登入「やはり気づいていましたか」法務担当は、高倉の話を最後まで聞き終えると静かに口を開いた。会議室には二人だけだった。窓の外では午後の日差しがビルの壁面を照らしている。高倉は静かに頷いた。「おそらく昨日から、私の動きを見ています」法務担当は資料へ目を落とす。「専務を追うこと自体は、現時点では違法とは言えません」「承知しています」高倉も最初からそのつもりだった。自分は企業の専務だ。一定の範囲で取材対象となることは避けられない。問題は、その先だった。「桜井さんや美咲さんへ接触するための手段として利用されることです」法務担当は静かに頷く。「そこは会社としても看過できません。」机の上の写真へ視線を落とした。「今後も一般の方への接触が続くようであれば、これまでどおり記録を残してください。」「抗議はできますか」「状況次第です。」法務担当は落ち着いた口調で答えた。「現時点では、警告以上の対応は難しいでしょう。ただ、接触が繰り返されるようであれば、会社として正式に抗議する余地はあります。」高倉は小さく頷いた。「わかりました。」法務担当との話は、それで終わった。法律としてできること。できないこと。必要なことは整理できた。あとは、自分がどう動くかだった。◇◆◇会議室を出た高倉は、廊下をゆっくり歩きながら考えていた。唯の顔が浮かぶ。昨日も、不安そうに笑っていた。きっと今も、自分が迷惑を掛けていると思っているだろう。そんな性格だからこそ、放っておけない。だが。今、自分が頻繁に会えば。それだけで週刊プライムへ新しい材料を与えることになる。
翌朝。唯はいつもより少し早く事務所へ着いた。鍵を開け、窓を開ける。朝の空気が部屋へ流れ込み、昨夜までの蒸し暑さを少しだけ忘れさせてくれた。パソコンを立ち上げながら、ふと窓の外へ目を向ける。向かいの喫茶店はまだ開店したばかりらしく、店内には数人の客しかいない。昨日見かけた男の姿はなかった。唯は知らず知らずのうちに肩の力を抜いていた。「……本当に考えすぎだったのかな」そう呟いて、小さく笑う。高倉にも言われた。思い込みだけで不安になってはいけない、と。美咲のことがあったから、少し神経質になっているだけなのかもしれない。そう思うことにした。そのとき、スマートフォンが震える。美咲だった。『おはよう』短いメッセージのあとに、猫のスタンプが送られてくる。唯は思わず頬を緩めた。『おはよう。今日は大丈夫?』すぐに返信する。ほどなくして返事が届く。『今のところ平和』その一文を見て、胸をなで下ろす。少なくとも今日は何事もないらしい。それだけで十分だった。◇◆◇同じ頃。週刊プライム編集部では、若い記者が資料を机へ置いていた。「昨日は引きました」石田は頷く。「それでいい」「ただ……」若い記者は少し言いづらそうに続けた。「桜井さん、途中から周囲を気にしていました」石田は腕を組む。「こちらに気づいたか」「確信はありません」若い記者は首を振る。「でも、偶然ではない気がします」石田は少し考え込んだ。ここで無理をすれば、相手は警戒を強める。
「もう少しね」唯は小さく呟き、肩を回した。午前中の仕事がようやく一区切りつく。パソコンの画面には確認中の書類が並び、机の上には赤字を書き込んだ資料が積まれていた。時計を見る。昼休みまではあと二十分ほど。ひと息つこうと、マグカップへ手を伸ばした。コーヒーはすっかりぬるくなっている。ひと口飲んで、小さく息を吐いた。静かな事務所だった。キーボードを打つ音も、電話の音もない。以前なら、この静けさを心地よく感じていた。けれど最近は違う。少し静かになるだけで、余計なことを考えてしまう。美咲のこと。週刊プライムのこと。そして、高倉のこと。昨日、高倉は編集担当者と直接会ってきたと言っていた。美咲への接触は控えるよう、正式に伝えたとも。