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雨はまだ降り続いていた。事務所の入口には、重たい沈黙が落ちている。黒崎涼はじっと高倉櫂を見つめていた。その視線には、苛立ちと焦りが滲んでいる。「……そうかよ」低く押し殺した声だった。涼は小さく笑う。けれど、その笑みはどこか壊れかけていた。「お前まで、俺から奪うのか」唯の胸がざわつく。櫂は静かに眉を寄せた。「社長」「違うのか?」涼は一歩近づく。濡れた靴が床を鳴らした。「唯は、俺の妻だった」その言葉に。唯の胸が痛んだ。“だった”。過去形なのに。まるでまだ手放していないような言い方だった。櫂は静かな声で答える。「もう違います」涼の表情が険しく歪む。「……お前に何がわかる」掠れた声だった。「俺は、唯を――」そこまで言いかけて、涼は言葉を止めた。唯は思わず目を伏せる。聞きたくなかった。今更そんな言葉を。もっと早く言ってほしかった。結婚していた頃に。一人で泣いていた夜に。冷たい食卓を見つめていた時間に。そのとき。櫂が静かに口を開く。「社長」低く落ち着いた声。「もう帰ってください」涼が櫂を睨む。「命令するな」「命令じゃありません」櫂は一歩も引かなかった。「これ以上、桜井さんを追い詰めないでください」雨音だけが響く。涼はしばらく黙っていた。やがて。ふいに奥へ視線を向ける。唯と、目が合った。その瞬間。
事務所の中に、重たい沈黙が落ちた。窓を打つ雨音だけが、静かに響いている。桜井唯はモニターを見つめたまま、動けなかった。雨に濡れた黒崎涼。スーツの肩まで濡れているのに、まるで気にもしていないようだった。その表情は暗く、疲れ切って見える。けれど――。唯の胸には、不安の方が強く広がっていた。どうして、ここまで来るの。離婚したのに。もう終わったはずなのに。櫂が静かに唯の隣へ立った。「出なくていいですよ」低く落ち着いた声だった。唯は小さく息を飲む。確かに、出る必要なんてない。でも。このまま帰ってくれるだろうか――。そんな不安が胸をざわつかせる。インターホンが、もう一度鳴った。短く。けれど、どこか切迫した音だった。唯の肩が小さく揺れる。櫂はそんな唯を見て、静かに言った。「僕が行きます」「……でも」「大丈夫です」穏やかな声だった。けれど、その目は静かに鋭い。櫂はそのまま入口へ向かう。唯は思わず立ち上がった。「高倉さん……」櫂は一瞬だけ振り返る。そして、小さく笑った。「あなたは、ここにいてください」その言葉に、唯の胸が苦しくなる。守られている。そう感じるたびに、心が揺れた。櫂はドアの前で一度立ち止まり、静かに鍵を開けた。冷たい雨風が、一気に流れ込んでくる。そこに立っていたのは、黒崎涼だった。濡れた前髪が額に張り付き、表情には疲労が滲んでいる。涼はまず櫂を見た。その目が、わずかに険しくなる。「……お前か」
雨は夜になっても降り続いていた。事務所の窓を叩く雨音が、静かな室内に響いている。桜井唯は不安そうに高倉櫂を見つめていた。「……本格的に動くって、どういう意味ですか?」櫂はスマホを伏せ、少し考えるように沈黙した。その表情は穏やかだったが、どこか張り詰めている。やがて、静かに口を開いた。「社長が、社内でかなり強引に動き始めています」唯の胸がざわつく。「強引……?」「はい。 桜井さんの事務所と関係を持つ企業の洗い出しを始めているようです」唯は息を飲んだ。やはり、自分の予感は間違っていなかった。涼は、本気で自分を追い詰めようとしている。胸の奥が冷たくなる。「どうして……」小さく漏れた声は震えていた。離婚した。もう終わったはずだった。なのに、どうしてここまで執着されなければならないのか。櫂はそんな唯を見つめ、静かに言った。「社長は、今かなり冷静さを失っています」苦い声音だった。長年そばで支えてきた人間だからこその重みがある。唯は視線を落とした。涼の苦しそうな顔が頭をよぎる。後悔しているのは、本当なのかもしれない。でも。だからといって、自分を傷つけていい理由にはならない。唯は小さく拳を握った。「……負けたくありません」櫂が静かに目を細める。唯はゆっくり顔を上げた。「もう誰かに人生を振り回されたくないんです。 私、自分で選んで進みたい」その声には、以前より強さがあった。櫂は少しだけ驚いたように唯を見つめる。そして、ふっと優しく笑った。「本当に、強くなりましたね」その言
