登入「冬真!」冬真の姿を見つけた瞬間、絶望の淵にあった楓の顔がぱっと明るくなった。本能のまま彼に縋り付こうと一歩踏み出したが――すぐに彼の異変に気がついた。彼女の視線が、黒いジャケットで不自然に覆い隠された冬真の双手に吸い寄せられる。あのような見え透いた偽装の下に何が隠されているのか、楓にも嫌というほど分かっていた。手錠……?そんな、嘘でしょ?彼女はその場に縫い止められたように立ちすくみ、信じられない思いで声を震わせた。「冬真、どうしたの……?」巨大企業である橘グループのトップが、手錠をかけられているなんて。絶対に何かの間違いだ。その時、冬真の鋭い視線が真っ直ぐに自分を射抜いていることに気づいた。自分を見つめてくれている――本来なら喜ぶべきはずなのに、彼から向けられる眼差しには、殺意にも似た怒りと憎悪、そして骨の髄まで凍りつくような冷たさしかなかった。ズカズカと冬真が迫ってくる。楓の顔に張り付いていた期待は、瞬時に恐怖とパニックへと塗り潰された。迫りくる冬真の恐ろしい気迫に押され、無意識に後ずさりする。「答えろ!悠斗はどこだ!」血を吐くような切羽詰まった怒号だった。楓の唇がガタガタと震える。「わ、私……知らない……本当に知らないのよ!」半狂乱になって、必死に首を横に振った。「知らないだと?」冬真の声は絶対零度のように冷酷だった。「お前がこの誘拐を企てたんじゃないのか。悠斗がどこに監禁されているか、知らないはずがないだろう!」「違うの、私じゃない!居場所なんて本当に知らない!」惨めで無力な被害者を装いながら、楓はすがるように自分の膨らんだ腹を撫でた。「ねえ冬真、お願いだからお腹の赤ちゃんに免じて、そんな怖い顔で怒鳴らないで……ね?」楓の腹に視線を落とした瞬間、冬真は激しい眩暈に襲われた。吐き気を催すほどの嫌悪感に、ギリッと強く奥歯を噛み締め、顎の骨が痛む。「お前の腹のガキなど、俺には一切関係ない!」「あなたの子供なのよ!」楓は狂ったように叫び返した。まるで、そうやって大声で叫び、周囲の全員に思い込ませることさえできれば、自分の構築した嘘っぱちの虚構がそっくりそのまま現実になるのだと信じ込んでいるかのように。冬真は声を低く押し殺し、その一言一言を呪いのように楓の耳元へ
楓は頭が真っ白になり、その場から一歩も動けなくなった。脳内で甲高い耳鳴りが響いている。再び顔を上げて夕月を睨みつけたその両目は、怒りで凄惨なほど赤く血走っていた。すかさずカメラマンがレンズを楓の顔に向け直す。夕月が楓を張り倒す一部始終を目撃したことで、配信のコメント欄はさらに爆発し、残像しか見えないほどの異常な凄まじい速度で弾幕が流れ始めた。「夕月ッ!よくも私を……!」その金切り声が終わるより早く、打たれたのと同じ頬に、再び強烈な平手打ちが叩き込まれた。夕月の手には、骨の髄までの怒りが乗っていた。まさかこれほど重い力でぶたれるとは、楓も予想だにしていなかった。口の中に、どろりとした鉄錆の味が広がる。何か言い返そうとしたものの、引っぱたかれた頬は蜂に刺されたように一気に熱を持ち、パンパンに腫れ上がっていた。無数の針で刺されるような鋭い痛みが走り、まともに口を開くことすら困難だった。「あんたッ……!!」楓はギリッと唇を噛み締めた。全身の血が一気に頭へ上り、顔面が怒りで真っ赤に染まる。怒鳴り散らそうと身を乗り出した、まさにその時――涼が静かに歩み寄ってきた。彼は一言も発しなかったが、まるで夕月を庇う守護神のような絶対的な威圧感を纏っていた。そこから放たれる圧倒的なプレッシャーが、見えない圧力となって楓の気勢を力ずくでねじ伏せた。涼は一枚のウェットティッシュを取り出した。そして、楓を張った夕月の手をそっと取ると、その手のひらを静かに拭き始めたのだ。――まるで、ひどく汚らわしいものに触れてしまったとでも言うように。あまりの屈辱に楓の顔が歪む。文句を言ってやろうと息を吸い込んだが、涼の底冷えするような眼差しとぶつかった瞬間、胸の内で燃え盛っていた怒りは、氷水を浴びせられたように一瞬にして消え失せた。「一発目の平手打ちは、悠斗の母親としての怒り。あの子は私のお腹を痛めて産んだ子で、まだたったの五歳なのよ」「二発目は、あなたの実の姉としての説教」夕月の声はあくまでも淡々としていた。だが、そこには一切の反論を許さない、静かで重い威厳が満ちていた。楓は、見えない何トンもの巨岩が首にのしかかっているかのように、顔を上げることすらできなくなった。ただただ、今の夕月が憎くてたまらなかった。藤宮家に引き取られてから
