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第三話「剥がれ落ちた愛の記憶」

ผู้เขียน: ひなた翠
last update วันที่เผยแพร่: 2026-04-12 00:27:48

 九条家の広大なキッチンは、静謐な空気に包まれていた。和葉は無意識のうちに、己の左頬へと指先を這わせた。

 指先に触れるのは、滑らかで、あまりにも整いすぎた陶器のような肌だ。かつてそこにあったはずの、赤黒く引き攣れた、醜い火傷の痕跡はもうどこにもない。

 手術台に横たわり、意識が薄れゆく刹那まで、鏡の中で和葉を絶望させていた歪んだ輪郭。それが視界から消え、幾度目かの長い眠りから覚めたとき、顔は重苦しい包帯の層に守られていた。やがてその白が剥ぎ取られた日、鏡の向こうに立ち現れたのは、かつての親友であり、今の仇敵でもある「絵里奈」の顔だった。和葉としての面影は、細胞のひと粒に至るまで跡形もなく消し去られていた。

 鶏肉が脂を跳ね、香ばしい薫りがキッチンに立ち込める。

 すべてを捨てて整形を決意したのは、ただ、もう一度だけ彼のそばにいたかったから。それだけが、地獄のような日々を生き抜く唯一のよすがだった。

 だというのに、今、視線の先にいる唯人は、和葉が胸に抱き続けてきたあの人とは、あまりにかけ離れた「異形」の存在に見えた。

 大人びた端正な顔には、かつての柔らかな眼差しも、慈しむような微笑みも、何一つ宿っていない。そこに座っているのは、冷酷で、鋭利な刃物のような威圧感を纏った、名前を同じくするだけの他人。五年前の彼が持っていた、魂を包み込むような優しさのかけらさえ、時の砂に埋もれて消えてしまったようだった。

(……顔も声も同じなのに、中身は別の人間なのね)

 まな板の上で野菜を刻む包丁の音が、規則正しく響く。和葉は、痛みを伴う記憶の引き出しを、一つ、また一つとこじ開けていった。

 唯人と出会ったのは、大学一年の秋。金木犀の香りが漂い始めた頃のことだった。

 所属する学科と隣接する研究室との合同ゼミ。発表に立つ唯人の声は、低く、深く、耳の奥に心地よく響いた。理路整然とした論理展開、鋭い質問にも眉一つ動かさずに答える不遜なまでの自信。その凛とした佇まいは、周囲の学生たちの中で異質なほどの光を放っていた。

 ゼミが終わり、夕闇が迫る教室で一人帰り支度をしていた和葉に、彼はふいに声をかけた。

「……一緒に帰りませんか」

 そのひと言が、和葉の運命の歯車を狂わせた。彼は二十三歳の大学院生で、国内屈指の財閥である九条家の御曹司だと知ったのは、随分後のことだ。十八歳の、何の色も持たなかった和葉を、なぜ彼が選んだのか。その理由は、当時の彼女にはあまりに贅沢な謎だった。

 交際が始まってからの唯人は、どこまでも穏やかだった。

 和葉が身寄りのない施設出身であることを打ち明けたとき、彼は嫌な顔ひとつせず、ただ静かに和葉の震える手を包み込んだ。

「和葉のこと、もっと知りたいんだ。過去も、未来も」

 その言葉だけで、世界から拒絶されていた心が救われる気がした。電話をかけてくるときは必ず「今大丈夫?」と和葉の都合を最優先し、心が疲弊しているときは、理由を問い詰めもせずにただ隣で体温を分けてくれた。雪が降り積もる凍えるような夜、和葉の両手を己のコートのポケットに引き込み、「冷たいな」と愛おしげに苦笑いしながら温めてくれた、あの手のひらの熱。

 月日が流れるにつれ、和葉は唯人の一人暮らしのアパートへと深く入り浸るようになっていった。

 棚にはペアのマグカップが増え、玄関には少し大きな彼の傘と、小さな和葉の傘が寄り添うように並んだ。狭いシングルベッドに二人で横たわり、窓から差し込む月明かりを浴びながら、天井を見つめて夢を語り合う夜。

