Masukデイビッドはそれ以上追及しなかった。二人は階下へ降りるためにエレベーターを待った。エレベーターのドアが開くと、降りてきた宏介は隆を見つけ、声をかけた。「佐野社長」隆は宏介を見つめて問い返した。「白石副社長、イヴリンさんにご用ですか?」宏介が言った。「瑠衣の母親から電話がありましてね。イヴリンさんと話しておきたいことがありまして」瑠衣の母親とは、彩乃のことだった。今朝、瑠衣が彩乃に泣きつき、彩乃は激怒した。これまで手塩にかけて育て、一度も叱ったことのない瑠衣が他人に侮辱されたのだから。おまけに翔平が瑠衣を庇わなかったことにも苛立っていた。そして、彩乃はすぐさま宏介に連絡を入れた。隆は冷ややかな顔で言い放った。「イヴリンさんは体調がすぐれず休んでいます。何か用ならこちらがお聞きしましょう」宏介は隆の毅然とした態度を見て言った。「では、そうさせてもらいましょう」隆はデイビッドに会釈をして別れた。部屋の中では、美羽は薬の効果で頭がぼんやりしたまま、そのままベッドで眠りについていた。……翔平と浩平は電話で話していた。「白石副社長が佐野社長を取り込もうとしている。もしかすると、佐野社長もこの件に乗ってくるつもりかもしれない」浩平は特に気にも留めない様子で答えた。「もし本当に佐野社長を味方にできるのなら、それこそあいつの実力ということだろう。だが、目下一番の問題は瑠衣だ。先ほど母から電話があったんだ。かなり激怒していたぞ。翔平、なぜ瑠衣をしっかり見ていなかったんだ?」翔平は否定しなかった。「確かに、目が届いていなかった」浩平が言った。「瑠衣はこれまでずっと甘やかされて育ってね。その点、イヴリンさんは気骨のある女性だ。佐野社長があれほどイヴリンさんを庇っている以上、瑠衣に対して頭を下げさせるのは容易ではないだろう」翔平の感情の読み取れない声が響いた。「あの女も、今や大したものだ」浩平は黙り込んだ後、こう付け加えた。「義父と母が中山家を探りに行こうと相談しているらしい。あと数日もすれば母は東都に来るだろう」そう言うと、浩平は揶揄するように笑った。「もし翔平が俺の義理の弟になるのなら、一体どちらに味方するつもりだ?」翔平も笑い返した。「それは難しい問いだ。浩平が俺に懇願するか、あるいは持っている全株式を
隆の後ろ姿を追い、デイビッドは隣にいた翔平に問いかける。「彼はイヴリンのことが好きだと思うか?」翔平が聞き返す。「そっちはどう思う?」デイビッドは言った。「男の直感だと好意を感じるけれど、イヴリンの方はあくまで『社長』だと言っている。脈なし、ってことかな?」翔平はかすかに笑う。「もしくは、好きな男が多すぎて誰にも絞り込めていないのかもな」デイビッドは首を傾げて、訝しげに翔平を見た。「でも、イヴリンがそんな人間には見えない。ただ瑠衣さんと揉めたからって、そんな風に言うのか?」翔平は言った。「俺が評価するに値する相手じゃない。ただ、お前は騙されて痛い目を見ないようにな」デイビッドは笑った。「翔平はイヴリンに対して当たりが強すぎるよ。女性にはもう少し優しくした方がいい。それに、万が一イヴリンに嵌められたとしても、それでもいいと思ってる」「いつからそんなお人好しになったんだ?」「いつだって善人でありたいのさ」翔平は答えず、薄く笑って言った。「忠告しておく。あの女は、独身じゃないぞ」デイビッドはそれを聞いても驚いた様子はなく、こう言った。「僕がアプローチした時、確かにイヴリンは既婚だと言ったよ。でも、その旦那さんがろくでもない男だと聞いたんだ。イヴリンほど美しく魅力的な女性をないがしろにするなんて、よっぽど目も頭もイカれてるんだろう」デイビッドはそう言ってのけたが、目の前に立つ翔平の表情が冷めきっていることには全く気づいていなかった。デイビッドが少しばかり内情を知っているのは紗良のおかげだった。美羽を通じて紗良と知り合い、紗良に美羽のことを尋ねる中で、紗良が溜息混じりにこぼした愚痴を聞いていたのだ。「もっと早くイヴリンと出会っていればよかった。そしたらクズ男と苦労することもなく、あんなに傷つかずに済んだかもしれない。傷ついた女性ほど守ってあげなくちゃね」話しながらデイビッドが横を向くと、翔平の異変に気づいた。「翔平、どうした?」翔平は冷たくせせら笑うと、大股で立ち去ってしまった。デイビッドはポカンとするしかなかった。隆が部屋の前に着くと、美羽がドアを開けた。隆は美羽の顔色が悪いことに気づき、慌ててベッドへと連れていくと、コップに水を用意した。「医者を呼ぶ」美羽は水を受け取ったものの、ひどく憔悴しており
