INICIAR SESIÓN翌朝。昨夜の雨が嘘みたいに、空は晴れていた。窓から差し込む柔らかな光に、桜井唯はゆっくり目を細める。けれど、胸の奥の重さは消えていなかった。昨夜の涼からのメッセージ。櫂とのやり取り。思い返すたび、心が落ち着かない。唯は小さく息を吐きながら、事務所の鍵を開けた。すると、入口の前に立つ人影が目に入る。高倉櫂だった。昨夜、自分で「来てください」と返事をしたはずなのに。本当にこうして朝から姿を見ると、胸が少し落ち着かなくなる。櫂は唯に気づき、穏やかに会釈した。「おはようございます」いつもの静かな声。唯は小さく息を飲み、それから控えめに微笑んだ。「……おはようございます。 早いですね」「近くまで来る用事があったので」さらりと言う。けれど。たぶん気を遣ってくれたのだと、唯にもわかった。櫂は紙袋を差し出した。「朝食、まだですよね」唯は目を瞬かせる。袋からは、焼きたてのパンの香りがした。「え……」「昨日、あまり眠れていなさそうだったので」穏やかな声だった。唯は胸の奥がじわりと熱くなる。こんなふうに気にかけてもらえることに、まだ慣れない。「ありがとうございます……」小さく受け取ると、櫂は安心したように微笑んだ。二人で事務所へ入る。窓を開けると、雨上がりの風が静かに流れ込んできた。昨日までの重たい空気が、少しだけ遠く感じる。唯はコーヒーを淹れながら、小さく口を開いた。「昨日は……すみませんでした」櫂が視線を向ける。「色々、気を遣わせてしまって」櫂は少し困った
部屋の明かりだけが、静かに唯を照らしていた。桜井唯はベッドへ腰掛けたまま、スマホを見つめている。櫂とのメッセージ画面。何か返したいのに、うまく言葉にならない。『無理に一人で抱え込まないでください』その一文が、胸の奥に残っていた。唯はゆっくり息を吐く。昔の自分なら、きっと誰にも言えなかった。苦しいとも。怖いとも。迷っているとも。全部、一人で抱え込んでいた。でも今は。櫂が「頼っていい」と言ってくれる。その優しさに、少しずつ甘えてしまっている自分がいた。唯は小さく目を伏せる。そして、ゆっくり文字を打ち始めた。『少しだけ、怖いです』打ち込んだ瞬間、胸が苦しくなる。こんな弱音を吐いていいんだろうか。唯は迷いながらも、そのまま送信ボタンを押した。数秒後。すぐに既読がつく。『怖くて当然です』短い返事だった。けれど、その言葉だけで肩の力が抜けそうになる。櫂は続ける。『だから、一人で抱えなくていいんです』唯は画面を見つめたまま、唇を噛んだ。どうしてこの人は、こんなにも優しいんだろう。責めない。急かさない。それなのに、ちゃんと隣にいてくれる。唯の胸が静かに熱を帯びる。そのとき。また別の通知が表示された。『黒崎涼』唯の表情が固まる。『返事はいらない』メッセージは、それだけだった。唯は小さく目を見開く。『ただ、最後までちゃんと向き合いたかった』胸が、ぎゅっと締め付けられる。昔、唯が何度も欲しかった言葉。ちゃんと向き合ってほしかった。一人にしないでほしかった。でも
部屋の中は静まり返っていた。桜井唯はスマホを握ったまま、動けずにいる。『まだ、話したい』黒崎涼から届いた短いメッセージ。たったそれだけなのに、胸の奥がざわついた。唯は小さく目を閉じる。どうして、今さら。離婚したとき、涼は何も言わなかった。引き止めもしなかった。あんなに簡単に終わったのに。なのに今になって、どうして――。唯は苦しさを振り払うようにスマホを伏せた。返事はしない。そう決めたはずだった。そのとき。再び通知音が鳴る。唯は思わず肩を震わせた。恐る恐る画面を見る。『今日は、怖い思いをさせた』涼からだった。唯は息を止める。雨の中の涼の姿が頭をよぎる。苦しそうで。追い詰められていて。まるで、自分まで壊れそうな顔をしていた。唯は唇を噛んだ。昔、一度でもこんなふうに言葉をくれていたら。そう思ってしまう自分が嫌だった。過去は変わらない。寂しかった時間も。泣いていた夜も。全部、消えない。それなのに。今さら優しくされると、心が揺れる。唯はゆっくりスマホを握りしめる。返事をするべきじゃない。そう思うのに。指先が、動かない。すると。また別の通知音が鳴った。今度は、櫂だった。『ちゃんと眠れそうですか?』唯は思わず目を瞬かせる。あまりにも自然なタイミングで。少しだけ、張っていた心が緩んだ。唯は小さく息を吐く。涼の言葉は、胸を苦しくする。でも。櫂の言葉は、不思議と安心する。その違いに気づいてしまって、唯は静かに俯
