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第七話「嫉妬が溶ける夜」

Auteur: ひなた翠
last update Date de publication: 2026-04-17 08:55:18

 帰路に就いたのは、夕闇が街を包み込み始めた午後五時半を過ぎた頃だった。

 駅から自宅へと続く見慣れた道の途中に、一軒のスーパーがある。その前を通りかかったとき、入り口付近に佇む二つの人影が唯人の目に留まった。一人は見間違えるはずもない、自分の妻だ。唯人は無意識に足を止めていた。

 その隣に立っているのは、長身の若い男だった。唯人よりは頭一つ分ほど低いが、すらりとしたしなやかな体格をしている。男は妻と向き合い、親しげに何かを話していた。

 何より唯人の胸を抉ったのは、妻の表情だった。彼女は、心の底から楽しそうに声を上げて笑っていたのだ。

(誰だ、あいつは……)

 唯人は、妻があんなふうに無邪気に笑う姿を見たことがない。

 自分に向けて微笑むことはある。朝食を並べるとき、「おかえりなさい」と出迎えるとき、短い言葉を交わすとき。けれどその微笑みは、常にどこか影を含んでいて、義務的な色を帯びていた。満面の笑みとは程遠い、壊れ物を扱うような慎重な表情。

 だが、目の前の妻は今、腹の底から、溢れ出すような歓喜を露わにしている。

 胸の奥で、どろりとした何かが歪んでいく。

 ふいに会話が途切れたのか、妻が顔を上げてこちらを向いた。視線が真っ向からぶつかった瞬間、妻の表情は石のように凍りついた。「しまった」という動揺が、その白い顔全体に張り付いている。

(なぜ、そんな顔をする。なぜ、俺を見た瞬間に笑みを消すんだ)

 唯人の胸の内に、ムッとした熱い塊が込み上げた。

 新しい男か、と一瞬だけ疑念がよぎる。だが、それはすぐに打ち消した。目の前の女は絵里奈ではなく、絵里奈のふりをした「替え玉」なのだ。以前の絵里奈とは別人。ならば、この替え玉もまた不倫を嗜んでいるというのか。あるいは、彼女が替え玉になる前の生活を知っている男なのか。

 もしかして、恋人か。何か事情があって、想い人がいる身で妻を演じているのか。

(――金か。金のために、あの男を裏切ってここに来たのか)

 男が振り返り、唯人を見た。二十代半ばと思われるその男は、涼しげな目元をした人懐こそうな風貌をしていた。唯人と視線が合うと、彼は拒絶の色を見せることもなく軽く会釈をした。そして、踵を返してさらりとスーパーの中へと消えていく。

 妻と親密に笑い合っていたその背中が、あまりにも潔く去っていく。唯人はそれを無言で見送ることしかできなかった。

 重い足が、自然と妻に向かって動く。抑えきれない苛立ちが足音に混じり、アスファルトを叩く音が妙に大きく響いた。

「誰だ、あの男は」

 至近距離まで近づいて問うと、妻の瞳が激しく泳いだ。

「……昔の知り合いに、たまたま会っただけです」

「昔?」

「学生の、ころの……」

「絵里奈は私立の女子校だったはずだ。男の知り合いなど、そう容易くできる環境ではなかっただろう」

 妻の目がさらに揺れ、答えを探して彷徨っている。必死に言い訳を組み立てようとしているその痛々しい姿を見ているだけで、唯人の中の熱は膨れ上がった。

(あいつは…妻の身体を知っているのか)

「次はあの冴えない男と浮気か。どこまでも節操のない女だ」

 口から出たのは、自分でも驚くほど棘を含んだ言葉だった。心にもない毒。だが、妻は否定しなかった。青い顔のまま視線を足元に落とし、ただ沈黙を守っている。

(どういうことだ。なぜ否定しない。なぜ、違うと言わないんだ)

 その沈黙が、さらなる怒りに油を注いだ。言い過ぎたという自覚はあった。だが、一度火がついた嫉妬と支配欲は、容易には冷めてくれない。

「――来い」

 唯人は妻の細い手首を乱暴に掴むと、家に向かって早足で歩き始めた。この行き場のない熱をどこへぶつければいいのか分からないまま、ただ突き進むしかなかった。

 ――ああ、これか。

 歩きながら、頭の片隅で冷静に己を分析している自分がいた。絵里奈が「怖い」と怯えていた自分とは、まさに今の姿なのだろう。感情の制御が利かなくなり、それを暴力的なまでの熱量で相手に押しつける。出口を見つけられない怒りが、形を変えて溢れ出す。その醜悪さを客観的に認識しながらも、一度踏み出した衝動を止める術を、唯人は持たなかった。

 スーパーから自宅までの道のり、二人は一言も交わさなかった。

 唯人の隣で、妻は黙ってついてくる。腕を振り払うことも、怒鳴り返すこともしない。ただ唯人の速度に合わせ、従順に歩調を揃えている。その静かな従順さが、また胸に鋭く引っかかった。

