LOGIN菅原爺、菅原武(すがわら たけし)の誕生日宴は、郊外の古典的な別荘で催されていた。青い瓦の軒先には提灯がぶら下がり、廊下を通り抜ける風にはかすかに金木犀の香りが漂う。別荘の中では酒杯が交わされ、琉璃の灯りが彫刻の施された木の梁から下がり、集まった客たちの華やかな衣装を柔らかく照らしていた。美穂は和彦の腕を取って入場した。淡いブルーのロングドレスには銀糸で絡み枝の蓮の模様が刺繍され、首元の蓮のボタンは彼のスーツの翡翠のカフリンクスと美しく呼応していた。裾に浮かぶ暗い文様が歩くたびに微かに金色の光を散らし、まるで星の粉を纏っているようだ。布越しにも伝わる和彦の腕の筋肉の張りと、わずかな熱を美穂は感じていた。この場に招かれたのは、京市でも上位三家の名門や菅原家と親交のある旧家の人々がほとんどで、その中には軍関係者の姿も多かった。武は古典を好む人で、この別荘もすべて彼の趣味に合わせて建てられている。別荘の庭園には、人工の小川があった。その上の橋で数人ずつが静かに談笑しており、怜司と篠の姿もあった。篠が二人に気づくと、すぐに手を振った。「先に行ってくるわね?」と美穂が小声で言うと、「うん」と和彦は短く答えた。そう言いつつも、彼はお香立ての置かれた回廊を彼女と並んで歩いていった。ゆらゆらと立ち上る煙が二人の肩口に絡みつき、淡い香が残る。篠の前に着くと、彼女はいきなり美穂の手を掴んで言った。「行きましょう、おじい様にお祝いを言いに!」後ろでは和彦と怜司が軽く会釈を交わし、二人の後をついていく。主ホールの中では、篠が人混みをかき分けて美穂を引っ張り、ちょうど旧友と絵画を鑑賞していた武のもとへとたどり着いた。そしてにこやかに紹介した。「おじい様、こちらが私の新しい友達の水村美穂。前に名前、聞いたことあるでしょ?」武は矍鑠とした様子で上座に座り、にっこりと髭を撫でた。「ああ、知ってるよ。お前ももうすぐ婚約するんだろう、陸川家の若夫人に礼儀を習って、少しはおとなしくしておかないと嫁ぎ先に嫌われるぞ」武は昔気質で、考え方もどこか保守的だ。だが妻の由美子に何年も鍛えられ、今ではずいぶん丸くなった。それでも時折、思わず人をむっとさせることを言うのだ。篠は聞き慣れた調子にまったく動じず、「もう!聞こえなーい!」と舌を
個室のドアを押し開けようとした瞬間、美羽がふいに口を開いた。その声音には、淡い挑発と軽蔑が滲んでいた。「水村さん──離婚協議書、もう手に入れたのかしら?」美穂はゆっくりと身を返し、静かなまなざしで彼女を見つめた。そして、表情を変えぬまま淡々と告げた。「その質問、和彦本人に聞いたら?」それだけ言うと、美穂はもう一瞥もくれず、個室の中に入り、あの白檀の香りと混じった、曖昧で不快な空気を背後に閉め出した。美羽の柔らかな瞳が徐々に冷えていく。数秒間、彼女は美穂が入った個室の扉をじっと見つめ、やがて無言のまま踵を返して去っていった。……用を済ませて洗面所を出た美穂は、ちょうど書類を抱えた深樹と鉢合わせた。少年は彼女を見つけるなり、ぱっと顔を明るくして笑いかけた。「水村社長!」見て見ぬふりもできず、美穂は軽く問いかけた。「星瑞テクでの仕事はどう?もう慣れた?」「土方社長がすごくよくしてくれてます!」深樹は照れくさそうに後頭部をかき、目を輝かせた。「今はもう、自分でプロジェクトを任されてるんです!」そう言うと、彼は両手を合わせて祈るように見上げた。その目はまるで、濡れた子犬のように真っ直ぐで。「それで……父の手術、すごくうまくいったんです。ずっと『命の恩人にお礼を言いたい』って言ってて……お医者さんも、『気持ちが前向きなほうが回復が早い』って。だから、少しだけでも顔を見せていただけませんか?」深樹は、本当は美穂に断られるのを恐れてあんな理由を口にした。けれど、父親が彼女に感謝している気持ちも、紛れもなく本物だ。断るつもりでいたが、少年の真っ直ぐな目に押されて言葉を失った。やがて、わずかにため息をついて頷いた。「……分かった。時間を作るわ」「ありがとうございます!」深樹は満面の笑みを浮かべ、何度も頭を下げて去っていった。その後ろ姿を、美穂はしばらく見送った。彼が廊下の角を曲がって見えなくなるまで。そして、そっと小さく息を吐いた。……エレベーターに乗り込むと、隅に長身の男の影が立っているのに気づいた。男はスマートフォンを見つめ、無言のまま画面を指で滑らせている。彼女の存在には気づいていないようだ。美穂は自分が乗ったのが普通社員用のエレベーターだったことを思い出した。おそらく今月もまた定