その夜。桜井唯はベッドへ入っても、なかなか眠ることができなかった。部屋の中は静かなのに、頭の中だけが落ち着かない。スマホへ視線を向ける。画面には、今日のやり取りが残ったままだった。『ちゃんと、また来ますから』櫂の声が、何度も頭の中で蘇る。唯は小さく息を吐き、枕へ顔を埋めた。どうして、あんな言葉だけでこんなに苦しくなるんだろう。昔の自分なら、きっと誰かに頼ることなんてできなかった。迷惑をかけるくらいなら、一人で我慢した方がいいと思っていた。でも。今は、違う。櫂がそばにいてくれるだけで安心してしまう。そのことが、怖かった。唯はゆっくり目を閉じる。すると、不意に今日の涼の顔が浮かぶ。雨の中、苦しそうに立っていた姿。『……嫌われたな』あの掠れた声が、胸の奥に引っかかって離れない。唯は小さく眉を寄せた。結婚していた頃。涼は、ほとんど家に帰らなかった。仕事ばかりで、会話も少なくて。一緒に食卓を囲んでも、スマホばかり見ていた。寂しかった。苦しかった。それなのに、自分はずっと我慢していた。嫌われたくなくて。重いと思われたくなくて。だから。今さら後悔したような顔をされても、遅いはずなのに。唯は胸元をぎゅっと押さえる。――どうして、こんなに苦しいんだろう。そのとき。スマホが小さく震えた。唯はびくりとして身体を起こす。こんな時間に。恐る恐る画面を見る。表示されていた名前に、唯は少し目を見開いた。『高倉櫂』胸が、大きく跳ねる。唯は慌てて通話ではなくメッセージを開いた。『無事に帰れま
雨は少しだけ弱くなっていた。駅前の灯りが、濡れた歩道へぼんやり映り込んでいる。桜井唯は傘を握りながら、小さく息を吐いた。隣を歩く高倉櫂は、いつも通り静かだった。無理に会話を繋ごうとしない。だからこそ、余計に落ち着かない。唯はちらりと隣を見る。今日だけで、何度この人に助けられただろう。広報部からの電話。涼のこと。SNS騒動。全部。櫂は当たり前みたいに、自分の前へ立ってくれた。その優しさが、苦しい。唯は視線を落とした。「……あの」櫂が穏やかに振り返る。「はい」唯は少し迷ってから、小さく言った。「今日は、もう帰ってください」櫂がわずかに目を瞬かせた。唯は慌てて続ける。「その……遅いですし。 高倉さんも、明日仕事ですよね」本当は、それだけじゃない。これ以上そばにいると、自分がおかしくなりそうだった。優しくされるたび、心が揺れる。安心してしまう。甘えたくなる。そんな自分が怖かった。櫂はしばらく唯を見つめていた。やがて、小さく笑う。「ようやく帰してもらえますか」冗談めかした口調だった。唯は少しだけ肩の力を抜く。「……ずっと引き止めてたみたいに言わないでください」「違いました?」「ち、違います」思わず否定すると、櫂が静かに笑った。その柔らかな空気に、唯の胸が少しだけ温かくなる。駅の改札が近づく。雨の匂いと、夜の湿った空気。唯はふと立ち止まった。「高倉さん」櫂も足を止める。唯は傘を握りしめたまま、小さく頭を下げた。「……ありがとうございました」櫂の目がわ
雨粒が、傘を静かに叩いていた。桜井唯はスマホの画面を見つめたまま、動けなくなる。――黒崎グループ・広報部。胸の奥がざわついた。こんな時間に、どうして。隣で、高倉櫂が静かに唯を見ている。唯は迷った末、小さく息を吸って通話ボタンを押した。「……はい」『夜分遅くに失礼いたします。 黒崎グループ広報部の西田と申します』事務的な女性の声だった。唯は無意識に肩へ力を入れる。『桜井様に、一点ご確認したいことがありまして』「確認……ですか?」『現在、SNS上で拡散されている件についてです』唯の胸が冷える。やはり、その話だった。雨音がやけに大きく聞こえる。『一部メディアからも問い合わせが入り始めておりまして……』唯は息を飲んだ。そこまで広がっているなんて思わなかった。『会社としては、事実確認を進めている段階なのですが』女性は少し言い淀む。『高倉秘書に関する憶測も出ておりますので、念のため状況確認を――』その瞬間。隣にいた櫂が、静かに唯の手からスマホを取った。「高倉です」低く落ち着いた声。唯は思わず目を見開く。櫂はそのまま淡々と続けた。「桜井さんへ直接確認を取る必要はありません。 今後の件は、僕を通してください」電話の向こうで、何か説明するような声が聞こえる。櫂は短く息を吐いた。「ええ。 状況は理解しています」数秒後、通話が切れる。雨音だけが静かに残った。唯は不安そうに櫂を見上げる。「……大丈夫なんですか?」櫂はスマホをポケットへ戻し、小さく苦笑した。「広報部も混乱している