登入「すごい……」小春は思わず声を漏らす。本が天井近くまで並び、平積みされた新刊や季節の特集コーナーが目に飛び込んできた。「好きに見てこい」「え?」小春は振り返る。困惑と、見放された子猫のような眼差しに樹は思わず目を逸らす。そんな樹の様子に、店員や客に扮して先に入店していた護衛たちが驚き、近くにいた仲間に思わず身を寄せる。「橘さんには、可愛らしい写真を撮ってくるように頼まれたのだが」「樹様も含まれていたのだな」「微笑ましい」彼らの隣を通り抜けていった高校生らしきカップルよりも、彼らの主人のほうが遥かに初々しく見えたのだった。.「一緒に回るが、小春の見たいものを見る」樹は穏やかに答えた。「ただ、俺に遠慮して小春が好きなものを見られないのでは来た意味がない」「……でも」「俺がそうしたいだけだし、俺が花に興味を持つきっかけになれば母も喜ぶだろう」母親に何度も念を押されて世話を任されたときは庭師に任せた樹だが、小春が興味あるなら一緒に庭ことをやりたいと思っている。つまり、すでに興味はあるのだが、樹はそれを微塵も見せなかった。「だから、一緒に回ろう」その言葉に、小春は自然と笑みを浮かべる。「ありがとうございます」植物図鑑の棚へ向かい、一冊一冊手に取っては嬉しそうにページをめくる小春。その姿を少し離れた場所から見つめる樹の表情は、仕事中には決して見せないほど穏やかだった。護衛たちが二人の姿を隠し撮りをしていく。あとで不審者がいた時に役に立つと言い訳しながら指を動かした。「この本……」小春が一冊の図鑑を手に取る。子ども向けではなく、庭づくりの技法など専門的だ。思わず夢中で読み始める。「気に入ったか?」いつの間にか隣へ来ていた樹に声を掛けられ、小春は慌てて本を閉じた。「すみません。つい夢中になってしまって」「謝るな」樹が手を差し出し、小春は見ていた図鑑を渡す。樹も見てみたいのだと思ったが、樹は側に控えてきた店のスタッフに本を渡しただけだった。「他には?」「えっ?」小春は戸惑った顔で、スタッフを見る。胸につけた名札には『ブックコンシェルジュ』と書かれていた。聞き慣れない役名だが、想像はついた。想像はついたが。「こちらの本がお気に召したなら、こちらのエッセイもおすすめです」彼が差し出したタブレットを受
流線の美しい藍色の車がゆっくりと街へ入る。窓の外を流れる景色を見つめながら、小春は小さく息を呑んだ。「街へ出るのは久しぶりか?」「え?」樹の質問に小春は戸惑う。隣を見ると、樹は運転中で前を見ていた。目が合っていない。少しだけ愚痴めいたことが言える気がした。「はい」小春は窓の外を見る。朝比奈家にいた頃、外出はほとんど病院か社交の場だけだった。自由に店へ立ち寄ることも、街を歩くことも許されなかった。「初めて、かもしれません」なんで。どうして。そう聞かれる覚悟はしていたが、樹は何も言わなかった。息を吐く。力が抜ける。緊張していたことに気づいた。「変、ですよね」自嘲的に呟いた言葉は。「少数派ではあるな」あっさりと受け止められた。「しかし、変とは思わない」気を使ってもらっているのかと思ったが。「性に合うという言葉の通り、生活の仕方なんて人の性格の数だけある」樹は肩を竦める。「深く考えるな。性格や好きなことなんて、変わるときは勝手に変わる」「変わる、でしょうか」「変わる」きっぱりと断言された。小春は少し意外に思い、樹を見た。顔は前に向けたままだが、視線だけこちらに向けられて目が合う。「経験したから、間違いない」樹が口元を緩める。「小学校の高学年になるまで、俺は母親と二人の母子家庭で育った」「え……」「父には幼い頃からの婚約者がいて、母とは遊びだった」結婚まで。母親はそれを承知で父親と関係を持ったが。「避妊に失敗して、俺ができてしまった」「……それは」「事実だ
数日後。朝食を終えた小春は、軽く首を傾げた。今日は平日。樹はスーツ姿。だが、朝食を食べ終えているのに、まだ食堂にいる。普段も、慌ただしく出かけていくわけではない。ただCEOという立場にあるからだろう。朝食の席であってもすでに仕事を気にかけているように、どこか落ち着かなかった。「失礼します」柳沢が食堂に入ってきた。彼を待っていたのかもしれない。「おはようございます、小春様」「おはようございます」仕事だからと小春が席を立とうとした。食中ならば樹たちに気を使われただろうが、食後のお茶も飲み終えている。だが。「小春様、よろしければそのままで」柳沢に止められる。「すぐに私が退散しますので」おじゃま虫ですから、と言う柳沢に首を傾げる。「小春」「はい」「今日の昼前から夕方まで、時間はとれるか?」「はい、大丈夫です」「では、出かけよう」あっさりすぎた。小春は一瞬、言葉の意味が分からなかった。「え……?」樹はこちらを見ていた。「本屋、行きたかったのだろう」小春が思わず橘を見ると、橘は申し訳なさそうに小さく頭を下げる。「私が、お話ししました」「今日は休みにした」「ご、ごめんなさい!」小春は慌てて頭を下げる。「お忙しいのに、お時間をいただくなんて……」「謝るな」樹は静かに首を横へ振った。「二件やることがあるが、出社の必要はない。そうだな。十時を目安に出かけようか」「……でも」「たまにはいい」あまりにもさらりと言われ、小春は返事に困ってしまう。
