All Chapters of 冷徹な夫が暴走愛?それでも妻は絶対に許さない: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

妊娠25週目の健診の日、中山美羽(なかやま みう)は夫の浮気を目撃してしまう。黒いコートを羽織った背の高いハンサムな男性が、腕の中にいる可憐な美人をかばうように立っている。その女性は白いコートを着て、頬はほんのりピンク色に染まっている。ふわふわのマフラーに包まれた小さな顔は、まるでお人形のように精巧な顔立ちだった。美羽は健診結果の用紙を指が白くなるほど強く握りしめた。冷たい風が頬をかすめる。だけど、体の芯まで凍えさせるのは、ズキズキと痛む心のせいだ。中山翔平(なかやま しょうへい)は、遠くにいる美羽の姿に気づいた。でも、その表情は平然としていて、浮気現場を見られた気まずさなんて微塵も感じさせない。それどころか、彼はその女性のために自ら車のドアを開けてあげるなど、終始優しい態度を崩さなかった。いつもは人を寄せ付けない冷たいエリートなのに、こんな風に誰かを気遣う優しい一面もあるなんて。その女性は美羽の視線に気づいたようだ。一瞬動きを止めると、不思議そうに美羽を見てから、翔平に尋ねた。「翔平さん、あのおばさん、ずっとこっちを見てるけど、知り合いなの?」冷たい風が耳元で低く鳴った。美羽には、その女性が翔平に何を言ったのか聞こえなかった。それでも、彼女の口の動きで「おばさん」と言われたことだけは、はっきりと分かった。「おばさん」って?きっと、自分のことを言っているのだろう。美羽は、心の中で力なく笑った。まだ今年で24歳になったばかりだというのに。もともとぽっちゃり体型なのに加え、顔立ちもごく普通。黒のダウンに黒のニット帽をかぶれば、妊娠後期のむくんだ体は重苦しく見える。やつれた顔も相まって、たしかに30代みたいだ。若くてきれいな美人とは比べものにならない。翔平は、その女性が車に乗るのを優しくエスコートした。美羽は体がこわばって、その場に立ち尽くした。車が走り去っていくのを、ただ見送ることしかできなかった。美羽と翔平は、お腹の子供がきっかけで結婚した。翔平のようなエリートにとって、この不本意な結婚は順風満帆だった人生に生じた唯一の瑕のようなもので、お腹の子も、美羽が自分を縛りつけるための手段にすぎなかった。翔平は、美羽のことを心から憎んでいる。美羽は翔平に8年間も片想いをしていた。でも、自分が翔平にふさわし
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第2話

だが、翔平はそれ以上何も聞かなかった。美羽は続けて言った。「明日、月曜の午後って空いてる?よかったら、先に役所へ行こうよ。どうせ2ヶ月前でも大丈夫でしょ?」離婚が成立していなければ、生まれてくる子は自動的に翔平の子として戸籍に記載されてしまう。翔平は落ち着き払っている美羽を、探るように見つめた。そして、ふいと視線をそらすと、「俺が決める」とだけ言った。美羽は俯いて、もう何も言わなかった。車は中山家の本邸に着いた。日和が二人を呼び戻したのは、やはり美羽のお腹の子どものことだった。中山家は男の子ばかりで、日和には二人の息子がいた。長男が中山湊(なかやま みなと)、次男が中山慶(なかやま けい)だ。湊には息子が二人いる。長男の中山真司(なかやま しんじ)は数年前に結婚し、5歳になる双子の男の子を授かっている。次男の中山悠斗(なかやま ゆうと)は24歳で未婚だ。慶には、翔平という一人息子しかいない。だから、美羽が女の子を身ごもっていると知って、日和も剛もとても喜んでいた。「本当におめでたいですね。可愛い女の子が来てくれたら、お父さんの病気もすっかり良くなりますね」義母の日和が美羽のお腹の子をとても大事にしているのを見て、百合も相槌を打ち、美羽にいくつかお世辞を言った。美羽は傍らで、おとなしく返事をしていた。太っていて、おどおどした様子の美羽を、百合はどうにも気に入らなかった。