それでも、「終わったとは思っていません」と静かに話していた姿が忘れられない。高倉があそこまで慎重になるのには、理由があるのだろう。そう思うと、胸の奥がざわついた。――考えすぎ。唯は小さく首を振る。今は仕事中だ。目の前の仕事へ集中しなければ。気持ちを切り替えようとした、そのときだった。事務所の電話が鳴る。「はい、桜井です」受話器を取ると、取引先からの問い合わせだった。新しい案件についての確認や、契約書の細かな修正点。十分ほど話し込み、メモを取り終える。「承知しました。それでは、修正版を本日中にお送りいたします」電話を切ると、唯はふうっと息を吐いた。ようやく一段落だ。肩の力を抜きながら、何気なく窓の外へ目を向ける。事務所の向かいには、小さな喫茶店がある。昼時が近いこともあり、店内は会社員や学生で賑わっていた。窓際の席にも何人か座っている。
「桜井唯、か」週刊プライム編集部。石田は机の上に広げられた資料を静かに眺めていた。派手な経歴はない。ごく普通の会社員。離婚を経験し、現在は小さな事務所で働いている。以前の記事で調べた内容ばかりだ。新しい情報はほとんど増えていない。「もう一度、一から洗い直しますか」若い記者が口を開く。石田はすぐには答えなかった。高倉と話したあと、考えが少し変わっていた。美咲ではない。おそらく中心にいるのは桜井唯だ。では、高倉はなぜ彼女を守ろうとするのか。そこだけが、まだ見えない。「派手なことはするな」石田は静かに言った。「まずは行動を確認する」「張り込みですか」「ああ」石田は資料を閉じる。「思い込みで記事は書けない」その言葉は、自分へ言い聞かせるようでもあった。◇◆◇翌日。唯は事務所へ向かう途中、小さく肩をすくめた。朝から蒸し暑い。駅前では蝉が鳴き始めている。いつもと変わらない景色。いつもと変わらない朝。それなのに。高倉の話を聞いたあとでは、どうしても周囲が気になってしまう。信号待ちをしている人。スマートフォンを見ながら歩く会社員。ベンチへ座る老人。誰も自分を見ていない。そう思う一方で、視線を探してしまう自分がいた。「気にしすぎ、だよね」小さく笑って歩き出す。その姿を、通りの向かい側から一人の男が眺めていた。若い記者だった。スマートフォンを耳へ当て、小さく報告する。「今、事務所へ向かっています」電話の向こうで石田が短く答えた。
約束の時間ぴったりに、事務所のインターホンが鳴った。唯は席を立ち、ドアを開ける。「お疲れ様です」「お疲れ様です」高倉はいつもと変わらない穏やかな表情で軽く頭を下げた。けれど、その目には仕事の話をするとき特有の真剣さが宿っている。応接スペースへ案内すると、高倉は鞄から一枚のクリアファイルを取り出した。「先ほど、週刊プライムの編集担当者と話をしてきました」唯は息を呑む。「編集担当者と……ですか?」「向こうから会社へ来ました」驚きのあまり、唯は思わず言葉を失った。そこまで動いていたとは思っていなかった。高倉は淡々と説明を続ける。編集担当者が訪ねてきたこと。美咲への接触を控えるよう正式に伝えたこと。そして、今のところ美咲と高倉の間には特別な関係はない、と事実だけを説明したこと。唯は黙って耳を傾けていた。「では……」ようやく口を開く。「もう美咲は大丈夫なんでしょうか」その問いに、高倉はすぐには答えなかった。ほんのわずか、視線を伏せる。その沈黙だけで、唯には答えがわかってしまった。「残念ですが」高倉は静かに言う。「そう簡単には終わらないと思います」唯の指先に力が入る。「どうしてですか?」「記者は、一つの仮説が崩れると、別の仮説を立てます」高倉は机の上で指を軽く組んだ。「今回は、おそらく美咲さんへの疑いは薄れました」「じゃあ……」「次は」高倉は唯を見つめる。「桜井さんです」部屋が静まり返る。時計の秒針だけが、小さく時を刻んでいた。唯はその言葉をすぐには飲み込めなかった。「私&he