 自宅に着くや否や、唯人は妻の手から買い物袋を奪うように取り上げ、玄関に放り出した。そのまま彼女の手を引き、二階の寝室へと連れ去る。苛立ちは身体の奥底で、暗く、重い情欲へと変質していった。

 ベッドに妻を押し倒し、その上に覆いかぶさる。唯人は荒い手つきで自身のネクタイを解くと、それを彼女の両手首に巻きつけ、きつく縛り上げた。

「不倫は、許さない」

 地を這うような低い声。今の絵里奈――この「替え玉」だけは、特に許せなかった。俺だけを見ていろ。俺だけを感じろ。他の男に向ける笑みなど、この世から消えてしまえばいい。

「私は、唯人さんだけ……っ」

「不倫の末に家出した女が何を言う。信じられるはずがないだろう」

 妻の大きな瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。唯人はその雫を見つめながら、スカートの裾に手をかけた。

 涙を流しながらも、彼女の口から漏れる吐息は熱く掠れている。正直な反応が、唯人の欲望をさらに煽り立てた。

 泣いていても、身体は嘘をつけない。

 スカートを捲り上げ、下着を強引に引き剥がすと、準備も整わないまま中へと押し入った。

「あ……っ!」

 内側は驚くほど熱く、既に濡れていた。入り口がきつく締めつける快感に、唯人は息を詰めた。あの男と笑い合っていた彼女の顔が脳裏をよぎり、腰に一層の力がこもる。荒々しく突き上げると、妻の口から堪えきれない嗚咽のような声が漏れた。

 ――俺だけを、感じろ。

 言葉には出さず、ただ腰の動きにその執念を込めた。

 涙が頬を伝う中、妻の唇がわずかに開く。吐息と嗚咽が混ざり合い、やがて彼女の内側からじわりと甘い蜜が溢れ出した。ぬるりとした官触が広がり、唯人の動きはより深く、より滑らかに彼女の奥を侵食していく。

「……っ、ん、ああっ」

 妻の腰が、唯人の動きに翻弄されるように僅かに浮いた。それを見た瞬間、唯人の胸の中で何かが爆発した。

 彼女の片足を持ち上げ、自分の肩にかける。体勢が変わり、最奥の柔らかな部分を抉るように押し入ると、妻の身体が大きく跳ねた。

「それ、だめ……っ、唯人さん……」

「何がどう駄目なんだ。言ってみろ」

 意地悪く問いかけながら、同じ場所を執拗に突き回す。妻はかぶりを振りながらも、腰が勝手に唯人を求めて揺れている。拒絶と快楽の狭間で悶える彼女を見下ろすのは、たまらなく情欲を掻き立てる光景だった。

「あっ……んっ、やっ、あああ……っ!」

 堪えていた声が、一気に解放される。内側が何度も収縮を繰り返し、唯人を千切らんばかりに締めつけた。

「すごい締め付けだ……」

 苦しげな独白が喉から漏れる。このまま全てを注ぎ込みたいという衝動を、唯人はあえて堪えた。

 妻を四つん這いにさせ、背後から深く押し入る。彼女の背が弓なりに反り、美しい曲線を描いた。寝室には、乾いた肉撃ちの音と、濡れた水音が交互に響き渡る。唯人は彼女の細い腰を両手で掴み、その奥へと何度も楔を打ち込んだ。

「唯人さっ……んん、っ、だめ……っ、深い、そこは……」

「深くて何が駄目なんだ。お前はここを欲しがっているじゃないか」

 答えながら、さらに深く腰を沈める。妻の声が途切れた。唯人の手が自然に彼女の髪を掴み、顔を引き上げた。涙の跡が残る乱れた横顔。半開きの唇。

 あの男は、この淫らな顔を知らない。

 その事実が、唯人の中の黒い衝動をようやく宥めていく。激しく腰を打ちつけ続け、やがて妻が全身を激しく震わせて果てた。内側が痙攣するようにうねり、唯人を搾り取ろうとする強烈な感覚が走る。

「っ……!」

 唯人もまた、最奥に深く押し込んだまま動きを止めた。熱い奔流を奥へと吐き出すと、張り詰めていた胸の奥が、一気に弛緩していった。

 荒い呼吸を整えながら、唯人は背後から妻の首筋に唇を寄せた。汗ばんだ肌に、ゆっくりと愛惜を込めたキスを落としていく。首筋から肩、そして背中へと唇を這わせるたび、余韻に浸る彼女の内側がきゅっと閉まるのが分かった。

「……ああ、たまらないな」

 思わず本音がこぼれた。この充足感が、もっと欲しい。妻を自分だけの支配下に置き、閉じ込めてしまいたいという衝動が、再び身体に熱を戻してくる。唯人は、まだ震えている彼女の中を再び貪り始めた。