でも、日和の手前、それを表には出さなかった。日和はご機嫌で、美羽に高価な真珠の腕輪を贈った。でも、美羽は驚いて、もったいないから、と受け取ろうとしなかった。百合が口を挟んだ。「おばあさんがくださるんだから、受け取りなさい」所詮は一般人、大事な場には出せない。美羽は諦めて腕輪を受け取った。「ありがとうございます、おばあさん」「しっかり栄養を摂って、元気な赤ちゃんを産むのよ」美羽は微笑んで頷いた。日和が自分に優しくしてくれるのは、自分自身のためではないと分かっていた。もともと、美羽と翔平は本邸で夕食を共にする予定だった。だが、翔平に一本の電話がかかってきた。彼の目は優しく、とても甘い表情で笑っていた。どうやら、ペットを飼っているらしい。翔平は、愛おしそうに「はなちゃん」と、ペットの名前を呼んだ。愛
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第3話

隆はドアの前に立つ女性に目を向けた。最初はきょとんとして誰だか分からなかったが、彼女が口を開いたことで、それが美羽だと気づいた。「佐野先生」隆は何事もなかったかのように表情を整え、「やあ、来たんだね」と声をかけた。美羽はマスクを外し、研究室の中へと入った。「佐野先生、ご無沙汰しております」「久しぶり。君だと気づかなかったよ」隆は優しく微笑んだ。美羽は自嘲気味に口角を上げ、話した。「こんな姿になってしまって、先生に会いに来るのも少し気が引けました」隆は立ち上がってデスクを回り込み、言った。「妊娠して体型が変わるのは当たり前のことだ。産めばまた戻るさ。まあ、座って!」美羽はソファに腰掛けた。隆はお茶を一杯差し出し、「体を温めるといい」と声をかけた。「ありがとうございます」美羽は、それをありがたく受け取った。隆は美羽の膨らんだお腹にちらりと目をやり、「今、何週目だい?」と尋ねた。「25週です」と美羽は答えた。「そうか。それじゃあ来年の入学時期に、ちょうど出産予定日が重なるわけだ」と隆は言った。「先生、お願いがあるのですが……入学を延期させてもらうことはできないでしょうか?」美羽は懇願した。出産はどうしようもない。でも、このチャンスを逃したくはなかったのだ。「なぜそこまでして、エルスタンフォード大学に行きたいんだい?」隆は真剣な表情で問いかけた。「子供が産まれたら、離婚するつもりです」美羽はうつむきながら言った。「こんな不幸な関係はもう終わりにしたいんです。自分の人生を、もう一度やり直したいんです」たったの数ヶ月。長くも短くもない時間のはずなのに、美羽にとっては一生のように長い時間に感じられた。隆は思わず眉をひそめた。かつての、太陽のように明るく可愛らしかった美羽が、こんなにも変わってしまった。心と体の両面で、どれだけボロボロになったかは想像に難くない。「君が吹っ切れて立ち直ろうとしているのなら、嬉しいよ。中山社長とは、確かにお似合いとは言えなかった。これからはきっと、本当に君を愛してくれる人が現れるさ」美羽はうつむいたまま、こくりと頷いた。当時、隆は翔平の秘書になることに反対していた。でも、自分が意見を押し通した結果、結局、痛い目を見ることになったのだ。美羽はふと、「先生の目には、
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第4話

「会社の財務レポート、お昼休みが終わるまでに仕上げておいて」美羽は自分のデスクに戻った。美羽は秘書課の一般職に降格させられたが、遥は美羽に本来の担当じゃない仕事まで、たくさん押し付けていた。それでも、美羽は黙ってすべて引き受けていた。文句ひとつ言わずに会社にしがみついているのだって、ただの自己満足に過ぎない。どうせ翔平は、見向きもしてくれないのに。美羽はレポートを完成させると、データと印刷したものを遥に提出し、それからデリバリーを頼んだ。会社には社員食堂があるけれど、美羽はいつもお弁当を持参していた。人が多い場所は苦手だから。