Share

第472話

Author: 玉酒
「後悔することになるぞ!」

静雄が背後から低く怒鳴る。

美穂は振り返らず、そのまま扉を開けて出ていった。

足音が廊下の奥へ消えていく。応接室の半開きのドアから冷たい風が流れ込み、麻沙美は思わず身震いした。

彼女は急に振り返り、まだソファに座っている静雄を見る。声には焦りが滲んでいた。

「ほら見なさい!言ったでしょ、あの子が折れるはずないって!どうするのよ?智也の方は催促が来てるし、港市のプロジェクトは来週保証金を納めないといけない。金が出せなければ、うちは本当に終わりよ!」

静雄は拳を握り締め、関節が白く浮き上がる。レンズの奥の目は陰鬱だった。

「慌てるな」低く押し殺した声。「せめて父娘の情くらいは考えるかと思ったが……ここまで冷たいとはな」

「父娘の情?」麻沙美は鼻で笑い、彼の前へ歩み寄り、腰に手を当てる。「聞こえなかった?あの子の心にあるのは、あの二人のことだけ。私たちなんて眼中にないのよ」

一拍置き、ため息をつく。声が少し柔らぐが、迷いを含んでいた。「……あの人に頼んでみる?」

その言葉が出た瞬間、静雄の身体がわずかに固まる。顔色がさらに悪くなる。「正気か?あ
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 冷めきった夫婦関係は離婚すべき   第472話

    「後悔することになるぞ!」静雄が背後から低く怒鳴る。美穂は振り返らず、そのまま扉を開けて出ていった。足音が廊下の奥へ消えていく。応接室の半開きのドアから冷たい風が流れ込み、麻沙美は思わず身震いした。彼女は急に振り返り、まだソファに座っている静雄を見る。声には焦りが滲んでいた。「ほら見なさい!言ったでしょ、あの子が折れるはずないって!どうするのよ?智也の方は催促が来てるし、港市のプロジェクトは来週保証金を納めないといけない。金が出せなければ、うちは本当に終わりよ!」静雄は拳を握り締め、関節が白く浮き上がる。レンズの奥の目は陰鬱だった。「慌てるな」低く押し殺した声。「せめて父娘の情くらいは考えるかと思ったが……ここまで冷たいとはな」「父娘の情?」麻沙美は鼻で笑い、彼の前へ歩み寄り、腰に手を当てる。「聞こえなかった?あの子の心にあるのは、あの二人のことだけ。私たちなんて眼中にないのよ」一拍置き、ため息をつく。声が少し柔らぐが、迷いを含んでいた。「……あの人に頼んでみる?」その言葉が出た瞬間、静雄の身体がわずかに固まる。顔色がさらに悪くなる。「正気か?あいつがどんな人間か分かってるだろう。関われば、水村家を火の中に突き落とすことになる」「火の中?今だって火の中にいるのよ!」麻沙美の声が一気に高くなる。苛立ちが露わだった。「智也の賭博の借金、梓花の賠償金、それに港市プロジェクトの保証金。全部合わせて数千億よ!あの人以外に、そんな額を一度に出せる人間がいる?」彼の腕を掴み、強く揺さぶる。「静雄、子どもたちのためよ。水村家のためでもある。もう他に道なんてないの!」静雄は目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、あの男の陰湿な笑み。そして噂に聞く血なまぐさい手段。胸がゆっくりと氷の底へ沈んでいく。「……少し考えさせてくれ」長い沈黙のあと、ようやく言葉を絞り出す。迷いが滲んでいた。「もう少し時間をくれ。別の方法があるかもしれない。陸川和彦の方にまだ望みが――」「陸川和彦?」麻沙美は嘲るように笑う。「美穂の態度、見なかったの?二人の離婚はもう確定よ。あの男が私たちを助けるわけないじゃない」彼女は苛立たしげに室内を行き来し、やがてソファへ腰を落とした。「あなた、現実を見なさい。私たちに残ってる道は、あの人だけよ」静雄は何