「どんな噂?」美穂がまだ口を開く前に、天翔が先に食いついた。目がランプのように輝いている。「土方社長、お疲れ様です」芽衣は笑顔で挨拶しながら、美穂の隣にぴたりと座った。「抹茶ケーキ買ってきたの。美穂、ちょっと食べてみて。美味しいかどうか教えて?」美穂の杏のような瞳がゆるやかに弧を描き、穏やかに微笑んだ。「分かった、ありがとう」「私の分は?」天翔が不満げに言った。「なんで私にはないんだ?」「あるある、ちゃんとみんなの分ありますよ!」三人はケーキをつつきながら、軽口を交えて談笑した。芽衣は一口ケーキを頬張り、もごもごと言った。「聞いてよ、さっき下に降りたときにね、美羽さんが社長のオフィスから出てくるのを見たの」その言葉に、天翔の目に失望の色がよぎった。「そんなの普通だろ?美羽さんと社長の仲はすごくいいし、莉々さんよりも親しいじゃないか。莉々さんが来たときなんて、社長がわざわざ下まで迎えに行ったことなんてなかっただろ」芽衣は首を振り、わざと意味深に言った。「土方社長、分かってないですね」彼女が見たのは、シャツの襟元が少し乱れ、髪も微かに乱れた美羽の姿だった。「まさか……」と喉まで出かかった言葉を飲み込んだが、あの様子では誰だって誤解するだろう。「美穂も美羽さんに会ったことあるでしょ?莉々さんと顔立ちがすごく似てない?」芽衣は一瞬ためらい、困惑したように続けた。「ずっと莉々さんが社長の本命だと思ってたのに……まさか本当の恋人は美羽さんだったなんて」秦家の二人の娘を区別するために、秘書課では今や「美羽さん」「莉々さん」と名前で呼び分けている。美穂は少し首を傾げた。「なんでそう思うの?」芽衣は顔を近づけ、小声で囁いた。「知らないの?昨日のオークションで社長が十二億で落札した名家の古画を、美羽さんにプレゼントしたのよ。……そんな待遇、莉々さんでさえ受けたことなかったの」美穂が以前、夢のように豪華だと思っていた誕生日パーティーでさえ、今日、和彦が何気なく美羽に贈った骨董品には到底及ばない。「しかもね、社長は自分の名義の株の一部を美羽さんに譲渡するつもりなんだって!」芽衣の瞳は羨望で輝く。「いいなぁ……あんなハンサムでお金持ちで、しかも自分を想ってくれる男に出会えるなんて」天翔が即座にツッコミを入れた。「もう夢を見る
「あの人が補償してくれたって、どうして分かるの?」美穂は綿棒にヨード液を染み込ませ、傷口を消毒していた。鋭い痛みに眉がかすかに寄り、声にも苛立ちが滲んだ。「権力で私を押さえつけようとするかもしれないって、思わないの?」峯は鼻で笑った。「お前の利に聡い性格からして、そう簡単に鳴海を見逃すとは思えないな」美穂の手が一瞬止まった。――利に聡い、か。いつから、自分はそんなふうに見られるようになったんだろう。彼女は無意識に綿棒を指先で転がし、少し間をおいて小さく呟いた。「……彼、私たちの新婚の家と、志村家との共同プロジェクトの半分を譲ってくれた」――キィッ。峯が急ブレーキを踏み、驚いた顔で彼女を振り返った。「結婚して三年も経つのに、今さら名義を変えたのか?陸川家って、どれだけケチなんだよ」「いや、悪いけどさ」彼は呆れたように舌を鳴らし、続けた。「兄貴が初恋の女と付き合い始めたときなんて、一週間で公海に島を買ってやったんだぞ。別れる時も十八億の慰謝料、目もくれずポンと渡した。『いい男と結婚できなかったら困るだろ』ってさ」「……」美穂は返す言葉がなかった。彼女は頬を陽に温められた窓ガラスにそっと預け、頭の中で、和彦がこの三年間に自分へ与えたものを数えてみた。――合わせても、二億にも届かない。……マンションに戻ると、美穂はそのままベッドに倒れ込んだ。だが、横になって三十分も経たないうちに、峯に腕を引かれて起こされた。「ほら、体にいいもの」峯はナツメとクコの実を入れた粥を差し出した。「熱いうちに飲め。飲んだら残業な。プロジェクトが取れたら、休む暇なんてないぞ」美穂は冷たい目を上げた。「……あなた、ますます人間味のない資本家みたいになってきたわね」「そりゃそうだ」峯は得意げに眉を上げた。「金を稼いで、結婚しないといけないし。お前も頑張って、俺の結納金の足しになってくれよ」美穂は容赦なく白い目を向けた。――この男は、一日二回は叩きのめさないと、尾っぽが天まで伸びる。彼女も分かっている。峯の言葉は間違っていない。プロジェクトを正式に取れば、もうのんびりする暇なんてなくなる。ちょうどその時、粥を飲み終えた美穂のスマホが鳴った。見知らぬ京市の番号だ。出てみると、志村家の当主、誠だ。「水村さん
