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第六話「冷徹な夫の守護」

Author: ひなた翠
last update publish date: 2026-04-15 19:40:50

 呼び鈴が鳴ったのは、午後の陽が傾きかけた頃だった。

 和葉はキッチンで夕食の下準備をしていたが、料理の手を止めて玄関へと向かった。扉を開けると、そこには懐かしい顔の女性が立っている。

 仕立てのよさそうな濃紺のジャケットに、控えめな真珠のネックレス。年相応の品のある装いをした女性だったが、和葉の姿を認めた瞬間にその目の温度が変わった。値踏みするような鋭い視線が、和葉の顔をゆっくりと舐めるように流れる。

「お義母さん」

 和葉が声をかけると、女性は不快そうに目を細めた。

「向こうのご両親から事情は全て聞いているの。私をお義母さんと呼ばないでちょうだい。穢らわしい女」

 低く、抑揚のない平坦な声だった。和葉は動揺を見せないよう表情を整え、彼女をリビングへと案内した。

 ソファに腰を下ろした義母に、丁寧にお茶を淹れて戻る。その間も、視線はずっと和葉の顔に張り付いたまま離れなかった。

「へえ、うまく化けたものね。和葉さん」

 その言葉に、和葉の肩がびくりと震えた。

「うまく隠せているようだけど、ここは無理だったのね。醜い火傷のあとが残っているわ」

 細く手入れされた指が、和葉の髪に向けられる。首筋から耳のあたりまで、髪で丁寧に覆い隠していた部分を、義母は正確に指差していた。和葉は弾かれたように、慌てて手で火傷の痕を隠した。

 唯人の継母については、交際していた当時に彼から聞いていたし、挨拶に伺った際にも何度か顔を合わせている。

 唯人の実母が亡くなって間もなく、父親が再婚した相手。父親とはひと回り以上も年が離れていた。母の死を悼む暇もなく連れてこられた女性に、唯人はどうしても馴染めなかったらしい。それだけでも十分に辛かっただろうに、この義母は学生だった唯人にさえ色目を使ってきたのだという。耐えられなくなった彼は、大学進学を機に家を出て一人暮らしを始めたのだと、苦しそうに話してくれたことがあった。

 和葉との交際を唯人が告げたとき、最も強く反対したのもこの人だった。両親がなく施設で育った和葉を、露骨に見下した言葉で否定した。その偏見に唯人の父も同調し、挨拶に出向くたびに門前払いをされる日々だった。

「事後報告で、絵里奈さんの身代わりがあなただって知った時は驚いたの。でも、そうよね。あんなにひどい火傷の痕が、タダで綺麗な顔にしてもらえるなら、貧乏なあなたは喜んで飛びつくわよね」

「――そういうわけでは」

「じゃあ、どういうわけ? 別に責めているわけじゃないのよ。むしろ、良かったわねって思っているの。綺麗なお顔になれて、さらには好きな人と結婚生活も送れているのだから。ある意味、羨ましいとさえ思っているわ」

 ふふふ、と喉の奥で鳴らすような笑い声が漏れた。小馬鹿にしているのか、あるいは同情を装っているのか、判断のつかない歪な響きだった。

「ああ、でも。夫婦生活はすでに破綻した二人ですもの。寂しい生活かしら? 夫に愛されず、この広い家に閉じこもって。あなたにできることなんて、何一つないものね。かわいそう」

 和葉は視線をカップの縁へと落とした。かわいそうなどと本心では微塵も思っていない、乾いた言葉がリビングの空気を冷たく撫でていく。

「あの火事以来、唯人の性格はすっかり変わってしまったのよ。おかげで会社経営はうまくいっているみたいだけど。本来は優しい子だから、経営側になったら苦労すると思っていたの。ただ、絵里奈さんは妻としてとても大変だったご様子ね。まるで感情が消えた人形と暮らしているみたいだって、ボヤいているのを聞いたわ。外の男に走りたくなる気持ち、私にはよくわかる。本当に、以前とは全くの別人だもの」