規制線の外で発された夕月の声は、決して大きくはなかった。だがその一言は、周囲の喧騒を一瞬にして静まり返らせるだけの重みを持っていた。警官は一瞬呆気にとられたが、現場の指揮官が頷くのを見て、静かに規制線を持ち上げた。夕月は迷うことなくその下をくぐり、一歩、また一歩と楓に向かって歩み寄り始める。その後ろ姿を、涼は追いかけなかった。ただ規制線の外に立ち、夜風に揺れる彼女の細い、けれどもしなやかで強い背中をじっと見守っている。頬を打つ冷たい風に、夕月の髪が乱れた。顔色は蒼白で、赤く縁取られた瞳とは対照的に、その唇は鋭い一文字に結ばれている。地べたに無様に座り込んでいる楓。夕月はその前まで来ると、泥を這うような妹の姿を氷のような眼差しで見下ろした。顔を上げた楓と目が合う。その瞬間、楓の瞳から噴き出したのは、剥き出しの怒りと怨念だった。地面に突いた両手を、楓はギリリと握り締める。「……夕月。私の無様な姿を笑いに来たんでしょ!?」絞り出すような冷笑。一番見下している夕月に、これ以上ないほど惨めなところを見られた。その屈辱に、楓のプライドはズタズタに引き裂かれていた。どうせこいつも、手柄目的で駆けつけたに決まっている。私が悠斗を助け出すところを横取りしようとして――「悠斗はどこ?」夕月の問いは、ただただ低く、冷たかった。「そんなの、知るわけないでしょ!」楓は吐き捨てるように答えた。その顔には、隠しようのない焦燥が滲んでいる。「自分の甥を攫っておいて、自分で助けるふりをして……あんた、正気なの!?それが人間のすること!?」夕月の声が、一気に激昂を帯びて跳ね上がった。「攫ってなんてない!拉致なんてしてないわよ!」楓は半狂乱になって叫び、立ち上がろうともがいた。だが、再び腹部に走った激痛に、思わず顔をしかめて押し黙る。「……嵌められたの。あの運転手が、私を陥れるために嘘をついてるだけよ!」警察も、そして夕月も。これだけの人間を前に、自分の罪を認めるわけにはいかなかった。「嘘?よくそんなことが言えるわね」夕月の口から、乾いた冷笑が漏れた。「あんたの汚いライブ配信、全部見てたわよ。拉致犯の言葉も録音も、一千万を超える人間が聞いた。拉致を企てたのも、金を払ったのもあんた自身じゃない。……証拠は揃っているのよ。往生際が悪すぎるわ」
生配信のコメント欄は、この瞬間完全に大炎上していた。楓のアカウントのリアルタイム視聴者数は、すでに十万人を大きく突破している。彼女は「命懸けの子供救出劇」を配信することで一気にトップインフルエンサーへ上り詰める腹積もりだったのだろう。だが今やその目論見は外れ、ネット全土が視聴する公開処刑の場へと成り下がっていた。【マジかよ!これ全部自作自演!?】【何がバイク乗りの女神だよ、ただの拉致の主犯じゃねえか!!頭おかしいだろ!】【藤宮楓、お前人間の心ないのか!橘家の坊ちゃんまだ五歳だぞ!よくそんなことできるな!】【子供をダシにしてセレブと結婚しようとする女に、良心なんてあるわけない。橘の社長は実の姉の元旦那なんだぞ!よくそんな男のベッドに潜り込めるよな!】【通報完了!画面録画もした!こんな奴、母親になる資格なし!】【早く垢BANしろ!二度とネットに顔を出すな!】コメントは濁流のように押し寄せ、文字を追うことすら不可能な速さでスクロールしていく。だが、その一つ一つが剥き出しの怒りと軽蔑に満ちていた。配信の管理人が慌ててコメント欄を閉鎖しようとしたものの、楓のアカウント権限はすでに運営プラットフォームによって緊急凍結されていた。先ほどまで彼女をもてはやしていた大勢の視聴者たちは、今やそっくりそのまま通報者へと変わっていた。*一方その頃。夕月は涼が運転する車の助手席に座り、問題の国道へと急いでいた。