美穂は微動だにせず、ゆったりとスカートの裾を整えながら、落ち着いた姿勢で静かに待っていた。「チッ」峯が突然立ち上がり、長い足でずかずかと鳴海の前に歩み寄った。片手で相手の襟元を乱暴に掴み、鋭い目で睨みつけた。「耳が聞こえないのか?謝ることもできないなら、その口なんて要らないだろ。切り落としてやろうか?」そう言うなり、ポケットから折りたたみナイフを取り出し、カチリと刃を弾き出した。冷たい光が閃き、まっすぐ鳴海の口元へ――「やめろっ!やめてくれ!」重吉が肝を潰したような叫び声を上げた。だがボディガードたちはすべて簡易裁判所の外におり、中には入れない。先ほどまで沈黙していた翔太と美羽が慌てて動いた。一人は峯を止めようと駆け寄り、もう一人は和彦の手をぎゅっと握りしめ、必死な眼差しで彼に助けを求めた。「鳴海」鋭い刃が鳴海の唇に届く寸前、和彦の冷たい声が室内に響いた。「美穂に謝れ」鳴海は子どもの頃からこんな屈辱を受けたことがなかった。振り上げた手は今にも峯の顔に届きそうだったが、和彦の一言を聞いた瞬間、その動きをぐっと押し殺した。「離せ」鳴海は怯むことなく峯に睨み返し、低く吐き捨てた。「謝れって言うなら離せ。そうじゃなきゃどうやって謝る?」――パシン!返ってきたのは、勢いのある平手打ちだ。峯は鼻で笑い、手を振り払った。鳴海を離したが、その代わりに代償を払わせたのだ。「鳴海!」美羽が悲鳴を上げた。だがその声以外、調停室は水を打ったように静まり返る。いつもは世渡り上手な翔太でさえ、静かに席に戻り、複雑な目つきで鳴海を一瞥したきり、もう何も言わなかった。美羽は何かを悟ったようで、不安げに鳴海を見つめたが、何も言わずに唇を噛んだ。鳴海は鼻で笑い、しぶしぶ美穂の前に立った。唇を動かし、ようやく搾り出した。「……すみません」「声が小さいわね」美穂はスマホの画面から目を離さず、淡々と告げた。彼女がわざと困らせているのは明らかだ。鳴海は目を閉じ、声を張った。「すみませんでした!」「聞こえない」美穂は顔を上げようともしない。美羽がついに我慢できず、前に出て口を開いた。「水村さん、鳴海はまだ酔っていて、喉も万全じゃ――」「あなたが代わりに謝るの?それとも代わりに賠償金を払う?」美穂は目を上げ、杏色の瞳に
言い終えると同時に、峯の鋭い視線が、沈黙を守る和彦に突き刺さった。全身から立ち上る怒気は、もはや形を持つかのように重く張りつめている。「和彦、俺の妹は『陸川家の若夫人』って肩書を背負ってるんだぞ。その彼女が酒酔い運転の車にこんな目に遭ったのに……お前は見て見ぬふりをする気か?」空気が、弦のようにぴんと張り詰めた。もう一言でも発せば、火花が散りそうなほどに。和彦の視線が、淡く美穂の額をかすめた。その声は氷のように静かで、感情の揺れが一切なかった。「美穂、外で話そう」そう言って彼は最初に立ち上がり、調停室を出ていった。磨かれた革靴が床を打つ音は一定のリズムで、冷ややかに響いた。そこには、迷いもためらいもなかった。美穂は最初、拒もうとした。けれどその言葉は喉の奥で溶けて消えた。もし彼が本気で介入してきたら――鳴海との関係を考えれば、すぐにでも事を丸く収めてしまうだろう。そうなれば、訴訟どころか、最低限の補償さえ手に入らない。深く息を吸い、美穂は平然を装って立ち上がった。背後でガラス扉が閉まる音と同時に、廊下の感知ライトがぱっと灯った。二人の影が長く伸び、重なりながらも、はっきりと分かれていた。「鳴海の件は、もう追及するな」和彦は身を傾け、冷たい白い光が彼の顎のラインをくっきり浮かび上がらせる。「俺が志村家と話をつける。十分な補償を出させよう。……足りないと思うなら、俺個人でも上乗せする」その声には感情の起伏がほとんどなく、まるで、ひとつの取り引きを淡々と進めているかのように。美穂はふと気づいた。――彼が自分にこんなに長く話しかけたのは、きっとこれが初めてかもしれない。その一言一言には冷たい計算が滲んでいて、友人を守るために、彼女に法律と正義の前で身を引けと言っているのだ。美穂の唇がわずかに動いたが、言葉は出なかった。彼のそうした損得勘定ばかりの態度には、もう慣れたはずだ。心臓も、幾重にも重なった鈍い痛みのあとには、ただ冷えきった麻痺だけが残り、悲しみも失望も、もう感じることはない。「……あなたがくれるものって、何?」自分の声が、驚くほど冷ややかで静かだ。和彦がようやく彼女の方に振り向いた。その視線が、美穂の美しい眉のあたりで一瞬だけ止まり、簡潔に言い放った。「櫻山荘園を、お前の名義