  • 冷めきった夫婦関係は離婚すべき   第471話

    麻沙美はすぐに言葉を継いだ。「智也と梓花のためよ。今年ちょうど大学受験でしょう?終わったら向こうで予備課程に入れるつもりで、家と学校を見に行くの」「そうなの?」美穂の紅い唇が、皮肉めいた弧を描く。「私が聞いた話では、智也は賭博で借金を抱えているとか。梓花は人を殴って怪我をさせて、相手が刑事告訴するつもりだとか」――どれも峯が掴んできた情報だ。表に出ている分だけでこれなら、裏ではもっと酷いに違いない。麻沙美の顔色が一瞬で変わる。だが静雄はまだ落ち着いていた。「子どもが少し騒ぎを起こしただけだ。もう片付いている」「片付いた?」美穂は両手を胸前で重ね、気だるげに笑う。だがその笑みは目に届かない。「あのカジノ案件、家からいくら注ぎ込んだの?あの二人はどれだけ資金を使い込んだの?知りたいのはそこ。どれだけの問題を起こしたら、あんな金額を使っても解決できないの?」静雄の頬がわずかに引きつる。表情がついに崩れた。まさかそこまで把握しているとは思っていなかったのだ。「美穂、お前……調べたのか?」声が低く沈み、穏やかな仮面にひびが入る。「調べる必要なんてないよ」美穂は背もたれに軽く身を預け、父を見る目は冷え切っていた。「水村家の資金の流れくらい、私が欲しければ誰かが勝手に持ってくるわ。オーストラルへ飛ぶのは、あの二人をほとぼりが冷めるまで隠すため?」そこまで考えて、むしろ呆れたように息を吐く。「でも考えた?水村家の主要プロジェクトは港市にある。カジノ事業だって立ち上げたばかり。逃げられると思ってるの?」……いや違う。雅臣を残している。三都市同時展開のカジノ案件は今も彼が仕切っている。麻沙美がついに焦り、声を張り上げる。「美穂、どういうつもり?私たちはあなたの両親よ!弟や妹が困っていても見捨てる気?」「もう成人してるでしょう。自分の行動の責任は、自分で取るべきなの」美穂は立ち上がる。「もし私と和彦を復縁させて、陸川家に助けさせるつもりで来たなら、もう帰ってください」静雄の目が冷え込む。「金を貸せと言ったら?」美穂は眉をわざとらしく上げ、当然のように問い返す。「私とあなたたち、そんなに仲が良いと思ってるの?」「あなた――!」皮肉を重ねられ、麻沙美は怒りで震える。静雄が手で制し、再び美穂を見る。今度は声を和

  • 冷めきった夫婦関係は離婚すべき   第470話

    白く細い指先がキーボードの上を走り、画面の文字化けは一行ずつ解析されていく。やがて、奥に潜んでいたコマンドが浮かび上がった。美穂はコード末尾のIPアドレスを確認する。海外サーバーだと特定できた。経路はわざと迷路のように複雑に迂回されていた。「水村社長、技術部は全員そろいました」律希がオフィスのドアの前に立ち、彼女の張り詰めた横顔を見ながら、少し心配そうに言う。「会議、延期しますか?」「必要ない」美穂は侵入ログを保存し、コートを手に取って立ち上がる。「まずファイアウォールを強化させて。それから会議室へ」律希は一瞬きょとんとする。「また侵入ですか?まだ元日ですよ」「相手は新年だからって休んでくれないでしょう」美穂は感情のない軽口で返しながら、携帯を取り出し清霜へメッセージを送る。【大きな損害はありませんでした。ファイアウォールを強化すれば問題ないと思います。この数日は監視を増員してください】律希はうなずいて応じた。……会議室。技術部の責任者が額に汗を浮かべながら報告する。「相手は動的IPを使っています。侵入のたびに痕跡を消去するため、大まかな地域までしか追えませんでした。具体的な位置は特定不能です」美穂は上座に腰を下ろし、頬杖をついてスクリーンを冷静に見つめる。「まず法務部門に連絡して、内容証明の準備を」「分かりました」律希がすぐに書き留める。「それと――」美穂の視線が室内を巡る。「三チーム増員して二十四時間体制にして。ファイアウォールも最高レベルに。その他の案件は一時停止、システム安定後に再開するように」会議が終わる頃には、外は完全に夜になっていた。美穂はこめかみを揉みながら会議室を出る。するとアシスタントの橋本(はしもと)が足早に近づき、困った表情で告げた。「水村社長、下にご両親がお見えです」美穂の足が止まる。目の奥にかすかな苛立ちが走った。「帰らせて」「そう伝えましたが、どうしてもお会いしたいと……それに、お別れに来たと仰っています」橋本は慎重に続ける。「今夜のオーストラル行きの航空券を取っているそうです」美穂はしばし沈黙し、やがてエレベーターへ向かう。「応接室に通しておいて」……応接室。静雄はキャメル色のカシミヤセーターを着て、ティーカップを手にくつろいでいる。ま

