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第二話「火傷痕に隠した恋情」

Author: ひなた翠
last update publish date: 2026-04-10 12:23:24

 午後の施設は、子どもたちの弾けるような生の声に満たされていた。

 宿題を広げた少年が、解けない問題に苛立ったのか消しゴムで机を何度も叩く乾いた音。使い込まれた板張りの廊下を、追いかけっこでもしているのか小さな足音がタトト、と小気味よく駆けていく。そして台所からは、今日のおやつであろう手作りクッキーの甘く芳しい香りが、温かな湯気と共に漂ってくる。

 和葉にとっては、十年以上の歳月を重ねて聞き続けてきた、日常という名の調べだった。玄関の土を踏むだけで、外の世界で強張っていた肩の力が自然と抜けていく。かつて孤独な魂を慈しまれ、育った場所へ、今度は職員として戻り、子どもたちの成長を見守っている。その奇跡のような巡り合わせが、ふとした瞬間にひどく不思議で、尊いことのように思えるのだった。

 身寄りのない、ただ震えることしか知らなかった少女だった和葉が、大人になり、子どもたちを導く立場としてここにいる。駆け寄ってくる子どもたちの、曇りのない瞳に、かつての頼りない自分の残像を重ねるたび、胸の奥が静かに、そして切ないほど温かくなった。

 事務所の椅子に腰を下ろし、山積みの書類に目を通していると、玄関の方から同僚のスタッフに呼ばれた。

「桐島さん、お客様がいらしていますよ。お名前は伺えなかったのだけれど……」

 顔を上げると、傾き始めた西日に照らされた廊下の向こうに、場違いなほど重々しい空気を纏った人影が二つ立っていた。

 一人は、派手な色合いのツイードジャケットを窮屈そうに纏った、隙のない化粧の中年女性。もう一人は、仕立ての良さが一目でわかる上質なスリーピースのスーツに身を包んだ、怜悧な眼差しを湛えた初老の男性だった。二人は微動だにせず、廊下の端からこちらを値踏みするような、冷ややかな視線でじっと射抜いている。

 和葉は手にしていたペンを置き、ゆっくりと立ち上がった。自分を訪ねてくる者など、これまで一人としていなかった。その身なりの良さ、纏う空気の傲慢さから察するに、自分とは生きている階層が違う、富裕な層の人間だろう。

(どうして、私を……? それに、この妙な圧迫感は……)

 名指しで呼び出された理由が皆目見当もつかず、和葉の胸に微かな、けれど確かな警戒心が棘のように刺さった。

 二人の佇まいは、こちらを歓迎する色など微塵もなく、氷のような硬さを孕んでいた。特に女性の鋭い視線が和葉の顔に向けられた瞬間、それは首筋から右頬にかけて広がる、ケロイド状の火傷の痕を、執拗になぞるように動いた。隠しようのない醜い痕を、顕微鏡で覗き込むように見られている。その事実を突きつけられ、和葉は抗いがたい羞恥心と屈辱に駆られ、無意識に震える指先を耳にかけて、少しでもその傷を覆い隠そうとした。

 応接室へと通し、古びたソファに挟まって向かい合う形で席に着くと、女性は挨拶も名乗りもせず、傲岸不遜にその唇を開いた。

「あなたのその醜い火傷の痕、なおすお手伝いをしてさしあげるわ」

 あまりに無遠慮で、土足で心に踏み込むような言葉に、和葉は息を呑んだ。酸素が肺に届かないような錯覚に陥る。

「ただ、条件があるの。あなたの顔を、整形手術で『この顔』にしてほしいのよ」

 女性の細い手によって、白い上質な封筒から一枚の写真が取り出された。テーブルの上に置かれたのは、息を呑むほど整った造作をした、一人の若い女性の姿だった。潤んだ大きな瞳に、完璧な曲線を描く鼻梁。艶やかな黒髪を肩に揺らし、春の陽だまりのような眩しい笑顔を浮かべている。

 だが、その隣に、促されるようにそっと並べられた二枚目の写真に目が移った瞬間、和葉の全身は落雷に打たれたように硬直した。

(唯人……っ! どうして……!)

 写真の中に収まっていたのは、大学時代、お互いの鼓動を感じ合うほど深く、魂を分け合うように愛し合っていた男性だった。

 胸の奥が、鋭利な刃物で抉られたような痛みを伴って収縮する。五年という空白があっても、彼の相貌を、その瞳の輝きを忘れることなど一日たりともなかったのだ。

 精悍さを増した顎の輪郭、知性と熱を湛えた真っ直ぐな瞳。和葉が幾百回、幾千回と夜の闇の中で追い求めてきた、愛しいあの横顔。写真の中の唯人は、あの頃と変わらない、周囲を包み込むような穏やかで優しい表情をしていた。その眼差しに見つめられているだけで、凍てついていた時間が音を立てて溶け出し、溢れそうになる。

 和葉の指先が、無意識にシャツの胸元へと伸びた。

 布地の下、冷え切った素肌に直接触れる冷たい感触。五年間、肌身離さず持ち続けてきた金のペンダントが指先に触れた瞬間、意識はあの日――すべてを失った、あの地獄のような炎に包まれた別荘の夜へと、濁流に呑まれるように引き戻された。