「卒業したら、ちゃんとした部屋を借りて、一緒に暮らそう」

 その約束だけが、二人の未来を繋ぐ唯一の真実だと信じて疑わなかった。

 だが、九条の家という巨大な壁は、施設出身の和葉を冷酷に拒んだ。

 幾度挨拶に向かっても、重厚な門扉が開かれることは一度としてなかった。和葉の前では決して見せなかったが、唯人は両親から苛烈な叱責を受け、絶縁の脅しに遭っていた。それでも彼は「必ず説得してみせる。君を離さない」と繰り返し囁いた。その嘘のない瞳を、和葉は魂の底から信じていたのだ。

 大学三年の夏、招待された別荘での旅行。それが、楽園の終焉だった。

 山の中にひっそりと佇む瀟洒な別荘で過ごした夜は、あまりに穏やかで、幸福に満ちていた。眠りに落ちる直前、唯人の太い腕が肩を抱き寄せた感触。鎖骨に触れる、彼から贈られたペンダントの冷徹な重み。遠くで鳴く虫の声が、子守唄のように響いていた。

 次に意識を奪ったのは、安らぎではなく、喉を焼くような煙の味だった。

 窓の外は、狂ったようなオレンジ色の炎に呑み込まれていた。

 唯人を揺り起こし、二人で廊下へ飛び出す。階段の下からは、蛇のようにうねる炎が這い上がっており、熱気が肌を刺し、煙が視界を奪う。必死で出口を探し、階段に差し掛かったその時、焼け落ちた床板が悲鳴を上げて崩落した。

 唯人の身体が大きく傾く。真っ逆さまに落ちると直感した瞬間、彼は反射的に和葉の身体を己の腕の中に抱き込み、身を挺して彼女を庇いながら倒れ込んだ。

 意識を失ったのは、ほんの数秒のことだったのかもしれない。

 重い瞼を開けると、頭上の梁を炎が奔流のように走っていた。そして、身動きの取れない唯人の上に、燃え盛る巨大な柱が落下する軌道が見えた。和葉は考える間もなく、己の身体を彼の上に投げ出した。

 炎の舌が、和葉の頬をひとなめした。熱さよりも先に、鋭利な剃刀で肉を削がれたような、壮絶な激痛が脳を突き抜けた。

 絶叫することすら叶わず、それでも和葉は死に物狂いで彼を引きずり、炎の渦から外へと這い出した。玄関の石段を降りたところで、和葉の力は尽き、膝から崩れ落ちた。駆けつけた消防隊員に肩を叩かれ、意識を繋ぎ止めたとき、そばに彼の姿はなかった。

「もう一人……唯人さんが……中に……」

 幾度、必死の思いで訴えても、返ってくるのは冷徹な言葉だけだった。

「君だけだよ。助かったのは君一人だけだ」

 病院のベッドで、顔の半分に深刻な熱傷を負い、その痕は一生消えることはないと告げられたとき、和葉の視界からはすべての色彩が失われた。

 入院して三日目。痛む身体を引きずり廊下を歩いていた和葉は、ある病室から漏れ聞こえる声に足を止めた。

 聞き間違えるはずのない、唯人の声だ。

 半開きの扉の隙間から見えたのは、ベッドに座る唯人と、その傍らで涙を浮かべて微笑む絵里奈の姿だった。

「絵里奈……君が助けてくれたんだね。ありがとう。愛してる」

 その言葉が、和葉の心臓を氷の杭で刺し貫いた。

 火事の衝撃か、それとも事故のショックか。彼の中から、和葉との記憶だけが綺麗に欠落していた。ゼミの帰り道も、アパートで過ごした睦まじい夜も、あのペンダントを贈られた瞬間も。和葉という存在は、彼の中では最初から「なかったこと」に書き換えられていた。

