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第26話

Auteur: 黒澤心毒
「嫌だ。だって……」

「お前が汚く思えるから」

瑞樹はその言葉に飛び起き、取り乱したままバスルームへ駆け込み、何度も何度も身体を洗った。

皮膚を削ぎ落とす勢いで、ひたすら擦り続けた。

目は充血し、唇からは無意識の独り言が漏れていた。

「早絵、もう綺麗になったよ。汚れてない。俺、もう汚くないから」

「食ったもんも全部吐いた。だからもう、俺を嫌わないで。ちゃんと言ってくる、もう誰にも近づかせない」

三十分以上経って、ようやく瑞樹はバスルームから出てきた。

その姿を見た瑞樹母は部屋に入ろうとしたが、彼に止められた。

「入らないで。早絵は母さんのこと嫌いなんだ。ここは俺がちゃんと守る。もう彼女を悲しませたくない」

瑞樹母は諦めたように、その場に座り込んだ。

「もう止められないわね。だったらせめて、ここで一緒にいるよ。あんたがそんな顔してたら、私だってつらいのよ」

「瑞樹、そんなふうになるくらいなら、いっそ殺された方がマシよ。どうしたら諦められるの?」

瑞樹は長いこと黙り込んだ。

「母さん、俺は彼女に会いたい」

「もし本当に俺を捨てるとしても、本人の口からそれを聞きたい。それじゃなきゃ、諦められないんだ」

瑞樹母は喉がつまって、言葉が出なかった。

けど、もし会えたとして、本当に彼は手放せるのだろうか?

「……わかった、手伝う。でも、こんなふうに早絵に会いに行くのはやめなさい。下に行って、何か作ってくるから。ね?」

早絵の名が出たことで、瑞樹の表情がようやく緩んだ。

「……うん」

海の向こう側。

「こっち」

デコボコの小道で、結城が手を差し伸べた。「気をつけて」

早絵はほんの数秒ためらったあと、そっとその手を取った。

結城と一緒に旅をするようになってから、最初のうちは自分で組んだ旅程通りに動いていた。でもいつの間にか、それもやめて彼に任せるようになった。

彼女の計画にあった場所は、まるで全部、結城が既に行ったことがあるかのようだった。

ガイドに載っている有名なスポットには、結城が自然と案内してくれる。

価値がないと思われる場所は、代わりの候補を結城もちゃんと持っていた。

しかも、その代案はいつも、なぜか早絵の好みにぴったり合っていた。

路地裏の果実酒専門店に着いたところで、結城はそっと彼女の手を離した。

「ここの果実
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