隆が言った。「口約束じゃなければいいけどね」その時、美羽のスマホが震えた。バッグから取り出すまでもなく、誰からの着信かは分かっていた。「柚葉ちゃんから?」美羽は小さく頷く。隆は席を立ち、言った。「もう遅いから、電話が終わったらゆっくり休んで。夜は何も考えないで」「分かりました」隆は部屋を後にした。美羽は気持ちを切り替え、柚葉からの電話に出た。「イヴリンさん!」幼く快活な柚葉の声を聞くと、凍えていた心にそっと温もりが広がった。「柚葉ちゃん」二人はそれから20分ほど話をしてから、ようやく電話を切った。柚葉は今、中山家の本邸にいて、従兄たちに囲まれて暮らしている。スマホを置き、美羽はバスルームへ向かった。入浴を終えてネグリジェを纏って出てくると、ドアがノックされた。美羽がドアを開けると、そこにはデイビッドの姿があった。「デイビッド?」デイビッドは美羽の様子をじろじろと見回し、「イヴリン、大丈夫?」と尋ねる。「平気よ」と、美羽は無理に笑顔を作った。何かしら耳に入っているのだろう。「翔平の彼女と、揉め事があったんだって?」美羽は冷ややかな口調で言い返す。「遅い時間だし、世間話をしている場合じゃないわ」デイビッドは笑って、「分かったよ。邪魔はしないから、また明日」と去っていった。美羽は黙って頷く。デイビッドの背中を見送ってドアを閉めると、ベッドに横たわって仕事を片付けようとした。だが心はざわつき、画面の文字さえ頭に入ってこない。結局パソコンを閉じ、照明を消して横になった。だがその夜も、ぐっすりと眠ることはできなかった。翌朝、電話の音で目を覚ました。隆からの電話だった。「まだ起きてないのか?」美羽が体を起こした瞬間、猛烈なめまいがして、そのままベッドに崩れ落ちた。「今起きたところです」声の異変を即座に察した隆は、心配そうな声で問い詰める。「どこか具合でも悪いのか?」美羽はこめかみを押さえ、素直に白状した。「急に、頭がぐらついて……」「すぐに行く」時計はすでに10時を回っている。隆はこの時、レストランでの商談を終えたばかりだった。電話を切ると、すぐにエレベーターへ向かって歩き出した。ロビーでデイビッドと翔平に鉢合わせたが、隆は無視した。
悲鳴が会場中に響き渡った。翔平の表情が凍りつき、その体からは殺気が漂った。美羽は瑠衣の髪を掴み、その腕を強引に引きずって外へ向かおうとした。ひ弱な瑠衣が、日頃鍛錬を積んでいる美羽にかなうはずもなかった。周囲のゲストは凍りついたようにその光景を見守るだけで、誰一人として止める者はいなかった。「ああっ!アバズレ!離しなさいよ!翔平さん!助けて!」隆がすかさず翔平の前に立ちふさがった。彼は翔平の冷徹で危険な瞳を正面から見据え、静かに告げた。「中山社長。女性同士のことは本人に任せておきましょう。ここは余計な手出しをしないのが得策かと」翔平は底なしの闇のような瞳で隆を見下ろした。その目には、骨の髄まで凍りつくような冷気が宿っていた。その一瞬、会場全体の気圧が極限まで下がり、呼吸さえも困難なほど張り詰めた空気に包まれた。「そちらに、俺と張り合う資格があると思っているのでしょうか?」翔平の言葉には、刺すような嘲笑が含まれていた。隆はひるまずに応じた。「資格の有無なら、確かめてみたいと思っていたところですね」瑠衣の叫び声が絶え間なく響く。美羽は瑠衣を飲み物の並ぶテーブルへと引きずり出すと、グラスに残っていた酒を瑠衣の頭から容赦なくぶちまけた。翔平が前に出ようとするたび、隆がその歩を阻む。翔平の拳は硬く握りしめられ、甲の筋が浮き上がっていた。