  • 冷めきった夫婦関係は離婚すべき   第469話

    「もう少し寄って」華子は左右を軽く叩いた。美穂は仕方なく中央へ寄り、肩がほとんど和彦の腕に触れるほど近づく。彼の纏うほのかな白檀の香りに、冬の陽だまりの匂いが混ざる。理由もなく、心が少し落ち着く。美穂は唇をわずかに引き結び、気づかれないように、ほんの少し距離を取った。「笑ってくださいね」スタッフがカメラを構える。美穂は口元を整え、型どおりの笑みを浮かべようとしたその時――和彦が淡々と言った。「覚えてるか。ある年の正月、顔じゅう小麦粉だらけにしただろ」美穂は一瞬、言葉を失う。すぐに思い出した。去年、陸川家本家で料理しようとして、手が滑り、小麦粉の入ったボウルをひっくり返した。粉が舞い上がり、顔にまで付いたのだ。あの時、彼がウェットティッシュを差し出し、頬の粉を拭ってくれた。その時、彼は何か言っていた気がする。……何だっただろう。もう思い出せない。けれど、彼の目を覚えている。初めて――その奥から、はっきりと笑みが溢れていた。美穂は振り向き、彼を見る。ちょうど、柔らかな笑いを含んだ視線とぶつかった。カシャッ、とシャッター音が響く。その瞬間が切り取られる。皺だらけの笑顔を浮かべる華子。不思議そうに横を向く美穂。かすかな笑みを浮かべた和彦。三人の影が暖色の光に引き伸ばされ、背景ボードの前で、円満な一枚の絵のようだった。華子は写真を受け取ると、大事そうにバッグへしまい、忘れずに言う。「帰ったらね、この写真、あなたたちの結婚写真の隣に飾るわ」美穂の笑みがわずかに固まる。和彦が先に口を開いた。「いいね」淡々とした声だった。彼は美穂と一瞬だけ目を合わせ、華子に背を向けたまま、小さく首を横に振る。華子の機嫌を損ねるな、という合図だった。美穂は一瞬、返す言葉が見つからなかった。……ショッピングモールを出る頃には、夕陽が沈みかけていた。和彦が車椅子を押し、美穂が隣を歩く。時折、風が吹き抜ける。口論もなく、意図的な距離もない。ただ、どこか奇妙な静けさだけがあった。華子は車椅子にもたれ、うとうとしている。手の中にはあのクリスタルの白鳥の置物。その時、美穂の携帯が震えた。通話に出ると、美穂の眉が徐々に寄る。「分かった。すぐ向かう」電話を切り、和彦へ向き直る。「会

