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第179話

Author: 玉酒
愛がなければ、美穂はきっと耐えられた。和彦が外に愛人を何人囲おうと、知らぬ顔でいられた。

けれど、彼を好きになってしまった。

だからこの「半煮えの飯」を、喉を詰まらせながらも飲み込むしかなかった。

三年もの間、黙って飲み下してきた苦味は――ついに喉を裂き、もうこれ以上は嚥下できない。

「立川執事」美穂は一本の桜を瓶に挿した。純真無垢な白い花が咲き誇っている。「約束を守るべきなのは、私じゃないわ。私は彼が誓いを果たすための『道具』でもないの」

花瓶の中央で咲いた桜は、美しい淡い桃色で強い生命力を示している。

和夫は口を開いたが、声にならなかった。

夜半には使用人たちの看病も行き届き、和彦の体温は徐々に下がり、傷口の出血も止まった。

美穂は離婚協議書を丁寧に整え、枕元のテーブルに置いた。

――目を覚ませば、すぐに見えるように。

その後、ゲストルームの準備を命じ、今夜はそこで休むことにした。

だが、和彦の署名を待つより早く、将裕が一つの朗報を持って現れた。

バーション2.0モデルのバックエンドが無事にコネクトされ、データのフィードバックが始まったのだ。

美穂はすぐさま会社へ向かい、同時に柚月へ連絡を入れた。そしたら、柚月からはすぐにビデオ通話が届いた。

ラボの空気は張りつめ、そして熱を帯びている。

ヒューマノイドの頭部モデルを囲む研究員たち。最前列には美穂と将裕、その隣にタブレットを抱えた律希とフルスタックエンジニアが並ぶ。

美穂の白く細い指先が、パチン、と小気味よく鳴った。次の瞬間、頭部モデルの瞳が瞬き、彼女の声に反応して顔を向けた。

「水村社長、命令を出していいですよ」フルスタックエンジニアの目が興奮で輝いた。

美穂はうなずき、いくつかの簡単な命令を出した。

頭部モデルの音声システムは、人が最も心地よく感じる声色で、正確に返答した。

反応も滑らかで、細部の誤差を除けば、完成度はすでに驚異的だ。

「美穂、君は本当に天才だ!」将裕は興奮のあまり、彼女の肩を抱いた。「このプロジェクトが実用化されたら、業界のルールを書き換えられる!」

背後では社員たちが一斉に安堵の息をつき、若いエンジニアたちは歓声を上げた。

プロジェクトが節目を迎え、努力が報われた瞬間だ。

美穂はモニターに流れるデータストリームを見つめ、穏やかに言った。「今夜
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Comments (1)
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あまねく
前回の和彦の 上にこい の意図は? こういう感じてのらりくらりな展開ばかり またすれ違いの生活でいつ離婚に向き合うの?
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