 廊下の壁に手をつき、和葉は声にならない呻きを漏らした。

 あの日、皮膚を焼いた炎の橙色が、今も夢の中で繰り返し蘇る。体が火に近づくたび、脳が狂ったように警戒信号を発する感覚。顔の半分を失った絶望に、幾晩枕を濡らしたことか。

(唯人が生きていてくれるなら、それでいい。彼が幸せなら、私は影として消えればいい……)

 そう自分に言い聞かせ、和葉は大学を中退して施設へと戻った。

 やがて、彼が絵里奈と結婚したという噂が風の便りに届いたが、和葉は何も感じなかった。もはや、何かを感じるための心の肉など、残っていなかったから。

 鍋の火を弱め、和葉は深い回想の底から浮上した。

 五年という月日が、これほどまでに男を冷酷に変えてしまうのか。それとも、これが「九条家」という重責を担う者の真の姿なのか。

 付き合っていた頃、狭いアパートのキッチンで並んで料理をした。唯人が作るのは稚拙な炒め物や卵料理ばかりだったが、和葉が隣で丁寧に味を調えると、彼は「和葉のご飯は世界一だ」と言って、いつも綺麗に平らげてくれた。

 三年の月日で培った、彼の好む味、苦手な食材、調味料の加減。そのすべてが、今、九条邸の広いキッチンで、皮肉にも和葉の指先を自在に動かしていた。

 朝は濃いコーヒーよりも、香りの良い薄めのお茶を好むこと。魚料理には、口直しに生姜をほんの少し添えると喜ぶこと。辛いものは嫌いではないが、胃を気遣って控えめにすること。

 絵里奈として振る舞いながらも、手料理には「和葉」の献身が滲み出てしまう。それを悟られてはいけないと自戒しながらも、手が勝手に彼の好む仕上がりを選んでいく。

 調理の音だけが響く中、和葉はダイニングに視線を向けた。

 唯人は依然として書類に目を通している。照明の下に浮かび上がるその横顔は、和葉が愛した面影をそのまま留めている。まつ毛の長さも、鼻梁の高さも、唇の薄さも。

 なのに、この男は目の前にいる女が、かつて自分を救い、自分と未来を誓い合った和葉であることなど、露ほども疑っていない。

 料理が仕上がり、テーブルへ皿を並べていく。

 最後にご飯を運ぼうと手を伸ばした、その時だった。

 椅子に深く腰掛けていた唯人の手が、電光石火の速さで和葉の手首を掴み、引き寄せた。

「……料理したのか?」

 低く、重苦しい声が室内に響く。唯人の冷徹な瞳が、テーブルに並んだ一皿一皿を検分するように這い回り、やがて和葉の瞳を射抜いた。

「はい……」

 声が震えそうになるのを、腹の底に力を込めて押し殺す。唯人はそのまま沈黙し、一拍の間を置いた後、冷酷な嘲笑をその唇に浮かべた。

「結婚してから三年間、絵里奈が手料理なんてものを作ったことは、一度もなかったはずだが」

 心臓が、耳元で激しく鐘を打つ。絵里奈は九条家の妻として、家事のすべてを投げ出していたのか。

 和葉は反射的に、脳内で必死に言い訳を構築した。

「い、家出をしていた期間に……料理教室に通いました」

 唯人の目が鋭く細められ、和葉の顔とテーブルの上の料理を交互に見つめた。まるで、嘘の綻びを見逃さないと誓う捕食者のような眼差し。

「ふぅん」

 短く、興味なさげな吐息とともに、手首が乱暴に解放された。彼は興味を失ったように箸を取り上げ、喉の奥で言い捨てた。

「……どこかの男の歓心でも買うためか。浅ましいな」

 そのひと言が、和葉の胸に鋭い氷の棘となって突き刺さる。

 誤魔化せたという安堵よりも、彼から向けられる剥き出しの嫌悪と軽蔑が、和葉の心を血塗れにした。

 和葉は何も言えず、逃げるように向かいの椅子に腰を下ろした。食器が触れ合う冷ややかな音だけが、息の詰まるような沈黙の中で、空虚に響き続けていた。

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