LOGIN「......わかりました。すぐに」中野が部屋を出る。扉が静かに閉まった瞬間、光景はようやく弱さを見せた。背もたれにぐったり身を預ける。力が抜ける。罪悪感と痛みが、嵐みたいに押し寄せてきた。胸が焼ける。頭の中がぐしゃぐしゃだ。声が重なり、絡まり、ほどけない。――「いつからだろう。あなた無しではいられなくなったのは」――「彼女は朝、目を開けるたびに『どうやって死のう』と考えてた。でも隼人の顔が浮かぶと、幼い息子を置いてはいけないって泣くの」――「......たとえ母さんが、昔お前を愛してたとしても......あの日、潮見の邸のバルコニーから身を投げた瞬間、母さんはもうお前を愛してなかった」光景ははっと目を見開く。心臓が暴れる。呼吸が追いつかない。ちょうどその時、中野が湯気の立つコップを持って戻ってきた。「中野、二十年前の......和情のこと、どれくらい覚えている?」中野は一瞬きょとんとし、それから柔らかく笑う。「私は記憶力だけは自信があります。会長も、その一点を買って秘書にしたんでしょう?何でも聞いてください」「当時、和情はうつ病になった。お前に病院へ連れていかせ、長い間つき添わせた。あの頃の状態は......どれほど悪かった?本当に『重症』だったのか」光景の目に陰が落ちる。苦さが滲む。「医師の診断は『重度のうつ傾向』でした。ですが、隼人様の支えと治療で、後半は少しずつ回復していました」中野は事実だけを淡々と告げる。「俺を愛していて。息子と離れたくなくて。静かに宮沢家から去ろうとしていた女が......なぜ突然、死を選んだ?」光景は額に手を当て、低く呟いた。和情の自殺は、宮沢家の誰にとっても青天の霹靂だった。うつ病の人が、ある日ふっと命を絶つことは珍しくない。だが、彼女は回復の兆しがあった。以前より表情が明るく、生活にも張りが出ていた。そばには毎日、息子がいた。それなのに、どうして。中野は唇を固く結び、長い沈黙のあとで口を開く。「......会長。ひと言だけ、いいですか。二十年、胸にしまってきました。今日こそ、聞かせてください」光景が顔を上げる。視線がぶつかる。耳の奥がわんわん鳴った。「和情さんの死をめぐって――あの時、会長は一瞬た
「それに......初露のこともあるだろう。初露の状態は、お前も知ってるはずだ。離婚すれば、秦は国外に送る。できるだけ遠くへ。けど、母親と引き離されたら、初露の心が耐えられない。病気が悪化するかもしれん」光景の声は静かだったが、どこか押し殺したように震えていた。中野は黙って頷く。彼もまた、その苦悩を痛いほど理解していた。「......それで、隼人の行方は?調べはついたか?」光景が問うと、中野はわずかに肩を落とした。「申し訳ありません。会長もご存じの通り、隼人様は手強いです。本人が隠れようと決めたら、誰にも見つけられません」「......そうか」光景は短く息を吐くと、黙って携帯を取り出した。指先が一瞬ためらい、それでも通話ボタンを押す。呼び出し音が何度も鳴り、ようやく隼人が出た。「......こんな時間に、何の用だ」「隼人、俺は――」「もしプロジェクト会議に出ろって話なら、無駄だ。行かない」冷たく突き放すような声。そこには、父子の情など微塵も感じられなかった。光景は唇を噛み、静かに尋ねる。「明日、時間はあるか?一緒に出かけたい」「......どこへ?」「お前の母さんに、会いに行こう」その言葉に、電話の向こうで長い沈黙が落ちた。電話越しに、空気が凍りつくのがわかる。隼人の吐息が低く響き、次の瞬間、怒りを押し殺した声が返ってきた。「......冗談か?自分の言ってること、わかってる?」「冗談じゃない。俺は本気だ、隼人」光景は深く息を吸い込む。宮沢グループを率いる男――その威厳の裏で、初めて人間らしい脆さが滲んでいた。「......わかってる。俺は、これまで本当にろくな父親じゃなかった。お前の母さんが亡くなってからも、夫としての責任を果たせなかった。墓参りにも行かず、彼女と向き合うことも避けてきた。俺は、本当に、最低だ」「最低?」隼人の笑いは冷たく、鋭かった。「たった最低の一言で済むと思ってるのか?二十三年間、母さんを苦しめ続けたことを、その一言で帳消しにするつもりか?『尊敬される宮沢社長』――その肩書きで、許されるとでも?」「......俺は、彼女の夫だ。彼女が、俺を愛していたのは事実だ!」光景の頬が熱く染まり、羞恥と怒り