『これ、母のものだったんだ。世界で一番大切な人にしか渡さないって、自分の中で決めていた。……和葉、君に持っていてほしいんだ』

 すべてが燃え上がる前の、幸福の絶頂にあった静謐な時間のことだった。就寝前、唯人がベッドの端に腰かけ、少し照れくさそうに、けれど真実の愛を込めて笑いながら、和葉の細い首にこのペンダントをかけてくれた。鎖骨に落ちた金の冷ややかな重みと、「ずっと一緒にいよう。何があっても離さない」という熱い誓い。そして、額に落とされた、羽毛のように優しく温かな唇の温度。

 いつか彼に返さなければと思いながら、どうしても、死んでも手放すことができなかった。これは彼の亡き母の唯一の形見であり、彼が和葉に託した、最後の愛の証だったから。

 女性の冷徹な声が、和葉を追憶の淵から強引に引き戻した。

「写真の男性は、九条唯人。九条グループの後継者よ。あなたには、彼の妻である絵里奈のふりをしてほしいの。事情があって、あの子は突然姿を消してしまった。戻ってくるまでの間だけでいい、身代わりになってちょうだい」

 和葉は、荒くなる呼吸を必死で整えようとしたが、唯人の写真から視線を外すことができなかった。

「……私が、彼の妻に……ですか?」

 震える声をようやく絞り出すと、女性は獲物を追い詰めるように畳みかける。

「ええ。一生とは言わないわ。絵里奈が戻ったら、彼に悟られないよう静かに入れ替わって。もちろん、タダでやれとは言わない。ここの施設、資金繰りが相当厳しいのでしょう? あなたが引き受けてくれれば、立て直しに必要な十分すぎるほどの支援を約束するわ。子どもたちの将来も、あなたのその一言にかかっているのよ」

 施設の窮状は、職員である和葉が誰よりも痛感していた。先月も補助金の打ち切りという無情な通告に、施設長が夜更けまでデスクで顔を覆い、震える背中で書類と向き合っていたのを盗み見てしまった。

 子どもたちの食事の質をこれ以上落とすわけにはいかない。せめて冬を越すための、薄汚れた布団を新しく買い替えてやりたい。何かを切り詰め、諦めるたび、施設長の顔には深い皺と、消えない疲労が刻まれていった。

 自分には何もできないことが、何よりも口惜しかった。雀の涙ほどの自分の給与をすべて寄付に回したところで、この大きな建物を維持するには、あまりに無力な端金でしかない。非力な己に、幾度も奥歯を噛み締め、涙を飲んだ夜があった。

 和葉の視線は、磁石に吸い寄せられるように再び唯人の写真へと落ちた。

『和葉、好きだよ。世界中の誰よりも』

 耳の奥で、記憶の風が吹き抜けた。ゼミの帰り道、茜色に燃えるように染まった秋の坂道。唯人が初めて愛を囁いてくれた時の、少し掠れた、けれど何よりも誠実で熱を帯びた声。

 あの日以来、五年間。忘れようとすればするほど、彼の影は和葉の心根に深く、深く根を張った。目が覚めるたび、彼がいないという絶望的な現実に、胸にぽっかりと穴が空くような虚脱感を抱えて、死んだように生きてきたのだ。

 あの火事の夜、唯人は和葉との記憶をすべて失った。そして、二人の人生は残酷な神の手によって、別々の道へと引き裂かれたはずだった。

 ――けれど、また彼の傍にいられる。

 道徳や正しさよりも先に、抗いがたい切望が胸の中心を支配した。たとえ偽りの名であっても、メスを入れて整形した、見知らぬ他人の顔であっても。唯人の隣にいられるというのなら。いつか無残に終わる夢であっても、一時だけでも彼の「最愛の妻」としてその腕に抱かれるのなら、それだけで、私の空っぽだった人生は報われるのではないか。

 施設のため、子どもたちの未来を守るため。自分に言い聞かせるような免罪符を、祈りのように胸に刻み、和葉は静かに、けれど二度と引き返せない覚悟を決めた。

「……わかりました。お引き受けします」

 唇からこぼれた決断の言葉を、女性は勝利を確信したような、冷淡な笑みで受け止めた。

 膨大な支援金さえあれば、子どもたちの暮らしを守れる。彼らに腹一杯の食事と、温かな夢を見せてあげられる。そう自分を納得させながらも、和葉の意識の半分は、いまだに唯人の写真の、その瞳の奥を彷徨っていた。

 応接室の重いドアが閉まり、足音が遠ざかった後も、和葉はしばらく椅子から立ち上がれなかった。窓から差し込む夕闇の気配が、部屋の隅をじわじわと侵食していく。

 テーブルの上には、二枚の写真が取り残されていた。絵里奈という女性の完璧な美貌と、唯人の穏やかな微笑みが、残光の中に静かに晒されている。

 和葉は震える手で二枚の写真を拾い上げ、封筒の中へと滑り込ませた。封を閉じ、祈るようにそれを胸元に強く抱きしめる。

 シャツ越しに、ペンダントの金が冷たく、けれど確かな心臓の鼓動のように、掌を通して自分の存在を主張していた。

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