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第4話

Author: Shion Violet
last update publish date: 2026-11-05 09:36:34

彼女が屋敷に来てから、数日が経った。

彼女は西棟の自室で過ごす時間が多く、屋敷の人間とも少しずつ顔を合わせるようになって

いた。

それでも、彼女の心には常に不安があった。

自分が誰で、なぜあの日、雨の中で倒れていたのか。

何一つ思い出せない。

そして、もう一つ、この屋敷の主である九条玲という男が何者なのか。

彼女はまだ、その答えを知らないでいた。

昼過ぎ、彼女は食事を終え、部屋へ戻る途中だった。

玄関ホールを抜けようとしたとき、廊下の向こうから小さな話し声が聞こえてきた。

「……九条様が昨夜も任務に出られたそうよ」

「また? 本当に休まれない方ね」

「それにしても、あの方が女性を屋敷に連れて帰るなんて……」

「本当に、あの九条様がでしょう?」

彼女は思わず足を止めた。

聞くつもりはなかったけれど、彼らの口から出た言葉がどうしても気になった。

「……九条さん?」

小さく呟いた、そのとき。

何をしている」

背後から声がし、彼女はびくりと肩を震わせ振り返る。

そこには、片桐朔が立っていた。

「……あ、すみません」

「何かあったのか」

「いえ……」

彼女は一度視線を落としたが、朔の纏う圧が沈黙を許さない。

だから、彼女は迷いながらも口を開く。

「九条さんは……どんな方なんですか?」

朔はわずかに目を細めて彼女を見つめる。

「九条さんのことか」

「はい……。皆さん、九条さんのことを少し怖がっているように見えて……」

数秒の沈黙のあと、朔は淡々と答えた。

「九条さんは、《ブラックパンサー》という組織に属している」

「……ブラック、パンサー?」

聞き慣れない言葉に、彼女は首を傾げる。

「ああ、裏社会の組織だ。九条さんはその中でも、特に強い権限を持つ人物の一人だ」 彼女の表情が少しずつ変わっていく。

「……裏社会?」

「ああ」

朔は一切表情を変えず、むしろ当たり前のようにさらっと言ってのける。

「任務の内容について、私から詳しく話すことはできない。ただ、九条さんがどういう世界に

身を置いているかは、理解しておいた方がいい」

彼女は言葉を失った。

あの冷たい瞳、感情を感じさせない声、そして自分を見下ろしていた、あの日の姿。

それらが脳裏に浮かぶ。

「……九条さんは、人を……」

そこから言葉が続かなかった。

朔は彼女の様子を見て、静かに答えた。

「もちろん、必要とあれば人を殺す。九条さんだけではない。それは私もだ」

その言葉に、澪の身体が強張った。

「……っ」

息が詰まる。

自分を助けてくれた男が、そして目の前で自分の面倒をみてくれている男が人を殺す。

その事実が彼女にはあまりにも重かった。

「怖いか」

朔の問いに彼女は恐る恐る小さく頷いた。

「……はい」

正直な答えだった。

「そうだろうな」

朔はそれ以上、何も言わなかった。

「だが、九条さんがお前を屋敷に置いている以上、今すぐ危害を加えるつもりはない。少なく

とも、私にはそう見える」

「……そう、ですか」

彼女は俯いた。

安心したいけれど、簡単には安心できなかった。

その日の午後、彼女は自室の窓辺に座って庭園を眺めていた。

長閑な外の景色を見ていても、先ほど朔から聞いた言葉が頭から離れない。

ブラックパンサーという裏社会で暗躍し、人を殺す男、九条玲。

「……九条さん」

彼女は小さく呟いた。

あの男は、自分を助けてくれた、それは確かなことだ。

けれど、彼が恐ろしい世界に生きていることもまた事実だった。 何でもない自分が本当にこの屋敷にいていいのだろうか。

そんな考えが浮かんでは消える。

そのとき、ふと頭の奥に鈍い痛みが走った。

「……っ」

彼女は頭を押さえる。

何かが、脳裏をかすめた。

しとしとと降る雨、その雨が跳ねる暗い道、濡れたアスファルト。

そして――。

『待て!』

誰かの声が聞こえた。

『逃がすな』

その言葉を聞いた瞬間、彼女の心臓が激しく跳ねた。

「……っ、いや……!」

彼女は思わず椅子から転げ落ちるように降りた。