一触即発、場内は収拾のつかない緊迫感に支配されていた。ようやくパーティーの主催者側の人間が駆け寄り、二人をなだめようと間に入った。騒ぎを聞きつけた宏介が瑠衣のトラブルを知り、真っ青な顔で飛んできた。彼はすぐさま駆け寄り、取り押さえようとする警備員を横目に美羽を止めようとした。美羽は怒りで充血した目で、荒い息を吐きながら、ずぶ濡れになり変わり果てた姿の瑠衣を睨みつけた。宏介は慌てて瑠衣を助け起こしたが、美羽の形相を前にして、口ごもるだけで何も言えなかった。翔平が大股で歩み寄る。その全身から漂う禍々しい気配に、周囲は恐怖を覚えた。瑠衣は泣きじゃくりながら縋りついた。「翔平さん……」翔平の冷え切った横顔を見て、宏介でさえ気後れしたように立ち止まった。翔平は瑠衣を腕の中に庇うと、美羽へ殺気すら滲ませた視線を突き刺した。美羽は怯むことなく、鋭い目線で翔平と対峙する。
フロアの外では、翔平がデイビッドと談笑していた。ダンスフロアで緑のドレスをまとい、優雅に踊る美羽に目を奪われたデイビッドが、不意に翔平へ問いかける。「ねえ翔平、君たちの国の女性を口説くには、どうアプローチするのが正解なんだ?」翔平は手元のグラスを軽く揺らし、一口含んでからクスッと笑った。「デイビッドが落とせない女なんて、存在するのか?」デイビッドはまっすぐに美羽を見つめた。その青い瞳には隠しきれない想いが滲んでいた。「イヴリンは僕を振った初めての女性なんだ。心から惹かれているし、忘れられない。今回この街へ来たのは、イヴリンにもう一度会いたかったからだ」翔平はその視線を追い、深い闇を湛えた瞳で美羽を射抜いた。「デイビッドの周りにはイヴリンさん以上に綺麗な女がたくさんいるだろう?彼女を忘れないのは、拒絶されたことで征服欲が刺激されたからか?」デイビッドは翔平の方を向いて笑みを深めた。「外見の問題じゃない。イヴリンには人を惹きつける特別な空気があるんだ。翔平は感じないのか?」翔平は口元を歪めた。その瞳からは感情が抜け落ちている。「他の女と違うなんて、微塵も感じないな」「翔平には恋人がいるからな。瑠衣さんも十分に美しいよ」とデイビッドが笑った。会話を終えた瑠衣が近寄ってきた。「翔平さん、ダンスしよう!」翔平はグラスをスタッフに手渡すと、デイビッドに向き直った。「先に失礼するよ」瑠衣は翔平の腕を取り、ダンスフロアへと向かった。ダンスを踊る美羽を見つめていたデイビッドは、そのまま踵を返した。潮風にでも当たって頭を冷やそうと思ったのだ。翔平は瑠衣の手をとり、腰を引き寄せて音楽に合わせて踊り始めた。美羽がふと振り返ると、ちょうど二人が視界に入った。数秒だけ、翔平の視線と絡み合う。無視したかったが、二人を見ているだけで生理的な不快感がせり上がってくる。異変を感じた隆が小声で問いかける。「席を外すか?」美羽は隆を見上げ、視線を落とした。「その必要はないです」翔平とは、これからも顔を合わせる機会があるだろう。逃げられないのなら、向き合うしかない。「無理するなよ」と隆が慰める。美羽は小さく頷いた。音楽が終わろうとしていたとき、翔平のスマホが鳴り、彼は電話に出るためダンスフロアを離れた。隆とダンスフロアを出ようと
翔平の鋭い眼差しが美羽に向けられ、ふっと皮肉げな笑みが浮かんだ。その冷ややかな態度を見て、美羽は思わず眉間にしわを寄せた。一体、どういうつもりなの?続いて現れた瑠衣が、親しげに翔平の腕を取り、尋ねた。「翔平さん、何見てるの?」瑠衣が視線の先にいた隆たちを見つけると、その表情は一瞬で曇った。美羽はそっと視線を落とし、「行こう」と隆が言ったのに応じた。美羽が軽くうなずいて隆と歩き出すと、また別の知り合いに声をかけられた。その傍らで、瑠衣は翔平の腕に寄り添ったまま階下へ向かう。今日の瑠衣は真珠の装飾が上品な白いタイトなドレスを身に纏い、完璧な美女という雰囲気だった。隣を歩く翔平もバーガンディのスーツを着こなし、端正な顔立ちで、周囲を惑わせるような妖艶なオーラを漂わせていた。二人が並ぶと、まさに絵になる美男美女だ。会場内でも二人が目立ち、隆たちとひそかに比較するような視線が交差した。