彼女もスマートフォンで楓の配信を見ていた。最初から、楓は狂っているとしか思えなかった。しかし、楓が雇った拉致犯に寝返られ、あっけなく事実を暴露される姿を見た瞬間、夕月の全身にぞっとするような絶望感が広がった。いっそ、あんな自作自演の茶番でもいいから、大きなお腹を抱えて子供を救い出してくれていた方が、まだマシだった。計画が破綻した今となっては、悠斗がどこにいるのか、誰も分からなくなってしまったのだから。涼が車を路肩に急停車させる。夕月は弾かれたようにドアを押し開けた。強烈な吐き気が胃の奥からこみ上げ、喉元までせり上がってくる。強く握りしめた指先は血の気を失って真っ白になり、無意識のうちに噛み締めていた唇からは、じわりと鉄錆のような血の味が滲んでいた。国道を埋め尽くすパトランプの赤と青の光が、夜空の半分を毒々し
男は腹の底から怒鳴り声を上げた。「お前が俺を雇ったんだろうが!遊園地で橘家の坊ちゃんを攫って、このバンに閉じ込めろってな!」怒号と共に飛び出したのは、あまりにも決定的な暴露だった。「自分で命懸けの救出劇を演じて、フォロワーを爆増させるって言ったのはどこの誰だ!橘家に恩を売って、その腹のガキごと橘家に嫁ぎ込むのが狙いだったくせに!」一千万人の前で剥き出しの真実を叩きつけられ、楓はカッとなって全身の血が逆流するのを感じた。あれだけの大金を積んだのに、どうして裏切るのよ……!「デタラメ言わないで!」楓は金切り声を上げて男の言葉を遮ると、弾かれたようにレンズへと振り向いた。「切って!早くカメラを止めて!こいつは頭がおかしいのよ!拉致犯の言うことなんか、一言だって信じちゃダメ!」しかし、同行していたカメラマンは事の重大さに呆然と立ち尽くしたまま、録画を停止する気配は微塵もなかった。男は楓に息をつく隙も与えなかった。作業着の内ポケットから黒いICレコーダーを引き抜き、迷いなく再生ボタンを押し込む。小さなスピーカーから、クリアな音声が夜の国道の静寂を切り裂いた。『……あんたは子供をバンに隠しておいて。私が人を連れて見つけに行ったら、適当に抵抗するふりをして子供を渡すのよ。安心して、金なら1千万円用意してあるわ。前金で四百万、終わったら残りの六百万を払うから……』それは紛れもなく、楓自身の声だった。得意げで、ひどく軽薄で、人を見下すような傲慢な響き。『……悠斗を助け出せば、あの橘家が私に多大な借りを作ることになる。私のお腹には橘冬真の子供だっているんだから!無事に橘家に入り込めば、桜都で私に逆らう権力者なんていなくなるわ。仮にあんたがムショに入っても、私が絶対に出してあげるから!』その先も、生々しい自作自演のシナリオが冷酷なまでに垂れ流されていく。楓の顔からは完全に血の気が失せ、紙のように真っ白になっていた。彼女は狂ったように男へ飛びかかり、レコーダーをもぎ取ろうと手を伸ばした。なりふり構わぬ激しい突進に合わせて、大きく膨らんだ妊婦の腹が異常なほど揺さぶられる。それでも男は避ける素振りも見せず、あっさりと機材を奪い取らせた。それどころか、喉の奥からくくっと押し殺したような笑い声さえ漏らしたのだ。男の歪んだ笑み――そこには、あか
茂みから姿を現したその人物を見た瞬間、楓の中で張り詰めていた緊張が一気に解けた。――なんだ、金で雇った運転手じゃないか。濃暗色の作業着に、目深に被ったキャップ。まさに事前の打ち合わせ通りの格好だった。楓は心の中で毒づく。何やってんだよ、あのバカ。運転席で大人しく追い詰められる芝居を打つ段取りだったろ?勝手に茂みなんかウロチョロしやがって。無駄に焦らせるんじゃないよ。だが、そんな些細なミスはどうでもいい。重要なのは、今この瞬間もカメラがしっかり回っているということだ。楓は瞬時に表情を作り直す。焦りの色は消え去り、怒りと正義感に燃える凛々しい「ヒーロー」の顔へと完璧に切り替わった。彼女はカメラマンの方を向いて鋭い視線を送ると、勢いよく振り返り、男に向かって大股で歩み寄っていく。「お前だな!」夜空をつんざくような大声。抑えきれない怒りと、作り物の悲痛さを絶妙にブレンドした名演技だった。