無理......無理よ。宮沢グループの社長夫人じゃなくなったら、自分は一体何者になるの?誰が、自分なんかを見てくれるっていうの。光景の妻だからこそ、隼人と桜子は今まで遠まわしに探ってくるだけで、手を出せなかった。でもその庇護を失ったら、あの二人、自分を噛み殺すに決まってる。「これから、俺の許可なしに一歩でも潮見の邸を出たら......国外に送る。二度と盛京の地は踏ませない」「どうしてそんなこと言うの、景さん!私は善意で、後始末のために葬式に行っただけよ!悪いのは桜子の方!あの子、狂った犬みたいに私に噛みついてきたの!宮沢家を壊そうとしてるのは、あの女よ!」「俺を、馬鹿にしてるのか?」その声は低く、冷え切っていた。光景の目には、怒りと軽蔑が入り混じっている。「全部、調べはついてる。あの記者たちはお前が呼んだ。桜子と仲が悪いのをわかってて、わざわざ挑発に行ったんだろう?自分から銃口の前に立って、ピエロになっただけだ」光景は顔を背けると、短く吐き捨てた。「どけ。もう俺の前に来るな」「景さん!お願い、そんな言い方しないで......景さん!」秦が必死に腕を掴んだ瞬間、ガランッと鈍い音が響く。光景の手から木の箱が落ち、中の物が床に散らばった。翡翠の腕輪が、石の上でぱきりと割れる。その瞬間――空気が止まった。光景の瞳に、真っ赤な怒りが灯る。その目は燃えるように鋭く、秦を射抜いた。秦は息を呑む。視線を落とすと、床には見覚えのある品々。それは、和情の遺品だった。――どうして......あの人は、もう二十年前に亡くなったのに。なのに光景は、今も彼女の物をこんなにも大切にしているの?「......今すぐ出ていけ」光景は膝をつき、震える手でひとつひとつ拾い集めた。まるで、それが壊れてしまうことを恐れるかのように。「景さん、違うのよ......わざとじゃ――」「出ていけッ!」怒号が部屋を裂いた。その声には、怒りよりも深い悲しみが滲んでいた。夜。静まり返った書斎。窓から差し込む月光が、光景の横顔を淡く照らしている。その表情は、痛いほどに寂しかった。中野秘書が薬を持って入ってきた。「宮沢会長、そろそろお休みください。血圧
秦は自分が禁足になったと聞き、家で神経が高ぶって暴れまわり、誰にでも怒鳴り散らしていた。「すみません、奥様、これは宮沢会長の命令ですので、私たちは従うしかありません」光景の秘書は冷たく彼女を見つめ、言葉の端に嘲笑を込めて言った。「奥様はおとなしく部屋に戻った方がいいですよ。私たちを困らせないでください。そして、自分自身も困らないように」「ふざけんな!」秦は目を血走らせ、パチンと音を立てて、秘書の顔に平手打ちを食らわせた。「私は宮沢グループの女主人だ!あなたみたいな腰巾着が、どうして私にこんな口をきくんだ!」秘書は怒るどころか、むしろ笑って答えた。「確かに、宮沢会長には可愛がってもらってます。でも、奥様がこうして好き放題して、部下に暴力を振るっているのも、宮沢会長の力を借りているからでは?」秦はその言葉に驚き、すぐに気づいた。「ああ、これは私を『バカ』だと言っているんだな!」秦が再び平手打ちをしようとしたその瞬間、光景が冷徹な表情で部屋に入ってきた。「景、景さん!」秦は慌てて手を引っ込め、涙を浮かべながら夫の前に倒れ込んだ。「やっと帰ってきたのね......あなたがいなくて、私は本当に辛かった......あなたがいないと生きていけないわ!」その顔は一瞬で豹変し、さっきの暴力的な態度とはまったく別人のようになった。秘書は冷ややかに鼻で笑った。「俺がいなくても、お前は元気に過ごしていたじゃないか。そんなに元気なら、俺の秘書を叱りつける余裕もあるね」光景は皮肉を込めて言った。「俺がいなくても、お前はどうしてあんなに楽しそうだったのかね。ほら、葬儀でのお前の悪評もネットで消えたみたいだし、きっと俺が処理したと思ったでしょう?」秦は涙を浮かべた目を大きくし、夫の胸に顔をうずめた。「やっぱり......そうだと思ってた。景さん、私は分かってたわ。私が困ったとき、あなたが必ず助けてくれるって。だから、私が困ったときに、あなたは絶対に見捨てないって!」光景は急に後ろに一歩退き、秦はその場で手を空振りさせた。彼は冷たく目を細め、冷徹な眼差しで彼女を見た。「誰がお前に言ったんだ?俺がお前のために動いたって?」光景は冷笑を浮かべながら言った。「俺がやったのは、宮沢家のためだ。宮沢グループのためだ」「景さん、あな