じろじろ見られるのも、誰かと話すのも嫌だった。ただ一人で、静かに過ごしたかった。今朝はお弁当の用意ができなかったから、仕方なくデリバリーで済ませることにした。デリバリーが届くのを待っていると、お昼を終えた同僚たちが、興奮した様子で話しながらオフィスに戻ってきた。「社長の彼女、すごく若いね。まだ大学生じゃない?」「そうみたいね。本当に綺麗な子。まるでお人形さんみたい」「社長が彼女を見る目、見た?とろけるように優しくてさ。いつも厳しい社長にあんな一面があったなんてね。まるで少女漫画の『オレ様社長とナイショの恋』みたい!」……おしゃべりに夢中だった二人は、オフィスに入ってきてようやく席に座る美羽に気がついた。まるで置物みたいに、じっと座っていた。一般職に降格してから、仕事以外の話は一切しなくなった。日に日に孤立して、今は一日中マスクをして、まるで誰にも顔を見られたくないみたいに。半年前まで、敏腕の社長秘書として活躍していたなんて、今では想像もつかない。美羽は配達員から電話がかかってきて、席を立った。下の階へデリバリーを取りに行くと、ちょうど、高級レストランのスタッフがケータリングを運んできたところだった。受付の人が、社長専用エレベーターのカードキーをかざしている。美羽の目に、スタッフが持つワインボトルが映った。一本で数千万はする高級品だ。でも、たかが数千万。翔平にとっては、ほんの数分で稼げてしまう金額にすぎない。美羽は自分のカツ丼の袋を提げて、オフィスへと戻った。午後2時。遥がやってきて言った。「社長がお呼びよ」美羽はどきりとした。なぜか、嫌な予感が胸をよぎる。
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第5話

遥は顔色を変えると、勢いよく机を叩いて立ち上がった。「何んなのよ!」美羽は遥を無視して、その場を離れた。自分のデスクに戻ると、小さな鏡を取り出し、頬のかすかなひっかき傷を見た。傷は浅かったので、ウェットティッシュで拭くだけで十分だった。どうせこんな顔なんだから、傷が一つ増えたってどうでもいい。それにしても、瑠衣の顔は、どこかで見たことがあるような気がした。仕事が終わる頃、美羽に父親の今井正人(いまい まさと)から電話があった。杉山涼太(すぎやま りょうた)が帰ってきたから、実家で一緒にごはんを食べよう、という誘いだった。美羽は嬉しくなって声を弾ませた。「お兄ちゃんが帰ってきたの?戻って来るのに、あと数日かかるって聞いてたけど」「仕事が片付いて、早めに帰って来たんだと」「わかったわ。仕事が終わったらすぐ帰るね」美羽は車を走らせて今井家へと向かった。今井家は西区にある中堅クラスのマンションで、今年に入ってから購入した、少し広めの中古物件だ。正人は中堅の不動産会社を経営していて、大富豪というほどではないけれど、暮らしには余裕があった。だから、美羽も子供の頃から何不自由なく育ってきた。しかし不動産業界が不景気になり、半年ほど前、会社は投資の失敗で深刻な経営難に陥ってしまった。倒産寸前まで追い込まれたけれど、正人は美羽が翔平の子供を身ごもったと知っても、翔平に責任を取るよう迫ったりはしなかった。日に日にやつれていく父の姿を見て、家財を売り払って借金を返すまで追い詰められているのを知り、美羽はついに中山家へ行く決心をした。あの時、確かに下心があった。父のためだけじゃなく、自分自身のためでもあったのだ。望んだものを手に入れた。今井家は中山家からの多額の結納金のおかげで、借金をすべて返すことができた。でもその代わりに、自分も大きな代償を払うことになった。だから今、味わっている苦しみは、すべて自業自得だ。誰を恨むこともできない。今井家に着くと、杉山澪(すぎやま みお)がキッチンから出てきた。「美羽、おかえり」美羽が9歳の時、両親は離婚した。母は兄を連れて出ていき、美羽だけが残された。その後、正人は澪と知り合った。でも二人は入籍せず、事実婚という形で一緒に暮らしている。最初、美羽は澪を受け入れられず
