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第3話

Author: Shion Violet
last update publish date: 2026-11-04 13:20:15

九条玲の屋敷は、想像していた以上に広かった。

重厚な門を抜けた先には、手入れの行き届いた庭園が広がる。

さらにその奥には黒と白を基調とした大きな邸宅が佇んでいる。

それはまるで映画に出てくるような豪邸だった。

けれど、彼女にとってその場所は、決して安心できる場所とは言い切れなかった。

屋敷の中は静かすぎるほど静かで、廊下を歩く人間たちも必要以上に口を開かない。

誰もが何かを警戒しているように見えた。

片桐朔に屋敷を案内され、彼女は西側の廊下を歩いていた。

「……ありがとうございます」

「必要なものがあれば、私に言いなさい」

朔は淡々とそう告げ、彼女は彼を見上げる。

「九条さんは……?」

彼女が恐る恐る尋ねると、朔は少しだけ視線を彼女に向けて淡々と答える。

「九条さんは基本的にお忙しい方だ。任務で外出されることも多く、屋敷にいらっしゃっても

あなたと顔を合わせる機会は少ないから、変に気にすることはない」

「そう、ですか……」

それを聞いて彼女は少しだけ安堵した。

あの冷たい瞳を思い出すだけで、胸が苦しくなる。

ただし、と朔の声が続いた。

「先ほど九条さんから指示があったように、この西側の区域からは出ないように」

「西側……?」

「ああ。東側には九条さんの私室や執務室があるから許可なく立ち入らないように。西と東の

区別は吹き抜けになっている玄関ホールだ。今から連れていくからついてこい」

「……分かりました」

朔は顎を玄関の方へしゃくり、彼女は小さく頷いた。

この屋敷に置いてもらう以上、彼の言うことに従うしかないと彼女は直感的に感じた。

朔に連れられて見る屋敷の中央に位置する玄関ホールは、思わず息を呑むほど広々としてい

た。

高くそびえる天井は二階まで吹き抜けになっており、頭上には繊細な装飾が施された大きな

シャンデリアが吊るされている。

そして、柔らかな光が降り注ぎ、磨き上げられた黒い大理石の床に淡く反射していた。

正面には重厚な両開きの玄関扉。その左右には、東西それぞれの棟へと続く長い廊下が伸びて

いる。 壁には落ち着いた色調の絵画が飾られ、随所に置かれた花瓶や調度品も、どれ一つとして安価

なものには見えなかった。華美というよりは、静かな威圧感を漂わせる空間だった。

ホールの奥には緩やかな曲線を描く大階段があり、磨かれた手すりが二階へと続いている。階

段の上からは、吹き抜けを通してホール全体を見渡すことができた。

西側の廊下は、彼女の部屋や客室、食堂などがある生活区域へと繋がっている。

一方、九条玲の私室や執務室がある東側の廊下はどこか空気感が違っており、人の気配が少な

く、静寂が深い。

同じ屋敷の中にありながら、東と西では明らかに雰囲気が異なる。

彼女はその境界に立ち、しばらくの間、東側へ続く廊下を見つめていた。

一方、屋敷の東側では玲が執務室で書類に目を通していた。

机の上には、いくつもの報告書が並んでいる。

任務の結果や組織内部の動向、そして海外の拠点から届いた情報。

そのすべてに、玲は淡々と目を通していた。

「九条さん」

扉の外から朔の声がした。

「入れ」

朔が失礼します、と部屋に入る。

「彼女の部屋の準備は整いました。医療関係者からも、当面は安静にしていれば問題ないとの

報告を受けています」

「そうか」

玲は書類から目を離さない。

「身元の調査は?」

「現在、所持品や発見された場所を中心に調べています。ただ、現時点では有力な情報はあり

ません」

「続けろ。それと、監視も怠るな」

「承知しました」

朔は一度だけわずかに頷いたが、報告を終えてもすぐには部屋を出ようとしなかった。

「……何だ」

玲が怪訝そうに視線を上げる。