「でも、さっき見た通り、宮沢会長は彼女を守ろうとしているようですね。つまり、まだ本当に......」「フン、違う。彼が守っているのは、彼自身のプライドと面子に過ぎない」裕也は体を後ろに倒し、目を閉じて軽く息をついた。「今、彼が秦を捨てるのも、あと一歩のところまで来ているかもしれない。今、このタイミングで彼の古い愛情を呼び覚ますことができれば、後押しになるかもしれない。死んだ人間の方が、生きている人間よりも心に強く響くことが多い。彼にとっては、そのことで目を覚まし、後悔の念に駆られることになるだろう」高級車が潮見の邸に向かって進んでいる。光景は木箱をしっかりと握りしめながら、長い間心の中で準備をして、ゆっくりと箱を開けた。箱は二段に分かれていた。一段目には、きれいに並べられた絨毯の包みが一つ一つ収められていて、光景がそれを一つ開けるたびに、心が鋭く痛んだ。指輪。それは彼がプロポーズしたときに贈ったもので、今見るとダイヤモンドは少し小さいように思える。しかし、三十年前なら、誰もがうらやむような宝石だった。翡翠のバングル。彼が彼女の誕生日に贈った精選されたプレゼント。かつて彼女の誕生日を覚えていて、一緒に過ごす記念日や、恋人同士で祝うべき日々を思い出していた。今となっては、彼女の命日さえも思い出せない自分がいる。光景は深く息を吸い込み、二段目を開けた。そこには、すでに色あせた古い写真が一束、収められていた。震える手でそれを取り、一枚一枚めくっていくと、目の前が真っ赤になり、耳が鳴り響き、涙があふれてきた。彼は思い出した。和情は写真撮影が好きで、よく小さなカメラを持って潮見の邸を散歩しながら撮影していたことを。そのとき、彼は彼女が何を撮っているのか分からなかったが、今では分かる。和情の写真の中に登場するのは、彼ただ一人だった。写真の裏には、彼女が彼に伝えたかったけれど言葉にできなかった気持ちが書かれていた。内気で優しく、深い愛情が感じられる言葉たち。「朝に空を見ると、夕に雲を見て、歩いているときもあなたを思い、座っているときもあなたを思う」「いつからだろう、私はあなたと離れることができない人間になってしまったのか。もしかしたら、これは『聖書』で言われている、女は男の肋骨という意味なのかもしれない
光景がその話を聞いた後、どれほど魂を揺さぶられ、心を打たれるような衝撃を受けたのか、想像に難くない。彼はただ呆然とその場に立ち、空虚な目で前を見つめ、胸が重く鈍い痛みを伴って鼓動を打ち、骨まで砕けそうな感覚に襲われた。「あり得ない......どうしてこんなことに......こんなことが......」男は唇を震わせながらつぶやき、頬の筋肉までわずかに動いていた。裕也は光景があまりの衝撃で気を失いかけている様子を見て、すぐに隼人のことを思い浮かべた。どこを見ても、隼人の方が自分の息子より遥かに成長していると感じるが、どうしても一つだけ、二人がまったく同じだと感じる部分がある。それは、「壁にぶつかるまで気づかない」タイプだということだ。自分の過ちに気づくまで、何度も壁を壊さなければならないのだ。「和情はずっと、この件についてお前に言わないように頼んでいた。彼女は静かに去りたかったんだ、お前と子供に何か未練を残したくないと思ってね」裕也は後悔の念を込めて頭を振った。「あの時、俺は本当に愚かだった。自分本位で、彼女の気持ちを考えなかった。ただ、隼人が宮沢家に残ってくれるなら、それでいいと思っていた。お前たちのことにはもう口を出さないつもりだった。でも、まさかそこに秦が現れるなんて思わなかった。お前が心変わりして、あんな人物を宮沢家に入れるなんて......本当に後悔している......。悔やんでも悔やみきれない」「もし......もし和情があんなに冷たくなければ、もし彼女が俺をそんなに嫌っていなければ、私は......」光景の心の中で、和情の位置は未だに秦より高かった。たとえ秦がこれ以上の悪事をしなかったとしても、和情の場所は決して置き換えられなかった。しかし、彼は生まれつきの頑固者で、決して自分の過ちを認めず、負けを認めることはなかった。彼は金と名誉に囲まれ、何でも手に入ると信じて疑わなかった。そして、和情が自分を無視していることに耐えられなかった。彼女の心が、彼に向かっていないことが耐えられなかった。そのため、あの時、彼らの間には隙間ができ、秦がその隙間に入り込んだ。そして、あの陰険で毒のある女性が、まるで自分が主であるかのようにふるまうようになった。「武田さん、和情が私に預けていたものを持ってきて、彼に渡してくれ」