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第6話

コン、コン、コン。澪がドアをノックした。「美羽、お父さんたちが帰ってきたわよ」美羽は特に何も考えず、アルバムを置いて部屋を出た。玄関にいる二人を見て、嬉しそうに声を上げた。「お父さん、お兄ちゃん」涼太と正人は、美羽の方を見た。「美羽、お土産があるんだ。こっちに来て、気に入るか見てみて」と涼太が声をかけた。美羽は嬉しそうに近づいた。「何のお土産?」涼太は大小の紙袋をいくつか抱えていて、それをテーブルの上に置いた。そして、その中からブランド物のアクセサリーケースを一つ取り出して美羽に渡した。「開けてみて」美羽は嬉しそうに受け取り、開けてみると、華奢な金のブレスレットだった。「ありがとう、お兄ちゃん。すっごく好き」「気に入ってくれてよかった」涼太は手を伸ばすと、可愛がるように美羽の頭を撫でた。涼太は澪にも、似合いそうな金のブレスレットを買ってきていた。他にも、二人にはそれぞれ化粧品のセット、正人にはお茶とお酒、それから出張先の特産品も買ってきてくれていた。温かく、和やかな空気が流れる。この家に帰ってくると、美羽は心から安らぐことができた。「美羽、出産予定日はいつなんだい?」と、涼太が心配そうに尋ねた。美羽の大きなお腹は、たしかに臨月間近の妊婦のように見えた。美羽は言った。「予定日までは、まだ十分時間がある」美羽のお腹を撫でながら、澪が微笑んだ。「美羽のお腹の子は、きっと女の子ね」美羽は頷いた。「うん、女の子だよ」「性別、調べたのか?」と正人が尋ねると、澪も何かに気づいたのか、途端に緊張した面持ちになった。「うん。でも、おばあさんはこの子をとても大事にしてくれているの」正人はほっと息をついた。「そうか、それならよかった。子供がいれば、お前と翔平さんの関係も、これから少しずつ良くなっていくだろう」美羽は俯いた。心が急に重くなる。翔平から離婚を切り出されていることを、どう話せばいいのか分からなかった。でも、このことはずっと隠しておけるわけじゃない。それに、月見ヶ丘の家を出て、この今井家に戻ってこようと決めていた。まあ、いいや、夕食が終わってから話そう。澪が腕によりをかけた豪華な夕食が食卓に並んだ。涼太は今、友人と共同でIT会社を経営している。2年前に会社を立ち上げる時、正人は
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第7話

その夜、美羽は今井家に泊まった。こんなにぐっすり眠れたのは、本当に久しぶりだった。翌朝。澪は台所で朝食の準備をしていた。美羽のために栄養たっぷりのスープを作り、会社で食べられるようにとお弁当まで用意してくれた。お弁当は温かいまま食べられるよう、保温ジャーに詰められている。美羽は昨夜、正人たちに退職届を提出したことを話した。これからは隆のもとで1ヶ月だけアシスタントとして働くつもりだ。みんなは最初、お腹の子のためにも体を大事にしてほしいと、それに反対した。しかし美羽は譲らなかった。お腹が大きくて動きにくいだけで、体調は悪くないから簡単な仕事なら大丈夫だ、と。それに何もしないでいると余計なことばかり考えてしまうから、環境を変えて忙しくしていたい、と訴えた。それを聞いて、正人はもう何も言わなかった。美羽も台所を手伝おうとしたが、澪が許してくれなかった。美羽は無理強いせず、ソファに座ってスマホをいじっていた。妊娠中でもできる、マタニティピラティスの教室を探しているのだ。良さそうな教室を一つ見つけ、今度話を聞きに行ってみようと思った。そのままスマホの画面を眺めていると、ふと、顔色が変わった。あるインスタの投稿が目に飛び込んできたのだ。それは、高級プライベートレストランでの食事会の写真だった。投稿したのは大塚竜之介(おおつか りゅうのすけ)。翔平の友人グループの一人で、美羽がまだ翔平の秘書だった頃に連絡先を交換した相手だ。写真にはコメントが添えられていた。【みんなでごはん!