背後から、誰かが近づいてくる感じがよみがえる。

一つではない、複数の恐ろしい足音。

その何人かの足音が、雨音に混じって響いていた。

逃げなければ、と思った。

けれど、どこへ逃げればいいのかも分からない。

彼女の中で視界が揺れ、見えるのは雨に濡れた街灯、そして包み込むような暗闇。

誰かの手が、自分に伸びてくる。

「……やめて……!」

澪は頭を抱えて叫ぶ。

その瞬間、頭の奥に激しい痛みが突き抜けた。

「……あ、ああっ……!」

身体がぐらりと傾き、視界が白く霞む。

床に手をつこうとしたが力が入らない。

ドサッという鈍い音を立てて彼女の身体が床に崩れ落ちた。

意識が遠のく直前、彼女の脳裏にひとつの言葉が浮かんだ。

『……澪』

「……みお……」

かすかな声が唇からこぼれる。

それが、自分の名前だと気づく間もなく彼女の意識は暗闇に沈んだ。

しばらくして、西棟の廊下を歩いていた朔は、澪の部屋の前で足を止めた。

先ほど食事を運んだときから彼女の様子が少し気になっていたから、食器を下げるのも兼ね

て部屋を覗こうとやってきた。 「お嬢さん」

返事はない。

「……お嬢さん?」

扉を軽く叩いて呼びかけても反応がなく、朔は眉を寄せた。

「入るぞ」

そう言って扉を開ける。

その瞬間、朔の視線が床へ向き、わずかに目を見開く。

「……っ」

視線の先には彼女が倒れていた。

朔はすぐに彼女の傍へ駆け寄り、膝をついて抱き起す。

「お嬢さん!」

肩に手を添えて呼びかけても、彼女は目を覚まさない。

朔は表情を険しくした。

「……医療関係者を呼べ」

廊下にいた使用人へ短く指示を飛ばす。

使用人が「承知いたしました」と言うと慌てて走り去る。

朔は澪の様子を確認しながら、低く呼びかけた。

「お嬢さん、聞こえるか」

呼びかけても返事はない。

彼女の顔は青白く、呼吸はあるものの、意識は戻らなかった。

朔は小さく息を吐いて言う。

「……一体何があったんだ」

その呟きは、誰にも聞こえなかった。

その頃、東棟の執務室。

玲は机に向かって書類に目を通していた。

扉の外から、慌ただしい足音が聞こえる。

「九条さん」

朔の声だった。

「入れ」

扉が切迫感を孕みながら開き、朔が入室する。

いつもの冷静な表情が、今はわずかに緊張が滲んでいる。

「彼女が自室で倒れました」

玲の手が止まる。

「……何?」

「西棟の自室で意識を失っているところを発見しました。現在、医療関係者を呼んで治療させ

ています」 玲は眉をひそめながら書類を机に置いた。

「原因は」

「現時点では不明です。ただ、頭を押さえて倒れていましたので、頭痛を訴えていた可能性が

あります」

数秒の沈黙のあと、玲は椅子から立ち上がった。

「容態は」

「現在、意識は戻っていませんが、呼吸は確認しています」

「とにかく必要な処置を優先しろ」

「承知しました」

玲は一度だけ朔を見た。

「……頭を押さえていたということは、何か思い出したのか」

朔はわずかに目を細めた。

「それは、まだ分かりません」

その言葉に玲は何も言わなかったが、いつもより少しだけ早い足取りで執務室を出た。

西棟の寝室。

澪はベッドに寝かされ、医療関係者による診察を受けていた。

玲は部屋の入口に立ち、静かに様子を見ている。

「意識を失った原因は、強い頭痛によるものと考えられます。ただ、記憶を失っている状態で

すので、詳しい原因については慎重に確認する必要があります」

医療関係者の説明を、玲は黙って聞いていた。

「今は安静にさせてください。無理に記憶を思い出そうとすると、症状が悪化する可能性もあ

ります」

「分かった」

玲は短く答え、医療関係者が部屋を出ていく。

朔も続いて退出しようとしたが、玲が声をかけた。

「朔」

「はい」

「彼女は何か思い出したのか」

「……本人から直接聞いたわけではありません。ただ、室内の様子からして、倒れる前に何ら

かの記憶が戻った可能性はあります」

玲はベッドに横たわる彼女へ視線を向けた。

今は白いシーツの上で静かに眠っている。

あの日、雨の中で見つけた女の、自分の過去に重なった奇妙な面影。

その視線はすぐには彼女から離れなかった。

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