「唯人さんっ……もう、無理です、っ」

 首を振る妻の声は、今にも消えそうなほどか細かった。乱れた髪が頬に張り付き、全身が汗で真珠のように輝いている。

「まだイケるだろう。お前の身体はこんなに欲しがっている」

 再び激しく腰を打ちつけながら、その姿を瞳に焼き付ける。

 ふと、スーパーの前で見たあの男の顔がよぎった。若く、人懐こく、明るい光を背負った顔。唯人が持ち合わせていない「平穏」を持った顔だ。

 妻があの男の前であんなふうに笑えたのは、きっと、彼が「怖くない」からなのだろう。

 自分が「怖い」存在であることは、今日改めて痛いほど自覚した。抑えが利かなくなったとき、自分でも自分を制御できない。

 そして何より、妻のあんな笑顔を、自分は一度として引き出せていない。その事実が、喉の奥に刺さった棘のように消えない。替え玉であろうとなかろうと、彼女は俺の前では泣き、見知らぬ男の前では笑うのだ。

 気がつけば、窓の外は漆黒の闇に塗り潰されていた。

 時間を忘れ、ただ本能のままに妻を抱き潰してしまった。繋がりを解き、絵里奈の隣に倒れ込む。部屋には二人の荒い息遣いだけが満ちていた。唯人は、ぼんやりと天井を見上げた。

 ――これか。

 どうしようもない嫉妬、抑えられない欲望、歪んだ愛。本物の絵里奈がこの家から逃げ出した理由が、ようやく腑に落ちた気がした。深い後悔が、胸の底へと静かに沈んでいく。

「……怖い思いをさせて、悪かった」

 掠れた声で告げながら、手首を縛っていたネクタイを優しく解いた。そのまま横たわっていると、自由になった妻が、意外にも自分の方へ身を寄せてきた。彼女は怒ることもなく、唯人の胸に顔を埋めて細い腕を回してくる。

 その身体は、まだ小刻みに震えていた。

(嫉妬に狂って、俺はなんてことを……)

 唯人は腕を伸ばし、その震える身体を引き寄せた。これほどまでに恐ろしい思いをさせたというのに、彼女は逃げようとしない。その健気さが、余計に後悔となって胸を刺した。

「信じてもらえないかもしれませんが……今の私には、唯人さんだけです……」

 耳元で、消え入りそうな声が囁いた。

「――わかった。信じる」

 答えながら、腕に力を込める。妻の震えが、少しずつ、少しずつ収まっていくのを感じた。

 夕食の準備も忘れたまま、二人は重なるようにして、深い眠りの中へと落ちていった。

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     仕事を終えて、和葉は唯人と一緒に自宅へと帰宅した。それぞれ馴染みの部屋着に着替えると、どちらからともなくキッチンに立って夕飯の準備に取り掛かる。トントントンと軽快な包丁の音と、鍋の中でコトコトと何かが煮える音が重なり、換気扇の回る音が静かな室内に響いた。キッチンには、食欲をそそる温かい匂いが満ちていた。 ふと、和葉は手を止めて隣の唯人を見上げた。胸の奥に澱のように溜まっていた問いが、熱を帯びて口をついて出る。「唯人さん、聞いていいですか」「なに?」 唯人は野菜を洗う手を止めずに、優しく聞き返した。和葉は、その落ち着いた横顔をじっと見つめる。「絵里奈さんのご両親が来たときに……火事のこと、知っていましたよね? 記憶が、もしかして――」 唯人が少し間を置いた。問われたことに真摯に向き合うように、彼の整った眉がわずかに動く。彼は濡れた手を拭うと、和葉の方へと身体を向けた。「全部がクリアになったわけじゃないよ。火事については――絵里奈が帰ってきた日に、俺が倒れただろ?」 唯人の問いかけに、和葉は小さく頷いた。あの日の不安な光景が、昨日のことのように脳裏をかすめる。「あの夜、帰宅したとき――玄関で絵里奈が一方的に怒鳴っているのが聞こえたから。何かあったときに証拠になればいいと思って、ボイスレコーダーで録音をしていたんだ。それで、俺が倒れたあとの二人のやりとりを、病室で聞いた。そこで初めて火事のことを知ったんだ。それに和葉が……俺と付き合っていたんだってことも」 和葉の胸が、じわりと熱を持った。唯人が病室で一人、録音を再生した場面を想像すると、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。和葉が身を引くようにして去ったあとの、あの静かな病室で。唯人はたった一人で、残酷な真実と、失われた愛の記憶の断片をすべて聞いたのだ。「初めて、何も覚えていない自分が憎らしいと思ったよ。和葉は俺のことをずっと知っていて、それでも何も言わずにそばに居てくれたのに。俺は和葉との大切な時間を、何一つ覚えていないんだから」 唯人の声が少し低くなった。感情を抑えているのがわかる、静かで、それでいて深い痛みを湛えた目をしていた。その静けさが、かえって言葉の重さを和葉に伝えてくる。和葉の料理する手が固まった。まな板の上で、包丁を持ったまま動けなかった。「――そうだったんですね」「ああ」 和

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