ちなみに、今日もラブラブな姿をごちそうさま。結婚式はいつかな?】その中には、翔平と瑠衣のツーショットが数枚あった。真ん中の写真では、瑠衣が恥ずかしそうに頬を押さえながら翔平の胸に寄り添っている。そして翔平は、瑠衣の肩に大きな手を置き、優しい眼差しで腕の中の彼女を見つめていた。写真からでも、二人の甘い雰囲気が伝わってくる。翔平の仲間たちは、彼が入籍済みだと知っている。だが、彼らからすれば美羽は翔平にふさわしくないのだ。竜之介のこのインスタ投稿は、明らかに自分への当てつけだろう。美羽は胸が締め付けられるような痛みを感じ、息が苦しくなった。彼女はスマホの画面を閉じ、席を立ってベランダに出た。落ち着かないと。気にしてはダメ。も
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第8話

最初、浩平は、竜之介が知り合いに会ったのだと思ったので、邪魔をしないようにした。しかし、浩平が大股で歩み寄り、美羽を抱き起こそうとした時だった。だが、竜之介に「浩平さん、そいつは放っておけよ。自業自得だ」と止められてしまった。浩平は構わず美羽を支え起こし、「大丈夫か」と声をかけた。美羽は痛みで声も出せず、顔を上げることもできなかった。ただ首を横に振り、飛ばされたお弁当箱に向かって、足を引きずりながら歩いていった。浩平は竜之介に向き直った。「彼女が妊婦なのが見えなかったのか?ここは翔平の会社だぞ。もし何かあったら、どうするつもりだ」竜之介は、美羽の重たそうな後ろ姿を見て、冷たく笑った。「何ともなさそうじゃないか。本当に何かあって、お腹の子が流れたら、その方が丁度いい」その言葉に、美羽は凍りついたように立ち尽くした。心臓がぎゅっと縮むような痛みに襲われる。竜之介がこんなことを言うなんて。それはつまり、翔平もこの子を望んでいないということなのだろう。浩平は、思わず眉をひそめた、その時だった。「お兄ちゃん」と、風が抜けるような明るい声がした。浩平はハッとして顔を上げた。瑠衣がこちらへ駆けてくる。ベレー帽をかぶり、上質なセーターにプリーツスカート、脚には白いブーツを履いていた。太陽のように明るく、人目を引く美しさだ。瑠衣の後ろからは、整った顔立ちの翔平がついてくる。腕には彼女の上着をかけ、その眼差しはとても優しかった。「そんなに急いで走るな。転んだらどうするんだ?」浩平がたしなめるように言った。瑠衣は浩平の腕に抱きつき、甘えた声を出した。「もう子供じゃないんだから。そんな簡単に転ばないわよ」竜之介が近づいてきて、からかうように言った。「もし転んだりしたら、翔平は、このビルを建て替えかねないな」瑠衣は頬を赤らめ、ぷいと顔をそむけた。「竜之介さん、変なこと言わないでよ」翔平が近づいてきた。「さあ行こう。まずは食事だ」竜之介と浩平は、翔平と瑠衣をここで待っていたのだった。瑠衣は浩平から離れると、隣に立つ翔平の手を握った。一行は揃って、出口へと歩き出した。苦しそうに屈んで保温ジャーを持ち上げる美羽の姿が目に映ったが、翔平の顔には何の感情も浮かんでおらず、その表情は冷えきっていた。瑠衣は、そんな翔平
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第9話

瑠衣がこっちに来るのを見ながら、翔平はクスリと笑った。「瑠衣にお前に、血の繋がった妹がいるなんてバレたら、きっとやきもちを妬くぞ」浩平は言った。「お前と瑠衣が付き合うことに反対はしない。だけど、お前の身辺がきれいになるまでは、同棲なんて絶対に許さないからな」翔平は黙ったまま、口の端をあげて薄く笑った。「お兄ちゃん、二人で何の話をしてるの?」浩平は笑顔で「別に、たいした話じゃないよ」と答えた。……「どういうつもり?自分が偉いとでも思ってるわけ!?」遥は書類の束を、美羽の目の前に叩きつけた。ついさっき、遥はいつものように美羽の担当ではない仕事を押し付けようとした。しかし、美羽はそれをきっぱりと断ったのだ。美羽は怒りに震える遥を見て、鼻で笑った。