「橘家の坊ちゃんを誘拐したのはテメェだな!人の心ってモンがねえのか?まだ五歳の子供に、よくもあんなひどい真似を!」その声に合わせ、取り巻きの男たちが一斉に近づき、男の退路を塞ぐようにぐるりと包囲する。カメラマンは肩に乗せた機材を構え、楓の勇敢で凛々しい姿と、正義に満ちた表情を余すところなくフレームに収めていた。今頃、生配信のコメント欄は尋常ではない勢いで滝のように流れているはずだ。画面の向こうのリスナーたちがどれほど自分を称え、熱狂しているか。それを想像するだけで、楓は笑いがこみ上げてくるのを止められなかった。この茶番劇は、彼女が何度も頭の中でシミュレーションを重ねてきた完璧なシナリオだ。まず、配信で「今夜、とんでもないことが起きる」と匂わせる。そして仲間を引き連れて誘拐犯の車を「勇敢に」追い詰め、何万人ものリスナーが見守る中で悠斗を救い出す。最後は、橘家の大切な御曹司を、冬真の腕に直接手渡してやるのだ。そうすれば、あの高慢な橘家だって、涙を流して自分に這いつくばるしかない。何より生配信という「証拠」を盾にすれば、ネットの世論を使って橘家を完全にコントロールできる。『橘冬真は命の恩人である藤宮楓と結婚すべきだ』『橘家は彼女の身の安全と未来に責任を持て』そんな声が、SNS全体から怒涛のように湧き起こるはずだ。さらに、身重でありなが
楓は唇の端を歪める。底なし沼のように昏い瞳の奥に、悪意の光がゆらりと揺れた。彼女は唇に笑みを浮かべたまま、心の中で秒数を数える。三十秒ほど経って、ようやく冬真の声が聞こえてきた。「秘書に連絡させる。海外のデザイナー何人かに、最新作のドレスを藤宮の家に送るよう手配させよう」「冬真、ありがとう。あなたって、本当に優しいのね」楓が言い終わる前に、冬真は一方的に通話を切った。楓はふうっと息を吐き、スマートフォンを握りしめる。笑みが瞳の中で弾けた。「楓ちゃん、どこ行くの」楓がくるりと背を向けて出ていこうとするのを見て、心音は声をかけた。楓はぴたりと足を止め、心音を見下ろす
「悠斗くん、どうしたの?」クラスメイトたちが心配そうに声をかける。でも悠斗は答えない。衣服を抱きしめたまま、ただひたすら泣き続けた。橘邸に帰った悠斗は、まるで魂が抜けたようにぐったりしていた。佐藤さんでさえ、悠斗の様子がおかしいことに気づいた。「坊ちゃま、どうなさいました?先生から伺ったのですが、今日は休み時間に泣いていらしたとか……瑛優お嬢様に何かされたのですか?」橘家の使用人たちは皆、悠斗の一挙手一投足を注視している。佐藤さんが把握しているのは、悠斗が瑛優と何か話した後、突然泣き出したということだけだった。悠斗は首を振る。「瑛優は僕を叩いてない……もう、一人にして」
凌一は長い睫毛を伏せ、優しい声で答えた。「わかった。君の言う通りにしよう」「先生、まだ夕食は?」夕月が尋ねた。「いや、まだだ」「じゃあ、私たちと一緒に鍋はいかがですか?」夕月が誘いの言葉を口にした時、凌一は涼の方をちらりと見た。そして、微かに口角を上げ「ああ、そうさせてもらおう」と答えた。涼は眉を持ち上げ、まるで面白いものを見つけた猫のように、黒い瞳を大きく見開いて凌一の一挙手一投足を観察していた。凌一に随行していたボディーガードの一人が、店内での食事を聞くと「少々お待ちください」と進み出た。警備員は丁寧に取り分けた器で、二種類のスープを試飲した。さらに、化学検
夕月はベッドの横の椅子に腰を下ろし、男の爪の間に血の汚れが詰まっているのに気づいた。凌一の現在の体調では入浴は不可能だった。病院は確かに看護師を手配するはずだが、彼ほどのプライドの高い人間が他人に体を触れられることに慣れるには、相当な心の準備が必要だろう。夕月は立ち上がり、洗面所へ行って水を張った洗面器を持ってきた。ベッドサイドテーブルに洗面器を置き、湿らせたコットンタオルを絞る。彼女は凌一の片手を取り上げ、湿ったタオルで拭き始めた。凌一は目を見開いた。頭の中では手を引っ込める指令が出ているのに、腕はまったく言うことを聞かなかった。ベッドに横たわったまま、夕月が俯いて自分の







