聞こえないの?」瑛優の視線が、綾子が星来の腕を掴んでいる手に向けられる。「まずはその手を離して!星来くんに触らないで!」瑛優が眉をひそめて叫んだ。やむを得ず綾子が片手を離すと、瑛優もその手を解放した。瑛優が綾子を睨みつける。「もう人を叩いちゃダメよ!」両手を解放された綾子が口をあんぐりと開け、痛みに耐えながら自分の手首を見下ろす。両方とも赤く腫れ上がっていた。ただの少し太った女の子だと思っていたのに、これほどの力と反射神経を持っているとは想像もしていなかった。「何があったんだ?」直人が近づいてきて、綾子の赤く腫れた手首を見て眉間に皺を寄せる。「手がどうしたんだ?誰が君を傷つけた?」話しながら、直人の氷のような視線が夕月の顔に注がれた。鳴が横から仲裁に入る。「みなさん、争いはやめましょう」夕月が口を開く。「もう手遅れよ」彼女が立ち上がると、直人が冷ややかに詰め寄る。「どうして綾子の手を傷つけたんだ?」「彼女が子供に手を出したか
綾子の顔が涼の言葉で赤くなったり青白くなったりと変色した。M国でちやほやされ、帰国後も順風満帆だった彼女にとって、涼の一言は茹でた牛肉で頬を叩かれたような屈辱だった。夕月が彼女を見つめる。「安井さん、星来くんとの関係を改善したいお気持ちは分かるけれど、焦っては逆効果よ」「あなたに教えられる筋合いはないわ!」綾子が反発し、今まで夕月に対して溜め込んでいた不満が一気に爆発した。「星来くんの生い立ちを知ってるの?星来の過去の辛い経験を理解してるの?何も分からないくせに、星来を理解してるつもりにならないで!」綾子が声を張り上げると、周囲の客たちの視線が集まった。鍋店の座席は密集しており、前後左右の客たちが一斉に綾子の方を振り返る。「綾子さん」鳴が歩み寄ってきた。「前の方と席を交換してもらったよ。さあ、私たちの席で食べよう」綾子が視線を戻し、鳴に尋ねる。「私たちのテーブルはどこ?」鳴が少し離れたテーブルを指差す。「あっちだ」綾子が口調を変え、星来に優しく声をかけた。「星来くん、こっちのテーブルで一緒に食べましょう。鍋がお気に入りなら、お野菜を茹でてあげるわ」星来は奥の席に身を寄せ、さらに壁際へと体を縮こませた。綾子に反応することすら嫌がるように。綾子の騒ぎで周囲の視線が一斉に注がれ、多くの人々に注目される感覚が星来を大きく動揺させていた。自分の一挙手一投足が監視されているような圧迫感に、星来の箸を握る手が小刻みに震え始める。「星来くん、行きましょう!」綾子は星来が微動だにしないのを見て、再び声をかけた。周囲の客たちがざわめく。「一体何の騒ぎ?」「あの子、彼女の子供なの?」「なんだかあの子、様子がおかしくない?」パタンと音を立てて、星来の手から箸が滑り落ちた。箸はテーブルの縁を転がって星来の膝に落ち、付着したトマトスープが彼のズボンに赤い染みを作る。瑛優が慌てて声をかける。「大丈夫、大丈夫だよ」夕月は冷静な表情を保ったまま立ち上がり、新しい箸を取って星来に差し出した。「星来くん!あなたのズボンが!」綾子が大袈裟に反応し、声を上げる。「どうして自分を汚してしまうの!!」星来が目を見開き、戸惑いながら綾子を見つめた。綾子が手を伸ばして星来の腕を掴み、外に引っ張り出そうとする。「あああ
トマト二色鍋が店員によって運ばれてきた。夕月と涼が隣り合わせに座り、瑛優と星来が向かい側に腰を下ろしている。「星来くん、初めての鍋でしょう?お肉の茹で方を教えてあげる!」瑛優が取り箸を手に取ると、店員が気遣って靴カバーを用意してくれた。これなら椅子の上に立って鍋に手が届く。星来は豚肉を食べたことがなくても豚が走るのは見たことがあるように、火鍋を口にしたことはなくても、その食べ方は理解していた。それでも瑛優の熱心な指導を受け、彼女の手の動きを真剣に見つめながら学んでいる。夕月は向かい側に座る二人の子供を眺めた。もし悠斗を連れて外食するなら、絶対に離れて座ったりはしないだろう。悠斗には隣に座って料理を取り分け、食事中も栄養バランスを考えて野菜を多く食べるよう促す必要がある。そうでなければ好きなものばかり食べて、ひどい偏食になってしまう。もちろん、悠斗がこんな場所で鍋を食べることなど絶対にありえないが。橘家では鍋など決して食卓に上がらない。夕月が橘家に嫁いだ当初、張り切って鍋パーティを準備したところ、大奥様が笑い話として友人たちに語って聞かせたものだった。大旦那様も鍋を珍しがったが、夕月にこう提案した。鍋を食べたければ一人で楽しめばいい、大勢で囲む食事は衛生的ではないからと。雲珠はもっと直接的だった。あれは貧民の食べ物よ、貧乏人だけが食材を湯通しして口に運ぶのよ。大勢で同じ鍋をつつく光景を想像するだけでも汚らわしいと鼻をひくつかせた。その後、夕月は時折一人で鍋店に足を向けるようになったが、ある日、その様子をパパラッチに撮られてしまった。名門の醜聞を嗅ぎ回ることで生計を立てているその記者は、写真を自身のゴシップSNSに投稿した。『橘家の若奥様、孤独な鍋ディナー 名門結婚に暗雲!』記事は炎上し、コメント欄には同情の声と辛辣な嘲笑が入り混じった。「可哀想に、一人で鍋なんて」「旦那様も付き添わないなんて」という憐憫の声もあれば、「所詮は玉の輿狙い」「身分違いの結婚の末路」という露骨な皮肉もあった。雲珠の友人がその記事を転送すると、雲珠は激怒して夕月を叱りつけた。二度と一人で鍋を食べに行くことは禁じると。「何を考えてるの?」涼の声が耳元で響く。夕月が我に返ると、黒い瞳が立ち上る湯気に潤んでいた。「久しぶりの鍋だ