数日後。小春は部屋の窓から街並みを眺め、小さく息を吐いた。篠原家での生活は穏やかだった。温かい食事があり、安心して眠れる部屋があり、笑い合える人たちがいる。夢のような毎日だった。それでも胸の奥には、小さな引っ掛かりが残り続けていた。(このままじゃ、いけないよね……)コンコン。「小春様、お茶をお持ちしました」橘がワゴンを押して部屋へ入る。「ありがとうございます」紅茶の香りが部屋へ広がる。しばらく他愛ない話をしたあと、小春は意を決したように口を開いた。「橘さん、一つお願いがあるんです」「何でしょう」「外出したいと思うのですが」橘の手がぴたりと止まる。それは一瞬。すぐに橘は、何でもないように振る舞う。「もしよろしければ、どちらへかお尋ねしてもよろしいですか?」「本屋さんです。植物図鑑を読んでいたら、ほかにも読んでみたい本が増えてしまって」少し照れくさそうに笑う小春だったが、その表情が少し曇る。「もちろん、自分で買います」まるで新しい本を強請っているように聞こえてしまったのかもしれない。そう思って小春は付け足したのだが。「いいえ、それは問題ないのですが」橘には、小春の希望は意外なものだった。小春がいまの状況に窮屈さを覚え、それで気晴らしを求めたのだと思った。実際のところ、小春は療養を理由に篠原邸に閉じ込められた状態だ。無理やりではないし、療養というのも嘘ではない。小春はまだ、庭に出ても一時間もしないうちに疲れてしまう。橘が目を配り、疲れが見えたところで小春を部屋に戻すため、小春が体力の限界まで外にいることはないが、万全とは言えない状態。食事の量もここに来た頃よりは増えたが、まだ成人女性の一般的な食事量の半分だ。「あの&he
小春はいつものように庭へ出て、ふと違和感を覚えた。「あれ……?」見慣れない男性が立っている。使用人ではない。黒いスーツ姿で、周囲へ静かに視線を巡らせている。「小春様、どうなさいましたか?」立ち止まった小春に、橘が声を掛けた。「橘さん、あちらの方は……?」小春の言葉に橘がそちらに目を向けて、「ああ」と頷く。「警備会社の方です」橘は穏やかに答えた。「防犯設備の点検だそうです」「点検、ですか……」「ええ。防犯カメラの設置場所の見直しや、システムのアップデートなどで、しばらく屋敷のあちこちで見かけることになると思います」その説明に嘘はない。ただ、本当の理由だけが伏せられていた。「そうなんですね」小春は素直に頷いたが、心のどこかに小さな引っ掛かりが残る。橘は点検や見直しと言ったが、あの警備会社の人はこちらを見ている気がする。「橘さん……」「小春様」橘も、彼がこちらを見ていることに気づいたのか。真剣な声音に、小春は黙った。「小春様の後ろにある巣箱なのですが」「……え?」橘の言葉に、小春が後ろを見た。そして、驚いた。「巣……箱?」木の枝に乗っかった立派なもの。小春の知っている巣箱を家とするなら、華やかに装飾された豪邸がそこにあった。「私が作ったものです」「そう、なのですか」「目立ちますよね」「そう、ですね」景観に溶け込むような感じはない。堂々と鎮座している。「不審物と疑っているのではないでしょうか」「それは…&he
「小春様、手伝っていただきたいことがあるのですが」小春が朝食を終えると、橘に声をかけられた。「私でよければ、ぜひ」了承すると、書庫へ案内される。小春は小学校の図書室を思い出した。本棚には、専門書、小説、画集が整然と並んでいる。「新しく届いた本を登録して、似たような本のある棚におさめていただきたいのです」橘が申し訳なさそうに言う。「分かりました」小春は自然と笑みを浮かべた。「私、こういう作業は好きです」本を手に取り、中身を簡単に読み、分類する。「これ……」【腕はよみがえる──神経と筋肉を再起動するリハビリの教科書】【もう一度、腕を動かしたい──機能回復に挑む人のためのリハビリガイド】【腕の力を取り戻す90日プログラム──可動域・筋力・神経を鍛え直す】小春は思わず自分の左腕を意識する。小学生の頃、首都高の多重事故に巻き込まれて小春は腕を骨折した。一緒に乗っていた崇道と夏美は無事。千夏の頬にできた小さな切り傷に夏美と千夏が騒ぎ、崇道は病院に連絡した。――なんで千夏が優先されるの!このとき、小春は初めて自分から悪女になった。千夏を愛人の子と言い、自分を優先しろと叫んだ。骨折をしていたからではない。小春の傍にいる母子。女性の頭からは血が出ていて、傍にいる子どもが必死に助けを求めていた。どう見ても、千夏の切り傷よりも緊急性があった。小春が騒ぐ声に、周りのやじ馬が反応し始めた。そうして車を奪い、小春はその母子と病院に行った。処置されたあと、二時間ほど遅れて崇道たちが来た。崇道は小春の頬を叩き、床に投げ出された小春を「思いやりのない娘だ」と罵倒した。罰として、小春は最低限の治療しか受けられず、小春の左腕は今も時折痛むのだ。.「その