「あら、その程度の仕事もできないで人に押し付けるなら、いっそ辞めたらどう?」「……」オフィスの同僚たちは、固唾をのんで成り行きを見守っていた。美羽の言葉を聞いて、みんな驚きを隠せない。もう辞めるつもりなんだろう。まさに、やけくそだ。その言葉にカッとなった遥は、美羽に歩み寄り、平手打ちをしようと手を振り上げた。だが、それよりも早く、美羽は机のコップを掴み、遥に向かって水を浴びせかけた。顔に水をかけられた遥は、一瞬固まったが、すぐに叫び声を上げた。「よくもやったわね、この性悪デブ!」「何をしているんです!」潤の声に、遥は美羽に掴みかかろうとしていた動きを止めた。潤は怒りを露わにズンズンと歩いてくると、ずぶ濡れの遥を見て「一体、何があったんですか?」と聞いた。遥は息を整えながら言った。「美羽さんに仕事をお願いしたんですけど、やってもらえなくて」潤は眉をひそめ、不快感をにじませながら美羽を睨みつけた。「自分だけ特別扱いされるとでも思ってるのですか?ここは会社で、君の家ではありません!」美羽は首から下げていた社員証を外すと、机の上に叩きつけた。そして潤を冷ややかに見つめて言った。「じゃあ、今すぐ辞めます。それで、いいでしょう!」そう言って、美羽は自分のバッグを手に取り、さっさとその場を後にした。「おい!」潤は顔色を変えて怒った。まさか美羽がこんな態度に出るとは、思ってもみなかったのだ。美羽がエレベーターで1階に下りると、ちょうど会社に戻ってきた翔平と
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第10話

美羽はベッドで横になり、そっとお腹に手を当てた。小さな命の鼓動を感じていると、高ぶっていた気持ちが少しずつ落ち着いてきた。竜之介の言葉が、何度も頭の中を駆け巡る。翔平は、本当にこの子を嫌っているのだ。たとえ日和がこの子を気にかけてくれても、いずれあの瑠衣が跡継ぎを産んだら、この子は一体どれほど大事にされるというのだろう。これ以上考えるのが、本当に怖かった。自分の子を愛してくれない家族のもとに、一人で残していくことなんてできない。絶対にこの子を連れて逃げるんだ。美羽は、固く心に誓った。コン、コン、コン。ドアをノックする音が聞こえ、美羽ははっと我に返ると、ゆっくり体を起こしてドアを開けた。そこに立っていたのは、意地の悪そうな顔をした翠だった。「翔平様がお呼びです」美羽がリビングへ向かうと、ソファに険しい顔をした翔平が座っていた。心の準備はしていたはずなのに、彼の冷たい表情と凍てつくような威圧感を前にして、思わず恐怖がこみ上げてきた。足がこわばり、翔平の顔をまともに見ることさえできなかった。美羽は翔平の前で立ち止まった。叱責されるかと思ったが、聞こえてきたのは、それよりもずっと冷酷で無慈悲な言葉だった。「この書類作成が全部終わるまで、寝るんじゃないぞ」そう言うと、翔平は組んでいた長い足をほどき、ダイニングの方へ歩いて行った。美羽はローテーブルの上に積まれた、分厚い資料の山に目をやった。今夜は寝かせるつもりがない、ということなのだろう。翔平の目には、自分は妊婦どころか、人間としても映っていない。それほどまでに、自分のことが憎くてたまらないのだ。美羽は指を固く握りしめ、くるりと背を向けると、翔平の背中に向かって言い放った。「退職届ならとっくに提出済みよ。もうあなたの仕事はしない」翔平はぴたりと足を止め、ゆっくりと振り返ると、冷たい視線を美羽に注いだ。美羽は勇気を振り絞り、その威圧的で陰鬱な視線をまっすぐに見つめ返した。「同じことを二度言わせるな」翔平は翠に視線を移し、命じた。「こいつの部屋に鍵をかけろ」それを聞いた翠は、待ってたとばかりに勝ち誇った笑みを浮かべた。「はい」と返事すると、翠は足早に美羽の部屋へと向かった。美羽は全身をこわばらせて、その場に立ち尽くすことしかできなかった。まるで深い
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