「いえ」

朔は少し考えてから口を開いた。

「九条さんが、あのような女を屋敷に置かれるとは思いませんでした」

「それがどうした」

「いえ、特に問題はありません」

玲は再び書類へ視線を戻した。 「なら、さっさと仕事に戻れ」

「承知しました」

朔は静かに一礼し、部屋を出ていった。

パタン…、と扉が閉まる。

玲は手元の書類に目を落としたまま、ほんの一瞬だけ思考を止めた。

雨の中で見つけた女がある顔に重なった、不思議な面影。

『ただそれだけのことだ……』

玲は再び書類をめくった。

昼過ぎ、彼女は部屋の中で、窓の外を眺めていた。

広い庭に整えられた植木、そして遠くに見える門。

ここから外へ出ることは許されていない。

自分が誰なのかも分からない以上、仕方のないことなのかもしれない。

けれど、何も分からないままただここにいることが不安だった。

コンコン。

扉を叩く音がした。

「はい……?」

入ってきたのは朔だった。

手には食事の載ったトレイがある。

「昼食だ」

「あ……ありがとうございます。わざわざ、すみません」

「構わない。用意するよう指示されている」

朔は無機質に言うと、テーブルにトレイを置いた。

温かいスープに、パン、サラダ。

どれも丁寧に用意された食事だった。

彼女はそれを見つめて少しだけ戸惑う。

「……こんなに、いただいてもいいんですか?」

「構わないと言っている」

朔はわずかに目を細め、眉間にしわを寄せて不思議そうに答えた。

「九条さんから必要なものは不足なく用意するようにと指示されている」

「九条さんが……?」

「ああ」

彼女は思わず目を伏せた。

あの冷たい男が、自分のためにそんな指示を出した。

それが不思議でならなかった。

「……ありがとうございます」

「わざわざ礼は要らない」 朔は淡々とそう答えた。

そして、何かを思い出したように付け加える。

「ちなみに、食べられないのなら食事は残していただいても構わん。九条さんも、食事を抜く

ことがある」

「え……?」

彼女は思わず顔を上げた。

「九条さん、食事を抜かれるんですか?」

「ああ。任務や仕事が立て込むと、忘れてしまわれることがある」

朔は至って真面目な表情だった。

「だから、私が時折確認するようにしている、それだけだ」

「……そうなんですね」

彼女は少しだけ驚いた。

あの男にも、そんな日常があるのだろうか。

「九条さんは、怖い方なんですか?」

思わず口にした言葉だった。

朔は数秒、沈黙し、真面目な顔で答える。

「敵に回すと、非常に怖い方だ」

「敵に……?」

「ああ。だが、少なくとも、あなたを屋敷から追い出すつもりはないようだ。余計なことをせ

ず、波風立てないことだ」

朔の言葉に、少し不安そうな、でも安堵したような複雑な表情になる。

それでも、玲という男のことはまだ何も分からず俯くことしかできなかった。

その日の夕方。

屋敷の一角で、数人の使用人たちが小声で話していた。

「聞いた? 九条様が女性を連れて帰られたって」

「ええ。しかも、あの九条様が自分で抱き上げていたらしいわ」

「信じられない……」

彼らにとって、九条玲は近寄りがたい存在だった。

必要なこと以外は話さず、屋敷の人間に対しても常に冷静。

その男が、見知らぬ女性を屋敷に連れ帰った。

それだけで、屋敷の中に小さな波紋が広がっていた。

しかし、その話が玲本人の耳に届くことはなかった。

あるいは、届いたとしても、彼は気にも留めないだろう。

九条玲にとって、彼女はただ雨の中で見つけた、奇妙な巡り合わせの、気まぐれで拾った女。

それだけだった。

そして、彼女はまだ知らなかった。 自分が身を置くこの屋敷が、裏社会で『死神の屋敷』と呼ばれていることを。

さらに、その屋敷の主である九条玲が、日本でも世界でも、最も危険な男と恐れられていることを。

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