 その言葉が嫌味なのか、あるいは歪んだ同情なのか、和葉にはやはり判別がつかなかった。ただ、彼の本質を否定されることだけは耐えられなかった。

「あの……私のことは何と言ってくださっても構いませんが、唯人さんを悪く言わないでください」

 声は、思いのほか静かに出た。義母の眉が不快そうに吊り上がる。

「はあ?」

「彼は火事の件で、記憶の一部を失ったと聞いています。今もその記憶は戻っていません」

「そうね。おかげで唯人の人生から和葉さんの記憶がごっそりと抜け落ちていて、滑稽だわ」

 和葉は真っ直ぐに顔を上げた。

「それはもう、構いません。失った記憶によって、今もなお不安を抱えているかもしれない人に対して、性格が変わったとか、不倫されて当然だという言い方は、間違っていると思います」

 誰にも口にしないだけで、唯人の中には常に欠落感があるはずだ。抜け落ちた記憶が戻らないまま、空白を抱えて過ごす苦しさは、他人からは見えない。和葉にさえ、それを本当の意味で推し量ることはできない。ただ、その孤独な戦いを笑い話にはしてほしくなかった。

「なによ、それ。あなたにそんなことを言う権利が――」

「珍しいですね、お継母さん」

 その低い声は、リビングの入り口から降ってきた。

 義母の肩が、跳ね上がるように震えた。

 和葉が視線を向けると、唯人が廊下に立っていた。ジャケットを手に提げたスーツ姿のまま、腕を組んでこちらを射抜くように立っている。その表情は氷のように硬く、見ているだけで肌を刺すような冷たい圧力が部屋を満たした。

 義母の顔からみるみるうちに血の気が引いていくのが、和葉の目にもはっきりと分かった。

「ち、近くに来たものだから。絵里奈さんに会いに来たのよ」

「へえ。結婚してから一度も我が家に来たことがなかったのに、不思議ですね」

「そんなことないわ。唯人がいないときに、ちょこちょこ遊びに来ていたのよ」

「そうですか。絵里奈は片付けが苦手だから、自宅に人を招くのを極端に嫌っていましたが。お忘れになりましたか? 会う時はいつもカフェを指定されていたでしょう」

 唯人の視線は、義母を真っ直ぐに捉えたまま微動だにしない。義母は逃げるように荷物をひっつかむと、「もう帰らなきゃ」と早口に言い捨てて、そそくさと立ち上がった。

 和葉が玄関まで見送ったが、彼女は振り返りもせずに外へと出て行った。扉が閉まる乾いた音が、静かな廊下に重く響いた。

 絵里奈は片付けが苦手で、人を家に招くことを嫌っていた――。

 和葉は、そのことを初めて知った。

「おかえりなさい、唯人さん。今日はお早いおかえりですね」

 リビングに戻りながら声をかけると、唯人がソファの前に佇んでいた。さきほどの冷徹な表情は消えていたが、代わりに何かを言いたげな、複雑な色が浮かんでいる。

 和葉が近づくと、唯人の大きな手がそっと彼女の頬に触れた。

「……え、あの……?」

「ありがとう」

 静かな声だった。氷が溶けたあとの水面のような、柔らかな穏やかさが宿っている。

「――えっと」

「性格が変わったと、よく言われるんだ。自分では自覚がないんだが、ひどく冷たい男になったらしい」

 和葉は返す言葉を探したが、すぐには見つからなかった。昔の唯人を知っているからこそ、今の彼との違いは嫌というほどわかる。冷たいというより、感情の起伏が狭まったような印象だ。怒りも喜びも、以前より小さく、深い場所へ押し込められている。

 それをどう言葉にすればいいのか、和葉にはわからなかった。

「お夕飯、急いで作りますね」

 やりきれなさに話題を変えようとすると、手首をそっと掴まれた。

「絵里奈は、昔の俺を知っているんだろう? ……俺は、どんな風に変わった?」

「――え……っと、その――」

 唯人の瞳が、和葉を真っ直ぐに見つめていた。縋るような、答えを切望しているような目だった。嘘をつくことも、真実を告げることも、今の和葉にはあまりに重すぎて選べなかった。

 唯人はしばらく彼女の沈黙を待っていたが、やがてふっと、力を抜いて手を離した。

「――悪い。気にしないでくれ」

 気まずそうに顔を背けると、彼はそのままリビングを出て行った。廊下を歩く足音が遠ざかり、やがて二階の扉が閉まる音がした。

 和葉は独り、ソファの前に立ち尽くしたまま、彼が去った方向をいつまでもじっと見つめていた。

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