「筋が通りすぎている、ですか?」エレベーターを降りると、若い記者が首を傾げた。石田は歩きながらネクタイを少し緩める。「高倉専務の話は矛盾がなかった」「じゃあ……」「だからこそだ」石田は足を止めることなく続けた。「こちらが聞きたいことを、あらかじめ整理して待っていたようだった」若い記者は黙って耳を傾ける。「ああいう人は厄介だ」石田は苦笑した。「感情では動かない。こちらが一つ質問すれば、必要な答えだけ返してくる」余計なことは一切言わない。嘘をついているようにも見えない。だから反論の糸口が掴めない。「ただ」石田は視線を前へ向けたまま言った。「一つだけ収穫はあった」「何です?」「桜井唯だ」若い記者が目を瞬かせる。「専務は終始、美咲さんではなく桜井さんを基準に話していた」「基準?」「『美咲さんは桜井さんの友人です』と最初に説明しただろう」石田はゆっくりと言葉を選ぶ。「つまり、高倉専務の中では、美咲という人物は桜井唯を介して認識している存在だ」若い記者は腕を組んだ。「じゃあ、本当にただの友人なんですかね」「その可能性は高くなった」石田は頷く。「少なくとも、美咲さん本人との特別な関係は見えなかった」若い記者は小さく息を吐く。「じゃあ、振り出しですか」「いや」石田は静かに笑った。「違う」高倉が本当に守ろうとしている相手。それは美咲ではない。では、誰なのか。答えは自然と一人しか浮かばなかった。「桜井唯か……」石田は誰に聞かせるでもなく呟いた。
結婚記念日。唯は朝の六時から、キッチンで特別な準備を始めていた。今日は結婚してちょうど三年目。唯は少しでもこの日を特別にしようと、昨夜から夕飯の献立を考え、昨日のうちにわざわざデパートにまで行って新鮮な食材を揃えていた。メインディッシュは涼の好きな和牛のステーキ。付け合わせにトリュフを少し加えたポテトグラタン、季節の野菜のグリル、そして唯が自信を持って作る特製ソース。デザートは手作りのティラミス。すべて、涼が「まずくない」と言ってくれることを願いながら。そして、朝には軽く、でも記念日らしいものを食べられるようにとエビをたっぷり使ったシーフードグラタンを作った。テーブルには真
デートから三日後のことだった。唯は事務所で仕事をしていた。記事の件は少しずつ落ち着きを見せ始めている。週刊プライム側も表立った動きを見せていない。もちろん安心はできない。それでも、少し前までの張り詰めた空気に比べればずっとましだった。パソコンへ向かいながら、唯は小さく息を吐く。窓の外はよく晴れていた。こんな穏やかな日が続けばいいのに。そんなことを思う。
「高倉専務です」若い記者が声を潜めた。駅前の雑踏の向こう。男は視線を上げる。高倉涼。例の離婚記事以来、週刊プライムが追っている人物の一人だ。記事の一部修正を検討することになった今でも、この件は終わっていない。むしろ編集部の中には、まだ何かあるのではないかと考えている者もいた。会社側の反応は予想以上に強かった。だからこそ。何か見落としている事実があるのではないか。そんな空気が漂っていた。「一人ですか?
朝六時半。キッチンは、すでに柔らかな光に包まれていた。黒崎唯は朝からちゃんと身支度をした上でフリルのついた白いエプロンをして、白い磁器の皿に丁寧に朝食を盛り付けをしていた。夫である涼の好物である焼き鮭、ほうれん草のおひたし、味噌汁、ふっくら炊けた白米。どれも彼が「まずくない」と一言だけ言ってくれるメニューだ。唯は小さく息を吐きながら、最後に小さなお新香を添えた。完璧だった。いつも通り、完璧に。「唯」背後から低い声がした。振り返ると、すでにスーツを着た涼が立っていた。黒い髪をきっちり整え、表情はいつものように感情が読めない。32歳とは思えないほど冷ややかな美しさを持つ顔が、