どちらのペアも、比べる必要がないほどに圧倒的なオーラと美しさを持っている。あまりにも眩しい2組の存在に、シャングリアまでもが引き立て役になっていた。翔平の姿を見て、周囲から次々と人が挨拶に集まってくる。美羽と隆は会場の反対側にいて、もうお互いの顔は見えなかった。ここで思わぬ出会いがあった。エルスタンフォード大学で共に博士課程を歩んだデイビッドだ。金髪に碧眼の、典型的なイケメンだ。A国時代、デイビッドは美羽にかなり積極的にアプローチしてきた。けれど、美羽はきっぱりと断った。それでもデイビッドは恨むようなことはせず、ただ挫折感からか苦笑いしつつ言った。「イヴリン、君は僕を振った唯一の女性だよ。でも本当に尊敬している。だから友達のままでいてくれるかな?」美羽にとってデイビッドは、プライベートはともかくとして、その有能な仕事ぶりを尊敬できる友人だった。実は一度、美羽はデイビッドに命を救われたこともある。だから、二人の絆はそれなりに深い。ただ帰国してからは忙しさのあまり、すっかり連絡も減っていた。まさか、こんな場所で会うとは思いもよらなかった。「イヴリン、今日は最高に綺麗だね。僕と一曲踊ってくれないかな?」美羽が何か言うより先に、隆が優雅に断った。「残念ですが、彼女は今夜、私がお連れしておりますので、デイビ
「会社の財務レポート、お昼休みが終わるまでに仕上げておいて」美羽は自分のデスクに戻った。美羽は秘書課の一般職に降格させられたが、遥は美羽に本来の担当じゃない仕事まで、たくさん押し付けていた。それでも、美羽は黙ってすべて引き受けていた。文句ひとつ言わずに会社にしがみついているのだって、ただの自己満足に過ぎない。どうせ翔平は、見向きもしてくれないのに。美羽はレポートを完成させると、データと印刷したものを遥に提出し、それからデリバリーを頼んだ。会社には社員食堂があるけれど、美羽はいつもお弁当を持参していた。人が多い場所は苦手だから。じろじろ見られるのも、誰かと話すのも嫌だった
隆はドアの前に立つ女性に目を向けた。最初はきょとんとして誰だか分からなかったが、彼女が口を開いたことで、それが美羽だと気づいた。「佐野先生」隆は何事もなかったかのように表情を整え、「やあ、来たんだね」と声をかけた。美羽はマスクを外し、研究室の中へと入った。「佐野先生、ご無沙汰しております」「久しぶり。君だと気づかなかったよ」隆は優しく微笑んだ。美羽は自嘲気味に口角を上げ、話した。「こんな姿になってしまって、先生に会いに来るのも少し気が引けました」隆は立ち上がってデスクを回り込み、言った。「妊娠して体型が変わるのは当たり前のことだ。産めばまた戻るさ。まあ、座って!」
だが、翔平はそれ以上何も聞かなかった。美羽は続けて言った。「明日、月曜の午後って空いてる?よかったら、先に役所へ行こうよ。どうせ2ヶ月前でも大丈夫でしょ?」離婚が成立していなければ、生まれてくる子は自動的に翔平の子として戸籍に記載されてしまう。翔平は落ち着き払っている美羽を、探るように見つめた。そして、ふいと視線をそらすと、「俺が決める」とだけ言った。美羽は俯いて、もう何も言わなかった。車は中山家の本邸に着いた。日和が二人を呼び戻したのは、やはり美羽のお腹の子どものことだった。中山家は男の子ばかりで、日和には二人の息子がいた。長男が中山湊(なかやま みなと)、次
妊娠25週目の健診の日、中山美羽(なかやま みう)は夫の浮気を目撃してしまう。黒いコートを羽織った背の高いハンサムな男性が、腕の中にいる可憐な美人をかばうように立っている。その女性は白いコートを着て、頬はほんのりピンク色に染まっている。ふわふわのマフラーに包まれた小さな顔は、まるでお人形のように精巧な顔立ちだった。美羽は健診結果の用紙を指が白くなるほど強く握りしめた。冷たい風が頬をかすめる。だけど、体の芯まで凍えさせるのは、ズキズキと痛む心のせいだ。中山翔平(なかやま しょうへい)は、遠くにいる美羽の姿に気づいた。でも、その表情は平然としていて、浮気現場を見られた気まずさなんて微塵