  • 冷めきった夫婦関係は離婚すべき   第468話

    美穂が手を振って断ろうとしたその時、和彦は美穂より先に華子と一緒に締太鼓の方へ歩き出した。「やってみよう」淡々とした口調だったが、拒ませない確かさがにじんでいる。スタッフがひもを手渡す。美穂はためらいながら受け取り、ざらついた麻ひもに指先が触れた瞬間、和彦の低い声が耳元で響いた。「俺の動きに合わせて」仕方がない。今日はもともと華子を楽しませるために来たのだ。体力のいる遊びを華子に任せるわけにもいかない。締太鼓の上でバレーボールがわずかに揺れる。美穂は息を詰め、ボールを見つめながら、和彦の力に合わせて手首を持ち上げた。一回目――ボールは傾き、締太鼓の縁に当たって外へ弾かれた。「焦らなくていい」隣から落ち着いた声が届く。どこか諭すような柔らかさがあった。「ボールを見て。余計なことは考えない」美穂は深く息を吸い、ひもを握り直す。今度は自分で力を出さず、彼の動きに合わせて角度を調整した。ボールは締太鼓の中央で安定して跳ねる。一回、二回……七回目で手首がわずかにぶれ、ボールが外へ飛びそうになる。その瞬間、和彦が力を強め、ひもを自分側へわずかに引いた。ボールは再び締太鼓の中心へ戻る。「いい」低い声が落ちる。吐息が耳元をかすめ、白檀のような香りがわずかに漂った。美穂の眉がかすかに寄る。十回目が成功した時、周囲からぱらぱらと拍手が起き、スタッフがクリスタルの置物を手渡した。寄り添う白鳥の対。柔らかな光を反射している。「きれいねえ」華子は受け取り、そっと撫でた。「さっきのクマより素敵だわ」少し先へ進むと、今度はなぞなぞ屋台に出くわした。提灯の下に札がずらりと吊るされていて、和彦が一枚取ると、華子がすぐにせかす。「一緒に考えようよ、一緒に!」札にはこう書かれていた。【夜空に浮かんで、形が毎日変わるものはなに?】美穂が一瞬考えるより早く、和彦が答える。「月だろ」係の人はにっこりうなずき、景品として箱入りのペンを二本差し出した。和彦はそのうち一本を美穂に渡す。美穂の好きそうなマットな質感の軸で、思わず受け取った瞬間、指先が彼の指に触れ、電気が走ったように、思わず引っ込める。「ほら、あっちに射的もある!」華子はまだまだ興奮がおさまらず、少し先の屋台を指さした。「若い頃よくやったのよ。あなた

  • 冷めきった夫婦関係は離婚すべき   第467話

    「玉泉公園へ行こう」和彦は運転席に乗り込み、エンジンをかけながら淡々と言った。「あっちは梅の花の展示がある。おばあ様は昔からあれが好きだった」美穂は、そんな細かなことを彼がまだ覚えていたことに少し驚き、軽く頷く。「……ええ」車は静かに街路を進む。道沿いの店先には正月飾りが掛けられ、新年らしい鮮やかな気配を漂わせている。後部座席では華子がほどなくうとうとし始め、車内にはやわらかな音楽だけが流れていた。「先日は……」不意に和彦が口を開き、沈黙を破る。「すまなかった」美穂は窓の外を見たまま、感情の起伏を抑えた声で答える。「大丈夫です。福山弁護士も、手続きはほぼ整っているって言ってましたから」つまり――離婚受理証明書をいつ受け取るかは、もう大した問題ではない。ハンドルを握る和彦の指がわずかに強張り、すぐに力が抜ける。それ以上、彼は何も言わなかった。……玉泉公園の梅の花はちょうど見頃だった。薄雪をいただいた淡い花びらが冷たい光を受け、澄んだ香りを漂わせている。美穂は華子を支えながら、ゆっくりと花の小径を歩く。和彦は少し後ろに付き、腕には折りたたんだショールを掛け、いつでも渡せるようにしていた。華子は機嫌がよく、枝先の梅の花を指さして語る。「昔ね、おじいちゃんがよく枝を折って花瓶に挿したの。この花は気骨があるって言って……」美穂は辛抱強く耳を傾け、ときおり相槌を打つ。和彦は数歩後ろに立ち、二人を見つめる視線は複雑で考えを読み取れない。公園を出る頃には、もう午後になっていた。通りがかったショッピングモールの前で、華子が入口のアーチを指さす。少し賑やかな場所に惹かれた様子だった。「美穂、ちょっと中を見ていかない?」頭上の横断幕には「新年ファミリーカーニバル」と書かれ、親子連れがゲームを楽しんでいる。笑い声があちこちから響いていた。「子ども向けの簡単な遊びですよ」美穂は説明する。「行きたいの」華子は珍しく頑固に、子どものような期待の顔で美穂を見上げた。「少しだけでいいから」美穂は少し迷い、横を向いた瞬間、和彦と目が合う。彼はわずかに頷いた。「おばあ様が楽しめるなら行こう」そう言って車椅子を引き継ぎ、そのままショッピングモールの方へ歩き出す。美穂は少しの間黙り、結局後を追った。……ショッピン

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status