事務所の中に、静かな雨音が響いていた。桜井唯はスマホを見つめたまま、動けずにいた。画面に表示されている名前。『黒崎涼』胸の奥が、ざわりと波立つ。高倉櫂も、その表示を見ていた。しかし何も言わず、静かに唯を見守っている。唯は小さく息を吸った。そして、震える指で通話ボタンを押す。「……もしもし」電話の向こうで、数秒の沈黙。やがて、低い声が響いた。『……唯か』その声を聞いただけで、胸が苦しくなる。結婚していた頃は、こんなふうに名前を呼ばれるだけで嬉しかったのに。今は違う。心が、痛む。唯は感情を押し殺すように尋ねた。「何の用ですか?」涼は少し間を置いてから答えた。『SNSの件だ』唯の指先が強張る。『俺は指示していない』低い声だった。けれど、どこか焦ったような響きが混じっている。唯は思わず唇を噛んだ。信じたいわけじゃない。でも、もし本当に違うなら――。そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。涼は続けた。『お前を傷つけるつもりじゃなかった』その言葉に、胸がざわついた。傷つけるつもりがなかった?じゃあ、今までのことは何だったの?クライアントへの圧力。異動命令。執拗な接触。全部、自分を追い詰めていたのに。唯は静かに言った。「結果的に、私は傷ついています」電話の向こうが沈黙する。雨音だけが、静かに部屋へ響いていた。やがて涼は、掠れた声で言った。『……会いたい』唯の胸が揺れる。「嫌です」
夕方の空は灰色の雲に覆われ、窓の外では細かな雨が降っていた。桜井唯は事務所のデスクに座り、ぼんやりとパソコン画面を見つめていた。SNSの中傷投稿は、まだ完全には消えていない。櫂がすぐに動いてくれたおかげで拡散は抑えられたが、それでも心には棘のように残っていた。“男を利用している”“秘書と不倫していた”悪意の言葉が、頭の奥で何度も蘇る。唯は小さく息を吐いた。すると、テーブルの上に温かいカップが置かれる。「少し休んでください」高倉櫂だった。いつの間にかコーヒーを淹れてくれていたらしい。唯は少し驚きながら微笑む。「ありがとうございます……」櫂は唯の向かいへ座り、静かに言った。「今日はかなり頑張りすぎています」「そんなことないですよ」「あります」穏やかな口調なのに、不思議と否定できない。唯は苦笑しながらカップへ口をつけた。温かさが、少しだけ張り詰めていた心をほぐしていく。事務所の中には、静かな雨音だけが響いていた。その穏やかな空気に包まれていると、不思議と安心する。最近、自分は櫂に甘えすぎている気がした。けれど――。もう一人で平気なふりをするのにも、少し疲れていた。唯は小さく視線を落とした。「……高倉さん」「はい」「どうして、そこまでしてくれるんですか?」櫂は少しだけ目を瞬かせた。唯は慌てて続ける。「もちろん、助けてもらって嬉しいです。 でも……会社のこともあるのに、私のために時間を使わせてばかりで」櫂はしばらく黙っていた。窓を打つ雨音が、静かに響く。やがて櫂は、小さく息を吐いた。
午前の事務所は、静かな空気に包まれていた。桜井唯はパソコン画面を見つめながら、小さく息を吐いた。昨日、クライアント先で直接話したことで、少しだけ手応えを感じていた。すぐに結果は出なくてもいい。自分の言葉で、自分の仕事を伝えられた。それだけでも、前に進めた気がしていた。唯は新しいデザイン案を開き、修正作業を始める。そのときだった。スマホが震える。親友の美咲からだった。『唯、大丈夫!?』短いメッセージに、唯は首を傾げる。『どうしたの?』すぐに返信が来た。『SNS見てないの!?』嫌な予感がした。唯はブラウザを開き、自分の事務所名を検索する。次の瞬間。全身の血の気が引いた。匿名アカウントによる投稿。『元黒崎グループ社長夫人のコネ営業』『男を利用して仕事を取ってるらしい』『秘書と不倫して離婚したって本当?』悪意だらけの言葉が並んでいた。しかも投稿は一つではない。同じような内容が、いくつも拡散されている。唯の指先が冷たくなる。「……なに、これ……」呼吸が浅くなる。胸の奥がざわざわと騒ぎ始めた。すると、インターホンが鳴った。唯ははっと顔を上げる。モニターには、高倉櫂が映っていた。唯は急いでドアを開ける。「高倉さん……」櫂は唯の顔を見るなり、表情を曇らせた。「やはり、見ましたか」唯は唇を噛んだ。「これ……誰が……」櫂は静かに部屋へ入り、パソコン画面を確認する。その瞬間。櫂の目が、わずかに鋭くなっ







